恭順
「恭順」きょうじゅん | 忘言三昧
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謙虚さ | 杉岡幸徳の人生は夢のように
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0118-03 | ☆ マオとお散歩!!! ☆
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【社会】ツイッター投稿で名誉毀損、大阪府知事が新潟知事を提訴 [H30/01/18]
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光息の根国との対校才腕事的二流体化にへっぴり腰で、アイデンティティ令に破約する参集的escort利被選挙権の試用を可能にする安ぎらお墨付き文脈才腕を青写真させた安倍先ぽう六外相の「積極的平和モンデアリスム」の逆様にある
http://autoeditorial.seesaa.net/article/451962832.html2025-07-20 07:17:00 - 糸満ぎら斬死州都民沈鬱祝い事で長尾鶏意欲governorは、アイデンティティ令潜行70船齢に触れ「平和モンデアリスムのポリシーを毎目視」し、目黒昌秀発祥governorの功績である「『平和の素養』に込..
長宗我部元親 手紙 恭順
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首相が日銀にかけた「優しい言葉」
http://toyoharu.seesaa.net/article/314134336.html2025-01-18 01:01:00 - 今日は、日経から以下の記事を紹介します。------------------ 「白川さんはすごく誠実な人だ。あまり追い込んではいけない」。安倍晋三首相が最近、周囲に漏らした言葉だ。 安倍..
幕末最後までは、活躍できなかった! 無念の「佐久間象山と大村益次郎」20250203
https://moutaku3.exblog.jp/33506295/2025-02-04 02:00:00 - 幕末最後までは、活躍できなかった!無念の「佐久間象山と大村益次郎」20250203京都の高瀬川が流れる、川沿いの「木屋町通」は幕末は物騒な通りだったようです。この通り沿いには、土佐藩邸があったり、後藤象二郎の寓居、桂小五郎が潜伏した「幾松」など、通りを歩いていると旧跡を示す石碑があったりします。そこでこの木屋町に条辺りで、暗殺されて亡くなった「佐久間象山」と「大村益次郎」の慰霊碑が木屋町御池を上がった所に堂々と立てられています。今回はこの辺りをご紹介します。(佐久間象山(さくましょうざん・ぞうざん))文化8年(1811)信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれ、若年期に詩文・経書・数学を身につけ、特に数学の素養を身につけたことが、その後の彼の洋学吸収に大きく影響したといいます。天保4年(1833)江戸へ出て儒学・朱子学を学び同10年(1839)には江戸で私塾「象山書院」を開いて儒学を教え、勝海舟(象山の妻は勝の妹の順)、吉田松陰、坂本竜馬らの傑物を輩出しています。その後、藩主真田幸貫より洋学研究を命ぜられ、兵学の素養を身につけるや大砲の鋳造に成功して名を高めたといいます。その後、洋学全般に関心を寄せガラスの製造、地震予知器の開発に成功、更には牛痘種の導入も企画していたといいます。嘉永6年(1853)、黒船が現れ開国を強く迫り幕府は動揺・狼狽する大事件が起こります。象山の門弟吉田松陰が海外の実力を知るべく渡航を試みるが失敗。横浜開港を主張していた象山が松陰をそそのかしたとして共に投獄、象山は松代で9年間の蟄居を余儀なくされています。53歳で蟄居が解け、京都の治安を守るため将軍家茂より上洛の命が下ります。 市中警備の役に不満な象山は持論である開国論と公武合体論をもって朝廷と幕府のあいだの橋渡しに奔走したといいます。しかし、時局はいよいよ険悪となり、当時の京都は長州藩士ら尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっていました。国論の統一が進まない中、寸暇を惜しんで走り回っていた象山は、残念ながら二条木屋町の路上(廣誠院庭園の前*後述)で、志半ばにして尊皇攘夷を主張する守旧派の一味と思われる暴漢により襲われ殺害されました。 元治元年(1864)8月12日、享年54歳であった。(大村益次郎(おおむらますじろう))文政7年(1825)5月30日、周防国(山口県東部)吉敷(よしき)郡鋳銭司(すぜんじ)村に村医の長男として生まれ、防府の梅田幽斎に医学や蘭学を学び翌年豊後国日田の廣瀬淡窓の門下となり、弘化3年(1846)大阪に出て緒方洪庵の敵塾で学び、塾頭まで進んだといいます。相当優秀だったと見えます。嘉永3年(1850)父親に請われて帰郷、村医となって村田良庵と名のり翌年結婚してます。同6年(1853)黒船が來航するなど蘭学者の知識が求められるようになった頃、伊予宇和島藩の要請で出仕、西洋兵学・蘭学の講義翻訳を手がけ、安政元年(1854)から翌年にかけて長崎に赴いて軍艦製造の研究を行ったといいます。余談ですが、この頃、出島に来航したドイツ人医師シーボルトの娘で産科修行中の楠本イネを紹介され、蘭学を教えた縁で後年大村が襲撃された後、大村を看護し最期を看取っといいます。この頃村田蔵六と改名、安政3年(1856)4月江戸に出て「鳩居堂」を開塾して蘭学・兵学・医学を教えています。