松田

#1754 , available today | 「 風の色・・,空の匂い・・・・. 」

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・ #1754/ 【 available today 】 ・©“ 撮るじゃん。”all reserved.#sukiyak

(T_T) | あと5分

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松田…(T_T)

松田千奈 | スタイリッシュ癒し

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松田千奈 Jamaican Blueウォーターメロン~Super Nice Body’s

松田千奈 | AV STATION

http://tyler193jp.blog18.fc2.com/blog-entry-850.html
松田千奈 Jamaican Blueウォーターメロン~Super Nice Body’s

読書、雑談、

https://wucaop.seesaa.net/article/508850786.html
2025-01-14 01:05:00 - THE TIME,を視聴芸能エンタメ〜松田好花さんと南後杏子アナ浜辺美波さんの今年の目標は“読書”松田さんの目標は“雑談”たあいもない会話を続けたい南後アナからお誘い、雑談をしまし..

アマゾンプライムビデオで見た映画群 その51 ロードハウス 孤独の街

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2025-04-07 04:33:00 - アマゾンプライムビデオで、プライム会員は無料で見られる映画群で、特に名作映画でもなく、無料で見れる期間が終了するわけでもない映画群があるんですけど、そういうくくりが今までなかったので、アマ..

アマゾンプライムビデオで見つけたヘンな映画その8:忍者大戦(原題:NINJA THE FINAL DUEL)

https://hotrod-high.seesaa.net/article/507675064.html
2025-08-04 08:26:00 - アマゾンプライムビデオで見つけたヘンな映画その7:アイアン・フィスト(原題:The Man with the Iron Fists)http://fanblogs.jp/hotrodhigh/ar..

ニチガク 担任

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2025-12-26 12:02:00 - ニチガク担任松田大河内森川

ニチガク 担任

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1970-01-01 01:00:00 - ニチガク担任東京学力会松田

ニチガク 担任

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1970-01-01 01:00:00 - ニチガク担任中川松田大沢丹野倉本

ニチガク 松田 東京学力会

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1970-01-01 01:00:00 - ニチガク 松田 東京学力会

放送作家松田好花

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2025-08-03 08:42:00 - テレ東の土曜日放送作家松田好花放送作家として、テレビ番組を作る密着、企画・プレゼン・収録に奮闘どんな番組が完成したのか◆8月10日 午後4時00分〜(45分)

スクエアネック

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2025-07-30 07:37:00 - THE TIME,を視聴630天気〜 松田好花さんと森朗さん松田さんの衣装、トップスはブルースクエアネックで涼しくスカートはホワイト、靴はブラック吉村アナ、宇賀神アナの靴も黒

アナウンス、女子高生

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2025-07-23 07:11:00 - THE TIME,を視聴中高生ニュース、鹿児島の女子高生アナウンスコンクールで優勝を狙う好きなアナウンサーは宇賀神アナ中高生Nの次は「7時までエンタメ」福田監督の映画に再び“女子〜..

松田優作、広告

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2025-07-14 07:32:00 - TVer を利用広告に松田優作さんアクオス、シャープ

ニットジャケット

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2025-04-16 04:50:00 - THE TIME,を視聴〔敬称略〕630天気〜 松田好花と増田松田の衣装、ニットジャケットと白いスカートコートがいらない気温早朝グルメ〜 篠原梨菜、立ち食いそば店人参天そば、ゴ..

