使命感

【Ⅱ】陰謀論・都市伝説愛好者の中継点 | 俺の眼が限界なのにゲーム好きで何が悪い - 【Z】

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?R.04.3.02?【Ⅲ】陰謀論・都市伝説愛好者の中継点 | 俺の眼が限界なのにゲーム好きで何が悪い - 【Z】

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2024 | ◎◇☆ALLSUPERBESTLIVEkenkotyojyuSUPERBESTLIVE∞◎◇☆

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2024

2754年 | Fate in Haze

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可笑しな使命感

使命 | deaii

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大学之行,充满了使命感。使命,莫忘。

謎の使命感 | ぬっこな集会所

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約9日

01/14のツイートまとめ | 九州の埼玉のぶろぐ。

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cherryman765 @928Polaris 買わなきゃ(使命感) 01-14 00:11

no title | aquacrystal

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Vita買わなきゃ(使命感

本日の一文

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2025-03-03 03:15:00 - a93. 育てるのは子ではなく、子がやりたいこと。◉ 作 / かぜたろう名言・格言・金言 ブログランキングへ

関係法令5回目解説

https://sokuteishi.seesaa.net/article/502665193.html
2025-03-14 03:48:00 - 問5 作業環境測定に関する次の記述のうち、法令上、誤っているものはどれか。 1 通気設備が設けられている坑内の作業場については、半月以内ごとに1回、定期に、当該作業場における通気量を測定しなけれ..

看護師転職 自己PR

https://kgsk.seesaa.net/article/501408151.html
2025-11-10 11:31:00 - 自己PRは、看護師転職の際に非常に重要な要素です。これは、あなたの専門的なスキルや経験、人間関係構築能力、職業における使命感など、あなたを他の応募者と差別化する要素を強調する機会です。以下は、看護師転..

天竜川転覆事件 客は神様

https://junkohamura-onojun.seesaa.net/article/201108article_19.html
2025-08-19 08:17:00 - 「障害者に失礼ではないか」について転覆した観光船の船首で船頭をして自力で河原まで泳ぎ着いて助かった人が 「助けてというような声が聞こえたが、乗客のことを考える余裕がなかった」 と話したそうだが..

7月13日 チェンジジャパン街宣

http://oyajisama.seesaa.net/article/467896932.html
2025-07-13 07:35:00 - 下の画像をクリックしてください。

【あるあるw】ゲス川谷さん「自虐しなきゃ(使命感)」www

http://news4wide.net/article/467256158.html
2025-11-19 11:10:00 -

若者「貯金しなきゃ…(使命感)」←無能そう

http://www.vsnp.net/article/466956182.html
2025-05-14 05:00:00 -

若者「貯金しなきゃ・・・(使命感)」←無能そう

http://news4wide.net/article/466800263.html
2025-05-13 05:55:00 -

一人暮らし「野菜とらなきゃ(使命感)」←これwww

http://news4wide.net/article/466741643.html
2025-12-19 12:00:00 -

コナン「蘭のために正体隠さなきゃ(使命感)」

http://news4wide.net/article/466414538.html
2025-03-13 03:45:00 -

ニワカ一人暮らし「野菜食べなきゃ……(使命感)」

http://www.scienceplus2ch.com/article/466145093.html
2025-11-25 11:10:00 - 1: 2017/11/23(木) 12:38:56.11 ID:uPAsXVS0p なおスーパーの農薬まみれの野菜をガンガン加熱した出涸らしを食べて一先ず安心してる模様…

大学で声をかけてきた見知らぬ学生「君に会いたがってる人がいる」私「!?」学「余命数年の男性の最後の願いを叶えてやって付き合ってやってくれ!」私「…」

http://jiwachan.net/article/466032807.html
2025-02-22 02:00:00 - 235: 恋人は名無しさん 2012/06/17(日) 00:25:11.27 ID:aR1zue/4O人居ないしゆっくり書きます 大学生のときの修羅場。&nb..

Kyoto!

https://uchinadap.exblog.jp/33504202/
2025-02-02 02:00:00 - 琵琶湖岸を走るサンダーバードからの風景が好きだ。文句タラタラの敦賀乗り換えだが、京都まで時間が短縮されたのはいいよな、と初めて実感した。祇園の席にて祝う。ザ・臨床という会で部外者であるが、とても良い会だった。これだけ多くの人を、毎年病気を治す技を身に付けて出していく医局。それだけでも大変なのに、基礎の研究もやらないといけない!そうじゃないと治せない、という使命感やエネルギーがすごい。医局が大きくなれば、一人で全部やる必要はなく臨床に特化する人もいるし、基礎に特化する人もいる、というように幅を出せる。市井の一般病院では使い物にならないのを医局で引き取るとか、日本の医局制度は本当によく回っていたんだよなあと思うし、ある程度の大きな医局をつくるために集中化も必要だと思う。それにしても皆さんのスピーチのうまいこと。感じ入るばかりだ。緑でした、初めて見たかも。

フルーツ&野菜 市場規模・予測 2025 に 2032

https://filesnatisha45.exblog.jp/37583812/
2025-02-01 02:00:00 - “フルーツ&野菜 市場”は、コスト管理と効率向上を優先します。 さらに、報告書は市場の需要面と供給面の両方をカバーしています。 フルーツ&野菜 市場は 2025 から 12% に年率で成長すると予想されています2032 です。このレポート全体は 132 ページです。フルーツ&野菜 市場分析です果物と野菜の市場調査報告は、現在の市場状況を詳しく分析します。果物と野菜は、人間の健康に必要不可欠な栄養源であり、多くの消費者から支持を受けています。この市場のターゲットは主に健康志向の消費者で、収益増加の要因には、健康意識の高まりやオーガニック製品の需要増加が含まれます。主要企業であるドール・フード・カンパニーやチキータ・ブランド・インターナショナルは、競争が激化する中で差別化戦略を採り、市場シェアを拡大しています。レポートの主な発見は、持続可能な農業とイノベーションの重要性であり、これらを推進するための戦略を推奨します。レポートのサンプル PDF を入手します。 https://www.reliablemarketsize.com/enquiry/request-sample/1684862フルーツと野菜市場は、鮮度、乾燥、冷凍の形態で広がりを見せています。スーパーマーケットやハイパーマーケット、専門店、オンラインセグメント各々で、消費者の多様なニーズに応えるための品揃えが求められています。特に、健康志向の高まりに伴い、新鮮な野菜や果物の需要が増加しています。市場においては、規制や法律が重要な要素です。食品の安全性を確保するため、農産物に関する規制が厳しく、残留農薬や品質基準に基づく検査が義務付けられています。また、輸出入時には国ごとの規制を遵守する必要があり、これにより市場の流通ルートが影響を受けることもあります。エコ・ラベルやオーガニック認証といった認証制度も、消費者の選択に大きな影響を与えています。これらの要因を考慮しながら、業界全体が成長を目指す姿勢が求められています。グローバル市場を支配するトップの注目企業 フルーツ&野菜フルーツおよび野菜市場の競争環境は、世界中で活発であり、多くの企業がその成長に寄与しています。主要企業には、ドール・フード・カンパニー、チキータ・ブランド・インターナショナル、.ロビンソン・ワールドワイド、フレッシュ・デルモンテ・プロデュース、サンキスト・グロワーズなどがあります。これらの企業はそれぞれの強みを活かし、市場を活性化させています。ドール・フード・カンパニーは、高品質のフルーツや野菜を提供することで知られており、新鮮さと持続可能性を重視しています。彼らは国際的な供給網を利用し、消費者へのアクセスを広げています。チキータ・ブランド・インターナショナルはバナナのリーダーとして知られ、使命感を持って健康的なスナッキングを提唱し、市場への浸透を図っています。C.H.ロビンソン・ワールドワイドは、物流とサプライチェーンの専門家として、果物と野菜の効率的な流通を確保し、市場の拡大に寄与しています。フレッシュ・デルモンテ・プロデュースは、多様な製品ラインを展開し、消費者ニーズの変化に応じた商品を提供して競争力を維持しています。サンキスト・グロワーズは、農業者の連携を強化し、共同ブランドを通じて市場での認知度を高めています。これらの企業は市場の成長に貢献し、新しい製品開発や持続可能な農業への投資を通じて業界の革新を推進しています。企業の売上高は年々増加しており、特にフルーツと野菜の需要が高まっていることがその要因です。Dole Food CompanyChiquita Brands InternationalC.H. Robinson WorldwideFresh Del Monte ProduceSunkist Growersこのレポートを購入します (価格 3500 USD (シングルユーザーライセンスの場合): https://www.reliablemarketsize.com/purchase/1684862フルーツ&野菜 セグメント分析ですフルーツ&野菜 市場、アプリケーション別:スーパーマーケット & ハイパーマーケット専門店オンライン果物と野菜は、スーパーマーケットやハイパーマーケット、専門店、オンラインで広く利用されています。スーパーマーケットやハイパーマーケットでは、彩り豊かな生鮮食品が日常的に販売され、手軽に購入可能です。専門店では、特定の種類の果物や野菜が新鮮さを求める顧客に提供されています。オンラインでは、忙しい顧客に対して宅配サービスが便利です。この分野で最も成長が著しいのは、オンライン販売セグメントで、近年のデジタル化の影響で急速に収益が増加しています。このレポートを購入する前に、質問がある場合はお問い合わせまたは共有します - https://www.reliablemarketsize.com/enquiry/pre-order-enquiry/1684862フルーツ&野菜 市場、タイプ別:フレッシュ乾燥フローズン果物や野菜には新鮮、乾燥、冷凍の3種類があります。新鮮な果物や野菜は栄養価が高く、消費者に人気です。乾燥品は保存が効き、長期保存や調理に便利なため需要があります。冷凍品は旬を問わず利用でき、味や栄養を保つことができるため、忙しいライフスタイルに対応しています。これらの多様な形態が市場に供給されることで、消費者の選択肢が広がり、全体的な需要が増加します。地域分析は次のとおりです: North America: United States Canada Europe: Germany France U.K. Italy Russia Asia-Pacific: China Japan South Korea India Australia China Taiwan Indonesia Thailand Malaysia Latin America: Mexico Brazil Argentina Korea Colombia Middle East & Africa: Turkey Saudi Arabia UAE Korea 北米では、米国とカナダが果物と野菜市場の成長を牽引しています。欧州では、ドイツ、フランス、英国、イタリアが主要な市場を形成しており、ロシアも成長が期待されます。アジア太平洋地域では、中国、日本、インドが市場を主導し、オーストラリアと東南アジア諸国も重要です。ラテンアメリカはメキシコ、ブラジル、アルゼンチンが中心となります。中東・アフリカ地域では、トルコ、サウジアラビア、UAEが市場を支えています。アジア太平洋地域が最大の市場シェアを占め、約40%の評価が予想されています。レポートのサンプル PDF を入手します。 https://www.reliablemarketsize.com/enquiry/request-sample/1684862弊社からのさらなるレポートをご覧ください:Cocktail Dresses Market Trends Laser Diode Characterization System Market Trends Plating Nickel On Plastics Market Trends Cosmetology Liability Insurance Market Trends Dry Gin Market Trends K-12 Educational Technology Market Trends Baby Oral Care Products Market Trends Baby Oral Hygiene Market Trends Vitamin D Gummies Market Trends Straight Nozzle Blow Guns Market Trends Silent Air Blow Gun Market Trends High Speed Tablet Rotary Presses Market Trends Medical QMS Software Market Trends Trimellitic Anhydride (TMA) Market Trends PTFE Mesh Belts Market Trends Silicone Adhesive for Semiconductor Market Trends Lanthanum Nickel Cobaltite (LNC) Market Trends Differential Turbine Market Trends Vacuum Enema Machines Market Trends Semi-Automatic Blast Cabinet Market Trends

またまた貴桜家に遊びにいく

https://ran0528.exblog.jp/33668870/
2025-01-27 01:00:00 - お昼。姉から正月に、銀だこの福袋を買ってもらって。これが、12カ月分あるクーポンもあってですね。。1月分の、早く使っちゃわないと、ただの紙切れになってまう・・・!!と。いうことで、クーポン使うため、お昼は銀だこ食べました。(おかんが日直で、お昼いないこともあり)でね?このてりたま銀だこ、結構な高カロリーなんですわ。な、の、で、それを消費しようと、家に帰り、フィットボクシングやりますかぁ~と思った時に、貴桜ちゃんからTEL📞「今から、歩数稼ぐために、一緒に散歩付き合ってくれへん?」OKさ!!!!(あれ?なんか前にも、こんなことあった気がする)急いで洗濯物片づけて、わたくし行きましたわ。それで、その時に、わたし、貴桜ママのこと大好きな人だから、「ママは、今日どうしてるの?元気?」って聞いたら、「ああ、ママね、足の筋切っちゃって、今、安静にしてる。」それはいけない。私が、何か湿布でも買って行って、お見舞いに行かなくては。(いらない使命感)でも、湿布は医者からもらってるから、神経痛に効く入浴剤とかどう?という貴桜ちゃんの意見を聞いて、入浴剤買っていきましたわ。ゆずの香りの。あんまり高いやつだと、「そんなに気ぃ使わなくていいのに~」と、逆に迷惑をかけてしまうので、あえて無難なお値段の入浴剤を買い、お邪魔しました。ふふふ。これでまた、私の株があがりましたわね。

インドで創価学会員が100万人になる

https://sokafree.exblog.jp/34429854/
2025-01-26 01:00:00 - ☆近未来に100万人へ.以下に、インドSGI婦人部長のスピーチ記事を添付します。SGI(創価学会インターナショナル)が50周年を迎えました。SGI発足の地のグアムで、五大陸の代表が集い、50周年の祝賀と再出発が行なわれました。その中でひときわ輝くSGI会員の言葉がありました。以下に、そのラシ・アフジャ婦人部長のスピーチ(記事)を紹介します。>初のアジア歴訪の途上で、池田先生がインドに第一歩をしるされてから64年。当時、現地にメンバーはいませんでした。しかし、今では青年を中心に約30万人のメンバーが誕生し、宿命転換の歓喜の波動を広げています。(中略)インド創価学会(BSG)は、2030年に100万人の地涌の陣列を築こうと、方面・圏・本部・支部・地区がそれぞれ目標を立て、題目や折伏、訪問、激励に挑んでいます。>昨年から始めたのが「ニュー・フレンズ・フェスティバル」です。BSG本部や各会館に友人を誘い、信仰体験や池田先生の指導の学習、質疑応答など、多彩な催しを1日かけて行っています。毎回、会場が満員になるほど盛況です。(中略)師匠と同じ責任感と使命感をもって地域を駆け巡り、インドに平和の楽土を築いていきます。(聖教新聞2025年1月26日より)SGIの代表メンバーがどれもこれも素晴らしいスピーチで、感動と感謝ではらはらと涙が出ました。アメリカ、アルゼンチン、オーストラリア、コートジボアール、そしてインド・・特にインドの急成長には驚かされるばかりです。5年後に100万人は本当かも知れません。「仏法西還」がこんな形になるなんて、想像すらしたことがないです。考えてみれば、仏法はインドに生まれたのであり、そもそも仏法はインド人に相性がいい。しかも世界で一番多い人口の国です。そう考えると、最も多くの会員数にインドが達してもおかしくないでしょう。30万人が5年先に100万人になるということは、(勿論6年、7年後かも知れませんが)数十年先に数千万人になる可能性もあり、そうなるとインドは福運を付けて世界を凌駕する大国になることでしょう。ただし、ヒンズー教が支配している国です。創価学会の急速な拡大は将来、深刻な対立を起こすかも知れません。ともあれ、創価学会の発展はすご過ぎます。これほどのビッグニュースなのに日本のマスコミは報じません。一体、誰がブレーキをかけているのでしょう。そしていつまで隠ぺいするのでしょう。ブログトップへ