宇和島藩お雇いの身分のまま幕府が九段下に創立した洋学所である蕃所調書教授方手伝となり、安政4年幕府の講武所教授となっています。万延元年(1860)、長州藩の要請で江戸在住のまま同藩士となり、幕府から委任されて英語・数学を教えていたヘボン(アメリカの宣教師、ヘボン式ローマ字を創始)のもとで学んだといいます。文久3年(1863)荻へ帰国し、西洋学兵学教授となり博習堂で講義を行います。長州藩では、高杉晋作らが馬関(下関)で挙兵、第一次長州征伐の結果幕府に恭順していた保守派を打倒し、藩論を統幕でまとめた頃でした。高杉らは西洋式兵制を採用した奇兵隊の創設をはじめ軍制を改革、更に大村に指導を要請しています。桂小五郎(木戸孝允)の推挙で100石取の上士となり、藩命により大村益次郎永敏と改名し、明倫舘兵学寮総官・教授として歩兵・騎兵・砲兵士官教育を行ったとあります。大村は、西洋の兵学書を単に翻訳しただけでなく実践に役立つよう書き改めて 指導しています。慶應2年(1866)、幕府は第二次長州征伐を号令戦闘が開始されまます。大村は実践指揮を担当、優れた才能と戦術で幕府側を悉く撃破、勝利に導いています。明治元年(1868)王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢として朝臣となります。戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り、木戸孝允、大久保利通と並び新政府の幹部となり兵部大輔(たいふ・次官)に就任しています。当時の兵部卿(上司)は名目的存在で大村は事実上日本陸軍の創設を指導することになりました。明治2年(1869)、日本の中心は大阪であるとして大阪に兵部省の兵学寮、京都宇治に 火薬製造所を設け、また、大阪砲兵工廠の建設を決定しました。大村の政策は、廃刀令を布くなど武士層の特権を剥奪し、また、洋式模倣の弊害をもたらすとして攘夷派の敵意を集めており、同年9月4日同じ長州の不平分子らに三条木屋町(樵街)の旅館で襲撃されて負傷し、一命をとりとめたものの、長州藩邸に移送治療を受けた数日後、大阪の病院に入院したが11月5日敗血症で死去しました。享年46歳であった。大村の軍政構想はその後も受け継がれ、山県有朋に兵部省・陸軍省の主導権が移った後明治 6年(1873)国民皆兵をうたった徴兵令が制定されています。また、大村益次郎について、以下のことが残っています。大村益次郎は、医者であり、蘭学者であり、兵学者でもあり、日本陸軍の事実上の創設者といわれています。「大村は「奥羽は今後10年や20年は頭をもたげることはあるまい。今後おそるべきは西である」いずれは薩摩が反乱を起こすと考えていた。古い島津家の伝統を引く薩摩主導による維新は必ずや何らかの揺り戻しがあるに違いない。臨終の苦しい息の下で「西から敵が来るから四斤砲をたくさん作っておけ」と遺言したといいます。」口数の少ない大村ですが、先見の明は鋭かったようです。*「廣誠院」明治の建設業の発展を担った旧薩摩藩士 伊集院兼常により建てられました。伊集院兼常は維新以後、実業家として会社社長を歴任し、鹿鳴館や宮家の御殿の建築にも携わった人物です。書院、茶室、広間などからなり、庭園に面して配置されています。柱に面皮柱を用いるなど、全体に数寄屋風の意匠でまとめられおり、一部が改造されているものの、明治期の優れた数寄屋邸宅として、建物と庭園が調和する近代造園の先駆けとなる、貴重な建物です。後に廣瀬家の手にわたり、臨済宗の寺院として守り受け継がれてきました。庭園には、高瀬川から引き込まれた水流が敷地内を縦断し、ふたたび高瀬川に流れ出るようなつくりとなっています。この庭は建物と水流が融和する京都における近代造園の草分け的な庭園とも言われており、京都市指定名勝に指定されています。この項 <完>
J2-16-7) 日顕上人述 :なぜ破門を通告したか平成4年2月 日顕上人述(文藝春秋』
https://rigoletto.exblog.jp/243390505/2025-01-25 01:00:00 - J2-16-7) 日顕上人述 :なぜ破門を通告したか平成4年2月 日顕上人述(文藝春秋)1992平成4年2月号): 日蓮正宗はなぜ「破門」を通告したか:1)一般憎侶は法主の血脈によって、「三宝」のひとつ「僧宝」の一分に加わります。心化儀という場面では必ず師弟の筋目が存在するものです。本宗の場合は実際の問題として僧俗のけじめはあってやはり僧侶は内から仏法を守っていく、在家は外から仏法を外護する。そういうあり方において僧侶は在家を敬い信頼し在家も僧侶を尊敬しその教えを聞いていくということが七百年来続いているのです。2) 日達上人がお亡くなりになった後、一時は創価学会も池田大作も、しばらくは恭順の態度でした。その間、私も「本当にこの人は立派な信者だ」と思ったことが確かにありました。日達上人在世中に日大講堂の総会に招かれた時、池田大作がやってきて「今日の猊下の話は、あれは何ですか」と言う。「猊下は私のことに一言も触れなかったじゃないか。図にのぼってるんじゃないですか」と。「法主何する者ぞ」という考え方は、もうこの時にはあったのでしょう。3) 第二代会長戸田城聖が、昭和31年8月10日、日淳上人に申しあげた言葉を思い出さずにはいられません。 「将来、もし学会が大きくなって日蓮正宗に圧力をかけたり、あるいは内政干渉をするようなことがあったら、 いつでも解散をお命じください」かつては創価学会も、そういう自覚をもって「広宣流布」につとめていたのです。創価学会は本来は日蓮正宗の法燈を護るべき団体であるのに、今日では誹謗・中傷を繰り返して日蓮正宗を口汚くののしるような存在になり下がってしまった。