【ドラマ10】東京サラダボウル 第4話「ティエンと進」

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2025-02-05 02:00:00 - 黒丸の同名漫画を奈緒と松田龍平のダブル主演でドラマ化。原作、『東京サラダボウル-国際捜査事件簿-』(とうきょうサラダボウル こくさいそうさじけんぼ)は、黒丸による日本の漫画作品。『Palcy』(講談社・pixiv)にて、2021年6月20日から2024年2月25日まで連載された。単行本は2021年11月22日より刊行された。 今や約70万人の在日外国人が暮らし、異なる言語、食、文化が同居する“サラダボウル”の東京を舞台に、国際捜査の警察官・鴻田麻里(奈緒)と“ワケあり”の通訳人・有木野了(松田)が異国で生きる葛藤に出会い、日本社会からこぼれ落ちそうな人生を拾っていく姿を描く。ベトナムから来て、悔悟施設に勤める、ティエン(NguyenTruongKhang)と、ケアスタッフの早川(黒崎煌代)等との、繊細な人間関係を描いた秀作でした。発端は、ベトナムから来た、ティエンの怪我から始まったのですが、実は、同僚を庇っていたのが発覚!最初は、「自分より下」と思っていた、研修生が、次第に周囲に可愛がられ、スマホで故郷の家族と会話している内に、嫉妬の感情が芽生え、ティンに、冤罪を押し付ける行為を!でも、ラスト。少しの登場だったけれど、やはり、アリキこと、有木野了(松田龍平)の存在感は大きいですね。改めて、再確認した回でした。 (ストーリー)介護施設で入居者のタブレットが窃盗された。鴻田(奈緒)は疑惑をかけられたベトナム人ケアスタッフ・ティエン(NguyenTruongKhang)の取り調べを行う。ベトナム語通訳人の今井(武田玲奈)は、ティエンの体にあざがあることを発見。外国人労働者の厳しい現状を前に落ち込む今井を有木野(松田龍平)が慰める。真相を探るうち、鴻田はティエンが“友達”と呼んでいたケアスタッフの早川(黒崎煌代)にたどり着く。

【初訪問の方はコチラをご覧下さい】新着記事はこの記事以降をご覧下さい♪

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2025-02-04 02:00:00 - こころりあんブログにご訪問下さりありがとうございます♡ 新着記事は、この記事以降をご覧下さいませブログ随時更新しています。 ( 2月4日 ) NEW‼︎ ( 1 記事アップ )     「こころりあんブログ」 お志事・その他情報は、下記をクリックすると最短で見る事が出来ます。 ◉ 舞台のお志事◉ 癒しのお志事このブログには、色々なお部屋があります。 お時間あれば、お茶は出ませんが、ゆっくりしていって下さいね♪色々なお部屋 …「カテゴリ」 (こちらのアドレスから登録してね) https://lin.ee/jyheodZV 【 ご予約・志事依頼・お問い合わせ 】こころりあん 代表 松田(吉﨑) 真美携帯 : 090-9603-5257              

NHKドラマ「眩」くらら 北斎の娘

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2025-02-04 02:00:00 - 2017年のNHK特集ドラマ、「眩」北斎の娘を観た。1月4日の再放送を見逃したが、配信サービスのおかげで観ることが出来るのはありがたい。影が万事を形づけ、光がそれを浮かびあがらせる。この世は光と影でできている。葛飾応為は光と影に魅せられ、独自の世界を表現した。東洋のレンブラントとも言われている。北斎の娘お栄(葛飾応為)を宮崎あおいが好演、松田龍平の渓斎英泉が良い味を出していた。また、野田秀樹の滝沢馬琴というのも、おもしろかった。松田龍平は「東京サラダボウル」での、中国語通訳の松田龍平も良いなあと思う。