GQuuuuuuX とか、庵野セレクトなヤマトとか(とかって何だよ)

https://bunbukucyagama.exblog.jp/33497364/
2025-01-25 01:00:00 - いやーしてやられましたわw「何も言えんがとにかく見に行け」が合言葉になっているかのようなアレ、カラーとサンライズが手を組んだと話題になっていたガンダム GQuuuuuuX(uが多過ぎるよwww)見てきたですよ。…というか、私は最初そのつもりは無かったんですわ。だって現在上映されてるものって、TVシリーズ序盤を編集した先行上映でしょ?「いずれTVで見られるんだから、まぁいっかーあははははは」なんて漠然と思ってたんです。で、公開されるや否やなーんか世間がざわついてる。へー、そんなにアレなんかい、へー。まあカラーが噛んでるんだから一筋縄じゃいかんだろうが…と思っていたら、職場の若い子達がもうテンションアゲアゲで「〇〇さん!見に行かないと駄目ですよ!殊に〇〇さんみたいな世代の方なら尚更ですよおおおおおお!とんでもない事になってますよおおおおお!ネタバレされちゃう前に見ないといけませんよおおおおお~\(^o^)/」と、なんと兄ちゃん二人がかりで懇々と力説されちゃいまして…( ̄▽ ̄;)お、おう、そうなのか、そういう作品なのか…(この時ちょっと引くw)という事で、そこまで言うならここは一つ見定めてやろうじゃないかと、ガンダマー歴ン十年(そんな歴史あるんか)なオッサンがのこのこと出掛けて行ったんです。GRⅢx…で、結果。前半数十分、わたくし爆笑してしまいました( ̄▽ ̄;)なんじゃこりゃあ!あ、勿論声に出してなんかいませんよ。というか、堪えるのに必死でプルプル震えてた始末でw一言で言うならば、島本先生お得意のセリフ、もはや伝統芸能なやりやがったなアンノwwwですわ(前半パートは庵野監督が脚本w)。いやあ、これは流石に私もネタバレ出来ませんわ(^^;まあねえ、してもいいかもとは少しは思うんですよ。これ速報ってわけでもありませんし、もうヨウツベやら何やらでポロポロ出始めてますし、何なら公式までチラ見せしてるしwwwwwwwwwwここまで皆が口をつぐんでしまうとは公式も思ってなかったんですかねえwやっぱり見えそうで見えないのが一番そそるというか、素っ裸よりは着ている方がこ…げふん( ̄▽ ̄;)そんな訳で匂わせカキコしかしませんが、精一杯の表現を試みますと、冒頭1分、実は私は想定通りでしたw脚本に庵野監督の名前があるのは事前に知ってましたし、職場の子達の言葉でピーンときたんですよ(にゅうたいぷ?)。ならば最初から全力でブチカマシてくるだろう、と。ほら、ウルトラマンもゴジラもライダーもいきなりエンジン全開だったっしょ?だから「ガンダムっていったらアソコからだろ、アレが無きゃ始まらん、絶対アソコから始めるよなぁ、きっと」と思っていたんです。だけど、幕開け後にん?あれ?んー?何で最初っからアンタいるのさ?アイツはどーしたのよ?は?え?お、おい、ちょっとまて、あ?あー!こらこらこらこら!!!おーい!うわあ~やっちゃったよおおおおおお……あはははははははははは、メチャクチャだよおい!もうどうにでもなれ~~~~~って感じの前半。で、後半なんですが、その前から登場してきた「あの人」が既にキャラデザが異質でwその流れでパッと見も空気も変えて流れていきますが、まあ今風?ですかね。わりとライトな感じで進めていくんだろうかと思います。とはいえ、そのままでこの先が済むとは思えませんし、何より色々ドッカーンしちゃった後始末をどう落とし前つける気なのか今んとこサッパリなので、果たして着地点はどこなのかと?個人的な採点をするならば、岡田斗司夫さんとほぼ同意見で前半95点 後半80点ですかねえ?後半の点数が岡田さんより5点辛くなってますが、なんでかっていうと少し間延び感があって一瞬寝ちゃったのよ、あたくし( ̄▽ ̄;)というのが率直な感想です。…ああ、そういえば一つだけ気になる事がありまして。と、富野さん、知ってるんだよね、コレ?なーんか例によってニコニコしながら「冗談じゃないわよっ」って、得意なオネエ口調で言ってる姿が目に浮かぶんですが…( ̄▽ ̄;)だ、大丈夫だよ、ね?で。そ、そんな富野さんが大っ嫌いな(こらっw)ヤマト、それもなんと半世紀前の作品である1stのTV放送版を今更映画館で庵野監督がセレクトした話数だけを上映する、というもはや正気とは思えないとち〇った年末年始の企画に参加してきた事をここで白状いたしましょうwwwZf + 35/1.4場所は…もう分かりますよね。清水のエスパルスドリームプラザ内にあるMOVIX清水です。往復は東名でしたがまあサンデードライバーが多くて怖いし、高速料金は高いしで何だかなあ、でしたけど、さりとて一般道だとバイパスは激混みなのでうーん…昨今の物価高は私の生活にも確実にダメージ与えているので正直どうしようかと迷ったんですよ。だって全話自宅で視聴可能だし( ̄▽ ̄;)当然全シリーズ持ってますもんwけどなあ、庵野さんがヤマト新作やるっていうし、何が一番いいってやっぱり最初のTV放送の奴が最高なんで、だったらお布施してやろうじゃないかと。妙な使命感を伴って劇場入りしたのでありますwいやあやっぱ最高だわ\(^o^)/⇧この手のひら返し、我ながらwそりゃ絵は今の基準から見たら汚いっすよ。色々細かいところは突っ込めますよ。でもね、そんなのどーでもいいの!この戦利品を見て下さいよ!物販でこれを見つけた時に嬉しくてニッコニコになってしまった還暦前のオッサンの姿が目に浮かぶことでしょうwなんかもうこれだけでご飯三杯いけますよワタクシwwwその後にも、Xのカラー2号機に書かれていたコメントにもう頷くばかり。庵野さん曰く、「古代で一番好きなシーンは最終話でデスラー砲が撃たれた時にもの言わぬ雪を庇うように抱きしめるところ」「二番目は13話で自害しようとした捕虜のガミラス兵を叩いて相手が涙を流すのを見た後にハッとする姿」だって言うんですよ。くう~っ!もうツボど真ん中じゃないですか(泣)そう、そうなのよ!古代は本当は優しい奴なんだ。流石です分かっていらっしゃる、やっぱりアンタにしか任せられないよ!こういうアホなオッサン達が支えておりますから、どうか納得のいく新作ヤマトを作って欲しいと重ねて庵野さんにはお願いしたいのでありました。では。

『孤独のグルメ』と『セキュリティ・チェック』

https://konyamokanpai.exblog.jp/33496135/
2025-01-24 01:00:00 - 夫の誕生日の1月9日は予定が入っていたので、翌日の10日、映画&うな重で誕生祝いをしたことは以前書いた。そのときの映画『劇映画 孤独のグルメ』については後回しになっていた。あれから二週間の間に様々なイベントがあり、映画の印象はだいぶ薄れてしまったが、気楽に楽しめる映画だったことは間違いない。ときどきTVでも観ている『孤独のグルメ』だが、それは西洋雑貨の輸入販売業を営む井之頭五郎が、たいていは首都圏各所に仕事で出向き、お腹がすくと行き当たりばったりでお店を選び、通常では考えられないほどの皿数をおいしそうに食べるという単純な筋書きのシリーズだ。なぜこんな何でもないグルメドキュメンタリーが人気かと言うと、それぞれの店にはちょっとしたドラマがあり、いかにもおいしそうな料理が出てきて、それを主演の松重豊がほんとにおいしそうに食べるわけで、ロケで登場する飲食店を実際に訪れる視聴者も多くいるらしい。夫と私もわさび丼食べたさに、伊豆を旅行したときに井之頭五郎が訪問したお店を探したことがある。結局、滞在した場所から少し遠かったので違うお店でわさび丼を口にしたのだったが。。。さて、劇場版では井之頭五郎がパリに飛ぶ。全編パリで展開するかと思いきや、長崎、韓国、東京と場所を変え、究極のスープを求めて移動するロードムービーのような映画になっていた。でも、「食」をテーマに五郎がワシワシ食べる基本姿勢は変わらず、客を退屈させないストーリー展開にもなっていて面白かった。一昨日は美容師さんに勧められたNetflix配信の映画、『セキュリティ・チェック』を観た。国際空港の運輸保安局員として働く冴えない男性が、謎の男に脅迫されてセキュリテイ・チェックを見逃すよう求められ、航空機のテロ事件に加担させられそうになったところを、持ち前の運動能力と恋人を守る使命感とで、事件を未然に防ごうとするサスペンス映画。私は自分の部屋のPCで夜中に鑑賞していたが、手に汗握るアクションシーンが多く、半分観たら寝るつもりが、ついつい通しで観てしまって、気がついたら朝の3時だったというくらい引き込まれた。Netflix契約をしている方には、ぜひ観てほしい映画だ。