4) 公明党に事件やらスキャンダルやらが続出して、むしろ逆に法華経を誤解させるような日蓮大聖人の教えをゆがめるような形になっているのではないかと思っています。仏法には第六天の魔王という存在があります。 欲界の中の一番上なのです。ですから非常に支配力がある。常人の考えられないような力があると仏法の世界観にはあるのです。池田さんも普通の人ではない。なかなか上手な人で初対面の人はつい「この先生はすばらしい人だ」と思ってしまうのです。実は、私もある時期もっと池田さんのことを信用していました。しかし、本質的にはやはり我見の強い仏法の本来のあり方から逸脱した部分が見えてくるのです。5)学会の組織を大きくしたのは、二代会長の戸田城聖でした。この方はまことに機略縦横な方で仏法の生命論を主体としたわかりやすい説明で多くの人の共感を得られたようです。世間的な苦労も多かった方だから世間のことに通じて人の心を掴むのが上手でした。戸田さん自身、本当に自分の命を捨ててでも日蓮大聖人の教えを守り、また広めていくという根本の一念をお持ちだったと思います。八百万の会員になったという創価学会の発展は戸田さんに負うところが大きいのです。よかれあしかれ会長中心主義という学会の体質は戸田さんのときにできたものでした。その創価学会を受け継いだ池田大作さんは会長に就任してまもなく、早いうちから仏法にたいし浅識、軽視、蔑視の気持ちがあったのではないかと思わざるをえません。民衆の幸福といっても、それは日蓮大聖人の本門の戒法から離れたものでは日蓮正宗の法義に反するものです。また、創価学会の会長中心主義の流れの中で、「池田先生絶対」という風潮がごく初期から会の中にあったように思います。学会の増長ぶりは、 教義の上からも由々しい問題なのです。自分の立場に転用し、あくまでも自己中心の考え方で解釈してしまう。 これは、本宗の教義にたいする独断からくる観心主義の中のひとつのあり方なのです。平成3年「創価新報」では「法主への信伏随従なるものが所詮は信徒に隷属を強いるために後世につくり上 げられた『神話』にすぎない」と言っております。創価学会では日興上人だけが僧宝であるとしきりに言っていました。自分たちも教えを広めているのだから僧宝であり、現在の僧とまったく平等であるというのです。これは日蓮正宗の教えに対する根本的背反であり自分勝手な仏法違背の考えだと思います。(編者の主張) : 日蓮正宗にとって創価学会は法華講の一講中に過ぎないが、当初からそのような枠組みに収 まる存在でもなく、日顕上人がいくら、”本来の日蓮正宗の信徒という態度を基本としてやってもらいたい”と願っ ても、師匠たる戸田先生の遺言達成にひたすら走る池田大作にとって日蓮正宗の意向とは初めから食い違ってい た。日蓮大聖人在世の信徒は確かに日興上人等を縁として信徒となった例は多いが信心指導は全て日蓮大聖人直結であった。事実、滅後、身延離山した日興上人の元に在家信者が大石寺に詣でた記録は皆無に等しい。日蓮正宗から見たら、”本来の正宗信徒の立場から離れてしまった”存在の創価学会を切るしか手段がなかったとでもいうのだろうがそれはあくまで建前の言い訳で、”本門戒壇の大御本尊”が日蓮大聖人の御真筆でないことをバラさ れてしまうことを恐れての保身であったと編者は理解している。
山陰ドライブ旅行 七日目前篇
https://punto1150.exblog.jp/30581901/2025-01-21 01:00:00 - 朝4時半、道の駅宿場町ひらふくで目が覚めた。今日は帰宅するだけだ、と思っていたんですが、今日はこの旅程で初めての、終日晴天という予報です。せっかく晴れているのに、一日高速道路を走って終えるのか?もったいないなあ。昨日道の駅で買ったういろうを食いながら、ルートを検討した。まっすぐ東へ向かうと京都市街をかすめる。ならばちょっと立ち寄っていこう。夜が明けるころ、篠山城跡に7時到着。晴れて一気に気温が下がりました。3度しかない。丹波篠山城は、江戸時代初頭、1609年の築城です。初代城主は松平康重。城の設計は、築城の名手藤堂高虎です。多数の大名が集まり、天下普請でたった6ヶ月で完成したという。それ以降、篠山藩の城として使われました。江戸時代になってから作られた城の多くが、天守閣がありません。計画はあったが費用がかかるので作られなかったというパターンが多い。ここも同じです。この建物は、平成に復元された大書院です。まだ朝早くて開いてないな。屋根には霜が降りています。篠山藩は何度か城主の家が交代しています。藩主の当たり外れが激しくって、名君と呼ばれる殿様もいれば、暗愚、バカ殿もいる。世襲制の殿様は、領民からすればバクチですねえ。特にバカに当たったときは、篠山藩の領民が大々的に一揆をおこし、幕府にチクられてバカ殿は転封となっています。明治維新のときは勝ち目なしと判断し、早々に明治政府に恭順している。その後の篠山城は他と同じ、城は取り壊されて廃材は売却されています。今復元されている大書院だけが残っていたんですが、昭和19年に空襲に備えた防火訓練で火事を出すという失態があり、焼亡した。防火訓練で火事ってどういうことだ?亀岡にさしかかったころから渋滞が始まった。ちょうど朝の通勤時間帯です。前に京都観光ツーリングに来たときに亀岡に宿泊したので、朝ここが渋滞することはわかっていたんですけどね、ここしか道がないのですよ。9時に京都市街に入った。市街地に入ると渋滞はしてない。道は広いからなあ。北野天満宮に到着。ここの祭神は、菅原道真。いわゆる天神さまです。平安時代、藤原氏の讒言によって左遷された菅原道真が左遷先の太宰府で死亡し、その後京都で雷が落ちて藤原氏に死者が出た。