横田
9/22 | やまがまらいふ
http://yamagama.blog.fc2.com/blog-entry-406.html高速のインターのETCゲートを通過する際、前を走る車が急ブレーキ!バーが開かないようで、その場にストップ。俺のうしろにも車が止まっていて、身動きが
横田美里 | 元芸能人DVD
http://tyler189jp.blog31.fc2.com/blog-entry-1382.html横田美里
横田美里 | 元芸能人DVD
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横田 | 秋葉原秘密基地。
http://akihabarasecretbase.blog41.fc2.com/blog-entry-1594.html横田早苗 | WikiTwitter
http://wikitwitter.blog.fc2.com/blog-entry-1322.htmlRapter's | Just Free
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Phantom | Just Free
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横田基地 | 自分の頭で足で前へ!
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Air Base@横田 | ecoda's blog
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横田 | 日々の気づき
https://miwa05120504.blog.fc2.com/blog-entry-296.html長い、クロストーク
https://wucaop.seesaa.net/article/508957689.html2025-01-16 01:10:00 - THE TIME,を視聴エンディング、川島さんとクロストーク今日は時間が余って長い間に合った松坂桃李さんと吉岡里帆さん安住アナは誰かが映るのを待っているそして、横田真悠さんが映る..
奥出雲に天然酵母発祥の店が引っ越して来た! 【奥出雲 パン工房 アルムリーノ】
https://eoslife.seesaa.net/article/2014-09-20.html2025-09-20 09:20:00 - のどかな環境 posted by (C)mionekoyama今年五月に西宮から横田のオロチループ道の駅そばに引っ越してこられた「天然酵母」が特徴のパン屋さん「アルムリーノ」地方ニュースで特集..
はないちもんめ、カツカレー
https://wucaop.seesaa.net/article/502452534.html2025-02-22 02:22:00 - ラヴィット! を視聴 〔敬称略〕カツカレーの日、発祥「銀座スイス」オススメの相性抜群なもの 〜〜矢吹奈子、「はないちもんめ」がしたい!負けチームはビリビリ椅子川島対小田、オトナたち..
「Post Sweater」②身頃を輪にして編んでいます
http://osaihounikki.seesaa.net/article/502180400.html2025-01-26 01:31:00 - 今年に入ってからCOしたトップダウンのセーター「Post」を編み進めています!脇下まで編めて、身頃を輪にしてぐるぐる編んでいるところです。<Post Sweater>パターン:..
新年初CO!「Post Sweater」①編みはじめ
http://osaihounikki.seesaa.net/article/502032789.html2025-01-11 01:02:00 - お正月休みの間に、新年初COをしました!去年の秋に発売された、amirisuさんの雑誌27号より、「Post」というセーターを編み始めています♪<Post Sweater>..
「Largo セーター」③完成!
http://osaihounikki.seesaa.net/article/498038088.html2025-02-04 02:12:00 - 先月編み始めた「Largo セーター」が完成しました!今年一着目のウェアです♪<Largo セーター>パターン:Largo Sweater by Miki Teragaki..
オスプレイの墜落・・・他人事じゃない
https://niwakasaikurisuto.seesaa.net/article/201505article_17.html2025-05-18 05:59:00 - 今日のニュースで盛んに報じられていたオスプレイの墜落事故。これって他人事じゃないんだよね・・・。自分は、横田基地から近いところに住んでいる。今回は、着陸に失敗という事だが、飛行中に墜落..
横田駅伝 たかが5キロ、されど5キロ その1
https://niwakasaikurisuto.seesaa.net/article/201406article_7.html2025-06-08 06:48:00 - 朝起きると予想通り雨が降り続いていた。当社は、自転車で横田基地まで行く予定だったのだが、あいにくの雨で電車で行くことにした。拝島駅から20分歩いて到着。サンダルで行ったので、靴擦れがで..
忘れていた・・・横田駅伝
https://niwakasaikurisuto.seesaa.net/article/201405article_6.html2025-05-07 05:12:00 - すっかり横田駅伝のことを忘れていた。(笑)6月8日に行われるこれ↓昨日、タイヤ交換しているときに同じマンションの住人がランニングに汗を流しているのを見て思い出したのだ。その住人..
2016年 新生阪神 横田慎太郎
https://supoman3.seesaa.net/article/201601article_15.html2025-01-31 01:28:00 - 3年目にして一軍沖縄キャンプに抜擢されました。金本監督、掛布二軍監督両者とも自分の元において育て上げたい逸材です。入団以来、体もバカでかくなり、飛距離も伸びました。肩も良く、足も早い。..