客観的帰結

https://practicus.exblog.jp/17511156/
2025-01-20 01:00:00 - システム_ 準拠構成が冒す規定破綻 _ 現代の和声学は、大作曲家の名前を明記したうえで作曲技法研究につての可能性を語り始めている。西洋古典音楽はいかにも多様性がなく、禁則的・限定的であるかのように考えられていた。だが、歴史的存在における「恣意的な技法の開放性は、それ自身のなかから普遍的な諸技法を生み出すのであって、それは有意味な必然性によって支えられるのである。ここにおいてこの必然的な技法を証明するのがシステム論の目的」なのである。大作曲家の多くはこの箇所でシステム論を実在的な技法論に対比している。技法論が「音楽が指し示す」歴史的存在という環境世界のなかに整然たる法則性が機能していることを証明したのと同じように、システム論は人間の創造性が活動する環境世界の圏内に現実的で自由奔放な法則が働いていることを証明したのである。 西洋音楽史における人間的実現行為の構造は、「和声 理論と実習」を前提とする限り、当面する土着的閉鎖的な状況_「技法なき技法論」と私たちが呼んでいる状況を踏襲せざるをえない発想に立って、「和声学基礎論」に先例主義的な概念規定を与えようとする試みであった。基礎論から課程が進むに従って、歯止めをかける必要があるという指導者自らの自己否定が、ますます露わになっていく「洗足オンラインスクール_和声学」の先例主義的な概念規定に準拠したこのアプリ作成者の判断は、インターネット上に投稿されたいわば事実と実在の区別もない言説、作曲活動に不利な幻覚をもつ人間は消滅していくだけの無意味なイメージにも示されている。それによれば、現代においても、アプリ作成者はウェブ上での自らの行為が実在の開示拒否批判の立場にあったことを誇りをもって振り返ることができなかったのであり、作成者の論理は決して無根拠規定の概念化を再構築したものではなく、旧態規則論と準拠宿命論の相互類似的関連という観点から和声学基礎論の累積障害を引き起こすものであったことは否定できない。それは、ある面では本源的実証とは質を異にする実証論和声学の伝統を定義不整合に探り、学習者には事実存在に基づいた正しい判断が難しくなる_アプリ作成者同士でおこなった恐ろしいすり替え作業を繰り返し、自己言及的判断の根拠づけという点で擬似和声にまで潜り込み隠れる。他方でそれは、その応用編をたどって規定遵守部分から規則論的概念の観点を引き出してくる。ここで実技実践プログラムそして和声カリキュラムがゆきつくのは、人間の自由と自由の歴史生を保証する存在概念という「実在性」を和声学的考察の対象外に排除し、それに代わって現存在開示拒否の立場をつくりあげるというものであった。 実に、多くのものを破壊した。極端なテクスチュア、逆さまの採点評価、滑稽ともいえる匿名化と認定証、アプリ作成者が歴史的実在に関して何か検証していたという証拠はどこにもない禁則規定 _「和声 理論と実習 ⅠⅡⅢ _島岡 譲」が自己言及のレヴェルに合わせて規定した無機質的全体性を、伊藤康英は個人的部分的な解釈領域というより包括的な場に複製したのである。実在の検証拒否行為はこの意味において、 和声 理論と実習的無機質説の現代版なのである。 あるいは虚しくもその再複製された新版である。ネットで採点_和声学課題集でも、定義放棄あるいは技法否定という概念規定が示しているように「和声の祭典」を構成する無機質的概念を暴走させていたのである。この倒錯的規定が歴史的な環境世界における伝統技法に直面して崩壊したのは当然だといってよい。いまや無機質的全体性は、かつての正統性を剥奪されて批判の対象となっている。 だが、検証行爲を否定し続けるならば、 島岡 譲の提出した模擬和声像を批判的観点に立って再構成することは不可能であろう。現代人が分析したように、たとえば、洗足学園音楽大学_祝賀式演目「威風堂々_エルガー」によって描きだされた和声の姿は、ネットで採点_和声学課題集の作成者_伊藤康英のそれと相反する面をもっていたのである。準拠構成 実在排除 音楽教育そして音楽大学における「和声学基礎論」を担当している指導者が、学習環境の理論的矛盾を認識したとき、そこでは、事態の悪化や矛盾を食いとめるためには、決して「安価なウェブアプリ」などを参考にしないという「理性的判断」である。無根根拠規定の矛盾拡大の累積障害を自らの大学教育にも生じさせている_「洗足学園音楽大学_和声学」のウェブアプリは、実在と連動することができない壁にぶつかって立ち往生している。この大きな失敗は、アプリ作成者がインターネット上で自らも認めているように、学習者の環境を省みない非合理的な実習がおこなわれるウェブアプリのもとで、これまでの教材アプリが依存してきた規則主義的テキスト「和声 理論と実習」島岡 譲_の限界を物語っている。 この事実は、洗足学園音楽大学_和声学において、 テキストの作成目的が受験的和声対策のためであったということを、また、歴史的な実在論証なしには一般的な価値コンセンサスに達することができなくなったという点を、アプリ作成者と和声学担当スタッフが明らかにした。皮肉にも、音楽大学の教育的な「実技実践プログラム」はその理論的成長能力を失ったのであるが、そのことは、ウエブアプリが歴史的環境世界に働きかけて専門性を提示するという「和声カリキュラム_作曲技法研究」にも限界が現れていたことを示している。 アプリ・プログラムおける準拠構成や実在排除が危険なのは、まさにこのような基礎的基盤をもたない点 にある。 単なる精神主義(ジェネシス・ジェネティクス)や検証の拒絶症(ネガティヴィズム)は和声学の 命題を危機(なにもしないことを原則とする)状況に追い込んでしまった。 さらに、オンライン基礎課程におけるストレス、環境劣化「連続8度の禁則」が分裂的化石化の原因を増殖している。「分裂的化石化は、アプリ制作の失策によって課せられた学習者の沈黙を表現している」のである。準拠的中心カリキュラムにおける実在検証のはなはだしい拒絶と、それとは対照的な演奏楽曲における聴感覚との矛盾は、全コース的規模での特定対象の変更をひきおこし、その理論的障害に直面している。「和声的事象がますます非分析的概念規定を遵守するようになっている学修環境において、「理論」(概念規定)は検証・分析・定義を免れたもののようにみえる」。 かつて和声の書法的規範の維持と伝達において中核的な意味を担ってきたのは、音楽作品であった。音楽作品における連動という自然な関係は、同時に歴史的和声的アイデンティティの継承・維持・伝達を保証するもっとも確実な拠り所であった。そのことは、歴史的な古典派音楽においてだけでなく、現代和声学においても同様である。しかし、洗足学園音楽大学オンラインスクール和声学、という特殊なグループ・ウエアでは、歴史性と伝統性に備わっていたあらゆる価値体系的「書法規範(連続8度・連続5度技法)」が排除された。歴史的存在と和声の変遷は、自然の事象ではなく、禁則的な意味をもった選択の問題へと転化したのである。モーツァルトの和声法には、この理不尽きわまるアプリ作成者_伊藤康英の排除行為つまり暴力的な指標状況が「技法的ポテンシャル」を自覚させる要因となる、という含蓄=書法規範が強調されている。一方における確実性・安定性・実在性と、他方における選択という音楽的行為とが、相互に切り離しがたい規範的関係にあるということ、それが和声の世界における連続8度技法の本質なのである。モーツァルトは示す。作曲技法は「アプリオリによって支配されず、それゆえにいっそう豊かな音体験_概念的規定とその選択という活動_が問われているプロセスにおいて、人間的実現行為を指導できるものである必要がある」。和声の概念 こうしてみてくると、過去においてホルストがバッハ・ヘンデル・ハイドンに代表される_連続5度に対しての禁則規定を一種の虚偽説明とみなしたのも、まったく的外れだとは言えなくなってくる。「連続5度・連続8度の禁則」を非教育的な学習環境だとみなす警告は、R.ヴォーン・ウィリアムズやパーシケッティの論説にも見い出される。パーシケッティによれば、歴史的概念規定は技法と異なってみえようとも、古典音楽価値体系の秩序とまったく異質なのではない。20 世紀の和声法もまた、洗練された歴史的環境世界の検証に基づいた概念規定に属するのである。 グローバル・スタンダードからかけ離れた理論的障害をかかえる音楽作品解釈においては、検証拒否行為と定義放棄によって、システム基盤は破壊されている。大作曲家ラフマニノフが欠くことのできないものとしてとして要求しているのは、自己の聴感覚についてまで規則主義者が勝手に侵入して否定排除してしまうことは許されないとするささやかな使命感である。この使命感は、ラフマニノフがそれを無理解と呼んでいることからも分かるように、規則主義者たちが音楽教育の場において因習的禁則規定という無根拠的概念へと陥ってしまう弥縫行為=隷属能力なのではなく、多くの創造者が継承・伝達してきた美的価値体系秩序にかかわる音楽的判断能力である。無機質的全体性による採点評価の強制から距離をおいて、自己の聴感覚において判断する歴史的存在、あるいは環境世界を保持する必要がある。この歴史的存在、価値ある環境世界は、たえそれが出発点において初めて体験するものであるとしても、自己自身による実在認識を生みだす能動的な規範的書法の構想を捉えるための不可欠の条件なのである。 この実在認識について、 ボエティウスは音楽論「音楽教程 (De institutione musica)」の序章でこう述べ ている。「人間のすべての感覚は、自然にあり、生まれつき与えられているものである。感覚をもち合わせて いない人間などは思いつかない。しかし、私たちの思考と行動に従う実際的な感覚機能の本質とは、ほんとう はどういうものであるかということ、また、感覚的に感じていることの「固有の特性」とは何であるかという ことは、事実に沿って専門的な研究や熟慮がなければ、それらは明らかにされないのである」。 さらにボエティウスは、音楽「歴史的実在」の本質性を損うどのような変更も、歴史・民俗・時代・学派としての蓋然性の歪曲あるいは分断的な悪用と同様に、社会的価値規範に対する大きな損失となるのは明らかであり、事実の否定や歪曲は避ける必要があると考えていた。そのような解釈は、生成されつつ私たちの眼前に現れ出た能動的な規範的書法である統一的形態からの、ひとつの帰結なのである。この帰結のなかには、事実から遠ざかるとか、禁則限定といった意味はまったく含まれていない。 和声学の消滅 長きにわたって発し続けられた_恒常的に聴くことは可能であっても理論として認めることはできない_という、このような論理を文字通り信じる人の書評を、そして、この書評は確かな説明であるというAmazonが Web 上に記載した擁護的弁明をきっかけに、私たちは規則論における根源的存在の言及を避けて、本質的構造が崩れる概念定義の内実を、さらには、ある目的(未来)の存在を受け入れを肯定できず、人間に与えられた素質や能力、すなわち人間の可能性が活動する現実性にとけ込めない原則の規定と、古典和声に展開される伝統的存在論の歴史認識を含めて、検証分析によって得られる実在性の存在がつねに問われるその方法論、さらには停滞した理論構成を活性化するポテンシャルについて学習者は、じっくり考えるよい機会を得ることができたとみるのである。 この問題設定から明らかなように、和声システムの理論的再編成は、(システムは、もとより和声学といえるようなものではなかったが)それが掲げる音楽全般という建前にもかかわらず、(定義矛盾の概念に終わった過去の規定を丸写しにするという)功利主義的論理に引き寄せられてゆく誘惑にさらされていた。和声学がすでに自己検証分析的能力を備えているとすれば、またバロック・古典派和声のなかに読みとる技術知すなわち和声学が成立可能であるとするなら、禁止・限定・例外の枠組に頼らなくては西洋古典音楽の属性が再現ができないもの、「システムの理論的構成」はそれについての論証を失っていた。実際、規則主義的和声学は理論構成において、理論的総合の逸脱により未検証という実在開示を拒否する方向へと進んでいった。和声学はそれぞれに規則主義者の主張する固有の前提があり、和声学の理論性はそれぞれが有する自己言及性によって保証されるのだということ、これがこの準拠を正当化する論拠であった。情報化時代を経過した後ともなると、時代は<「和声学の諸規定の危機=無根拠および定義矛盾」という「失敗」を自覚せざるをえない段階へと歩み始めた。「システムの評価基準的危機」は否応なしに理論的総合の逸脱がもたらした「あやまち」を明らかにしたのである。この_理論の逸脱_が、ここに命題として浮上せざるをえなくなる。とはいえ、この理論的逸脱は規則主義的理論体系の準拠を経過した後の動向である。理論家が「人間的実現行為の構造」において自覚したのはこのような常識であった。 和声学基礎論は、環境世界の事実存在を示唆し、人間を解放するものであるが、学習者に対して害を与えないこと、つまり犠牲を強いないことである。和声学的検証状況_You tube_ヘンデル_オラトリオMessaiah “ Hallelujah ” そこでは、旧態的規則論を背負って禁則や限定制約の規定再利用へと向かった「アプリ作成者」が指導者ともいわれているが、和声学基礎論において、音楽の世界における歴史的必然性「連続5度技法」という共通原理や価値規範を排除したまま省みないことから、和声カリキュラムは_「特定対象「西洋古典「クープラン・スカルラッティ・バッハ・ヘンデル音楽」固有の研究領域_における作曲技法を検証分析したものである」こと、さらに、システム作成者は音楽全般についての検証分析と概念定義の研究経験をもつ人物であるのは当然である」ということ、が疑問視されている。 とすれば、洗足学園音楽大学のオーケストラのメンバーは、ヘンデル_オラトリオの共通原理否定や価値規範排除を、和声の祭典やネットで採点_和声学課題集の和声学指導者のおこなう実習のヘンデルの音楽を否定する卑劣な採点評価で経験していた。彼らは和声学の「実技実践プログラム」で、ハレルヤ・コーラスの「開放的な導音技法」の否定排除に対して順応するという以外に、和声学の履修完了の道を見出しえなかったのである。だがこれはそうしたメンバーを前にしてハレルヤ・コーラスの指導しているこの洗足学園音楽大学オーケストラ指揮者も同様に、単に手を組み合わせ「傍観を決め込む無関心」、新たな危機的状況の「逃げ道の無さ」の完了にほかならない。 これに対して、「別の道」もある。たとえば、有能な思索能力を備えもつ指揮者と同じ決意に立つとき、指導者は学習者の有力な批判的要素として積極的な役割りをもつことも可能である。古典音楽の作品解釈に内在する諸矛盾を検証の順路に導き、危機的な学習環境に実在認識をともなう前進を約束することはできる。指揮者は、現代では、古典的価値体系秩序の合理性という観点に立って、大作曲家の創造性に応答可能なコミュニケーターであろうとする。演奏者たちがこのような示唆を規範としたのも、指揮者と同様の実在認識を重要視していたからである。統一的形態指揮者 ヘルベルト・ブロムシュテット ブロムシュテットが今世紀最大の指揮者だということについては、異論はないだろう。1980 年代以来半世紀にわたって多方面におよぼし続けてきたその圧倒的な影響は、フランス・ドイツ和声嫌いの規則主義者たちも認めざるをえないだろう。グローバルな実在主義の指揮活動が、そして価値体系秩序に対するフランスいわゆるリアルな尊重主義が、さらにベートーヴェンやブラームスといった大作曲家に代表される協奏曲および交響曲の構造的和声解釈が、それぞれにブロムシュテットを歴史的存在いわゆる価値ある環境世界に関わる「美学的源泉」とみなしている。音楽大学において、もっとも先例主義的色彩の濃厚な宿命論者のように、ブロムシュテットに厳しい批判を突きつける規則主義者たちも、ベートーヴェンの示した思索能力による和声表出は知的であるという、ブロムシュテットがコンサートホールで示す指揮指導の強い影響下にある。それにしても今世紀最大の、これだけ広範囲な和声的構造解釈および思考能力を、しかも躍動的に表明した指揮者はほかにはいないというのも事実である。指揮者ブロムシュテットがその原理・本質を追い求め表明したように、あらゆる音楽作品の創出的な場には、さまざまな記憶・習慣・創出方法がほどこされている。 ( 15:45 〜 27:20 )L.v.Beethoven / KlavierKonzert n.1 _You tube導音技法 短6度上行(長3度下行)「導音進行」 〜 増1度下行 導音重複 〜 短2度上行 増5度下行(減4度上行)可能性 実践的実在 ブロムシュテットは、「マルタ・アルゲリッチ演奏によるピアノ・コンチェルト_第1番」に「ベートーヴェンの思索における創出基盤」の本質を優美に指揮している。ベートーヴェンにおいては、導音の重複およびその開放的・多元的進行は必然とされた。「ピアノ協奏曲_第1番」_第1楽章で創りあげたこの観点を、ベートーヴェンは第2楽章「Largo」( 15:45 以降 )においは全面的に展開した。そこには、「価値体系秩序の尊厳と伝達はひさしく作品を解釈したという指揮者が自らの責任において積極的に実行できなかった点であり、この歴史的な必然性を聴き手に届けた点に創造的解釈的な意義があると、オーケストラ・メンバーに対して述べたブロムシュテットの指揮指導」という思想が刻まれている。事実、ブロムシュテットの作品解釈と指揮指導はこの問題の解決に広い展望を与えている。ブロムシュテットは、本来的なベートーヴェン音楽におけ和声構造がここにおいて現実化したと自覚しているのであり、自らの作品解釈の正統性を、指揮という現実への実践的な関わりのなかで確認しようするのである。 では、音楽教育機構に内在して和声学基礎論を位置づけ、さらに音楽教育におけるそのバロック和声を語るとすれば、どのような実検証が浮かび上がってくるのであろうか。和声学基礎論は、バッハ、ヘンデル、ベートーヴェンの音楽表出法を排除したりするものではなく、あくまでも美的価値体系の再現のひとつの条件として必然化されるのであり、その立場から学習力内容の社会的保証に値いするものである。だが、検証拒絶のシステム」にとって、もっとも問題となるのは、実技実践プログラムにはそもそもそれを可能とする実技実践プログラム体制_すなわち、規則主義者の卑劣というしかないようなメディア濫用の匿名化行為によって規定される領域的限界があるということ、このことが充分に指摘批判されていないことである。いったいどこまで和声システムを拡張すれば、つまり、どこまで実在の検証を遂行すれば、学ぶ本質_音楽全般を幅広く学ぶこと、それぞれの専門分野を深く掘り下げていくこと_は達成されるのであろうか。規則主義者はこのことに答えを出していない。和声学指導者は、和声システムを以ってその母体である伝統技法の論証という和声学的役割を演じさせようとするのであるが、和声システムを遂行する主体が何であるのかは明らかにされていない。実技実践プログラムを立案し、実施するのは規制に準拠する者であろうが、その準拠者は規則主義を母体としているのであり、それがどのようにして現存在_大作曲家の交響曲に実在する書法を肯定するようなシステムを担うことができるのかについて、妨害・分離(明らかな状態でネット上に現れている)という記事投稿や逃げようとしたために「ダミー使用の画像散布」すなわち「内実をすっかり見せてしまった匿名化行為」にこだわる規則主義者は、規則主義および準拠構成との関係のこうした推移と並行して、それが人間の創造的思索能力に定位して形成されたのだということを論証することができないないのである。和声構造の現実化 従来、「特定対象」は純粋に「実在的な領域」であり、検証や分析や定義もなく、それについて語るのは卑しい行為であると考えられてきた。そのためにシラバス領域が_ゲーム的表示のみで_理論的過程によって説明されることはまったくなかった。レヴェルの低い規則論の模倣によって、学習環境は検証からも切り離され、価値体系の統合一般からも分離される。歴史的存在からも和声学からも区別される領域として技法否定するにいたった和声的実技実践は、いまや、存在主体の人間的志向よってではなく、旧態規則主義者が発する無根拠規定に準拠する宿命論的な論理によってプログラム化されるようになる。和声学担当者は和声システムとしての実技実践も和声学による規定的統合を介して学習環境を保持すると考えていた。