石破首相、68歳の誕生日 「国民のために働きたいと決意新た」

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2025-02-04 02:00:00 - 石破首相、68歳の誕生日 「国民のために働きたいと決意新た」2/4(火) 13:33 毎日新聞 配信より石破首相、68歳の誕生日 「国民のために働きたいと決意新た」(毎日新聞) - Yahoo!ニュース 配信より首相官邸に入り、報道陣からの「誕生日おめでとうございます」のかけ声に笑顔を見せる石破茂首相=2025年2月4日午前7時36分、北山夏帆撮影 石破茂首相は4日、68歳の誕生日を迎えた。首相官邸で記者団に対し「今週は合衆国(米国)大統領との会談も控えている。乏しい能力ではあるが、持っている限りの全身全霊を尽くして、国のため、国民のため、次の世代のために働きたいという決意を新たにした」と心境を語った。 石破首相は1957年2月4日生まれで、当時は自身が敬愛する石橋湛山元首相の在任中だった。石破首相は記者団に「65日という大変短い在任だったが、感慨新たなものがある」と語った。 また、自身が2月生まれであることを念頭に「学年末試験など慌ただしい時期だったので、いつもあまりおめでとうみたいな感じにはならなかったが、今年は多くの方から(祝意の)メッセージをいただいてありがたいことだ」とも述べた。【園部仁史】【関連記事】石破政権の当初予算、年度内に成立する? 通常国会、ここに注目予算修正をにおわせるものの…石破政権を悩ます「二つのジレンマ」自民、政治資金規正法改正案を了承 「禁止よりも公開を強化」「企業献金の全面禁止を意図」河野洋平・元総裁、30年前の真相証言都議会自民裏金事件、五月雨対応の舞台裏 にじむ政治力低下と焦り最終更新:2/4(火) 13:33 毎日新聞#佐藤栄作日記#山口高等学校同窓会#国家安全保障#地域ケアセンター#労働力不足#福祉支援対策費#地域見守り隊#政府の地震調査委員会#石橋湛山・相談窓口#湛山回想石橋湛山日記石橋 湛一,伊藤 隆/みすず書房undefined湛山回想 (岩波文庫 青168-2)石橋 湛山/岩波書店undefined佐藤栄作日記 全6巻セット佐藤 榮作,伊藤 隆 監修/朝日新聞社undefined田中角栄の遺言: 官僚栄えて国滅ぶ小室 直樹/クレスト新社undefined決定版 私の田中角栄日記(新潮文庫)佐藤 昭子/新潮社undefined田中角栄と越山会の女王大下英治/イースト・プレスundefined新総理 石破茂 師・田中角栄と「日本創生」大下英治/河出書房新社undefined復刻版 日本列島改造論田中角榮/日刊工業新聞社undefined田中角栄vs竹下登(2) 「角影」政治 (講談社+α文庫)鈴木棟一/講談社undefined田中角栄vs竹下登(3) 竹下派結成 (講談社+α文庫)鈴木棟一/講談社undefined田中角栄vs竹下登(4) 経世会支配 (講談社+α文庫)鈴木棟一/講談社undefined逆臣 青木幹雄松田 賢弥/講談社undefined福沢諭吉と三人の後進たち (エコノブックス (9))西川 俊作/日本評論社労働市場 (1980年) (日経文庫 経済学入門シリーズ)西川 俊作/日本経済新聞社高齢者福祉 (最新・はじめて学ぶ社会福祉)家髙将明,秦 康宏,杉本敏夫/ミネルヴァ書房undefined

27日目 2月3日月曜 ラノ・ララク

https://ppyhappyhappyha.exblog.jp/37592409/
2025-02-04 02:00:00 - 昨夜のショーは、ピアノとフルートのデュオによる演奏、すごく聴き入りました、その最後の演奏が松田聖子の瑠璃色の地球、そこでハッと、毎日見ているこの海の深い青、なんて表現したらと思ってたけど、これが瑠璃色だと!地球の色なんだと、めっちゃ腑に落ちました今朝も日が登る前に起きたので、そんなことを思いながら撮る朝日、でも太陽がこの位置では海はまだ瑠璃色にはなりませんさて、今日も終日航海日なので、イースター島の午後の続き、ラノ・ララクのお話、この場所はアフ・トンガリキのすぐ近くの岩山で、全てのモアイは昔ここで製造されていたらしいぱっと見、ただの大草原w、しかし入場料は軽く1万円を超える、高いw、写真の奥に見えるセキュリティ無さそうな低い木の柵がそのゲートで、草原の獣道を現地の日本人ガイドさんと歩いて登る、ちなみに気持ちよさそうだけど草原は保護区なので歩くと怒られるwまず最初に現れるのが、倒れて首が折れてるモアイ、うーん、岩wその先は製造途中!?のモアイ達が青い空と緑の草原の中に点在して登場一つ一つのモアイの背中にモアイの数を数えた時に書かれた番号が、、、この子は298番目のモアイですね、カウントの仕方が雑wそして歴史的価値とは関係なくイースター島のパンフレットなどに使われたので有名になったモアイがこれ、鼻が高いのでハンサムだという理由だそうですが、ちょうど雲の合間から太陽も出てきて、よりハンサムに撮れましたこの島にある約900体ぐらいのモアイのうち、作りかけとかで400体ぐらいはここにあるらしいですが、これはまさに作り始めの2体、手前と奥に仰向けで頭と体が逆に掘られているのがわかりますかね!?、モアイはこうして岩山を直に削っていき、最後に背中を剥がして、草原を下まで滑らせて、先ほど点在していたように、起こしてから細かい仕上げをして、各地に運んで行ったそうです見学コースの最後が、唯一ひざまづいているモアイ、どう見ても正座しているように見えますが、2mちょっとぐらいの小型なので初期の頃のモアイだそうです出口を出たらすぐに露店があり、この$20の値札の子と目が合ったので、ここはモアイの製造工場なので、またもう一つ買ってしまいました、ちなみに頭の上に乗っている赤い漬物石ようなものは、プカオと呼ばれ、帽子ではなく赤く染めた髪の毛の束です、仏様の頭のイボイボと同じ原理ですねw【イースター島あるある】この島は観光がメイン産業なのに公衆トイレがありません、唯一このラノ・ララクに男子用1つ、女子用2つの床が抜けそうなトイレがあるだけなので、バスが着くと観光前に大渋滞になります、観光メインならこの辺はなんとかしないといけない、という発想は全く無さそうな平和な島ですw