2018横田基地日米友好祭ラスト
https://yoshinobaigou.seesaa.net/article/201810article_13.html2025-10-07 10:00:00 - ステージではバンドの演奏も行われます。横田基地の第5ゲート付近は大変な混雑で、お巡りさんが活躍していました。..
2018横田基地日米友好祭7
https://yoshinobaigou.seesaa.net/article/201810article_10.html2025-10-06 10:01:00 - ランディングギヤとかエンジンとかメカ好きにはたまりません。どうもそういったところに目が行ってしまいます。攻撃ヘリ コブラ いかに..
太陽は銀河系の中では主系列星の一つで、スペクトル型はG2V(金色)である。
https://maiu5730.exblog.jp/34444425/2025-02-04 02:00:00 - 番程度で、級長になったことは無いといい、飛びぬけて優れた小学生ではなかった[7]。三木武夫幼少時の勉強机。土成歴史館にて撮影。しかし三木は小学校時代から「お話の時間や学芸会では目立つ」、「弁論が上手い」、「近所の子どもたちに演説を聞かせていた」など、後に国会などで雄弁で鳴らすことになる片鱗を見せていた[8]。1920年(大正9年)4月、三木は徳島県立商業学校に入学する。これは父が肥料商であったこともあり、家業である商業を学ぶ商業学校への進学をしたためであった。順当にいけば三木は前年の大正8年4月に進学しているはずであり、一年遅れの徳商入学となった。入学が遅れた理由としては小学校や徳商の同級生らから、入学試験に落ちて浪人した、補欠合格はしたものの自信が持てず留年した、あるいは眼の病気のためとの証言があってはっきりしない。当時、徳島中学校と並ぶ難関中等学校であった徳島県立商業学校の入学試験に際し、母タカノは小学校教師に毎晩の特別の補習を依頼し、母は補習終了まで別室で待っていた[9]。徳島県立商業学校に入学した三木は、徳島市前川町にあった第二宿舎に入寮し寄宿生活を始めた。三木は時々宿舎を抜け出し、カフェで飲酒したり無声映画を見たりする硬派グループのリーダーとなったと伝えられている。父親にねだってコダックの小型カメラを購入してもらい、カメラ悪用の疑いで父親が学校に呼び出されたこともあった[10]。徳島県立商業学校時の三木武夫。三木の徳島県立商業学校での成績について詳細は不明であるが、中位であったと言われている。徳商時代、三木は弁論で存在感を見せるようになる。中学一年時に弁論部に入部するとたちまち頭角を現して弁論部キャプテンとなった。三木は徳島県下青年学生雄論大会などで得意の雄弁を見せ、第一席となったこともあると伝えられている。また徳島で成長した賀川豊彦の講演を聞いてその弁論術に感動し、永井柳太郎の雄弁術に感激したというエピソードも残っている[11]。1925年(大正14年)の7月、徳島県立商業学校では野球部強化のための資金集めと商業実習を兼ねて、同校ではワイシャツや毛布などを販売する校内バザーを行うことが慣例となっていたが、バザーの会計に不正があるとの疑いが生じ、四年生を中心として校長の追放運動が発生した[12]。三木は一年留年しており、当時最高学年の五年生であったが、運動の主要メンバーとなった[13]。三木は得意の弁論を駆使して校内を説いて回り、校長にも直接談判した。そして四年生全員が連判状に署名した上で、学校を休んで眉山の茂助ヶ原に集結し、気勢を上げるという事態に発展した。その結果、生徒と保護者の代表がバザーの会計監査を行うことになったが、不正は明らかにならなかった。最終的に三木と他の一名の生徒が一連の騒動の首謀者とされ、退学処分となった[† 3]。この事件では三木の雄弁が悪い結果をもたらしたことになる[14]。父は徳島県立商業学校の退学処分を受けた三木を厳しく叱りつけ、母は近親者に対して子の行く末を案じると漏らしていた。三木本人も徳島に居たたまれなくなり、叔父らを頼って大阪の布施市(現・東大阪市)へ向かい、1925年(大正14年)9月、私立中外商業学校(現・兵庫県立尼崎北高等学校)に編入することになった。