しかし、シラバスの技法排除が増大するにつれ、現存在公開拒否がますます容認されるようになり、和声学は価値規範的統合の役割を担うことができなくなる。禁則限定の実習は音楽全般を顧慮することをやめ、歪曲・未検証といった擬似概念的領域から発せられる現存在公開拒否という虚偽問題に専念するようになる。技法公開を拒否し、不整合あるいは規定矛盾といった技法論の連関として引き出される虚偽問題が中心的な位置を占めるようになってしまったのである。「この無根拠規定について、シラバスも実習も、虚偽的規定を引き受けることはできるが、しかし、検証的規定を引き受けることはできない」。ここでは、理論構成にとってその死活を制する技術知の確保が、このような原理本質の実在性において保証することのできない虚偽性全体を指摘する余裕はない。 J.S.BachBrandenburgishe Konzert 1 _ You tube いままで聴いてきたように、J.S.バッハも、過去において明らかに伝統的環境基盤に身を移し、技法論の構造的実在性を前提として彼の独創的な手法を構築しようとしていた。バッハは、技法なき技法論の世界は永遠にやってこないという当然の事実を恐れることなく受け入れることを提唱した。思索する存在であるからこそ、人間は相互に理解し合えるのであり、相互に連帯することができるのである。彼は自らを音楽を愛する人間と規定したのである。バッハによれば、「歴史的必然性_連続5度技法」および「書法習慣_連続8度技法」は蓋然的であり、また、「開放的歴史性_導音技法」の技術知は西洋古典音楽の創出基盤となったものであり、したがって実技実技プログラムも、必然性と習慣そして歴史性を免れない音楽の世界の現存在にとどまり続けることを指標として、旧態型の規則主義ではなく、古典的技法論の形成に参加するなかで絶えず禁則規定や限定制約を撤去したものとなるのである。 更新したウェブアプリにおいても現存在の検証分析によってしか克服されえない問題は多い。それゆえに従来の現存在検証が「技術知排除」によって取って代わることにはならない。というのも、作曲技法研究の発展は止むことがないからであり、和声学の概念規定の整合性がもたらす実在検証開示も止まるところがないからである。ここでは、先例主義的な概念規定がその出発点において言葉や準拠だけで正当化しようとした無根拠と定義矛盾の規定に沿って、和声学指導者がバロックおよび古典派の和声についての理論的構成をどのようにとらえていたかを吟味すること、この点に的を絞って論述することにしよう。和声学の成立条件 原理的証明 和声学としてはどうしても西洋文化・西洋音楽との対話を続けていく必要があることはいうまでもない。これに類した根本問題は普遍原理を求める場合だけでなく、その現実性や有効性を学習しようとする場合にも生じてくる。過去の規則主義者たちは限定規定があまねく存在するものと思い込んでいる。しかし規則主義者が規定したものが常に音楽人によって「和声的な規定」とされているわけではない。しかも、こういった矛盾にさらされた指導者が抱え込むことになる失敗は何も和声の普遍的な原理を求める場合にのみ生じるわけではない。実のとところ、これは「準拠」という「模倣(コピー&ペースト)作業」がつねに冒す失敗なのである。 準拠とは準拠する作業者の視点に立って実行されるものである以上、その意味においてそうした作業は、往々にして限定によって規定された判断にもとづく作業ではあるが、規範とした書の説明にその傍証はどこを探しても見当たらない、というのであれば、どんなことがあっても「検証的な記述(和声学成立の条件と事実の認識)」を放棄せざるを得ないのである。 ところで、理論家が論述する和声学が今までに語ってきた合理的な原理とは次のようなものであった。何らかの事象現象を和声と認めるためには「技法であるもの」と「存在であるもの」を前もって定義する必要がある」。つまりそのような事象現象に先立ってあらかじめ作曲技法とか歴史的存在という概念に対して何らかの検証的な記述を与えていく必要がある。もしその記述のことさえ頭に叩き込んでおけば、ソフト_「ネットで採点 和声学課題集」の概念規定が「実在検証」や「事実分析」によるものではないことも判断できる。そして、作曲コース「和声学指導者 清水明夫」がこのような原理をこの検証的記述問題に対して適用してみるなら、「技法とは何であるか」という問題は、実は歴史的存在という視点から捉え直される必要があることがわかってくる。またその問題を説明する場合、重要となるのが次のような問題であることもわかってくる。つまり、半世紀前の未検証な規則論によってつくられた諸規定を批判的に再検討することも可能になるのである。 (1) 「技法」や「存在」に関する未検証の技法定義は存在するのか。 (2) 「伝統技法」が未検証であるにもかかわらず、そこで判断された内在論を歴史的存在概念と 定義した規定は、技法のもつ統合性と体系性を原理的に証明したものといえるのか。 和声学は、このような総合性と体系性のゆえに、時代とともに新しい。それは、時代の変化が呼び起こす実在検証の革新によって再理論化されるとき、旧態の禁則限定規定においては定義されていなかった様相を現すのである。取るに足らない諸和声学は、擬似和声のあれこれの部分を切り取って、検証の欠落した退屈な虚偽説明を繰り返し、そうした擬似性と虚偽性のなかで自給自足しているのである。その点を紛れもなく示すのが、「洗足オンラインスクール_ネットで採点 和声学課題集の実習評価基準」である。 もし和声学に対象があるとするなら、それはまさに「技法」と「存在」にほかならない。しかし、そもそも指導者には「技法と存在とはどのようなものか( 上述の音楽的な表出 導音進行)」が聴取・感受できているのだろうか。「技法と存在とは何であるか」がほんとうに「検証」できているのだろうか。そして事実分析ができているのだろうか。また「技法と存在」という概念そのものが定義できているのだろうか。理論家が述べているように、この「技法と存在」つまり「和声システム」という研究分野は「西洋古典音楽」における「創出」についての「感受」と「検証」をともなっている。むろん、システムにおけるすべての研究分野が今までに検証を拒絶してきたというわけではいが、しかし今のところ確かであると言うことができる規定破綻がたった一つだけある。それは洗足学園音楽大学が運営する「洗足オンラインスクール_学部・大学院の和声システム」というものは、「創出」と「感受」における和声に関する検証的な記述を頑なに拒んできたという非和声学的な規定破綻である。歪曲の諸規定は、旧態規則論の限られた部分を切りとって、そうした部分体系のなかで自足しているのであり、そのことを学習者は(禁則あるいは規則違反を活かす、などという、アプリ作成者の自己否定的な愚挙が突然ああらわれることで)実在は未検証であったことを後になって知らされるのである。定義不全 アプリ作成者の言説による功利的な技法説明のなかで、技法公開拒否を批判された和声学担当スタッフは現代社会の情報化思想を経過するにおよんで、アプリ作成者に代わって言葉を操り、和声学教程_作曲技法というカリキュラムを自ら指差すようになる。規則主義の思考において「禁じられる・限定される」の言葉を発するアプリ作成者は、禁則を正当化した擬似和声をつくり出したために、排除したはずの事実存在の反逆に出会うのである。実在概念規定の維持は、概念規定構成要素の維持条件が満たされない場合には不可能となる。「規定破綻」とは、不整合・矛盾である無根拠規定によって結局は撤去せざるをえなくなるシステム化が、人間的実質を犠牲にすることによって陥ってしまう「定義不全の悲劇」の物語なのである。 とはいえ、「オンラインスクール_実技実践プログラム」も、それがまさに規則主義の自己意識であったために、旧態規則論とともに再構築される必要がある。未検証の終局とともにプログラムの規定破綻も終局するのである。このプログラムは、学部_和声学基礎課程」においてすでにあらわれているだけでなく、大学院_和声学シラバスの内容をも構成しているのであり、アプリ作成者の性格を強く印象づけものとなっている。だが、このプログラムの妥当性性は大いに疑わしい。それによって、アプリ作成者が陥った非和声学的な規定破綻がすぐにも解決されたのではなく、ましてや、「アプリ作成者的な意味」での学習環境の実態を羅列したところで、批判的認識の場という独自性を失った「和声の祭典_和声学 学修支援システム」の定義矛盾そして実在開示拒否が消滅するわけでもない以上、大幅な更新の後にも相変わらず、開放的な導音進行は永きにわたって生きつづけ、大幅な更新といわれる「プログラム」のなかにあってなお、事実存在の記録を書きつづけるであろう。洗足オンラインスクールにおいては、限定制約に従わない学習者は作曲活動をするにいたっていないのであり、例外的枠組としてのみ扱われる。和声法を駆使して歴史的存在の移り変わりを実践し続ける「大作曲家の音楽制作=開放的な導音技法」は、なぜ技法的基礎基盤ではないのか。特定対象固有の研究領域 新しい音楽制作の構築は、つねに、たくましく、進められている。それにもかかわらず、和声学基礎論における理論と論理は未だこれを推し進めるだけの主体的な力になっていない。現実の事態に対してひたすらに従属することだけを考えているか、革新性もない悪しき準拠をいつまでも正当化するか、さもなければ、理論の課題を著しく禁則化してその土着的な塀のなかに逃げ込んでしまう。そのうえ、「歴史的存在」つまり「フオーレおよびドビュッシーのフランス和声=実在論」と「禁則論」とは、交わることのない平行線のまま放置されている。さて、ここにいたって洗足学園音楽大学_アプリ作成者は「とすれば、どのようにしたらよいのか」と、 このウェブ・サイト「和声とは」に立ち入って何度も尋ねているが、アプリ作成者がおこなうことができるのは、いままでに述べてきた技法と存在をこの問題に適用してみることである。 まず、話を「和声学的な検証状況について」を対象にしよう。理論家は西洋の様々な和声の概念定義に触れ、西洋音楽史における和声概念が対象に応じて「(始原の合理性、と、和声としての存在、をも含む)創出」「感受」「検証」による客観的帰結を包摂する本源的な実証であることがわかっている。その本源的技術動向を理論的に踏まえながら、グルイープウェアをめぐる大きな文化的・教育的基礎論を把握し、その本質を実証すること_これが和声学の指標といえる。その命題は実在認識である。しかし、分裂的化石となったグループウェアと実在がそう簡単につながるはずはない。実在情報を単純に禁則化するなど、実在を破壊的規定のもとに封じこめてしまった。また一方では、歴史的存在を否定し、暴力的指標を学修支援を目的とする和声システムのなかで空転させ、実在認識を衰退させてしまったのである。 和声学とは、事実存在を(時代や作曲家によって異なる技法と存在)を結びつけシステム化する技術ということができよう。ここでは、和声学はその音楽制作のための創出条件「技法(技術)」や構成要素「存在(音組織と音素材)」によって定義され体系化されている。また、別の定義によれば「和声の技法研究は実在認識によるものであり、検証的な真偽は実在検証に任されている。ここでは創出条件による定義は聴取・検証を必要とするものであるといえよう。つまり、技法は何よりもまず人間の感覚によって聴きとられることが必要なのである。さらにまた、別の定義によれば、技法は音楽文化論の一分野である伝統的な音楽的習慣とほぼ変わらないようなものになる。となれば、そうした研究は特定対象固有の研究領域と矛盾するものではない。 和声の定義に用いられる技法の数や種類は無数に存在する。理論家によれば、和声とは文化や時代ごとに様々な方法でもって定義された技法的事実全体である。つまり、作曲者の思索から演奏家および聴衆にいたる音楽的事実全体のもつ各特性が和声として確認できるような技法的事実全体なのである。要するに、一時代の和声においてすら技法の概念は一様なものではない。むしろ現代人である学習者たちはそういった事実全体にこのような技法のあり方を認めることだろう。それはともかく、諸々の歴史的な経緯によって現代では誰もが何のリスクもなくドイツ和声すべての技法を学べるようになったという事実だけは強調しておく必要がある。私たちは、前にもふれたように、事実群から理論を組み立てている。もし禁則限定的規定を古典和声の技法を否定してしまう要塞の閉じられた世界であるとするなら、理論というものはそういった否定的・閉鎖的な歪曲とは無縁なかたちで機能するものであることになってしまう。しかし、理論は実証的な定義であると同時に外的な事物への往来が可能な通路であり、事実認識への誘導であると同時に外的な事物への肯定的な呼びかけをしているものである。つまり、理論は、きまりごとから出発するのではなく、聴感覚上の認識とその脈絡のなかではたらく思考「事実認識と概念定義」全体から出発するのであり、また、それによって得られるのがいわゆる理論であるとすれば、理論は実在的なものであり、けして客観性を備えていない禁則限定的な規定ではないのである。解体と撤去 「理論」は実在する。つまり「西洋バロック・古典派の和声が、大作曲家の思索によって現実化されるそれ以前にすでに何であったかを知らせるものである」。それはまた「本質」とも言い換えられる。しかしこれも、通常言われているような特定対象を検証したりはせず、ただそのある部分を抽出し、それに付帯する性質について説明する言葉だけの限定禁則という意味ではなく、生成された古典和声がそこに由来する歴史・継承・根源という意味での「本質」なのだと、理論家は主張する。さらに「理論」は、「古典派和声の生成が成立したとき、それがどのようなものである必要があったのか、どれだけの現象内容を包含している必要があったのか、その構造のなかに立ちあらわれている現象の内容の総体がその存在の「概念定義=構造の基礎づけとなることは明らかである」と、理論家は説くのである。歴史的存在論が証明した実在と本質の概念はそれぞれに本来的な実証を伴う理論に由来し、その理論においては西洋古典和声の「実在概念」とは、「生成され終わって、それ自体で自立して存在し、いつでも使用されうる検証プロジェクトとして眼前に現前しているもの」にほかならない。 このようにして理論家は、古典和声の歴史的存在論の了解地平として働いているのが、それは「人間の思惟による存在」だということを論証してみせるのである。そうした研究は、音楽理論の様々な分野に存在する。概念論においては、実在の有効性とが正当化されるのは基本的な検証によって実証されることによってである。では、研究の思索した概念の形成とはどのようなものであろうか。プロジェクトはこの「概念形成の実用化(practical application)」が十分にできるように定義して、とくに「現実性と可能性を認識するための過程」つまり「歴史的存在との連動 (inter locking)」はこの上なく重要で、 現代の和声論やその理論構成(theorization)についての論議もそれを基礎にしていた。 和声学は和声の事実存在が限定禁則によって消失するような規定を区別することにより、実体概念の事実存在の定義を目指すものである。ところで、このような実体の消失は閉鎖的な音楽の環境においてのみ意義を有し、その密室的な環境から外へ出たとき、つねに和声学的困難に陥る。もし、この存在それ自体が、思索(聴取)可能であるとしても、制作(演習)不可能であるとすれば、それは存在の「客観的実在性」の否定に向かわざるをえない。事実、限定禁則規定による実体概念と不整合な教材アプリでは「和声学」いわゆる「理論」、そして、「歴史的存在」つまり「実在」を喪失する傾向が著しい。 本来「和声」とは、歴史を中心とした「音楽文化」のなかでの伝達手段のことである。音楽文化に参加する人々は、先人たちが遺した音楽をかたちづくる歴史的存在「調和した響き」を受け継ぎながら、先人たちのつくりあげた音楽文化を模倣して伝承者となり一体化する。このための伝達手段が「和声」なのだ。和声は伝統技法や事実存在との交渉でもある。学習者は、「歴史的・実践的実在」と交わることによってはじめて和声学というものを理解することができる。実在を意味する伝統技法や事実存在には思索され制作されたという言葉が含まれている。つまり「現実性」および「可能性」を成り立たせるのは何らかの「思索や制作」だと考えられているのである。もっとも、ここではこの思索・制作は人間の創造の思索・制作である。すなわち、人間によって創造されたものだけが現実に有効に存在するとみなされるのである。 創造的な伝統技法も歴史的な事実存在も広い意味での思索や制作である。それゆえ、和声学において「和声」が思索され制作された実在と解されていることが、ここからも確かめられる。理論家が和声と呼ぶものは、技法と存在からなる実在であるとともに、その実在の概念的特性である。したがって、和声は技法であって同時に存在であり、実在を離れて存在するということはない。 古典音楽「ドイツ・フランスの和声」また「バロック・古典派の和声」を通してその世界が奏でるあらゆる響きを聴けば、和声学指導者たちの聴感覚も選択を迫られることになり、失われた構造も回復することになるだろう。当然のように「実在」は伝統技法や事実存在だから誤解などあるはずもなく、学習者の素朴な疑問「命題・意味・目的」に正確に答えてくれる。これによって「和声とは」の定義は限定禁則規定につきるのではなく、技法と存在(実体)についての創出過程・感受過程・事実分析(内容)の一致において成立するのである。これが和声の本質である。 ひとりの作曲家の活動史とその思考との間に、どれほどの必然的な連関があるのだろうか。たとえばJ.S.バッハのように、オルガン演奏、教会カンタータ、その様式の大転換という時代に身を置いて、宮廷音楽から教会音楽へ傾倒しながらそれに束縛されない世俗と教会を超えた宗教性をもっていた作曲家が、人間心理の深い洞察と次世代の古典派和声に通じる技法をふくむあのような作品を遺したということであれば、たしかに理解できる。しかしそうした活動から、どうしてあれほど壮大な射程をもった未来への歴史的想像力が生まれえたのか。 そこに現われる音楽は、躍動する歴史的想像力の豊かさを強調し、そのようにして想像の生き生きとした力に気づかせる。和声法の煌めきと輝きは聴いたところただ歴史の恩恵のように聴こえるこが、むしろそれが今までに経験したことがない和音の響きや事象現象の多様を現出させる。それが確固としてそびえ立つことによって、感性の満ちあふれた、いままで聴こえていなかった空間が聴こえるようになり、この音楽の揺るぎなさが均一という無秩序な状態から際立ち、この音楽に存在する人間的実現行為を背景に、思惟や存在となって現われる和声一般のもつ動的な実践構造が響きわたるのである。 科学者ジェイコブ・ブロノウスキーが、いみじくもこう述べている。「生物学的に、人間は変化発展するこ とができ、感受性が高く、変異しやすく、いろいろな環境に順応して、静的ではない」と。 科学の研究に哲学的必要性を強調している彼の言葉を借りるなら、古来より人々が知る古典音楽の和声の世界は、合理的な人間の思惟・選択の方が、単一的な反射作用よりも優れたものであることを示そうとする動的な実験場である。言うまでもなく、私たちがそうした和声の世界の事象にアプローチできるのは、当の事象を理論的な形で、和声由来の根元的構造を解明することで高度な解析を可能にする事実に基づく概念定義とその過程があるからである。理論の世界は検証と分析資料がすべて。証明するものはそれしかない。たとえ概念規定において意図的な操作の必要があったとしても、芸術作品にある存在論的機能についての歴史的文献および分析資」そのものはまったく異質なものとか、規則禁則の規定内容と対立するものであると考えるということは、機能和声理論における声部書法の原則証明の過程で、信用できる論理的原理は何もなくなる。 ところで、「メディア Amazon」が掲載する和声理論書の書評において、解説者は、「和声 理論と実習」: 島岡 譲(執筆責任)、丸田昭三、佐藤真(執筆補佐)、池内 友次郎、長谷川良夫、石桁真礼生、松本民之助、柏木俊夫、小林秀雄、三好晃、末吉保雄:本」の説明で古典和声学について次のように言及した。 「和声の正しいつけ方、そして、和声全般について勉強していくとき、まず頭に浮かぶものに古典和声学とい うのは、古典的な意味での正しい和声のあり方がひとつのルールとして完成されたものだ」。 