ぷちっとかわいいやつ

https://tayumazuni.exblog.jp/30591744/
2025-02-03 02:00:00 - 今週、木曜日からスタートです。よろしくお願いいたします。松田紗和「糸で作る文様 マクラメレースのアクセサリー」展2月6日(木)~18日(火)MOORIT WORK ROOM東京都世田谷区玉川3-12-11 B103-3708-637510:30 - 17:00日・水定休2月21日(金)~3月7日(金)リネンバード 北浜大阪府大阪市中央区高麗橋1-7-3 北浜プラザ内1F06-6223-551710:30 - 19:00会期中のお休みなしこちらはチャーム全員集合。プチプチとかわいいの、作ってみてください。イベントに先行して、タイマフラーとポーチの材料セットが、上記の店舗とオンラインショップで販売中。こちらも書籍を見て作ってみてくださいね。

太陽は銀河系の中では主系列星の一つで、スペクトル型はG2V(金色)である。

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2025-02-03 02:00:00 - ウィキペディア読者のみなさまへ。 私たちは世界で5番目のウェブサイトを運営する小さな非営利組織です。 わずか150人のスタッフが4億5千万人のユーザーを支えており、他のトップサイトのようにサーバー、電力、家賃、プログラム、人件費がかかります。 ウィキペディアは特別なものです。例えるなら、みんなの図書館のようなもの、また知の神殿のようなものでもあります。私たちが考え、学ぶことができる場所です。 独立性を守るため、私たちは広告を掲載しません。政府からの援助も一切受けません。 私たちはみなさまの寄付で運営されており、その平均額は\3000です。今、あなたの支援が必要です。もしこのメッセージをお読みのみなさまがコーヒー1杯分の価格ずつご寄付くださったとしたら、この資金募集は1時間以内に終わります。ウィキペディアがお役に立ちましたら、また1年広告なしで運営できるよう1分のお時間をください。 私たちが資金募集のことを忘れてまたウィキペディアの仕事へ戻れるよう、どうかご協力ください。 よろしくお願いします。クリックして支援赤城 (空母)移動: 案内、 検索AkagiDeckApril42.jpg艦歴起工 1920年12月6日進水 1925年4月22日竣工 1927年3月25日喪失 1942年6月5日位置 北緯30度30分 西経178度40分除籍 1942年9月25日性能諸元 (竣工時)排水量 基準:26,900t 公試:34,364t全長 261.2m(763呎[1])全幅 29.0m吃水 8.1m飛行甲板 190.2m x 30.5m (上段)主缶 ロ号艦本式専焼缶11基ロ号艦本式混焼缶8基機関 技本式タービン8基4軸 131,200hp最大速力 32.1ノット航続距離 8,000カイリ / 14ノット時乗員 1,297名兵装 50口径20cm連装砲2基4門50口径20cm単装砲6基6門45口径12cm連装高角砲6基12門搭載機 三式艦上戦闘機:16機一〇式艦上偵察機:16機一三式艦上攻撃機:28機合計:60機性能諸元(近代化改装後)排水量 基準:36,500t 公試:41,300t全長 艦体:260.67m水線長:250.36m全幅 31.32m飛行甲板 249.17m×30.5m機関 133,000hp最大速力 30.2ノット巡航速度 16ノット航続距離 8,200浬乗員 1,630名[2]兵装 20cm砲 6基6門12cm連装高角砲 6基12門25mm連装機銃 14基28門搭載機 常用66機、補用25機1941年12月常用機零式艦上戦闘機:18機九九式艦上爆撃機18機九七式艦上攻撃機:27機赤城(あかぎ)は、かつて大日本帝国海軍に所属した航空母艦である。