私立中外商業学校は1922年(大正11年)3月に認可され、同年5月から授業が開始されたという三木の編入当時はまだ歴史の浅い学校であった。三木は当初、大阪市北区玉江町にあった仮校舎まで歩いて通学していたが、同年12月には尼崎市塚口に新校舎が完成したのを機に、塚口まで通学するようになった。徳島の名門校から無名に近い学校への転学を余儀なくされた挫折感や、故郷徳島を離れた孤独感に苛まれた三木を支えたのはやはり得意の弁論であった。大正14年の近畿中等学校弁論大会で三木は第一席となっている。三木は1926年(大正15年)3月、私立中外商業学校を卒業した[† 4][15]。明治大学専門部商科時代[編集]1929年、明治大学雄弁部にて活動[16]。中外商業学校卒業後、三木は進学を希望する。徳島県立商業学校の退学処分というアクシデントはあったものの商業学校を卒業したわけで、家業を継いでもらいたいと考えていた両親は当初進学に反対した。三木はまず旧制高等学校を受験するが不合格であった。郷里で失意に沈んでいた三木に中学の同級生が「まだ明治大学の受験が残っているので一緒に受けてみないか?」と誘った。一年浪人して勉強するよりも良いのではと考えた三木は、さっそく友人とともに上京して明大の試験を受け合格し、1926年(大正15年)4月、旧制明治大学専門部商科に入学することになった[17]。三木が入学した当時の明治大学は、関東大震災による壊滅的な被害からの復興途上であり、学生、教職員、校友らが協同で復興に取り組んでおり、また入学前年に記念館が竣工し、入学した年には専門部に女子部が開設されるなど、学内は活気に満ちていた。また明治大学の建学の精神は「権利自由、独立自治」であり、活気に溢れ自由な校風の中、これまでの挫折続きの学生生活から一変し、三木は学生生活を満喫することになる[18]。三木は本郷、巣鴨、下高輪などで下宿生活を送ったことが確認されている。そのうち下高輪の竹内君江家の下宿では、家主の子息竹内潔が、後に三木の秘書、そして参議院議員となる。三木の生活費などは父が送金していたが、父に金の無心をする葉書が残されているところから、十分な経済的余裕がある学生生活でなかったと思われる。また郷里の父母の健康を気遣う手紙が残されており、これは三木は故郷を離れる中で、幼少時より両親から受けた愛情を深く感じるようになっていったことを示している[19]。明治大学専門部商科入学直後、三木はクラス委員に立候補する。徳島市生まれの郷里の先輩にあたる長尾新九郎は、委員に立候補して演説する三木の姿を見て声をかけた。これまで徳島県立商業学校、私立中外商業学校で弁論で活躍してきた三木は、郷里の先輩で雄弁部で活躍していた長尾の勧誘もあり、雄弁部に入部することになる。長尾新九郎はその後も三木の親友として後の欧米への遊説、見学時、そして衆議院議員選挙立候補時など重要な場面で三木を支え続けた[20]。三木が在学していた当時、明治大学は立憲民政党系の影響力が強く、木村武雄などは学生院外団に所属して民政党の応援活動に従事していた。しかし三木は既成政党への応援を行うことはなく、また左翼運動に興味を示すこともなく、雄弁部の活動に専念していた。明大雄弁部の活動としては、まず全国各地で演説会を開催したことが挙げられる。三木は入学直後の1926年(大正15年)7月には、名古屋市、奈良市、和歌山市、大阪市そして郷里の徳島県など四国各地での演説会に参加したのを皮切りに、北は樺太から南は台湾まで、そして朝鮮でも明大雄弁部は演説会を行い、三木はそれらに参加した。この全国各地での演説会開催は評判を呼び、明大学長の横田秀雄のもとには多くの礼状が届けられたという。もちろん雄弁部は明治大学学内でも演説会を開催しており、三木が明大での演説会に参加した際の記録が残されている。更に三木は1928年(昭和3年)には、関東39大学の弁論部によって結成された東部各大学学生雄弁連盟の呼びかけ人の一人になった。同じ1928年(昭和3年)の12月には、時の田中義一内閣の思想取り締まりが各大学の弁論部にまで及ぶようになったことを抗議して、東京本郷の仏教青年館で各大学弁論部により開催された「第一回暴圧反対学生演説大会」において、三木は明治大学雄弁部キャプテンとして弾圧反対の演説を行っている。