この解説者の頭に浮かぶ古典和声学が、「認識の対象」、たとえばバロック_J.S.バッハの和声をその伝統を踏まえて検証したものなのか、また古典派_モーツァルト/ベートーヴェン、ロマン派_ショパン/シューマン/ブラームスの歴史的な調和声を分析したものなのか、という和声に関する言説がもつ理論体系の基盤となる基本原理_ドイツ和声(シュッツ・フローベルガー)・フランス和声(クープラン・ラモー)への連動_の問題をかかえたままであり、理論組み立ての基礎になったものが何であるかに対して論理の成り立つ答えに窮している。つまり、答えることができたとしても、その言説は誇張され、事実とルールとの間には、対象それ自体が「美しい音楽」であっても「例外」「禁則」「限定」とする_実在への自然な認識がそこなわれてしまう_感情的、固定観念的な言説が行く手に横たわるため、不明な点が少なくない。創出特性聴覚的統合・表出力拡充 「モーツァルト音楽における連続8度」および「ベートーヴェン音楽における連続8度の意味するもの」の和声法こそは、現代における和声学カリキュラムの成立条件を代表するものである。この実在定義を遂行する和声学指導者の認識の課題は、古典派音楽の事実存在(音楽作品)をモデルとした場合、低レヴェルな摸倣論はいかにそれから逸脱しているかを検証すること、ここに集約される。このような禁則が論証もなく設定されてしまった結果として、重要なことは、古典派音楽そのものこそ、半世紀前には深刻な危機に直面していたということが見落とされてしまう。このようにして、アプリ作成者が「理論構成の旧態論準拠」という束縛を背負って評価基準設定を開始したという事実は、理論の説明からは消え去ってしまう。また、洗足オンラインスクールがこの累積障害を経過するなかで、実在定義から定義放棄へと変身した、という視角も脱落してしまう。さらに重要なことは、たとえ規則主義者的な指向の規定順守を背負ったとしても、和声学担当スタッフもまた、アプリ濫用の採点評価を経過することによって和声学基礎論における根本的な検証を拒絶しつづけ、そのことによって定義放棄がふたたび繰り返されたという事実は見過ごされてしまう。 このようにしてアプリ作成者は「固定観念や束縛から脱皮して音楽的にモーツァルトもベートーヴェンも実践しているのだという認識は、西洋古典音楽に対する無知を表している者」といってその判断を基準化している。学修におけるこの評価基準は、どう考えても先の古典派音楽における ” 連続5度・連続8度の意味するもの " 」の事実と食い違っている。というのも先人達と同じように、モーツァルトは、それが技法となり、音楽作品となるの、「原理・本質」であって、さらにその作品を再現再生する演奏者それなりの、「聴覚的統合」を備えていたということ、しかも自分自身の「表出力拡充」という目的のためにはそれを利用することが和声法の学修とみる理解に到達していた。( 15:38 以降 ) W.A.Mozart Maggiore _ Sonate für Klavier K.310_You tube それにしても、古典的な意味での「正しい和声のあり方」という言葉はどういう場面にあらわれるのだろうか。これは実体概念を論じていくなかで、存在論的証明の誤りや不整合・矛盾を論駁するためにあえてもち出され、凡庸な「完成されたもの」という意味合いで使われているが誤解を招きやすい言葉である。そうした実情に即していないような例はいくらでもあげられる。古典和声の伝統性や感覚などとはまったく無縁に、人間の思惟による存在、つまりその事象現象は公理という共鳴原理や素材となる和音学から成り立っていて、それこそが「科学的な捉え方である」と信じて、いくつかのパーソナリティを演じている手合いは実に多い。だが、大作曲家の音楽活動が、伝統的な様式との全面的な関わりがある以上、禁則によって閉じられた無根拠規定を形成する学習環境が、この古典派和声との間にいかにして肯定的コミュニケーション築くことができるかという論理認識は、根源的なものである。「禁則を冒してはいけない」という実在を逸脱する過程は、和声システムが価値体系のかけがえのない環境世界である歴史的存在の必然的な伝統的様式を失う過程である。モーツァルトの和声法_連続8度連続5度は、音楽的な対象ではなくなり、単に例外枠組に投げ込まれてしまう対象に転化する。ウェブ・アプリの成立である。モーツァルト音楽の示唆を外に理論的であるかのように考えている「連続8度・連続5度の禁則」という言説は、和声カリキュラムが旧態の前提破綻に陥った概念規定であることをあからさまに物語っている。したがって学習者は、この動的で構成的な特性を見逃している考え方、すなわち、実在和声の検証分析が放置されその精度が保証されない洗足学園音楽大学_オンラインスクール和声学の、退屈な無根拠規定と関わり禁則規定にひたすら追従するだけのプログラムと、理論の命題を著しく歪曲してその虚偽説明のなかに身を隠してしまう機械的な逆対応に惑わされ、単なる学習者が歴史的な存在を論議することは許されないという大きな犠牲を負わされていたのである。 閉じられた学修支援システム 洗足オンラインスクール・オブ・ミュージック 理論研究者、演奏家や指揮者は、歴史的大作曲家がその技法論的世界において実現していた「価値あるアイデンティティと論理的コミュニケーション」の統合を、開放性と合理性という伝統的書法とともに設定された和声法のもとで、和声学によって再建する必要があると考えた。これが学習者の古典和声学論の要点である。洗足学園音楽大学の和声学は、古典派和声いわゆるモーツァルトの和声法をベースにしているというが、しかし、その主張をし続けるこはできない。というのも、バロック・古典派和声のシステム化にほかならない洗足オンラインスクール和声学の学習プロセスは、にもかかわらず、古典和声学を否定し、問題を規則主義者の世俗の行為である無根拠規定の領域にすり替えたという意味で、根本的な反実在性に零落していたからである。検証的和声学においてはあくまでも土着的な無根拠の領域に属するものであった非検証的な閉鎖性すなわち定義放棄が失態であったと自覚していても、洗足オンラインスクール_アプリ作成者はそれをウェブ・アプリとネットで採点_和声学課題集の採点評価という認定的基準の内部に持ち込んできた。 さて、禁則厳守が基本という和声学基礎論は、和声の世界を構成する属性と実在性を終始拒否する虚像をもたらす。禁則限定は合理的だからよい、の居直りはもはや今日通用しない。その課程には本質的な実在性に対して和声感覚を向上させるような思考は存在しないと言われている。この考え方のなかに、すでに私たちのすぐ近くに存在する実在という人間に与えられている、かつて与えられたことのある、そして、与えられうる環境構造に対して、本来的な検証分析のために必要とされる理論体系の根本問題が凝縮されている。 これが私たちの投じた問いなのである。この「問い」とは、実証的研究によれば、和声の世界の伝統性と感覚にとって矛盾した仮説的演繹法とルールという限定制約を解体し、それによってふさがれていた実在への通路を復元することである。ソフトウエアによっていかにリアリティを織り上げるかを考えるとき、和声学には、実在や伝統技法に対する理解など、広範な概念と定義に準拠するプログラムが求められるが、研究者不在でそのレヴェルアップができない現実がある。現に、そこには実在性への直接的な誘導と事実認識向上に必要なひと通りのソースプログラムが存在しない。これは、これまで執着してきた「限定イズム」が早々に消滅していくことを意味している。導音進行の迫力:フランス和声 学習者がさまざまな「音楽イヴェント」に関わっていくとき、過去の古い限定制約の姿は消え、近未来的な「ネットワーク」が出現するだろう。理論体系は事実存在とかぎりなく交わってくる。歴史的存在概念を_自由は人々から嫌悪されると言い_例外枠組におとしめ、単なる無機的限定イズムによって規定してしまうシステムと、それによって論じらされる観念論は、西洋バロック・古典派和声のシステムにかなうはずはないのだから、「洗足学園音楽大学_和声学カリキュラム」は学習者の変動する需要にすばやく応え、さらにそれを望ましい方向へ誘導していく「チャンネル」が必要になるのだ。 歴史的な実在に展開する和声システムは柔軟で力強い。これはなかなかラディカルなシステムである。しかし、よく知られているように、日本のメデイァ「Amazonn 」が掲載した離散的な規則論はこの「問い」に答えられる「西洋和声一般についての機能的価値体系」および「機能的価値体系を利用するための技術や情報要素」、すなわち、実在的な和声システムが機能するために必要なソフトウエアとしての内容をもっていないということである。 問題なのは、「和声 理論と実習」の理論と論理が実証主義のもつ「事実存在の基本的概念(現実性と可能性)」を十分に引き受けていないということである、換言すれば、規則主義的思考は、前提的概念と検証による「実証的理論構成」との関係ということが明確にされることにより、その実質的内実つまり現存在=伝統技法を歪曲し見失ってしまう、ということである。この損失に対処するためには、和声学指導者は「作曲技法」と「作曲理論」の研究には欠くことができない検証・分析・定義(アクセス)が引き受ける事実存在についての概念を明確に論証し、それを受け容れ、課題作成(セッション)をおこなうことが必要である。歴史的存在 教室でOHPを何気なく眺めているところへ突然 J.S. バッハの協奏曲がきこえてきたところで、大した興味が湧いてくるものではない。幼い頃から弾き始め、レッスンの厳しさに耐え、いくつものクラシック音楽のさまざまな和声法に馴染みながら何年もの経験を積み重ねたのちに、ようやく多種多様な導音進行の響きが理解出来るようになったとき、はじめて、忘れがたい感動が湧きあがってくるのである。あらゆる西洋クラシック音楽の良質な環境、深みのある和声空間には、いくつもの技法・書法がほどこされている。交響曲ばかりではない。短いコラールが広大な音楽的空間となるのは、響きをめでながら音を一つひとつ経験していく時間的プロセスのおかげである。終止和声の手触りや連続5度・連続8度の輝きを通じて、いろいろな記憶が活性化され、連想がはたらき、だんだんと和声法の密度が高まっていくのである。_こうして和声の事実が明らかになる。 演奏にせよ、創作にせよ、鑑賞にせよ、私たちがその時そのときの場で感動し、自分の思索から和声空間を感じとれるためには不可欠な条件があるということである。その条件とは、「過去から現在までうつり変わってきた記録=歴史」であり「古くから語り伝えられている話=物語」である。さらにいえば、そういう歴史を支える文化や社会や環境、つまりは「ある民族・社会において代々受け継がれている有形・無形の様式=伝統技法」という事実存在である。和声学に関してもっとも歪曲されているのはこの辺りなのだ。あからさまな事実をありえないものとするのも問題であるが、文化社会に現存している優美な思考と可能性の選択を放棄するような概念枠組、検証や概念定義の根底にひそむ排他性、さらには相対的な機能のうち他方のために一方を誤りとしてしまうソースプログラム。 これらは、例をあげれば、「ウェブ・アプリ_和声学」においては_ 歴史的・実践的な存在をもとにしていつでも使用可能な状態で眼の前にあるという現前性、および、人間の思考と活動の意味に向けられる西洋古典音楽の構造と構成要素のあり方を根底からくつがえすような否定となる。それは当然である。というのも、構造概念の領域を構成要素の秩序立てを歪曲した内在論の範囲内に凍結し、そこから「外へ向け出て行こうはとしない」からである。だからこそこの実技実践プログラムは、限局的擬似的存在にすぎないものから出発して事象現象の存在を捉えることはできないということになる。また、そこには洗練された和声としての存在の「理論的意味解釈」と「論理的説明」は立ち現れないということにもなる。 たしかに、こういった「ネットワーク機能不全」に陥った「システムリスク」は、いかにも俗説的な性格をもつために一般的な音楽人のあいだでは信用されていない。もっとも問題の真の所在は、「連続5度」は「禁止される」という基礎論課程におけるルール説明での極端な和声のあり方が、伝統的な和声理論のいかなる概念定義にも当てはまらないという点である。ここで「学習者が観念的内在論(システム)のもつ性格(潜在的な危険性)にけして気づいていないわけではない」ことを指摘しておくのも、あながち無駄なことではなかろう。学習者は「和声の祭典_和声学 学修支援システム」における内在論の説明が、存在の由来を明らかに示すためというよりはむしろものごとの本質を曖昧にするためになされる「こじつけの議論」と感じていたのである。 歴史性・伝統性および人間性・開放性として、「連続5度の音楽制作」は和声史の究極の基礎であり基盤的な要因でもある。和声の歴史的過程が旺盛な創出と展開とによる連続5度技法の現実化を含むのはそのためである。 16 世紀から 17 世紀の(声楽・器楽)作曲活動において、ツァルリーノ、 G.ガブリエリやモンテヴェルディは決然として連続5度技法の音楽的必然性を主張する。西洋古典音楽の和声には次の人間的実現行為が聴きとれる。「連続5度技法=人間的実現行為の肯定的な「音楽制作」は開放的な人間性すなわち歴史的存在=音楽全般への再帰であり、作曲家それぞれは、音楽制作において、音楽制作に含まれる連続5度制作によってのみ、歴史的存在との関係をはっきりと認識する」。治世の持ち主「学習者」は驚くほどの率直さをもって、思うままに古典音楽の和声から次のような命題を引き出してくる。「日常的に演奏したり聴いて楽しんでいる楽曲の実在和声こそが人間の歴史的な開放性と開放的な歴史性を間違いなく保証してくれる」。 連続5度は歴史的に実在である限り、少なくとも音楽的に実在である限り、真に原理的、本質的な伝統技法「連続5度」の実用化とならんで、忘れてはならないことがもう一つある。リスク コントロール _ 基礎課程 学習者たち現代人が「怪物のように膨れあがった虚像」を追い求める均質的で等方的な傾向「ジャパンシンドローム」、つまり、洗足オンラインスクール_実技実践プログラム「土着性=いつも限定禁則とともにあるという閉鎖性」から解放される必要があるということだ。「これからクラシック理論を説明する、これがルールである」というオンライン講座であるなら、実際に一般的な西洋古典音楽と、学習者が利用する附属図書館の文献資料や楽譜と直接リンクできる規定であることが、教材アプリとして初段階からの必要条件いわゆる国際化と情報化である。 いうまでもない。 偏狭な「ウェブアプリ」にとらわれた土着の「和声觀」をもつ和声学指導者たちの執着と思い入れはおそろしく強い。「禁則を犯すことになるのでそれは減点」という、詭弁を用いて功利的な使い分けをする「劣悪な評価基準」さえなければ、無根拠・定義矛盾の後始末で専門コース指導者はもちろん、これほど多くの独習者たちが苦労することもなかったのである。 しかし古典音楽を愛好する音楽人たちは、一日本人規則主義者が音楽史の歴史的存在概念を自己判断したあの強引な循環定義と撞着規定、音楽を経験した人々のごく一般的な聴感覚を_和声のあり方が分かっていない、と決めつけて卑下するような禁則規定を受け入れてはいない。「洗足オンラインスクール和声学教程」そして「ネットで採点_和声学課題集」に組み込まれた「連続5度技法の禁則規定」と「バッハの音楽」のどちらを信じると尋ねられたら、まず経験を積んだ音楽大学在籍の作曲家、また音楽学者もまちがいなくバッハの音楽を選ぶだろう。もちろんそれと同じようにピアノ演奏家たちは、和声学指導者が学習者を前にして主張している「連続8度は禁則という和声」と「ショパンのノクターン」の和声のどちらが正しいかと問われたなら、明らかにノクターンの和声の方が正しいと答えるだろう。 F.Chopin Nocturne op.48 _You tube ところで、「ノクターン_ op.48」は、ドイツ・ロマン派を代表する作曲家シューマンに出会った後の、円熟期の作品にみられる和声法で、伝統技法に大きな役目を与えてピアノ音楽を創出しようとした典型的な例である。歴史家がショパンの人間性の研究で述べているように、作曲活動を重ねるに従って、ショパンの「実在認識は相対化されていった」のであるが、この事実は「高いレヴェルでの書法習慣や共通感覚を伝えようとする関心」が強くなり、それにつれ、部分部分で「伝統技法」にはますます注意深くなっていったことを示している。この「ノクターン」は小規模であるものの、曲の長さ、曲想の変化の程度にかかわらず、ショパンのピアノ作品すべてに聴かれる特徴をもっともよく表している。大規模な技法の創出および人間の聴感覚を結合させることのできた作曲家の素質や能力をはっきり示している。ピアノ演奏家が、多くの古典作品の規則論的な_技法定義_では、連続8度の説明が曖昧あるいは傲慢であると考えたのは技法論が古典音楽が支配する世界から逸脱するからである。「洗足学園音楽大学_和声学」に生じている技法定義のような「不整合性」つまり「禁則規定」は、本質的に構造上、そして検証上の動機に基づいていない、ということは古典作品における音楽の構想ではないのである。 洗足オンラインクールからの投稿記事や画像は、このノクターンの開始部分「モチーフ(2小節)」の連続8度 の響きについて理解する能力をもたない規則主義者と禁則以外の外的思考領域とはいっさい関わりをもとうとしな い「島岡譲」の特異な考えを露わにした。構造の変動を転換期として捉えた和声学に新たな段階の到来を予想でき ない規則主義者なのであろう、基礎論関連サイトにあらわれた演奏する作品への独自解釈さえ表明できない、ただ 和声学担当スタッフに利用されただけにすぎないピアノコースの指導者、 あなたはいったい誰なのか、4声体書の 能書きを、何だかわからないが、どうにか並べている声楽コース担当のオペラ歌手、そして音楽をそれ固有の技法 創出によって純粋に音楽的なことを語る人間である指揮者は、聴く耳をもたない。 歴史的なおよび環境世界的な教材に応じて様々な検証をともなう「概念化の働き」がなければ、和声学的な基礎といったものはけっして意味をもたないとする理論家は、技法公開拒絶と直に結びついている和声学指導者もまた、かつての規則主義者によってたしなめられ「作曲家がもつ人間的な特性を概念化できない「禁則規定を愛するアプリ作成者」と同じように考えていると指摘する。いまでも和声学指導者が禁則規定や例外枠組を語り、歴史的存在という音楽全般を技法定義不整合の旧態規則論に任せたりするのは、和声学指導者がこの実在開示拒否のアプリ作成者の立場に立っているからである。過去において「和声学はとうの昔に規則論として実体論や音楽の事実存在から別れてしまい、連続8度技法をその深奥な実在性において認識することを要求しなくなった。とはいえ、西洋音楽の知的書法の根源を探るとすれば、おそらく、和声学的な基盤をこの「美的価値体系的な意味をもつ実在」のうちに求め、技法の概念化について語る理論家こそがショパンの連続8度書法の創出に対してもっとも豊かな知識を提供してくれる人物であろう。 しかし、洗足学園音楽大学の作曲コース_和声学指導者_伊藤康英は、事実存在という環境世界のなかに生きて いるのではなく、_禁則の規定と限定の規定という事実とはまったく違った擬似の世界に生きている。_連続8度 技法の禁則規定以来、また作曲コース代表アカデミック・プロデューサー_清水明夫も、統一的なプログラミング としての “ 音楽全般・専門分野 “ を口にするようになった場合ですら、相変わらず_そうなのである。 実在に対する検証の重要性ということ、これが和声学的コスモロジーの基本的前提であった。実在検証はその過程によってその定義の初めを終わりに結びつける力を有しているのに反して、洗足オンラインスクールのアプリ作成者にはその能力がない。アプリ作成者は論理不整合な行為者として消滅し、課題集の評価採点基準によって次世代のなかに論理不整合の禁則規定の考えを植えつけていくにすぎない。大作曲家ショパンは大胆にも実在は事実と音楽創出の概念定義を探求するために存在することを表明していたが、これに対して、論理不整合な行為者においては、概念定義「連続8度の禁則」と、実在「和声としての存在」の関係は逆になっている。このプログラムは、他のコース担当スタッフが「連続8度の禁則」という無根拠規定を受け容れたか否かはともかく、システムの大幅な更新による実在和声的離脱行為の登場と時を同じくしている。