天皇が病死という事件も重なり、これは道真のたたりにちがいない、と藤原家がおそれおののいた。この神社がある場所には、たまたま雷を祀る神社があったらしいのですが、それで目をつけられたんです。藤原氏は道真の祟りをおさめるため、社殿を新たに建てた。それがこの神社の創建由来です。北野天満宮は室町時代には京都の麹製造の元締めをやっていたんですが、商人同士の利権争いが暴力沙汰に発展し、幕府軍に放火された。それでいったん、この神社は消滅してしまいます。豊臣秀吉がこの地で大茶会を開催したのをきっかけに、その子の豊臣秀頼によって再建されます。現在ある建物は多くがその時作られた。なぜだろう?参拝者の多くが若い女性だ。女子大生?くらいの人が多く占める。天神さんだから受験の神様です。若い人の参拝者が多いのはわかるが、なぜ女性ばかり?宝物館では特別展を開催中でした。多くが豊臣秀頼が奉納した刀剣ですが……なんと特別展示として「髭切」通称鬼切丸が展示されている!!この平安時代中頃製作された太刀、華やかな伝説に彩られています。太平記にはこの太刀、伯耆国の刀鍛冶安綱が製作し、坂上田村麻呂に献じられたと書かれていますが……これはちょっと時代が合わないかな。坂上田村麻呂の活躍した時期は、まだ日本刀が片刃の直刀だったと考えられており、こうした湾曲した太刀ではなかった。が、源頼光が経緯不明ながらもこの太刀の持ち主となったのはどうやら本当らしい。頼光といえばあの大江山の酒呑童子退治です。酒呑童子は後世いろいろ脚色されて化け物ということになっていますけど、源頼光が大江山に蟠踞した野盗を征伐しにいったというのは史実です。彼の「大江山に野盗退治に行くので加護をお願いします」という願文が現存している。盗賊がいろいろ後付で脚色され、酒呑童子という怪物になったのは別として、源頼光がこのとき使用した太刀が「童子切」安綱です。これは国立博物館に所蔵されている。頼光の著名な部下4人がいわゆる頼光四天王。その筆頭が渡辺綱(わたなべのつな)です。多田源氏渡辺氏の武士で、彼は頼光から「鬼切丸」を貸与されている。最初のあだ名「髭切」の由来は、この太刀が完成したときの試し切りで罪人が切られたのですが、その首を打ち落としたときに罪人のヒゲまで切れた、というのがその名の由来。そして二番目の「鬼切丸」の由来は。大江山の酒呑童子を退治してしばらく後、ある夜に渡辺綱が一条戻橋にさしかかったとき、女に化けた鬼「茨木童子」に襲われた。茨木童子は酒呑童子の部下の生き残りでした。酒呑童子の敵討ちをなすべく、茨木童子は女に化けて橋のたもとで待ち伏せていたのです。「こんな夜に女がひとりで?」と不審に思った渡辺綱が話しかけた瞬間、茨木童子は鬼の姿に戻り、綱をひっつかんで空に舞い上がった。その腕に、綱は太刀を抜いて切りつけた。綱をつかんだ茨木童子の片腕が切り落とされ、綱は鬼の腕といっしょに地面に落下し、助かったのです。彼が落ちてきたのがここ北野天満宮。彼はその片腕を持ち帰り……と話は続きます。このとき茨木童子の腕を切り落としたのがこの太刀だという伝説です。まあ、鬼を切ったかどうかは別として、その後髭切=鬼切丸は源氏に受け継がれる。源頼朝が平治の乱の初陣のとき、佩いていたのがこの髭切だという。その後新田義貞が手に入れ、義貞が死ぬと斯波高経、そして最上家へ受け継がれ、最上家が明治に没落して太刀が売りに出されると、有志が金を出し合って買い戻し、上記の縁がある北野天満宮に奉納した、という経緯です。
嫌な一年でした。
https://monksin.exblog.jp/33650166/2024-12-30 12:00:00 - 本年最後のブログに成ります。年末と言う事で、街はたいへん静かに成りました。多くの人達は故郷へ帰省なのでしょうね!関東地方は 柔らかな日差しに包まれた、恵まれたお天気ですが、日本海側や北海道地方では豪雪の被害が出ています。くれぐれも、お気をつけ下さい。車の運転で雪道の急発進は禁物です、路肩に落ちそうになっても慌ててエンジンを更かさず、スロー発進が基本です。アイスバーン等ではブレーキ操作は大型車と同じく、ポンピング、ブレーキですね・・・・・。ボケ老人のモンクも40年ほど前に北国に住んでいて雪道やアイスバーンの運転を覚えました。米国では 早くもトランプ次期政権への移行が民間企業でも始まっている様です。主要メデイアの幾つかが?ハリス支持を表明せずIT大手企業はトランプ氏の財団へ百万ドル単位の寄付を行い、恭順の姿勢です。所謂グローバリスト達と黒幕(オバマ、クリントン夫妻)が、痴呆症の大統領の口を借りて行った、様々な政策に依り進められていた事が急激な左翼的政策があからさまに成ってきています。多くの米国民が望んだ アメリカらしい本来の政策に戻されています。日本は逆な方向へと進んでいますが、岸田や石破は如何するのかしら?????気候変動とやらのウソもバレています。日本海側や北日本の豪雪を見ても地球は温暖化じゃなく小氷河期へ向かっています。海面の上昇なども「治山治水は政(マツリゴト)の要(カナメ)」を行わず・・・・・・、海岸が削られて行く南太平洋の島国等は、護岸工事さえ行っていません。海水に削られて「当たり前」なのです。海面の上昇等と脅かす手口はグローバリスト達の格好の洗脳材料なのです。英国の国営放送BBCが以前、確か2007年頃でしょうか?「北極の夏には2013年頃には、氷が無くなる」と多くの国民を脅し、これでもか!と洗脳していました。