同型艦は天城(未成)。太平洋戦争初期の重要な海戦において、機動部隊の旗艦として活躍したが、1942年、ミッドウェー海戦で沈没した。目次1 艦名の由来2 建造経緯3 初期の艦形4 近代化改装5 戦役5.1 日中戦争5.2 太平洋戦争5.3 ミッドウェー海戦5.4 沈没6 艦歴7 歴代艦長7.1 艤装員長7.2 艦長8 ドイツへの技術供与9 赤城が登場する作品9.1 実写映画9.2 アニメ10 参考文献11 脚注12 関連項目13 外部リンク艦名の由来 [編集]艦名は赤城山にちなんで命名された。空母でありながら山名に由来する艦名がつけられた理由は、後述の艦種変更に起因する。日本海軍の命名慣例については日本艦船の命名慣例を参照のこと。建造経緯 [編集]日本海軍が計画した八八艦隊計画により、「41cm砲10門、排水量41,000t、速力30ノット」[3]という規模の天城型巡洋戦艦2番艦として呉海軍工廠で建造され、1920年(大正9年)12月6日に進水した。完成前の1922年(大正11年)にワシントン海軍軍縮条約が締結されたことから、条約に従い主力艦としての廃艦処分を回避するため、当時は補助艦艇であった航空母艦に改造されることになった[4]。それでも巡洋戦艦として完成していた船体を無理矢理空母に改造したため、当初から不具合が続出している[5]。計画では、全長254m(770呎)、幅33m(110呎)、排水量27,000t、速力31.75ノット、36機搭載という規模だった[6]。1925年4月22日、航空母艦「赤城」として進水した[7]。なお、本艦の同型艦である「天城」も同様に航空母艦に改造される予定であったが[4]、関東大震災により竜骨を破損したため破棄されることになり、代艦として加賀型戦艦1番艦であった戦艦「加賀」が航空母艦に改造された[8]。機密保持がさほど厳しくなかった昭和初期までは艦影が公開されて、広く一般に愛されている[9]。ただし艦要目は「全長232,56m、幅28,04m、常備排水量28,100t、速力28.5ノット」と控えめな数値で公表され、搭載機数については秘密であった[10]。また三段空母時代の艦影は広く知られていたが、飛行甲板一枚に統一された近代化改装以降の姿は有名ではなかった。セイロン沖海戦の前に本艦に乗艦した牧島貞一従軍カメラマンは、三段空母時代の「赤城」と近代化改装後の「赤城」の艦影が違うことに驚いている[11]。初期の艦形 [編集]建造当初の飛行甲板はイギリス海軍空母「フューリアス」の第二次改装を参考にして三段式であった(フューリアスは二段)。ただし、中段には20cm連装砲2基と艦橋があり、飛行甲板としては使用されなかった。しかも下段甲板もほぼ使われていないという有様だった。着艦と大型機の発艦は最上段の発着甲板で行い、中部格納庫(本艦は格納庫も三段式)から伸びた下段飛行甲板は小型機の発艦に使用された。建造中は、どの甲板を「上甲板」と解釈するかで議論があった[12]。また煙突は右舷に設置され、重油専焼缶の第一煙突は飛行甲板上の乱流を防止するため海面側に向け、発着艦時には海水を噴霧して冷却のうえ排煙し、重油・石炭混焼缶の第二煙突を上方に向ける方式がとられた。この独特の構造は世界の過去から現在の空母の中でも後にも先にも赤城だけである。完成後数年で飛行甲板右舷に航海用の小型艦橋が設置された。これは、先に近代化改装工事に入った加賀で改装前に使用されていたものを移設したものである[13]。