学習者は検証拒否という非論理性を固定化している和声カリキュラムの諸規定は旧態規則論_暴力的指標_の弊害を残す定義放棄をモデル化した結果にほかならないと指摘し、実在的根拠を創出基盤として活躍するショパンの音楽にはあてはまならないと批判する。定義放棄者が同時に和声学指導者であり、そのようにして同時に環境世界を逸脱する者の主義主張は、現代の和声学においては、すでに過去のものとなっている。学習の批判の鉾先は、洗足アプリ作成者がソフト化した無根拠規定を動かしがたい超越的評価基準「きまりごと)とみなした点で、ピアノコース指導者に対しても向けられる。和声学とピアノコース指導者の両者が見過ごしていたのは、和声_理論と実習_でもなく_総合和声_の項目とも同一化できない人間の素質と能力であり、大規模な技法の創出および人間の聴感覚を結合させ、音楽から音楽でないものを排除して、純粋に連続8度書法を重ねたショパン音楽における柔軟な和声構造である。 要するに和声学基礎論がおこなう必要があることは、決して「環境世界」と「概念規定」を対立するものとして 考えるようなことではない。学習者は次のことをはっきりと自覚している。たしかに、この実在「ショパンのノク ターン」の「技法的な意味=柔軟な和声構造」は、直接、私たちの聴感覚に連動している。和声の書法的な意味を 支えるこういった音楽的な創出基盤は歴史的存在の事実の重要な要素となっている。つまり、もし実在認識・検証 分析また概念定義がなければ、「和声の祭典_学修支援システム」や「ネットで採点_和声学課題集」といったも のはけっして意味をもたないのである。 ここ何年かのあいだこれとは別の障害があらわれている。洗足学園音楽大学和声学の指導陣にとって意味をもつのは、禁則規定がまさにはっきりと判断できる意図的な功利的構図もつからである。責任の所在を曖昧にしようとする匿名化行為「連続8度の禁則」がもつ教育的な機能不全「逸脱=功利的構図」はけっして否定することができない。周知のように、そのような禁則規定という逸脱がなければ、和声学基礎論(実技実践プログラム)そのものが消えてしまうからである。絶対的な禁則規定があるからといって、西洋音楽のなかには連続8度というものが存在しない(認識されてはならない技法となる)わけはない。なぜなら、課題演習で用いられる禁則は作曲家の創造的な思索に反した「環境世界との断絶」を意味するものであるからである。学習者そして履修者にとって「連続8度」の創出は普遍的である。とすれば「連続8度」の創出が普遍的なものでないとするならむしろ驚きである。 諸技法の実証的研究が盛んになってから、和声学は歴史的存在の概念化を支えとして発展し続けてきた。そして、その研究がもつ重要な命題のひとつは大作曲家の自文化独自の音楽史に対する考え方が検証されるようになった点に求められる。フランスのロマン主義の音楽や美術にも影響を与えたJ.パウルがおこなった研究「美学入門_ Vorschule der Aesthetik」によって、またE.T.A.ホフマンがおこなった「論評_ Buchbesprechung_シューマンとワグナーに繋がる新しい時代の開かれた情報伝達」などによって、「豊富な知識に基づく自由奔放なイメージが普遍的な概念世界の比喩を用い論理的な精緻さでもって音楽理論においても働いている」ことが明らかにされている。代表作「ノクターン」全体においては、作曲家ショパンが体験する技法がすべて人間世界の歴史的存在に由来する書法を用いて記譜されている。だから、私たち日本人にも西洋人の美的な反応に匹敵するような概念世界が体験できるわけである。未来を期待された次世代の研究者また作曲コースの学習者が将来検証しまた分析する必要があるものとは、大作曲家の連続8度創出といった普遍的なものすなわち伝統技法の存在にほかならないのである。資料散逸から本源的論証へ これが環境世界が遮断された作曲コース和声学以外の学習者だったら事情はちがってくる。作曲コースの学習者が厳守させられる特殊なルール規定などの是や非は、_禁則を活かす_倒錯思考と同様にいつ「反転」するかわからないが、ショパンの連続8度の技法創出のような実在、すなわち、ハイドンやモーツァルト、シューベルトの和声構造すなわち連続8度の技法創出の有効性は教室を出ても変わらないからだ。実は和声学というものは、こういう学習者が閉じ込められる閉鎖的な教室を出たところで活動した過去の人々、いろいろな記憶が活性化され、連想がはたらく人々の「(可能性の選択に直面する)思考スタイル」と深く関わっている。過去の人々の信じられるものは、そして未来が開けるものは、実在認識と可能性だけだ。そこから、音楽活動と密着した普遍的な論理、さらに「ネットワークシステム」という和声構造を尊重する「価値観」があらわれる。西洋クラシック音楽愛好家なら誰でも知っている「動的な機能性」を思い浮かべると、このことはいっそう腑に落ちる。クープランのトリオ・ソナタ。ラモーによるピアノ曲。 J.S.バッハの協奏曲。ベートーヴェンの交響曲。 クープランの音楽制作行為にも、構造的背景がなかったわけではない。音楽制作において作曲活動の中核として機能するのは、音楽文化社会における創出環境ではたらく開放的な伝統技法である。それらは文化社会における原理再生的実在に対して恒常的なアクセスが可能な環境のなかで活動していた。そのためにこそ、クープランは創造によって確定された歴史的存在を恒常的に認識することにより、それぞれの環境が育む実在を呼吸して成長した。したがって、システム側からする蓋然性の要求を知らされ、システムの必要とした要請のインパクトを直接受けることとなる。また、音楽制作には新しい技法的要素のほかに、中世やルネッサンス時代の創出的な過程や技法的基盤も参入してくるのであり、クープランの音楽制作の質は実に流動的で多様である。 「和声 理論と実習_ⅠⅡⅢ 」には、 それへの聴感覚と実在認識を約束する「構造的条件や動機的条件」すなわち「社会的合意におけるグレード」に対する認識が欠けていた。どのような創出過程が音楽制作に学習者を供給するのか、どのような技法的基盤を備えた人々が確信をもって音楽制作を支えるのか、という問いは宙に浮いたままである。だが、現代の音楽制作を論じようとする者は、そうした規則主義に依拠することはできない。現代の論者は「限定規定の判断を検証すること」から始める必要がある。そのときはじめて、特定の対象に凝縮された思索、意味、関係の多元性を発見することができるのである。「問題は、和声学的にも、理論的にも、どのようにして、またなぜそうなるのか、これらの多様で開放的な概念の定義が閉鎖的な禁則限定的実習へと収斂されるのかを説明し記述すること、ここにある」。 作曲家の技法に対する繊細な感性と和声法への深い洞察力が結合されれば、そこには水平と垂直の躍動する事象が生成され、構造は柔軟で、力強く、しかもつねに開放的なものとなる。作曲家は他のどの要素より、まず技法を用いて和声の動き、また他の構造上の重要な特性を伝えようとした。そして他の要素と同様な技法の扱いでも、作曲家は限定や制約より、歴史性や伝統性を重んじた。実際に技法論の歴史性や伝統性は、大作曲家のほとんどの活動基盤の中心となっていた。この点において技法論は、とくに現代の和声学の理論体系で重要とみなされる「基礎課程」と一致している。クープランその他の作曲家が創出しているように、技法論の求めたような、検証された実在性が現代の技法論の典型であり、 前提破綻の、不自然なレトリックが中心であった「和声 理論と実習」の書法とは異なる。その重要な違いは、技法的概念定義にみられる。一般に文献には、西洋古典音楽の様式である連続5度と連続8度、開放的な導音進行は伝統的な書法習慣であって、バロックや古典派の時代には大多数の演奏家や作曲家が受け入れていたことが示唆されている。このような作曲家たちは技法に関し、歴史的な存在を受け入れ、文化的な書法習慣と開放的な思考をもった先駆者たちであり、後の世代の作曲家に影響を与えることになった、というのが 21 世紀前半の見解である。発信力と実在認識 アプリ作成者はしきりにグレード制・プレゼンテーションの効果を宣伝する。禁則規定や限定規定を使って音楽制作をすれば説得力があるというわけだ。確かにそういう虚構的エリアをもつことはできる。だが、そのための準備はなかな大変だ。よほどのアプリ・システム固執者でなくては、結局はテーマが論証もなく反転してしまう規定_禁止されている、が、実は禁止されていない、そして、限定される、は、限定されない、と説明されるもの_に途方もないエネルギーを費やそうとは思わないだろう。活動のできる学習者はだいたいそういうものに興味はないし、実在否定や存在喪失に陥ったプレゼンテーション資料作成よりもアイディアを練ることに時間をかけるはずである。冷静に考えると、実技における実践的学習環境=パッケージ型グレード制のニーズというものが何やら怪しくなってくるのである。学習者が皆こう考えるとすれば、「洗足学園音楽大学のグレード制」も楽器メーカー・グレード制失敗の繰り返しとなるのだろうか。 どこからともなく慨嘆の声が聞こえてくる。その声は功利的な目論見が消えたアプリ作成者の嘆きの声ではない。もっと別の声、グレードを最初に考え、考案した人々の嘆きの声である。なぜなら、グレード制というのは本来、具体的な実在を引き出す方とが遮断されるバラバラで無思想的な「データ・ベース」、単なる功利主義に引き寄せられる「ゲーム・マシン」のことではなかった。それは偉大な憧れをはらんだ「実在認識の媒体」として構想されたものなのだ。和声学のグレード制とは、学習者の思考力を高め、実在認識を定義するツールとして誕生したのである。構想の発端は、歴史的存在、具体的にはバロック・古典派そしてロマン派音楽の和声書法という_人間の素質や能力を発揮させ活動させる、人間の現実性=可能性が活動する「実在的な伝統技法」である。 和声学指導者は、現代の様式論の傾向として「技法のより実在的なコントロール、様式の細部の強調された明晰性、基本概念をスコア通りに解釈すること、様式の歪曲や曲解を避けること」などを挙げている。そして、のような要素を要約して「力強さ、開放性、楽譜どおりに実習すること、そして欠陥規定の処置、無根拠や定義矛盾を避ける傾向」といっている。つまり現代の和声学は、旧態規則論のそれと比べると「正確で、検証的で、概念化の方法が相対化される」傾向にあるのだ。上記のような価値観は現代和声学の教材のすべてに開示される。いやそれどころか、「現代的」あるいは「古典音楽的」な前提をもつと考えられる音楽学者と同じように、明確にそれがわかるのである。もちろん、教材も技法論の実在性領域の程度は特定対象によって異なる。たとえば、バッハではいっそう多義的で、モーツァルトではそれほどでもない。しかし、その技法を考えれば、和声実技実践のための教材は大作曲家が創出した「実在的概念」を指し示したものといえる。 古典和声のすばらしさとは、様式や習慣や技法といった理論家の頭をいっぱいにしている一般原理、取るに足らない無根拠_禁則規定および定義矛盾_限定規定のすべてをのりこえる「アップ・グレードの方法=実践的活動の質」を提示し、その正当性を実証していることである。西洋古典音楽は、自分の生きる時代の一部になることではなく、自分の時代を豊かにし、またどの規則主義にもどの趣味判断にも属することもなく、すべての時代のすべての世代を代表できる発信力と実在認識という「作曲家の思索」つまり「レヴェルの高いアップ・グレードの方法」を私たちに届けてくれるのである。それは古典和声についてのもっとも本源的な論証である。中心的命題 インターナショナルとかスタンダードとか、コピーだけは威勢がよいが、その採点評価の基本的基準は実はそれらと全く無縁の概念なのだ。いくらクラシック音楽を説明しようと、思考はいつも限定禁則とともにある。和声学を学ぶ理由は、音楽活動_作曲や演奏に根を下ろし、教育者になろうと、場合によってはプロの音楽家になるつもりで和声学を学ぶわけでは決してないのである。 つまり、指導者も学習者も相変わらず「教条めいた聴感覚の土着性」に縛られ、「限定禁則の規定によって自然な和声観の活性化が不可能となる閉鎖性」を抜けきっていない。連続5度の響きが判断できてもその事実存在が理解できないとか、パズルに対しては興味をもつが情報に対しては無関心であるとかいったことがらは、すべて採点する指導者と採点される学習者が基本的に限定禁則にしがみついた規則主義者であることとつながっている。 この種の教材アプリ_和声の祭典が 1970年代以来の規則論規定を受けつぎ、そこに住み着いた感性共同体であるという証拠はいくらでもある。導音の進むべき道といった限定規定。声部の独立性を損なうとした禁則規定。例外枠組設定を抜け道とした内在論。およそネットで採点による評価対象の大半は1970年代以来の規則論であるし、基本的基準も1970年代からまったく変わっていない。この類の教材アプリが土着性や閉鎖性(そうした領域に住みつくこと)、つまり旧態的規則主義者の心性を引きずっていることは、いまさら指摘するまでもない。 命題としての規則論は「古典派和声は限定禁則によって成り立っていた」の定義をとるが、「導音は限定進行音」のように、事実に反する規則論は、定義的には「和声は規則によって成り立つ」の定義をもっていても、通常の理論としての命題論理のなかで扱えないことは明らかである。なぜなら、和声と規則の検証値(この定義では古典派和声は限定禁則によって成り立っていた)に対する古典和声全体の検証値は、規則論に一致しないからである。技法定義において実在検証を実行しない「限定規定は定義矛盾」であり、ドイツ・フランスの和声に関する分析習慣が成立する以前のものである。また、当然命題実証の斥けられた「禁則規定は無根拠」である。導音進行の本質とは無縁な土着連合に拘束された古い方法論は、長々と半世紀も続いた和声実習の末に終わりを告げた。つまり「恣意的に引き伸ばされたこのようなシステムの失敗をすべて再構築しないかぎり、真の和声表出と認識から成り立っている習慣は確保できないと考えさせるような形で(新規の歴史的・伝統的・和声的な定義と結合・融合することによって)終わりを告げたのである。情報化とは無縁「ネットで採点 和声学課題集」 理論家はそれを示す明らかな証拠としてフランス音楽の例を挙げている。古典派時代の作曲家たちは納得のいく詳細な手法で、導音技法が美術(造形芸術)と並ぶ価値概念を考えながら音楽作品にその事実を明らかにしていた。導音技法は歴史的な存在概念の保持継承であり、導音進行の実在性をもって人間の感情を表現するものである。 ところで、理論家としてのラモーに言わせるなら、自分が見えていない規則主義者のような考え方こそむしろ歴史的存在の喪失を意味するものにほかならない。「価値あるものとして個々の作曲家によって扱われている音響学的な原理とそれに支えられた性質_創出特性および感受特性の問題以外のものに注意をそらして音楽の本質的な構造を排除してしまっている。一部の規則主義者がフランス和声の伝統的な技法という人々の共有財産を否定して、ただ「きまりごと」的に説明されるものではない」。 しかし、不幸にして洗足学園音楽大学_オンラインスクール_和声学の現状では、音楽の知識習得の重要な規範となる古典派和声の理論は、ほとんどテキストの限定規定の転用や単なる禁則規定の準拠に終始し、事実存在をともなう検証データを真剣に求める学習者の根本的な問いかけは、けして説明され、十分に答えられ、納得できるように解決されることはない。音楽に関わる人々が発している知識への「命題」が、こうして事実分析が放棄され、虚しく崩壊してしまう宿命にすっかり任されているのである。このことは、音楽大学の学習者たちの成長をはばんでいるだけでなく、大学院(修士や博士課程)に進んだり、音楽の知識人と言われるような人々の思考力の「健全さ(偏らず正常で危なげないこと)」さえもむしばみ、和声学の実質を脆弱なものにしているのである。 たしかに、導音進行論は「和声は歴史的な存在概念を限定規定に置き換えることからから生まれた」と判断した。とするなら、その規定が歴史的存在である音楽にどのように作用したのか、あるいはどのような役割を果たしてきたのか、を考えてつくられたものではない」ということになる。つまり、 ネットで採点 和声学課題集の場合であるなら「歴史的存在の検証的記述と概念定義を拒否する曖昧性」をもち、「限定実習」による居直りにほかならない。このような姿勢が示すのは、規定的自我であり、はっきりとした土着的思考(規定が妥当であるためには、語ろうとする対象は間違ったもの)なのである。あのフランス和声の「導音技法」に対する否定、バロックJ.S.バッハや古典派モーツァルト、ベートーヴェンの「和声法」に対する思慮に欠けた曲解、そしてロマン派シューベルト、ショパン、シューマンの和声が例外であるとする弁護の余地のない判断に対する、弁護の仕方などは、指導者が事実を歪曲した主張を繰り返している、というようにみられるだろう。とすれば、和声学 学修支援システムが伝統技法を否定・歴史的存在を喪失した「和声 理論と実習」に準拠したものであるかぎり、ソフトウエア作成者(*)はいたずらに逃げ道を探すこともなかろう。 なぜなら、逃げ道を探しえたとしても、指導者は歴史的実在についての検証的なレベル補正あるいは定義変換から逃れることはできないからである。たとえレベル補正が必要でないことが明らかであるような場合があったとしても、その理由は、けして連続5度技法のあり方が原理的本質的に禁止されていたわけではないのである。連続5度技法のあり方をとらえる「存在証明」は実在和声についての「技法定義」に依拠している。それを証明するにはまずレベル補正がもつ技法の布置関係や諸進行についての「検証的な記述」が必ず求められる。だからこそ、理論家は和声学基礎論を証明の曖昧な限定禁則規定を特権化するような理論構成とするわけにはいかないのである。構造不整合の解体 古典音楽におけ創出特性が禁則規定を基準にして説明できないからといって、当の歴史的存在(実在和声)の開放的な存在概念を例外と定義するのは「非常識(安易な無根拠は場合によっては、音楽文化社会の価値体系を著しく傷つける結果をともなうもの)」である。つまり、そのような非常識はバロック・古典派の音楽の世界にはまったく存在しなかったのである。しかし、和声学の実習が、学習者に指導者が禁則規定に準拠するものしか実践させないとするなら、それは歴史的存在を模倣・再現することによってしか進歩しない技法・書法学習の発展を遅らせてしまうような危険を招くことになるだろう。論拠の曖昧な規定によって仮に聴きとられるはずの存在と、人間の聴感覚によって実際に聴きとられた存在との構造不整合つまり無根拠を和声学の指標として掲げるようなことはできない相談である。もしそんなことをするとしたなら、それこそ非和声学的な指導法ということになってしまう。そうなると、高等教育課程の指導的な立場でもある「洗足オンラインスクール_構造不整合の和声学」、あるいは和声学といって学修支援システムの開発やシラバスを謳いあげたようとした「和声の祭典」も、この非和声学的な指導法のカテゴリーに属するであろう。西洋古典和声や伝統的なテクニックについて語られ、また認定され継承され再生されていた連続8度技法の禁則規定という概念定義不整合の問題が放置されたシステムということになる。システムはこの無根拠を前提としてその強制的均質化を開始する。強制的均質化を禁則イズムだけにあらわれた特殊ケースとみなすとすれば、 それは半世紀前の規則論 - 教科書「和声 理論と実習」が陥った不自然な和声観への懸念(和声学の概念規定が古典音楽の本来的なあり方を外してまでも禁則として定義されたこと、しかもそのもっとも貧弱な形態として説明されたこと)についての無理解を暴露するものである。強制的均質化は導音技法のみならず、連続5度技法や連続8度技法、さらには変化発展的事象である複合形態や、バロック和声の延長上に古典派和声を生み出したドイツ和声についてさえもみてとることができる。したがって、システム再構築をめぐる検証欠落および前提破綻の失敗は、規則論における強制的均質化の比較研究にまでさかのぼって説明される必要がある。そして、バロック・古典派の和声に何度も触れながらラモーやヘンデル、モーツァルトやベートーヴェンの連続8度技法について一言も語っていないことは、「伝統的なテクニック」を知ろうとしている学習者にとって、それは本来とはまったく異なる方向に流れていった旧態的規則主義の構造的特殊性、つまり、概念の定義としては正常なものとは言えず、むしろ奇形的な規定となる。 