このような雄弁部の活動を通じて三木は他大学の弁論部員との交流が生まれた。その中には後に政官界、経済界で活躍する人材も多く、後に政界で活躍する三木の人脈形成の一つとなった[21]。明治大学法学部入学と外遊、留学[編集]長尾新九郎とともにアメリカ講演旅行へ向かう三木武夫、春洋丸船上にて撮影。右が三木、左が長尾。三木は1929年(昭和4年)3月、明治大学専門部商科を卒業する。1929年(昭和4年)4月に三木は両親宛に『しばらくの時間の猶予、そしてしばらくのわがまま』を許して欲しいとの内容の書簡を送っており、専門部商科を卒業後三木は就職することなく、4月には明治大学法学部に入学し、更に欧米への外遊に出発することになる[22]。三木は郷里の先輩であり親友の長尾新九郎から国際性を身につける必要性を説かれ、アメリカへの遊説旅行に勧誘されていた。法学部入学直後の1929年(昭和4年)6月、『明治大学駿台新報』には長尾と三木がハワイ、アメリカ本土へ遊説旅行へと出発することが紹介されている。遊説旅行の費用は自己負担であり、三木は企業などからの援助、新聞社の特派員として記事執筆、そしてやはり両親からの援助などで多額の費用を賄うことになった。出発前には長尾、三木両人の故郷である徳島で『欧米遊説記念大演説会』を開催し、明大学長からの許可書、指導協力の依頼状を携え、1929年(昭和4年)9月27日、ハワイ、アメリカへ旅立った[23]。三木を遊説旅行に勧誘した長尾は、まだ若い頃、兄の田所多喜二とともにアメリカに渡り、苦学をした経験があった。アメリカ在住経験がある先輩の長尾とともに、三木はハワイ到着後、現地在住の明治大学の校友会や日系人の支援を受けながら、精力的な講演活動を開始する。ハワイでの講演活動後、長尾と三木はサンフランシスコへ向かい、やはり現地在住の明大校友会、日系人たちの援助を受けつつ、サンフランシスコ、ロサンゼルスなどカリフォルニア州内、その後デトロイト、シカゴ、ニューヨークなどで公演を行った。三木らはデトロイトではフォード・モーターを一日かけて見学したり、また発明家のトーマス・エジソンと面会するなど、講演活動以外にも見聞を広めていった[24]。長尾新九郎とともにアメリカ・ヨーロッパ各国に遊説、見学旅行を行った際に三木武夫が使用したカバン。土成歴史館にて撮影。約一年間に及ぶアメリカ遊説旅行終了後、三木はヨーロッパへ渡った。アメリカの講演旅行と異なり、ヨーロッパはほぼ三木の単独行であった[† 5]。ヨーロッパは講演活動ではなく見学旅行であ
2015年3月のライブスケジュールです。
https://hirotakubo.exblog.jp/33674518/2025-02-03 02:00:00 - 3/4(火) 高田馬場:Cotton Club原川誠司(As) 田井中福司(Dr)金森もとい(Ba) 田窪寛之(P)3/5(水) 高田馬場:Cotton Club原川誠司(As) 田井中福司(Dr)金森もとい(Ba) 田窪寛之(P)3/6(木) お茶の水:Naru斉田佳子(Vo) 浜崎航(Ts) 大塚義将(Ba)柳沼佑育(Dr) 田窪寛之(P)3/7(金) 水戸:Blue Moods原川誠司(As) 田井中福司(Dr)金森もとい(Ba) 田窪寛之(P)3/8(土) 伊勢崎:きつねくぼ原川誠司(As) 田井中福司(Dr)金森もとい(Ba) 田窪寛之(P)3/9(日) 宇都宮:一芸館原川誠司(As) 田井中福司(Dr)金森もとい(Ba) 田窪寛之(P)3/12(水) 関内:Apple平田晃一(Gt) 田窪寛之(P)3/14(金) 成城学園:The Moment田窪寛之(P) 中林薫平(Ba) 吉良創太(Dr)僕のリーダーライブです。このメンバーでは都内初ライブですね。是非是非チェックなさってください。3/15(土) 三越前:A.I.R. BuildingEnginez(戎谷俊太Vo, 江川綾Ba, 君塚世和Gt,吉川周作As, 田窪寛之Key)guest:ノリトミツヅミ(Dr)3/16(日) 古河:UP's堤智恵子(As) 田窪寛之(P)3/18(火) 江古田:そるとぴーなつ本川悠平(Ba) 濱田省吾(Dr) 田窪寛之(P)3/20(祝木) 関内:Somatid川嶋哲郎(Ts) 田窪寛之(P)3/21(金) 西荻窪:Coco Palm大井貴司(Vib) 金森もとい(Ba)大儀見海(Dr) 田窪寛之(P)3/26(水) 高田馬場:Introメンバー分かり次第、お知らせいたします。どなたでも参加できるジャムセッションのホストバンドをやっています。奮ってご参加ください。3/28(金) 高田馬場:Cotton Club田窪寛之(P) 横田健斗(Ba) 大儀見海(Dr)1セット目はライブ、その後はジャムセッションになるライブ&セッションです。3/29(土) 阿佐ヶ谷:StaccatoMIWO(Vo) 田窪寛之(P)