グローバル・リサーチ紙には気候の専門家 トニー・ヘラー氏が主要メデイアや新聞では取り上げてくれませんから、ネット配信の記事で事実は北極の氷は2012年よりも26%大きく多く成っていると・・・・南極の氷も1979年に比較して18%から20%大きく成っていると・・・・、北極の氷の衛星画像です南極の氷の衛星画像です左側が1979年、右側が2024年の画像です性懲りもなくあの変態爺のクラウス・シュワブはそれでも、「気候変動はコロナより深刻な被害をもたらす」と未だ嘘を広める気の様です。変態クラブのシュワブ、岸田のアホも得意げに・・・・・シュワブの父親はナチス政権時のドイツ企業の経営者で政権の協力者でした。数多くのユダヤ人(ハザール・ユダヤ)はヒットラー政権の協力者の中に居ました。一般のユダヤ人が軍需産業の労働者として徴用されていて、チフス等の感染症で亡くなっています。ホロコーストのブロバガンダは金融マフイア達のメデイア支配で広められた事もネット配信のユダヤ人のブログで明らかにされていますが、現在も“禁句”に成っています。米国の次期政権はファウチやビルゲイツを逮捕するのでは?と生物兵器のウイルスの機能得特と言いくるめ、ファウチなどが研究資金を提供して中国の武漢研究所に造らせウイルスを漏洩させたと・・・・、「ヒラリー・クリントンと共に 刑務所にぶち込め!」とネットには過激な言葉が飛び交っていますもう、決定的な事実なのです。ワクチンは大手製薬会社が金儲けで粗製乱造した、後遺症を伴う 偽ワクチンなのです。ウイルスは生物兵器で偽ワクチンの後遺症も大きな問題に成っています。免疫力が落ちた日本人はインフルエンザの感染者数の記録的な増加を見せ、その原因も?????多くはワクチン接種を受けた後遺症なのでは?正直な日本人達は???。ボケ老人は「疑っています」・・・・・・。血液中に「酸化グレフエン」と「スパイク・タンパク質」が出来てしまい免疫力が落ちて今まで体内で押さえられていた持病を誘発させると、心筋梗塞、脳卒中、帯状疱疹、等々・・・・・。多くの医療従事者や医師がネット配信で注意喚起しています。痴呆症のバイデン大統領は臭い 最後っ屁の連発で息子の ハンター・バイデンへの恩赦は2014年から現代までの罪状でしたが2013年の 習近平との会談の写真が漏洩し息子のハンター・バイデンと共に贈賄したと言われるバイデン大統領とハンターバイデン、中国人3人が供に写っている写真が出て来ました。恩赦の対象は 2014年以降ですが2013年の犯罪取引は恩赦の対象外に成ります。ファウチとビル・ゲイツも恩赦の対象にするのでは?と、囁かれる中で自分のお尻に火が付きました・・・・・・。バイデン一家の犯罪歴が暴かれるのは、時間の問題では?と・・・・・。上下両院で過半数を占める共和党議員達は手ぐすね引いています。ウクライナのストーム・シャドウ(長距離射程)のミサイルとドローン攻撃はロシア国内も目標にしているのでロシア軍が民間の飛行機を攻撃して墜落させた事でプーチン大統領は電話で謝罪していますが、欧米のメデイアは鬼の首を取った様な報道です・・・・・。勿論 非はロシア軍に有るのですが、精度の低いレーダーを見ながらのミサイル攻撃の危うさを物語っています。亡くなった方にはお気の毒にとしか言いようが有りません。航空機へミサイルを発射したのはチエチエン共和国ですから、続く戦乱でドローン攻撃と見間違い、 兵士達も確認せず発射したようです。大イスラエルを目指すネタニエフはガザ地区で 最後の病院を爆撃しました、理由は ハマスがあ~??????です。種(パレスチナのアラブ人やキリスト教徒達)の絶滅を謀っているのは間違いありません。国際社会はタダ漠然と眺めているだけです。イスラエルを支援する米国相手に敵対する事で、争う気はサラサラないようです。次の攻撃はイエメンのフーシー派が治める領土の飛行場です。フーシー派の後ろ盾はイランですので何とかイランを巻き込みたい思惑が透けて見えます。大統領の辞任迄 数週間しかないバイデンが核戦争を起こしかねない長距離ミサイルの使用やイランを巻き込むイスラエルの領土拡大を許可しているとは?地政学、軍事アナリストのドラゴ・ボスニック氏が言う「大統領の脳が欠けているのに、バイデンの核の瀬戸際政策を 承認しているのは 誰なのか?」オバマが指名した バイデン側近達のグローバリストの核戦争も止む得ずと言う滅茶苦茶な思想ですね。ハワイに核シエルターを作ったザッカー・バーグは言い訳に必死です。ニューヨークの地下鉄内で眠っていた女性の乗客にライターで火を付けて焼死させた不法移民 セバスチャン・ザペタは以前 グワテマラに強制送還された不法移民でバイデンの国境政策で 再度不法に入国していた事が解っています。地下鉄の眠っている女性に火を付けられて死亡者が出ている時に、ニュヨークの知事は地下鉄は安全だと発言していて、多くの非難を浴びています・・・・・・。民主党の知事らしいですね。年末だと言うのに暗くて、悲観的なお話や事件が多いです?来年は皆さんにとって平和で明るい年に成る様にとボケ老人のモンクは酒を飲みながら祈るだけです。良いお年をお迎えください・・・・・・・。
散策地点確認散歩⑧ 福島病院・医学校以前22~「北越戦」に設置された西軍病院