というのも、 歴史的な美的価値体系の共有という現実的な中心的命題は棚上げにしたまま、和声学の役割は規則主義の主体そのものを例外扱いする学習環境を対象とし、「禁則」規定実習に向けられているからである。まさにその通りである。ルール検証の公開 これは「言語における基本的な文法(特化)」を意味するものであるから_いま英語を例にとれば、イギリス人やアメリカ人の話している「英語」は、英語ではない、という考え_といっても、それは幼稚な考え方で判断したという耳を疑うような話であるが、もし和声学において、 J.S.バッハ、ヘンデル、モーツァルト、ベートーヴェンのつくりだす「古典和声」が、また、アメリカ人の興じている「ジャズ・ハーモニー」がそれと同じ事態になったらどうだろうか。いうまでもない。この場合の「禁則限定の教材アプリ」は明らかに教育課程全体のなかの_そこからはじまる和声学はものごとの上下の位置が反対になる_特殊領域を指している。 和声学の理論体系に関する概念定義は、理論成立の条件、理論成立の選択肢のあり方(その検証方法も含めて)、その選択肢の選択決定、などの点に関して、包括的な説明ができる必要がある。この問題は、一般的には、音楽学であつかわれるが、とくに、楽典や音楽理論あるいは比較分類学に掲載された技法を使って、いわば理論体系への概念規定を再定義しようとする試みが、今世紀に入って盛んで、古典音楽の聴取、実在検証、実在分析による基本原理などの概念定義も、これらの試みのなかで生まれる。 さらに、もう一方のアプローチとして「存在する」「存在できる」「必然的に存在する」などいわゆる事実存在に関わる論理、あるいは実在和声などの領域での分析と論理的説明の構築とが図られ、こうしたアプローチと分類的なアプローチとの連動のもとに、新しい理論体系への思考がすでに始まっている。 たしかに、音楽大学の和声学のなかには和声的事実全体を曲解した限定禁則規定によるレッスンが存在する。いや、それどころか規則主義者が自ら認めない技法をすべて否定するような「総合音楽講座」すら存在する。指導者の説明においては、実在和声ではなく、限定禁則規定による擬似和声の実習だけを示す。要するに、これらのレッスンや講座の内実は事実を否定する「技法なき技法論」である。学習者には黙って従うように仕向ける「論理的連続性のないルール」もそれに類している。しかし、社会的文化的な立場に立って厳密に言うなら、こういった指向を和声学とみなしているのは特定の指導者集団である。学習者にとって技法否定および存在喪失というシステム障害は学習環境における創出特性や感受特性の認識を妨げるもの 自然な、学習環境についての研究者によれば、始原の根源であるもの、つまりすべての事象現象それ自体は、否定されるものではない。それには「禁じられる」も「限定される」もない。そして例外視されるものでもない。すなわち、それは常に存在する。限定も制約もないものから学習環境は生じ、すべてはそこに帰っていく。それは存在するものであるとともに「禁じられるもの」でも「限定されるもの」でもないのであり、存在するすべてのものの起源であるとともに、アプリ開発の「目標」である。この自然な「存在概念の意義」を表出したのが、地球上のどこにでもに存在する基層的な音楽文化であり学習環境であった。各専門コースの学習者たちは次のように語る。「こんな時代に禁則や限定のアプリ・ソフトをクリックしているのは賢くない」。 したがって危惧されることは、たとえば、「サウンドスケープ」などの新しい研究分野が取り組むことになる_環境保護論を基盤としながら、街角の音響スクロール・未来都市の音風景をデザインするような_学習者にとって、音楽をそのままのかたちで聴くことができない、地球の自然な音楽的環境において、こんな「和声学_和声の祭典 ネトで採点:ウェブ・アプリ」の累積障害「禁則規定と限定規定の内実」つまり「歴史的存在についての_技法定義における実在との悲劇的な不整合と矛盾」は致命的なことだ。 和声学シラバスにこんなことが書かれている。「(古典音楽では連続5度を禁則としていたのか、大作曲家は連続5度技法の禁則規定を順守したかは検証されておらず不明であるが)連続5度は禁則でありもしくは例外である。それゆえに厳密に言えば、連続5度の技法定義は、必ずしもバロック・古典派和声の実在と整合するとは言えない。とはいえ私たちは、後になって、連続5度禁則規定を活かすことを考えてみる。これが和声学である」。こんな文言があったら学部の卒業論文でも落第するレヴェルである。 実は、和声学としての禁則主義的教材アプリが行き詰ってしまったのも、「連続5度は禁則」という無根拠規定から起きている。バロック・古典派和声の実在性開示拒否は、禁則規定の正当性を物語っているのではなく、禁則主義的内在論による採点評価基準が、規則主義そのものの形態ゆえに旧態規則論のように肥大化した技法否定と存在喪失を生み出し、いまや機能不全となって崩壊したこと示している。禁則規定に依拠する否定と喪失の暴力的指標が、 システムのそれと課題集のそれとを問わず、ウェブ・アプリのそれをも含めて、現在、解体を余儀なくされているのも、同様の障害的現れにほかならない。和声の概念 しかし学習者たちは、それを守って、一生懸命、一生懸命守って演習してきたわけである。自分が定住する定義矛盾「限定励行」または、根拠のない「禁則遵守」。ネットでの採点評価基準。_そこから始めるかぎり、歴史的存在の否定も例外視も決して根本的には解消しない。たとえ思索の場を変えたところで、同じことが起きるだろう。それが旧態の和声ガクという認識共同体の実態であり、この洗足学園音楽大学の和声学_洗足オンラインスクールスクール 和声の祭典_和声学 学修支援システム_に現れた「出発点となる西洋クラシック音楽の伝統的な事実存在」を排除する後ろ向きの「伝統技法の否定」、そして、ネガティブで抜き差しならないマイナス思考「存在概念の喪失」は国際化・情報化とは無縁なのである。 歴史に遺るバロックや古典派の作曲家の音楽を聴けば、システムの違いは明らかである。彼らの音楽は、「伝記」にまとめられた人物像に照らして言えば、先人の思索にきわめて近い軌道をたどったものということができる。たとえばモンテヴェルディの場合、作曲家としての和声法は、現在をのり超えていく近未来という方向を目指すものであった。この方向は、ルネッサンス音楽「多声様式」にもとづくマドリガルが発表されて後、歌劇をはじめ世俗声楽曲においてバロック音楽「モノディ、コンチェルタート様式」の基礎を築く状況のなかで次第に形成されていった。伝統技法は、このような基盤を背負っていたことをあらためて確認できないのであれば、もはや再現できるようなものではない。その時点において再現するとなれば、その生成の原点に立ちもどり、作曲活動の出発点においてどのような問題を抱えていたかを吟味する必要があったであろう。この作曲家の考え方が限定制約の考えと異なることとなったのはなぜだろうか。この相違はいかなる体験によって生み出されたのであろうか。_彼は規則を学んだ人間でなくとも、巧みに和声法をあやつる。歴史的実在のネットワークを通じて、いつの間にか音楽家になっている。彼は「和声のスペシャリスト」なのだ。なんとうらやましい学び方と才能ではないか。 学習者は「いや、私たちは天才ではない」と首を横に振るのだろうか。もちろん、将来はきっとそうなる、と予言しているわけではない。いったん限定禁則から発想する思考を捨てれば、「先人たちが示唆した和声の世界」つまり「実在」が輝きだすというだけのことである。_そういうと恐ろしげだが、音楽総合講座もこのための社会的・文化的装置なのだ。万古不易の規定がそびえ立っているわけではない。天才はこういう先人たちが用いた伝統技法や存在概念を「徹底的」に磨き上げた。とくにパレストリーナ、ラッソ、G.ガブリエーリ和声の影響は絶大で、現代の和声学論もそこに根を張っている。本来和声学とは、歴史的存在を中心とした検証論のなかでの「情報交換」のことであった。 それに対して「洗足オンラインスクール和声学」では、情報交換の直接的目的の革新性にもかかわらず、情報交換は意図しない結果として「道を踏み外した和声の認識者としての学習者」を育てるという点が強調される。この思考のちがいは、理論的な観察者として情報交換の機能を客観的に捉えようとしていた和声学指導者が、スクールの解決する課題におよぶにいたって、基礎論における本来的な検証論の欠如という重大な事態にゆき当たったということ、ここに由来するのであろう。 結果において旧態「和声 理論と実習」の維持・継続に寄与するとするのであれば、 禁則規定(=無根拠)と手を結んでもよいのではないか。 そうした誘いが、この時点ですでに洗足学園音楽大学の和声学指導者の耳元にささやかれていたのかも知れない。ウェブ・アプリと歴史的な環境世界分離状態 バロック音楽の世界には作曲家自身によって歴史的な事実と認められている合理的な連続5度技法が存在する。ルネッサンスの多くの作曲家たちは自分の音楽に連続5度を描くことによって響きに「深み」与えられると考え実践している。これは作曲家が様々な情報交換の場に連続5度というものが関係していることをよく示している。さらに、スカルラッティもまたピアノソナタというすぐれた楽曲においてこれと同じ事象を実践している。古典音楽においては、演奏者が連続5度の和声を生き生きと演奏することによって、楽曲のフレーズに優美な表出特性を聴くことができる。研究者が定義する必要のある連続5度技法はいくらでも現われる。たとえば、J.S.バッハの「ブランデンブルグ協奏曲_第1番〜第6番(1718?1721)」全体には演奏家と聴衆の前に躍動感あふれる動きをもって連続5度の並進行が出てくる。このような並進行はまさに事実存在によってしか理解できないものである。作曲家が表出しているのは聴き手が単純な事象現象に音楽的な情報交換を結びつけるように促す事実存在なのである。 1721年以降の様々な作品では、バッハが連続5度技法の連続性を異なるコンテクストで実験しているのがわかる。1726?1731年の「パルティータ_第1番?第6番」においては、そのほとんどの楽曲に展開する連続5度の事象が重要な役割を果たしている。おそらくこれはクラヴィーア曲の構造的な様相にならって、そうしたと考えられる。 たとえば「イギリス組曲(1720)」では、バッハは「メヌエット」に連続5度を用いた。同様に「サラバンド」の明確な連続5度は「メヌエット」から引き出されたものである。さらに類似の連続5度の形態を、「ジーグ」では対になった楽句で使用した。このような連続5度の書法はバード、ガブリエーリ、モンテヴェルディ、マルチェロの文献に先例をみることができ、バッハもそのどれかを調べたことがあったかもしれない。 バッハの思索では、それぞれの音程の連続進行を融合させ、そのどれもが分離されないようにしている。 2声体から4声体コラールに移るにあたっては、すべての音程の連続進行とともに5度音程の連続性が保持され、それらは厳密な関係をもつ。また、鍵盤楽曲と協奏曲についての思索にも同じような例がある。鍵盤楽曲と協奏曲では、バッハはその両方で中世・ルネッサンス音楽における声楽曲に存在した連続5度の連続性を保持する。つまり、声楽曲「コラール」の連続5度が「イギリス組曲」や「パルティータ」の連続5度になる。そして同じ連続5度の響きは「ブランデンブルグ協奏曲」へと伝える。この扱い方による効果は、初めに8度、そして連続3度、さらには連続6度と同化していく連続5度音程の確かな展開である。バッハは連続5度という存在概念を証明して(歴史に存在した姿のまま)、作品では先人たちと同じように創出した。このこともバッハが連続5度技法に基づく事象を、様式的にも、原理本質的な観点からも、和声を成立させるひつの単位と考えた証拠である。 アプリ作成者がシステムから伝統技法や歴史的存在を切り離してしまうということは、技法なき技法論を引き合いに出しながら規則主義的な根拠のないもの矛盾したものに陥ってしまう。そして「以後彼らはその無根拠と定義矛盾から抜け出すことができなくなってしまうのである」。このようにして、アプリ作成者は念定義の領域において、規則主義の禁則規定の似非理論に頼ることになる。そして、それはまさに「無根拠」においておこなわれている。学習者を驚かせるに足る実在認識の切断のためにほかならない。何らかの連続5度技法はその定義の誤という不整合と矛盾であるばかりではない。それは互いに関係し規定し合うシステム内の「基本的基準」として定義される。 要するに、実在認識の切断、概念定義の不整合と矛盾の障害は大きな問題である。管弦楽やオペラはいうまでもなく、室内楽をインターネットで聴く場合ですら直接聴く音楽と比べれば物足りないと感じるだろう。指揮者は聴衆に曲の構想を理解してもらうために様々な表出を巧妙に使い分ける術を心得ている。大型スピーカーを用いた電子音響音楽の研究者たちが装置のセッティングに熱心な工夫を凝らすのもまさにそのためである。ところで、教材アプリは旧態的規則論の影響もあって無根拠な禁則規定によって拘束された和声にしか耳を傾けようとしない擬似的な概念をシステム化してきた。しかし「和声の祭典_和声学 学習支援システム」の学習者によって時として告白される「大作曲家の業績の範囲の広さを考えると、洗足オンラインスクール_教材アプリは「西洋古典音楽の原理本質を無視している(バッハが提起した様々なすべての問題と矛盾する)」_採点されるの評価基準が連続5度は禁則で終わるため、偉大な作曲家バッハ=多様性を受け入れる人間性_とのつながりはほとんど聴きとれない」_という不満が実在和声「4声体コラール・クラヴィーア曲・協奏曲」の検証欠落からくることは否定できない。伝統性 連続5度技法 伝統技法と歴史的存在はこのように、様々な検証に基づいた概念定義で語られ、事実はどうなっているのか、の問いに対して、いうまでもなく柔軟で力強い多くの答えがある。過去において、たしかに指導者によっては、あつかう教科書が導音進行は限定_連続5度は禁則_と決定しているから仕方がない、表面的には諦め(学習者たちを静かにさせて)承認するしかない_それは宿命である_が現実だったかもしれない。 とはいえ、未来を志向する音楽教育の現場において「和声 理論と実習」に接続した「洗足オンライン_和声学 課題集」が指し示す「ルール(つくりもの)」には、 強引な伝統技法の暴力的破壊・撞着基準による根拠のない減点評価や実在概念の例外視、 といった、 まさしく音楽の一般的な形相「可能性」と「現実性」さらに「安定した音楽的価値体系」を代行する情報処理機能はプログラミングされておらず、つまり「粗製乱造システム」という根本問題があることを示している。 重要なのはハードウエア自体ではない。ハードウエアによって伝えられ見聞を広めた歴史上の音楽家たちと共有される、言い換えるなら、禁則、限定、例外、初段階では禁止、といった撞着語法などに依存するのではなく、知恵や能力などを活用させるソフトウエアなのである。とすれば、この促成のネットで採点_和声学課題集は、どうみても「ソフトウエア クライシス」である。 この危機からどう抜け出るか。限定禁則の重大局面を抱えたまま、質の高い「プログラム構築」を否定して、単なる最新ハードウエアへの変換だけでは、けっして古典から現代にいたる音楽全般に関わる音楽制作情報(潜在能力)を引き出し、実用化するというアプリ開発(プログラム)とはならない。 プログラム構成が定まらないということは、学習者(作曲家・演奏家・音楽学者を志す人たち)を不安に陥れる。音楽論がそのことを本格的に主題とし始めたのは、音楽教本_ムシカ・エンキリアディスかツァルリーノにおいてであろう。さらにこれにラモーが加えられるか。ともあれ、 大作曲家クープランやヴィヴァルディそしてJ.S.バッハの音楽においては「導音技法(多様な導音進行)」が語られ、ハイドン、モーツァルトにおいては「連続5度技法(すぐれた平衡感覚)」が命題化された。ヘンデル、ベートーヴェンは「連続8度(普遍的妥当性)」を創出している。これらの環境基盤をもっとも明確に提示したのは、、シューベルト、ショパン、シューマンであった。フランク、ワーグナー、マーラーとともに、ブラームスあるいはフォーレにはバロック・古典派和声との同技法性が濃厚に姿を現している。ラヴェルは、歴史的存在を語り、伝統技法に関する実践は大作曲家による和声生成のためのツールにほかならないとした。伝統技法にかかわってラヴェルが示したのは、和声の世界が不均質であり、開放的だということであった。現実世界の不均質性、開放性と正面きって行き来すること、不均質性、開放性とのかかわりを楽しむこと、これが彼ら大作曲家の信念であった。システム論もまた、このワーグナーやラヴェル的時代状況の産物である。そのことは彼らの代表作である「管弦楽曲」が「 19 世紀までの伝統的なテクニック」を中心に組み立てられたという事実に明確に示されている。異端的例外システム洗足学園音楽大学_和声学 現代のアプリ開発は、規則主義者のそれとも、また、洗足オンラインスクールのそれとも異なっている。規則主義者によれば、システムの統一は、何らかの主体を必要とすることなしに局所的事象現象が果たす概念の自己言及によって到達可能となる。局所的事象現象のもつ自己言及的概念を大前提に設定する規則主義者においては、不整合という非理論的な「無根拠」と「定義矛盾」の命題は、難なくシステム論理の例外枠組に転化されてしまう。「オンラインスクール_教材アプリ作成者」は、規範の形成と伝達の場である諸規定の論理的な有意味性にあくまでも固執し、 個人レッスンあるいはグループ・ワークへの参加を通して獲得されるシステムの概念定義について、その検証拒絶不能の固有性を主張していた。だが、教材アプリ作成者はソフトウエア・プログラム構成の概念定義が必要とする手順を放棄してしまい、未検証の諸規定を理論化された属性にまつりあげる方向に進んだ。このようにして「アプリ開発」においても、ソフトウエア・プログラム構成の概念定義は問題でなくなってしまう。むしろその概念定義そのものが「内容的に旧態教科書に準拠し、実在のバロック・古典派和声の技法に依存しない」という形式においてシステム化されるのである。 これに対して現代のアプリ開発においては、ソフトウエアのプログラム構成は情報化した伝統技法の検証資料を開示する。絶えず新たな内容の情報を発信するアプリは、情報をうけとり、その意味を解析し、新たな情報を付加して再発信することができるアプリ作成者を、つまり、データの情報交換のターミナルとして機能するアプリ作成者を必要とする。和声システムにおける主要な技法は、もはや単なる技法なき技法論ではなく、しかも技法なき技法論のような模倣思考でもなく、情報交換のターミナルとして有効に機能する人間能力である。システムにおいては、プログラム構成そのものが質の高い蓋然性を確認するチャンスなのであり、したがって、プログラム構成に対応できる動的な技法論をつくりあげることが必須の命題となる。 現代のアプリ作成者は和声学的な原理本質を理解するための実在認識とみなし、この実在認識の確保をめざして古典音楽という事実存在に働きかける。この実在認識が情報化段階におけるシステムの特性となる。こうして和声学は、原理本質の歴史的存在・技法的構造にまで介入し、それを相対化しようと努める。しかし、このことは規則論的につくりだされた擬似的歪曲と検証的・分析的な認識とのあいだに「強度の葛藤」を生み出さずにはいない。教材アプリの出版は、ついに「連続5度と連続8度_禁則規定」そして「導音進行_限定規定」そのものがあらゆる教育的な場面で「技法定義の危機」いわゆる「無根拠・定義矛盾」を偽装する事態をもたらしたようである。「洗足学園音楽大学_和声学指導者」は真理を説明する「学習環境」を失った。和声学指導者はJ.S.バッハとのつながりを求めてさまようのであるが、もはや、そのつながりには恒常性がなく、絶えず例外枠組判断を避けることができない。和声とはがわからなくなるとともに、実在とは何なのかも認識できなくなるのである。システムが古典音楽の和声的・実在的構造をも理論的に相対化しようとするとき、音楽教育も和声学指導者も病理現象を示し始める。新しいアプリ開発とは、こうした消極的個人主義に特有な病理に対する告発なのであり、自立をとりもどそうとする技法的蓋然性についての直接的間接的な実在開示なのである。