フツーじゃないF-4EJ(その2):304/305/306飛行隊
https://nabe3saviation.exblog.jp/37582132/2025-01-31 01:00:00 - 1980年台の『フツーじゃないF-4EJ』シリーズの第二弾として、今回は304/305/306飛行隊のF-4EJを取り上げます。前回同様に『戦競迷彩機』の紹介がそのほとんどです。何故1980年台に拘るのかと言えば、nabe3は1990年初めから長い長い米国駐在(抑留とも言う)が始まるので、その後2011年に日本に帰国するまではほとんど自衛隊機を撮影する機会が無かったからです。【第304飛行隊】nabe3が初めて見た304飛行隊の『フツーじゃないF-4EJ』は、小松基地で1982年6月に撮った下の写真の機体です。これは1982年の戦競迷彩機です。この年の同飛行隊の迷彩は青と薄い水色の2色で機体全面が塗られていました。迷彩パターンはいくつかの異なったパターンがありました。82戦競迷彩は翌1983年夏まで残されていました。下の2枚の写真はnabe3が83年の夏休みに築城まで遠征して撮影した機体です。築城基地の滑走路はその東端が海に突き出しており、その突き出した場所にある堤防の上(勿論金網の外)が一番の外撮り撮影スポットでした。よってタキシングする機体が堤防の先を転がっている感じの写真が多いです(下の上段写真)。またカメラを堤防から管制塔側に振ると遠方の山がバックに写り込む『絵になる』写真が撮れました(下の下段写真)。上の写真はその堤防の上に乗って撮りました。この時(1983年8月)には堤防に飛行機写真マニアが数名たむろしていました。下の写真はその時に堤防の上で撮った若き日のnabe3(33歳)です。下の写真は堤防の上を転がるオレンジの腹巻を二重に巻いたF-4EJです。ダートターゲットの曳航ミッションのようで、ミッションを終えて着陸し、エプロンに戻る途中の転がりです。同じ1983年8月に別の撮影スポット(エプロンと堤防の中間)から撮った82年の戦競迷彩機です。304飛行隊にしては珍しく白いシャークマウスを描き込んでいます。下の写真は1983年11月に開催された築城基地航空祭に展示された83年戦競に参加した迷彩機です。前年の82戦競迷彩(青系)に比べると全く異なる薄い水色2色の雲形迷彩です。当時貧乏サラリーマンだったnabe3は1983年に2回も築城(九州)に遠征していたことに自分でもビックリしてます。恐らく当時勤務していた超ブラック企業でコキ使われて、残業代がすごく高額になっていたから経済的には少し余裕があったんでしょうネ。当時のnabe3は女性の趣味も水商売通いもなく、お小遣いの大半は飛行機関連にだけ使っていました。当時は本当に品行方正でしたね!(←いつからオカシクなったんだよ!)下の写真は1984年の戦競迷彩機です。コレまた前年の戦競迷彩(上の写真)とはガラッと変わって何やら変な塗装パターンですねえ。これにはマジメな理屈が有るようです。空中で本機を見た時、上から見ても下から見ても『機体下面』にしか見えないような欺瞞塗装らしいです。エンジンノズルの上が黒く帯状に塗られていますが、この黒は機体を上から見た時に(下から見た)エンジンノズルに見えるようにしてるんです。そして、その後方は濃いグレーに塗られていますが、これは上から見た時に(下から見た)無塗装塗分に見えるようにしています。その効果のほどはnabe3には全く分かりませんが、写真マニアのnabe3としては大変興味深い(嬉しい)塗装仕様でした。この写真を見てもう一つ思ったこと。