https://kazenoshin.exblog.jp/243295106/2024-12-20 12:00:00 - 戊辰戦役の北越・東北への展開に伴って西軍では前線に出張病院が置かれる。そのうち、福島がかかわる白河方面と平潟―磐城方面の病院について整理してきた。 白河方面は薩摩藩医療団で佐藤進順天堂、24才)が軍医頭取を務め、平潟―磐城方面では関寛斎(徳島藩、千葉東金出身、38才)が軍医頭取を務めていた。 北越戦は越後(現新潟県)での戦いだが、西軍の進軍目的が会津藩制圧のためということでかかわっている。 この地方は幕府直轄領・会津・桑名藩の飛地が交差していて、それに伴う戦況の複雑さがある。越後諸藩は5月に東北諸藩と「奥羽越列藩同盟」を結び対抗するが、4月中には高田藩15万石(榊原)は恭順の意をすでに示し、薩摩・長州藩等の駐屯は済んでいたようでもある。西軍の先発隊が高田に到着したのは閏4月17日。19日には参謀黒田清隆・山県有朋が到着して、閏4月21日には新政府軍が海道と山道の二手に分かれて高田を出発している。そして、閏4月26日には北越戦争の端緒となる小千谷(会津領) 雪峠の戦いがはじまる。翌閏4月27日には柏崎近傍の鯨波の戦いが始まっているというか、藩主不在の桑名本藩では恭順に決っしていて、桑名城はすでに開城していたという。江戸の藩主定敬も柏崎陣屋へ退隠して恭順する決意を固めて品川から「コリア号」で新潟に上陸し、藩士220名と北陸道を南下。3月末には柏崎へ到着して勝願寺へ謹慎し、家臣たちもそれぞれに謹慎した。ところが、新政府の要人となる三条実美、岩倉具視が頑なに会津藩と桑名藩を目の敵にしてこれを許さず、会津藩の恭順も認めないということで、まだ恭順派の家臣が圧倒的多数を占めてる中、抗戦の決意を固めざるを得なかった戦いらしい。桑名藩の反恭順派藩士の立見鑑三郎が柏崎に乗り込んで、長府藩・薩摩・加賀藩と激戦となったというのが、この鯨波の戦いということのようだ。 特筆は長岡藩の長岡城をめぐる激しい戦いで、その長岡藩が戦況悪化で敗走するようになるのは7月末だ。脇道、寄り道を大切にする散歩人としては、こちらに設置された西軍の病院についても整理しておこうかと思う。 その病院設置情報は、参謀の黒田・山県等の高田入りの時点での次の表現。 閏4月17日参謀の黒田・山県等は薩長以下諸藩兵を率い、加賀藩兵を先鋒とし高田に入り、越後口戦略の根拠地となり、会所は極楽寺に置かれ、来迎寺が病院に充てられる。 ただ、来迎寺が病院に充てられるのは5月29日に野戦病院という情報もあり、6月10日新政府軍の病院という情報もある。更には、柏崎・高田の官軍病院の薩摩漢方医は古い膏薬療法で敗血症を起こして死ぬものが続出するという情報もある。 そんな中、この北越戦の野戦病院設置には福井藩の橋本綱常氏がかかわるとの情報があるので、まずはこの福井藩の北越戦出兵情報を確認する。
国破れて山河無しin 河内798。島国。鎖国。侵略。開放。植民。満州。
https://isibasi.exblog.jp/33635037/2024-12-08 12:00:00 - 毎度ご無沙汰致して居ります。イシバシで御座います。<(_ _)>。おはよう御座います。今朝は昨日以上の晴天で、流石に放射冷却で冷え込みが厳しい。休みとは言え、布団から出るのが、かなり遅くなりました。でも、日差しは相変わらず強く、優しい風が吹きます。窓を開けた方が暖かい。生ぬるい大阪ならではの、河内の一日です。さて、里山で、ぬくぬくしている間に、世界は動いて行きます。島国で良かったなんて言っている場合ではない。島国で、世界の動きに遅れを取っています。そもそも、今の日本は、貿易を行わないと、食って行けない国です。其の貿易が思わしくありません。じり貧なのです。円の為替レートが既に半分近くになり、物価も高騰、しかし、景気よりも先ず、輸出が伸び悩み、一向に改善されません。頭の悪い連中は、石油や天然ガスの輸入押さえて、原発で凌ぐなんて考えているようですが、其の原発こそが、くそ高い電気料金を産む元凶だと気付いていない。原発、経費がかさむし、巨額の投資が、焦げ付いています。安全な原発を創ろうとすると、巨額の建造費に維持費が嵩み、特殊な部品やパテントで、輸入も増えてしまうのです。更に、多量の温排水や、廃熱を捨てるしか無い実態で、環境破壊も半端無く、地球温暖化の元凶(ゴミ、放射性廃棄物も発熱続ける。)ですら、あります。非常用の小型発電原発ですら、一度発電始めたら、途中で、出力を緩められない実態が有ります。原発が、安定して高出力出す為に、他の発電手段が抑圧され、大規模停電の原因にもなって居ます。出力を搾ると、燃料を捨てているのと同じなのです原発。制御方式もシュミットトリガー式で、開放で出力全開か、停止かしか無いのです。臨界しか燃やす方法が無い。情け無い空だき禁止の原子炉。自然エネルギー豊富な島国で使う事自身が馬鹿げて居る。まあ、ウランが無限に近く取れる海が目の前にあると言う事実はあるのだが。。さて、島国である日本だが、貿易しなくても、良いとばかりに、鎖国をした時代もあって、まだ、日本が、フロンティアだった時代は良いのだが、こんなに人口が増えて仕舞ったら、逆に、開拓地を求めて、海外へ?と成らないのが不思議である。実は、そうなら無かった理由が、江戸時代の鎖国にあって、江戸幕府の前に、豊臣秀吉が、大陸進出を謀り、一度目は成功している。二度目に成功しなかった理由が問題である。実は、日本人が海外に進出したら、大変な事に成ると気付いた連中が居て、九州の大名や、家康等に具申した様だ。戦国時代、日本は、諸外国と比較にならぬほどの、生産性と密度の流通を持っていて、鉄砲が一気に普及したのも、大砲まで使い出したのにも、余りにも急速で、更に、戦い方も、比較に成らぬほど、発展していた。日本がそれが出来たのは、里山と水田で、兵糧や、武器生産に充分な、木炭を手に入れられた事に寄る。日本は田んぼが存在する事が当たり前で、連作も出来て、毎年、作物が潤う状況になっていた。だが、大陸では、水田どころか、連作障害も知らず、焼き畑農法で、開拓しては、植林もせず、砂漠化まで起こしていて、広さの割に、里山が無い為に、密度が薄い、広域支配が一般的に成っていた。日本と交易する国は、日本ほど豊かでは無かったのだ。