噂と暴露の狭間で

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2025-01-18 01:00:00 - 筒井康隆著の短編「俺に関する噂」(1978)を読んだ事はありますか。ざっとこんな内容の小説です。森下ツトムさんは、今日タイピストをお茶に誘いましたが、ことわられてしまいました。ある日のニュース番組で電機工業会社に勤める平凡なサラリーマンに過ぎない"俺"(森下ツトム)に関する噂が報道される。それを皮切りにあらゆるメディアが一斉にツトムの日常を事細かに報道し始め、理由が分からぬまま時の人となったツトムは精神的にまいっていく。その後、ツトムがたまたま新聞社へ行き副編集長と会話を交わした事をきっかけにして、ツトムのニュースは突然パッタリと報道されなくなる。そして同時にあらゆるメディアは他の中年サラリーマンに関する報道を始める。街中を歩くツトムを見かけた人はこう呟く。あの人はもうなんでもない人よ。今から約47年ほど前の作品なのですが、現代社会に同様の事象が実際に起こっている気がするのは私だけでしょうか・・・これを考え始めたのは乃木坂46の3期生メンバーである"岩本蓮加"のスキャンダル報道に接してからの事です。アイドルとして活動する蓮加が彼氏とおぼしき男性とハグしている画像がネット上で「暴露」され、1月14日には蓮加本人のブログで「プライベート写真がXに投稿された件に関する謝罪と一定期間の活動自粛」が表明されました。蓮加が運営側と"恋愛禁止条項"を締結していたか否かは定かではないため、民法的にどのような事象が発生するかは不明です。ただし・・・もし"恋愛禁止条項"を締結していた場合、彼女の行為自体は軽率であったと言われても仕方ないかもしれませんね・・・。この画像がどのような経緯によってネット上にアップされたのかも私には分かりませんが、膨大な人数がいる"アイドル"の中から乃木坂46の岩本蓮加が抽出されたのには何らかの"意図"があるのではと感じています。何故なら以前から岩本蓮加の立場についてネット上では様々なコメントが散見されてきたからです。曰く・・・"岩本の父親はパソナ元役員"→"パソナと言えば竹中平蔵"→"竹中平蔵は「派遣社員」爆増を招いた張本人"→"岩本蓮加は強いバックを背景にグループ内でも好き勝手をしている模様"→"岩本は欅坂46に侮蔑的な発言をした事がある"→"乃木坂メンバーに対してパワハラをした事がある"等々。どこまでが本当の事でどこからが虚偽なのかも私には分かりませんが、こうした情報をもとに「岩本蓮加を懲らしめる目的で私的な画像がネットにアップされた」と推測する人もいるのではないかと。そしてこの報道には必ず"ネット上のインフルエンサー"なる存在がついて回っている点も気になります。「インフルエンサー」とは世間の人々に大きな影響(influence)を与える存在として主にネット上で使われる語句ですよね。Instagram、Youtube、Tiktok、X(元Twitter)と様々な方法を用いて"噂"或いは"真実"を発信する人たちと言えます。そもそもインフルエンサーと呼ばれる人が有名人の不祥事又は迷惑行為等をネット上に示そうとする動機って何なのでしょうか。正義感?使命感?エンタメやゴシップ狙い?それとも単に金儲け?逆に情報の受け手側の人々はこれらのインフルエンサーから発信される内容を求めているとしたらその理由とは何なのでしょう。社会的・経済的に強い立場にいる人や悪いことをしている人を成敗して欲しいという思いから?自らが持つ様々な怒りや憤りや悔しさを自分の代わりにはらしてもらうため?どうやってそのインフルエンサーが"信用・信頼に値する人物"と判断するのかもあやふやな中で、個人的な恨みつらみを解消したい人たちが形成する集団的無意識がそれらを暴いてくれそうなインフルエンサーに情報提供をし、その内容がネットに上がる事で炎上が勃発し、ターゲットとなった対象に多大な影響が生じる、というサイクルが生まれるのでしょうか・・・金持ちである事で傍若無人に振る舞う対象が気に食わないため自らの代わりに鉄槌を下してもらうという事だとしたら、なんと〇〇な事かと思ってしまいます。なぜなら犯罪行為や法に抵触する行為以外に関してさえ"個人"が有無を言わさぬ形で標的とされる可能性が大きくなるからです。今回の岩本蓮加の件に接して彼女が乃木坂メンバーだから何が何でも弁護したいという事ではありません。最終的には彼女がこの件に関して自らの道を決める事だと思っています。ところが・・・ネット上では「次にターゲットとなるのは乃木坂のこのメンバー」といった記事("噂")がすでに出てきているのです。遠藤さくら梅澤美波井上和賀喜遥香これって対立政党の候補者を潰す的な政治的意図の臭いすら漂うそうなものを感じてしまうほどではなはだ不気味でしかありません。乃木坂46を無き者にしたいという事でしょうか?別メンバーに関する情報や画像がさらに公開された場合、「プライバシーの保護」や「名誉棄損」で争っても運営側及びメンバーにとって時間と費用の浪費にしかならない気さえします。昔は「こんなスキャンダルを握ったが、公表されたくなかったら幾ばくかの金を出しなよな」風に脅す輩がいたらしいけれど、現在の風潮と比べてこれらをどう考えたらいいのでしょうね※あくまで個人的な感想であり、特定の人物や団体を誹謗中傷する意図は全くありません。単なるブログ記事なので、そこはご了承願います!映画(全般)ランキング※こちらもポチッとお願いします!

D3-33) 佐々木 閑: 徳川幕府の政治体制に組み込まれた仏教/ D3-34) 大石寺客殿・六壺・大坊焼失 - 日恭上人

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2025-01-17 01:00:00 - D3-33) 佐々木 閑: 徳川幕府の政治体制に組み込まれた仏教 本山末寺制度も檀家制度も、徳川幕府の意向によって全仏教界に導入されたものだ。鎌倉時代に生まれた新仏教の各宗派は江戸時代になって檀家制度で民を管理し、租税徴収の一端を担う世俗的活動に組み込まれたことで日本仏教は安定期を迎えた。現在の日本仏教のほとんどが鎌倉時代に出揃った。「仏教は人を苦しみから救ってくれる教えだ」との認識が広く日本中に広まり、異なる階層の人たちが信奉する時代が到来した。しかし異なる教義を主張する複数の教団の集合体であったが、徳川幕府の時代ではすべての仏教宗派が幕府の権力の下で統括され仏教世界は極めて安定した状況で維持された。幕府の基本方針はどの宗派にも一定の経済的利益と宗教的権威 を与えることで、江戸時代の仏教界は安定的に維持されていった。各宗派内で寺院を格付けし本山を頂点とする ピラミッド構造はこの時期に設定され幕府による仏教統制が極めて容易になった。日本仏教の場合はこの制度によって全ての寺院が格付けされ僧侶の格付けにもつながり、仏教界内部に新たな身分差別構造が定着していった。全ての国民が家族単位で、いずれかの仏教寺院の檀家にならなければならない制度が制定され出生、死亡、 結婚、旅行、移住などの個人情報が寺院に集約されることにより幕府にとって仏教寺院は政権維持のために必要 不可欠な統制機関として重要視された。個々人の思惑で信奉する寺院を選択することができなくなり、代々その 家系が所属する寺院のメンバーになることが強制されることとなった。この制度が現代でも機能している。 大乗仏教の経典に書かれていることは釈迦の教えではない」という説の代表的人物が富永仲基(1715~46)である。富永は膨大な量の大乗経典が釈迦ではなく後代の多くの人たちが長い時間をかけて制作したものであることを実証的に論証した。当時の仏教界から猛烈に批判されたが明治時代になってからその業績が再評価され現在で は日本思想史上、屈指の発見とされている。D3-34) 大石寺客殿・六壺・大坊焼失 - 日恭上人 ウィキペディア:1865 慶應元年2月28日 大石寺客殿・六壺・大坊焼失(霑伝) 1865 慶應元年3月中旬 日霑、帰山し21日出府(霑伝)1865 慶應元年5月7日 日盛上人、下乃坊に移り後平井信行寺に赴く 1865 慶應元年5月7日 日英上人、再住1865 慶應元年5月15日 日霑上人、再住1865 慶應元年10月 日霑上人、大坊再建に着手1865 慶應2年6月 大坊再建府(霑伝)1865 慶應2年7月 日霑上人、客殿再建に着手(霑伝)1871 明治4年6月 客殿復興(霑伝)ネット記事:日蓮正宗が大謗法を犯したのが、この日恭上人の時代であった。 蓮葉庵系と富士見庵系との壮烈な権力闘争の淵源となった江戸時代末期の日霑、日盛。 日盛の隠遁、行方不明の原因は、直接的には大石寺の大火だった。『富士年表』には1865 元治2年2月28の欄に、「客殿・六壺・大坊焼失(霑伝)」と記されている。つまり、こ の日は大石寺が火事になり、客殿も大坊もことごとく焼失してしまった。大石寺では開創以来、12件の火災が あった(安政五年の分を除く)。そのうち11件は江戸時代以降に集中している。江戸時代の1635寛永12年から 1638同15年にかけて檀家制度が成立するが、大石寺が徳川幕府の手先となり、寺檀制度によって民衆を支配するようになってから火災が増えてきた。大石寺と同門であった重須本門寺や要法寺、保田妙本寺、妙蓮寺、常在寺 などの末寺を加えると、『富士年表』に記載されている火災だけでもなんと約100件にのぼる。火災、焼失が相次いだという事実をどう見るべきなのか。この頃から大石寺の坊主たちは堕落し、火の始末にもだらしがなくなるほど生活が乱れていたのか。大御本尊様をお護りする強い信仰心、使命感が欠如していたのか。加護するべき 諸天善神も見捨てていたのか。【大石寺の火災一覧(江戸時代以降)】1631 寛永八年十月十二日 大石寺諸堂焼失(石文)1635 寛永十二年 大石寺本堂、山門、坊舎残らず焼失(古文書)1807文化四年五月十二日 大石寺塔中理境坊焼失(棟札)1858安政五年五月二十五日 大石寺遠信坊・寿命坊・寶林坊・学寮四箇焼失(霑伝)1860万延元年二月二十五日 大石寺石之坊より出火、富士見庵・寿命坊・遠信坊・学寮焼失(本尊裏書) 1865元治二年二月二十八日 大石寺客殿・六壺・大坊焼失(霑伝)1865 慶応元年十二月二十三日 大石寺蓮葉庵焼失(霑伝)1909 明治四十二年六月八日 大石寺塔中百貫坊焼失(白蓮華四―六)1924 大正十三年十月三十一日 大石寺塔中本境坊焼失(院二二五)1930 昭和五年六月四日 大石寺塔中本境坊焼失(院二七五)1933 昭和八年十月二十三日 大石寺蓮葉庵焼失(宗報A三七)1945 昭和二十年六月十七日 大石寺大坊(対面所・大奥・書院・六壺)・客殿等五百余坪焼失(寺誌) このうち1865 元治二年二月二十八日に起こった火災は夜半に下男部屋から出火して、客殿・六壺・大坊など残らず焼失したのであった。このとき前法主の第52世日霑は、何らかの特別な事情があって、二月初めに大石寺を出発して江戸に滞在中であった。だが大火災の惨状についての報告を受けて驚き、急いで帰山したというのである。この元治二年の大火災と当時の法主・日盛について、日達上人は次のように述べている: 「第53世日盛上人の代になりますと、今まであった大坊も全部焼けてしまったため、日盛上人は御隠居なされたのです。それからまた、霑尊が 再び猊座へつかれた」事実は、日盛が隠居し、スムーズに日霑が再度の登座をしたわけではなかっ た。日霑が三月中旬にいったん帰山したが、実は日盛は大火の翌日には辞任していた(盛師御傳記)のである。 五月になって第51日英が、高齢にもかかわらず再び登座したが、そこには約二カ月間、“猊座”の空白があった。 そこには、火災だけではなく複雑な事情があったようだ。その後の経過については『日霑上人伝』(堀日亨上人 編)に詳しく書かれている:「日霑が下山したことに僧侶たちは驚き日盛を追及するのを止めて仲直りしたうえ、 塔中の代表として久成坊、檀家の代表として井出与五右衛門が51日英、53日盛の書簡を持参した。そのため日霑 が帰山してみたところ、日盛は下之坊へ隠遁したというのである。日盛は日霑と会うことを避けて下之坊へ隠遁 したというのが、日霑自身の言である。「其の先非」というのは火災の責任という意味だとの説もあり、また日霑を隠居に追い込んだことを指すとの見方もある。おそらくは後者が正しいであろう。 (編者の感想) 大石寺僧俗は53 日盛上人(富士見庵系)に対して大石寺焼失の責任を激しく追及し、日盛上人は出身の平井信行寺に赴き、 日霑上人(蓮葉庵系)が(旅先から)大石寺に戻り再住した。日盛上人(富士見庵系)と日霑上人 (蓮葉庵系)が支持者の僧俗を連れだって争うという反目の歴史を残した。

過去の自分と重ねる

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2025-01-17 01:00:00 - ボランティア的なコミュニティに所属して数ヶ月。少人数の小さいグループで、居心地がいい。立ち上げたのは、定年まで働かれ、人生経験も豊富な女性で、物腰も柔らかく、周りの意見も柔軟に聞いてくれる。彼女を見ていると、すごいな〜と思う場面が多々ある。その女性が、「これは命懸けでやらなきゃいけない事業」と「命懸け」なんて言葉を使ったものだから、正直、ちょっと引いてしまった。氣持ちが重くなった。でも実際には、彼女が精力的に動いてくれているお陰で、私自身、助かっているわけなんだから、「そんなに氣合いを入れて頑張ってくれているんだ」と感謝して、「でも、無理しないでくださいね」と、労う、それでいいはずなのに、なぜ重く感じたのだろう。……過去の自分と重ねたから。以前の、ひとりで使命感に燃えて、前のめりだった時の自分。そこに氣持ちよくなっていた自分。そしてコケた自分。あ〜、その時の自分を今でも見下しているんだな。許せてないんだ。黒歴史にしてるんだ。「過去の自分をよく見なさいね。そこにあるのはどんな感情?ダメなところだけ?過去の自分と統合してね」。……きっとこういうお知らせだね。つくづく思う。全て自分で見せて、自分で感じて、自分で氣づく世界なんだなと。
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