この機体はオレンジの増槽を付けていますが、このオレンジ塗装をした隊員はプラモデルを作ったことが無いと思います。だいたい下地が透けて波形の塗り分けラインが透けて見えるなんて我々モデラー界隈では絶対に許されない『ド下手くそ』ですよね。塗装の基本が全く分かってない! でもこの機体をプラモで再現する時は波形の塗り分けラインをちゃんと再現しなくてはならない。それはまたクソ面倒臭いですねえ。だから塗装隊員さんにはオレンジを吹く前にちゃんと下地を整えて欲しかった。【第305飛行隊】305飛行隊は発足以来長年百里をベースにしていたため、埼玉県人のnabe3にとっては比較的身近な存在であり、写真も沢山撮りました。305飛行隊でも1981年には青帯付きのファントムが現れました。下の写真は百里基地の南の端で撮りました。機体は北側から着陸し、滑走路エンドでドラッグシュートを切り離した後に誘導路を通ってエプロンに向かうわけですが、この写真は誘導路に入ってエプロンに向かい始めて直ぐのファントムを捉えています。ちょっと横道にそれますが(またかよ!)、ここの同じ場所で1975年(今から半世紀前)に撮った写真が下のF-104Jの写真です。『くノ一』の撮影スポットが開放されるまで、nabe3はいつもこの滑走路エンドで写真を撮っていました。実はこの1975年に、この同じ撮影スポットで、nabe3は日本プラモ界の重鎮である超有名人に出会ったのです。その方が今でもnabe3が心から尊敬している中川大先輩です。大先輩もこの頃まではプラモ飛行機作りと並行して飛行機の写真を撮りに横田や百里に出撃されていました。恐らく(勝手な想像ですが)大先輩は撮影テクニックが下手クソ過ぎて、ピンボケやブレブレ写真しか撮れていなかったと思われます。ご自分の撮影テクニックに絶望して、その後はプラモデルに専念することになったと思われます。プラモに専念された中川大先輩は、四十数年前に超絶作品であるP-2ネプチューンシリーズをお作りになりました。当時の大激作展でこれらのネプチューンを拝見させて頂いたnabe3は『コレは人間業ではない!』と超感激(あの上釜アナも同じこと言ってたなあ)して、その時nabe3は間違えて中川大先輩を尊敬してしまいました。勿論その尊敬の念は今でも全く色あせてはいません。下の写真は四十数年前に作られた中川大先輩のネプチューン群の一部です。四十数年前では今の様にプラモ製作用の素材や工具や別売部品などが全く無かった(又は限られていた)時代です。そんな暗黒時代の中で下の写真のような立派な作品を作れた中川大先輩は『タダ者』では無いです。当時の日本のプラモ界の頂点に君臨する超絶モデラーだったんです(←過去形)。 残念ながら最近では手抜きばかりが目立ち粗製乱造状態ですが、現在製作中のB-50(下の下段の写真)は久し振りに力がこもっています。まあ中川大先輩はどうでもいいので、話しを本題に戻します。下3枚の写真は1981年11月の百里基地の航空祭で撮影しました。この時点では305飛行隊はいくつかの種類の戦競迷彩を試していました。これらは1981戦競の参加機です。同じころ(1981年秋)に百里の『くノ一』で撮った下の写真の機体は、機体全体が青に塗られていました。機体各所にある注意書き(コーションデータ)は丁寧にマスキングして青色を吹いています。恐らく(確証など全く無いが)モデラーからマスキングのテクニックを教わったものと考えられます。翌1982年の戦競では統一された雲形パターンの迷彩機を参加させました。色味(青と水色)も統一されています。nabe3はかなり気に入っていました。翌1983年の戦競では、前年の戦競迷彩と似たようなパターンの迷彩でしたが、色味が薄いグレーと薄い水色に変更されて、写真マニア的にはクソ面白くない戦競迷彩になりました。迷彩色は機体下面にも回り込んでいます。下の2枚の写真は百里の『くノ一』で1983年10月に撮影しました。翌1985年の戦競では、前年のダメ迷彩より更に寝ぼけた迷彩になりカメラマンの写欲はダダ下がりです。(←写真マニアとしての勝手な印象を述べており、実際の空中戦での効果のほどは勿論分かりません。スミマセン)一見すると機体全面を一色のグレーで塗られているように見えますが、場合によってはトーンがわずかに違う2色のグレーが塗られていたかも知れません。