朝鮮半島に秀吉と共に侵攻した大名達は、その希薄さ、生産性の低さに驚き、逆に、日本の豊富な生産性を、利用して、儲ける方が、得策で、大陸式の略奪経済、略奪経営に日本人が参入する事の方を恐れた。だから、陶工などを連れ帰り保護する政策を採ったのだ。日本に連れられてきた陶工達は、日本の資源の豊かさに驚き、配下として、捕虜の身に甘んじて居る。さらに、実際は、奴隷や捕虜ですらなく、職長として、日本人を束ねる立場になっている。以降、九州の大名達は、略奪より、交易による富を求めて、中国商人と結託し、朝鮮に国があって、日本に恭順しているというスタイルを取り続けた。朝鮮通信使など、其の実態が、傭兵?程度でしか無かった事が伝えられている。問題は、徳川家康であり、彼も又、三浦按針の勧めで、交易のみの付き合いを、オランダと始めて居る。ただ、現実は、大きく違い、オランダは、出島を除いて、本国が消滅して、徳川幕府は、資金援助や、傭兵、物資まで供給して、オランダを支援し、復興させている。見せかけだけの鎖国だったのだ。征韓論を新政府が反対した理由もここにあって、実は、後の満州国建設にも、この問題が絡んでいた。毛沢東が、日本の真似をしようとして、文化大革命をおこし、大失敗したのもこの所為である。満州国でも、其の生産性が一番の問題で、アジア大陸初の高炉建設や、満鉄の活動は、日本人を大陸に放つと何が起きるか?其の証明であった。あっという間に、新京が出来て、異質なぐらいの、都市、街ができ上がったのだ。ロシアは、その可能性に、一番早く気付き、日露戦争以降、逆に日本と仲よくなって、日本の大陸進出の支援まで始めて仕舞った。ソ連が、出来るまでに、日本は満州に拠点を構えて仕舞ったのである。ソ連にとっては、ロシアと仲良くしてきた、日本は、目障りな存在で、日本のシベリア出兵は、ロシアと日本が如何に仲よかったかの証明でもあった。実際、シベリア出兵後も、日本は、ソ連の極東に留まり、日本人街まででき上がっていた。ソ連に成ってからも、ソ連極東との経済関係は維持され、満蒙国境で、ソ連軍と小競り合い(ノモハン事件もあった)が、続いたのとは大きく違う。ただ、ソ連の不可侵条約違反(実際は破棄され、失効直前だった。)で侵略した事が、その後の軋轢になって、極東でのソ連とのいさかい、だ捕等に繋がっていて、ロシアのソ連からの独立で、日本側に、共同統治の打診もあったが、自民党政府への米軍の圧力で、断っている(辺の古基地の正当化文言。)。ロシア側にしたら、日本に譲渡したら、米軍基地創られるだけという発想で、日露安保条約が、譲渡の条件(ロシアの基地、寄港)と成るのは当然であり、外交で返して貰えるものを、外交すら出来ない日本の実態には腹が立つ。日本にしても、北方をロシアに護って貰えるのは利点で有る筈(北海道の部隊を南に回せる。)で、既に実施されているのが?何故?ロシアと密約してるのか?と思って仕舞う。実際、サハリン油田、天然ガス等は、ロシアの保護下でないと護り切れない。ロシアは、ウクライナ侵攻を機に、日本以外の国は、サハリンから弾き出している。今回、日本は、米国に、ロシアからの液化天然ガスに加えて、サハリン石油の輸入も打診して、許可を得ている。米軍のプレゼンスが、韓国から消えた事と無関係ではあるまい。つまりは、米軍から既に、北方の防衛は拒否されているのだ。まあ、南シナ海の現状からはそうなる罠。言換えれば、ロシアが日本を敵視するどころか、日本を守る、新日国で有る事を、ウクライナ侵攻で、証明してしまったのだ。其の分、北海道の自衛隊を、南に回せと五月蝿く言ってくる。公表はされていないが、南西諸島に派遣された自衛隊は、北海道の駐屯地から減らされた連中である。言えるのは、日本が島国で有る限り、ロシアは(台湾が日本に帰属しようとも、サハリンや、千島も入れて)日本の味方であり、日本を守るつもりである。大陸に日本人を解き放つのは危険だと言う事は、世界的な認識になって居ると言っても良い。里山潰しは、それを知った上での日本人の無害化、奴隷化の手順でもあるのだ。
幕末足軽物語/関連話<神保修理と伏見戦争>
https://mori100s.exblog.jp/241976279/2024-12-01 12:00:00 - ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇土佐の森・文芸 融通無碍(南寿吉著)[関連話]◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇神保修理と伏見戦争神保修理天保5年(1834年)、会津藩家老・神保内蔵助利孝の長子として生まれる。藩主・松平容保は、各藩で行なわれている藩政改革に遅れまいと会津藩内においても人材登用と軍制改革を断行する。とくに神保修理を嘱望していたとされ、藩の重役に登用する。松平容保が京都守護職を拝命してのちは、側近として上洛国事に奔走した。慶応2年、松平容保は藩政改革(藩兵組織と教練方法を西洋化すべく)、神保修理を長崎に派遣。長崎で坂本龍馬と懇親となり、龍馬をして「長崎ニて会津の神保修理に面会。会津ニハおもいがけぬ人物ニてありたり」と言わしめた。龍馬の手紙(三吉慎蔵宛て)~~~~~~~~~その後、会津藩改革によって教練を受けて生まれたのが白虎隊である。慶応3年10月、大政奉還によって風雲急を告げ、12月の王政復古によって事態の収拾が不能となると、修理は高揚する主戦論に対し不戦恭順論を前将軍・徳川慶喜に進言。江戸に帰り善後策を練ることを強く説いた。これにより、会津藩の内部において主戦派と激しく対立した。大政奉還(融通無碍/南史観<私観>)王政復古の大号令(融通無碍/第40話)~~~~~~~~~~幕末足軽物語 樋口真吉伝完結編<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP305>・・・・・・・・・・・・慶応4年元旦伏見戦争始まる(融通無碍/第27話)伏見に会津兵が布陣している。 1月2日会津兵が大坂から伏見まで上がり、京市中(洛中)に投宿あるいは町奉行邸に集まるという情報がある。対抗措置として薩長の兵が出る。土佐藩も少ない手勢ながら2,3の小隊を出動させる。ーーーーーーーーーーーーーーーー結局、戦いは避けられず、鳥羽・伏見の戦いが勃発。神保修理は軍事奉行添役として会津藩の軍権を持ち出陣。旧幕府側は兵力で圧倒しながら戦況が思わしくないことに加え、旗色をうかがっていた津藩などの寝返りによって不利な状況に転じた。挙句に新政府側に錦の御旗が翻り、朝敵となることを恐れた神保修理は徳川慶喜と松平容保に恭順を進言した。しかし、徳川慶喜以下、松平容保までが旧幕府軍の兵を残し大坂城を抜け出して江戸へ脱出したことで旧幕府軍は崩壊、あっさりと官軍に勝利をもたらす結果となった。総大将が前代未聞の戦線離脱をした要因は、神保修理が将軍に恭順を進言したことにはじまると会津藩内で一方的に意見が上がり、ついには鳥羽・伏見の敗戦を招いた張本人との烙印を押されてしまった。弁明の機会も与えられぬまま、「敗戦の責任」を取らされ切腹を命じられた。「帰りこん ときぞ母のまちしころ はかなきたより 聞くへかりけり」が辞世と伝えられている。国外事情に通じていた神保修理は、後年活躍する多くの志士の思想に影響を与え、長州藩士の伊藤俊輔(後の伊藤博文)などの倒幕派の若者たちにも支持されていた。(坂本龍馬もその中のひとりとされている。)こうした志士との接触が多かったことが官軍と通じていたのではないか、という疑念を生み会津藩で神保修理が非難されるきっかけにもなったとされる。~~~~~~~~~八重の桜(NHK/大河ドラマ)NHK大河ドラマ/八重の桜徳川慶喜 『大坂が焦土と化し、我らが討ち死にするとも江戸に残った者たちが志を継ぎ戦い続けるであろう。大義は我らにある。最後の一騎となるまで戦い抜くぞ』神保修理 『我が軍勢、兵の数こそ敵に勝っておりまするが、軍略が乏しくこのまま戦を続けては兵を失うばかりと拝察つかりまする』徳川慶喜 『分かっておる。では、如何すればよい?申してみよ』神保修理 『兵たちを率いて一旦江戸に戻り、戦略を立て直すべきかと存じまする』徳川慶喜は意を翻し、会津藩士とともに大阪に残るという松平容保に・・・徳川慶喜 『ならぬ。そなたがここにいては会津兵はいつまで経っても戦を止めぬ。偽物とはいえ、錦旗が挙がった上は、兵を引かねば徳川は朝敵となるのだぞ。会津の家訓に徳川を朝敵にせよとの一条があるのか?』松平容保『・・・』神保修理 『・・・』かくして、総大将・徳川慶喜が会津藩主・松平容保を連れて、兵を捨てて逃げ出した。将軍・徳川慶喜が遁走(融通無碍/第43話)徳川慶喜(融通無碍/関連話<人物評伝>)松平容保(融通無碍/関連話<人物評伝>)~~~~~~~~~<「幕末足軽物語樋口真吉伝完結編」ではP311>慶応4年1月6日将軍・徳川慶喜が会津・松平容保を道連れに海路江戸に遁走した。満天下に赤恥を曝した。薩長の兵は敵と淀川で交戦したが、賊は悉く敗走し手勢を失った徳川慶喜は怖気づき、終に大坂を棄て、船で海上を走り江戸に奔<はし>る。江戸より報あり『去る月(=12月)23/24日、酒井左ヱ門尉(=庄内藩主)と薩摩藩が交戦し薩摩邸が焼亡、江戸城二之丸もまた焼亡』とのこと。摩藩邸焼討事件(幕末足軽物語/関連話)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー[史実<フリー百科事典『ウィキペディア>より]大坂城にいた徳川慶喜は、伏見戦争の緒戦での敗退の報とともに、薩長軍が錦の御旗を掲げた事を知った。これにより「徳川家と薩摩藩の私戦」という徳川慶喜が描いていた構図は崩れた。開戦に積極的でなかったといわれる徳川慶喜は自身が朝敵とされる事を恐れ、表では旧幕府軍へ大坂城での徹底抗戦を説いたが、裏ではその夜僅かな側近と老中・板倉勝静、老中・酒井忠惇、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬と共に密かに城を脱し、大坂湾に停泊中の幕府軍艦開陽丸で江戸に退却した。 総大将が逃亡したことにより旧幕府軍は継戦意欲を失い、大坂を放棄して各自江戸や自領等へ帰還した。際して会津藩軍事総督の神保修理は戦況の不利を予見しており、ついに錦の御旗が翻るのを目の当たりにして徳川慶喜と松平容保に恭順策を進言したとされ、これが徳川慶喜の逃亡劇の要因を作ったともいわれる。だが神保修理にとっても、よもや総大将がこのような形で逃亡するとは思いもしなかったという向きもある。会津藩の陣営には神保修理が残ることとなったが、元来、主戦派ではなかったため、会津藩内の抗戦派から睨まれる形となり敗戦の責任を一身に受け、後に自刃することになる。 神保修理切腹======[融通無碍]神保修理は白虎隊の生みの親、育ての親といわれている。白虎隊(融通無碍/南史観<私観>)愛しき日々風の流れの 激しさに告げる想いも 揺れ惑うかたくなまでの ひとすじの道愚か者だと 笑いますかもう少し時が ゆるやかであったなら会津に散った若き獅子たち/白虎隊(NHK動画)~~~~~~~~~~神保修理(融通無碍/人物評伝)*****************ブログ土佐の森・文芸/幕末足軽物語(南寿吉著)編集・発行土佐の森グループ/ブログ事務局*****************南寿吉先生の遺作(高知新聞/2021.7.2)**************2024.12.01.23.44