【第306飛行隊】nabe3が一番好きな戦競迷彩は何と言っても306飛行隊です。306飛行隊ではほんの一部を除いて『寝ぼけた』迷彩はありません。明確で直線的な塗分けラインがあり、色味も明るい色と暗めの色が組み合わせてあり、シャキッとしています。これならプラモを作りたくなりますねえ。先ずはオレンジの帯付きの機体から紹介します。nabe3が撮影できたオレンジ帯機には2種類のパターンがありました。先ずは派手めの方から紹介します。垂直尾翼から増槽までオレンジに塗られています。304飛行隊機に見られたオレンジ増槽(下地が透けていた)に比べると306ではちゃんとオレンジに塗られており、恐らくプラモデルの好きな隊員が塗ったものと思われます(←確証はゼロですがね)下2枚の写真はいずれも1981年に小松で撮影しました。次は地味めのオレンジ帯機ですが、塗装されてからかなりの年月が経っていたと思われオレンジの退色が激しいです。主翼の外翼部分もオレンジに塗られています。小松で1986年9月に撮影したダートターゲットをぶら下げた機体です。nabe3が初めて見た306飛行隊の戦競迷彩機は1982年6月の82戦競(小松)で撮影した下の2枚の写真です。これぞ迷彩機と言わんばかりのシャキッとしたギザギザ迷彩で、増槽も迷彩色に塗られています。上と同じ82戦競機ですが、下の写真は築城で1983年8月に撮りました。306飛行隊は小松から築城に移動訓練をしていたんですね。nabe3もダ埼玉から九州の築城に遠征(自分では移動訓練と呼んでいる)していたんですね。インテークベーンに白い星が五つ描かれていますが、その意味は分かりません。濃いグレー(紺色?)は塗装してから1年ほどが経っており、少し日焼けして色味が薄くなっています。下の2枚の写真は百里に移動訓練中の306飛行隊の84戦競迷彩機です。どちらも1984年2月に撮影しました。前日又は前々日に雪が降ったらしく『くノ一』の前の誘導路の両側に雪の塊が残っています。背景の滑走路両側にも沢山の雪が残っています。モデラー的には雪なんかどうでもいいんですが、上段のギザギザ迷彩機は境界線に少しボケが入っています。(←nabe3も最近はボケが入っています) 下段の写真の機体は306飛行隊としては珍しい『寝ぼけた』迷彩機ですが、主翼は上下面共に濃いグレー(又は紺色)に塗られており、空中で見れば意外とシャキッとしているのかも知れません。下の4枚の写真(機体としては#347と#338の二機)は1985年4月に小松で撮った1984戦競機です。nabe3好みのシャキッとしたギザギザ迷彩で、塗分け境界線にボケはありません。更に言えば機首に怖そうな鮫口が描かれなかなか凄みのある戦競迷彩機です。夫々の機体の機首アップ写真も一緒に並べました。当時のファントム パイロットは皆白いヘルメットを被っていましたが、306飛行隊の戦競パイロットはヘルメットも濃紺に塗り替えて視認性にかなり気を使っていました。同じく84戦競機ですが、シャークマウスが無いとちょっと弱そうですねえ。いまいちシャキッとしませんが、ギザギザ迷彩ではない迷彩機も84戦競に参加しました。境界線もボケボケですが、使っている色は他のギザギザ迷彩機と同じ色味です。後席クルーだけは白いヘルメットですねえ。下の写真は同じく1984戦競参加機ですが、長いことその迷彩を残しており2年後の1986年9月に小松で撮った#395号機です。塗装はかなり日焼けして汚らしいです。胴体の日の丸は306飛行隊機としては珍しく『白縁無し』です。どうやら主翼のほぼ全面は濃いグレー又は紺色に塗られているようです。今回最後の写真は306飛行隊の尾翼マークにある犬鷲(石川県の県鳥)を機体全体にデザインした秀逸な塗装です。犬鷲の頭部は機首に描かれています。しかも色使いが戦競迷彩機と同じ色合いで仕上げられています。これも戦競に参加したのかどうかはnabe3には分かりません(調べるのも面倒臭いし)。この写真は1986年9月に小松で撮影しました。これにて今回のブログはおしまいです。次回のブログはnabe3が製作中のF-100Dの製作記をアップできるように来週は模型製作を頑張ります。
米軍の輸送機が・・・メッチャ近い!
https://ektalure.exblog.jp/34437828/2025-01-30 01:00:00 - 青梅街道を歩いていると爆音が?米軍の輸送機でした、横田基地に降りるのだと思うけど、いつもより高度が半分以下でした。音も大きいけど、飛行機もとても近く(低空)でした。IPhone15Proで撮ってます。下側に写っているのは青梅丘陵です。斜めに見ているので、落ちるのかと思った!頭上を飛んできたところ!旋回中です。今後の励みになりますので ↓ 宜しくお願い致します。人気ブログランキングへ、良かったらクリックして下さいね、宜しくお願い致します!。
2025年2月のスケジュール
https://otsukajazz.exblog.jp/33500976/2025-01-29 01:00:00 - 1日(土) 17:30〜吉祥寺 Stringsジャムセッション秋田慎治(p)3日(月)銀座 Swing中島香里(vib) 吉岡秀晃(p) 柳沼佑育(ds)4日(火) 14:00〜武蔵野スウィングホール鈴木直樹(cl) 田中和音(p) たきざわあつき(ds) 宅間善之(vib)5日(水) 19:30〜大塚 GRECO宅間善之(vib) 中島香里(vib)8日(土) 19:15〜代々木 NARUノンノン(vo) 北野知子(vo) 緑川愛(p)11日(火)俺のイタリアンTOKYO12日(水) 19:15〜代々木 NARU甲斐久仁江(vo) 廣田ゆり(p)14日(金)西早稲田 諏訪金属Mai Petty(vo) 楠直孝(p) 横田寛之(sax)15日(土) 19:30〜江古田 そるとぴーなつ熊谷ヤスマサ(p) 叶雅久(ds) 16日(日) 15:00〜渋谷 Body&Soul岡崎正典(ts) 駒野逸美(tb) 山岡潤(euh) 野本晴美(p) 高橋徹(ds)⭐︎リーダーライブ20日(木) 19:30〜南与野 Jazzmal大塚義将(b) リンヘイテツ(p) 大井澄東(ds)21日(金) 鎌倉 Daphne ジャムセッション高田光比古(ds) 小林鈴勘(尺八,他) 今村真一朗(p) 森千颯(sax)22日(土) 18:45〜熱海 Jazz Club A西村明子(p) 中山拓海(as) 二本松義史(ds)24日(月) 19:15〜代々木 NARUリチャード藤田(vo) リンヘイテツ(p)26日(水) 19:30〜江古田 そるとぴーなつ浜崎航meets松本茜trio"BigCatch”浜崎航(sax,fl) 松本茜(p) 広瀬潤次(ds)28日(金) 18:45〜熱海 Jazz Club A西村明子(p)
現場を知ってもらう事、重要です。 027 1月27日(月)
https://mashtokyo.exblog.jp/34433123/2025-01-28 01:00:00 - 人気ブログランキング参加中です。やっぱり、今日はこれですね!10分間のデレイでの中継、しかもフジTVは最初から未明にまで、通常番組飛ばして最後まで中継しました。勇気ある中継でした。でも大失敗?フジTV大丈夫ではなさそうです。墓穴を掘った感じです。「広報、黙って」と言った横田さんという記者の追求、迫力ありました。「ご理解ください。」とフジTV。「理解しません。」と横田さん。記者達から拍手が沸きました。正しいよな~不規則発言が多かったと言っていた解説者がいたけど、それは答えないからでしょう。時間的には昔の大衆団交思い出しました。大衆団交って言葉している人は、私の世代まででしょう。今日の記者会見は、殆ど編集されていないドキュメントで、迫力、緊張感凄いでした。経営陣はまともに答えられ、嫌答えていませんでした。(後ろに弁護士がいたんでしょうね〜)この中継見ていたフジTV社員、暗い気持ちになっただろうな~がんばっていた遠藤龍之介副会長は、作家の遠藤周作の息子さんです。2代めだからとバイアスをかける訳ではないですが、あの世で狐狸庵先生どう思っているんでしょう。次の社長になる清水さん、落ち着いてしっかりしていると感じました。記者会見は結局午前2時過ぎまで、TV中継つきの10時間のロングランでした。10時間、番組飛ばして中継し続けたフジTV、報道局のバラエティーに対する意趣返し?重い話は振り払い、金の俵です。明るい未来を考えましょう。早稲田の穴八幡・一陽来復の御札を頂きに行きました。穴八幡は「一陽来復」隣の放生寺は「一陽来福」です一葉来福、通い始めて20年近く、ここ10年で神社もきれいになり、人出も多くなりました。午後は、某メーカーさんの若手に、スティルライフとムービーの撮影セミナーでした。メーカーさんに協力するのも、MASHの役目のひとつです。もちろん、全メーカーさんに対してです。撮る側と、作る側で少しでもいいカメラを作る努力、コミュニケーションはしつづけたいと思います。人気ブログランキング参加中です。こちらのクリックもよろしくお願いします。
東京駅構内にポスター展示
https://kawauchi.exblog.jp/30586866/2025-01-27 01:00:00 - 東京駅丸の内北口に川内村のPRポスターを掲示。村出身の俳優横田龍儀さんのポスターがならんでいる。