新造公試における3段甲板の赤城。艦橋前の20cm連装砲はまだ搭載されていない。近代化改装前の赤城。下の戦艦は長門右舷に小型艦橋を設置した改装前の赤城1929年に撮られた赤城。艦首に20cm連装砲塔2基が見える上述の通り三段甲板の中段に20cm連装砲2基、後部両舷にそれぞれ単装砲を3基ずつ据え、合計で20cm砲を10門装備する。これはワシントン海軍軍縮条約の規定の上限であり、重巡洋艦と同等である。当時はまだ空母という艦種ができたばかりで用法が定まっておらず、また搭載航空機の航続距離も短く性能も低かったため、空母にも砲戦の機会があると考えられたからである。なお、巡洋戦艦として計画されていたときよりも排水量が大幅に減り(基準排水量で約1万トン減)、喫水が浅くなった。近代化改装 [編集]大改装後の赤城。右舷中央に巨大な曲面煙突が判別できる。左舷側艦橋を設けた日本空母は本艦と飛龍のみ。高知県宿毛湾に停泊する赤城。飛行甲板前後の傾斜部分が判る。航空機の発達にともなって飛行甲板の延長が必要となり、先に大改装を行っていた「加賀」を参考に1938年(昭和13年)に全通式の飛行甲板に延長するなどの近代化改装が佐世保海軍工廠でほどこされた。艦型は一新され、排水量も41,300t(公試状態)となった。この時、下二段は閉鎖式の格納庫甲板となり拡張されて常用の搭載機も66機に増えた。飛行甲板は中央部が水平で、艦首方向へ0.5度、艦尾方向へ1.5度の傾斜が付けられていた。 ただし赤城の改装は予算上の制約から「加賀」に比べると、丁寧ではなかったり略式なものにとどまり、用兵側からは不満の残る仕上がりとなった。 例えば飛行甲板では、木製の板の隙間を埋める防水充填剤が板と板の間からはみ出て、それが甲板上に黒く硬くなって残っているなど、他の空母にはこのような雑な飛行甲板の仕上げは見られなかったという[14]。第一煙突と第二煙突は一つにまとめられ、右舷中央部に設置された。また艦橋を艦中央部に設置することになり、右舷のままでは煙突と干渉するため反対側の左舷中央部に設置した。この艦橋配置は右舷の煙突と相まって気流を乱し、艦載機の着艦を難しくさせた他、排煙が艦橋に流れ込みやすく、見張りに支障をきたすこと、格納庫面積が狭くなるといった欠点があり、以後は飛龍に採用されただけである。航空機の着艦時には煙突内に海水を噴射して煙を吸収させるため、煙突から滝が落ちているように見える[15]。右舷後部の居住区は煙突の排気が流れ込むため窓をあけられず、居住性の悪さから「人殺し長屋」の異名があった[16]。煙突を艦橋と一体化し、煤煙を上方へ逃がす欧米空母型の艦橋・煙突を採用した飛鷹型航空母艦「隼鷹」を見た赤城将兵が、これからは軍艦の居住性が良くなると解説した事もある[17]。また「赤城」では結核と赤痢を発症する兵が多く[18]、暑さと空気の悪さのために廊下でハンモックを吊り睡眠する兵や、飛行機格納庫に寝床を作る兵が多かった[19]。武装面では、「加賀」と違って、旧式の一〇式45口径12cm高角砲を、新式の八九式40口径12.7cm高角砲に換装・増強できなかった。設置位置も低い位置のままだったので、依然として反対舷方向は撃てなかった。96式25mm機銃の数は中型空母「蒼龍」と同じで「飛龍」よりも少なく、4万トン級という船体の大きさの割に、真珠湾攻撃に参加した空母6隻の中で対空火力は最も貧弱だった。三段甲板時代、中段甲板に設置されていた砲塔式の20cm砲は撤去されたが、艦尾舷側に装備した計6門の20cm砲は近代化改装後も装備していた。若手士官は「発射すると飛行甲板がめくれあがる無用の長物」と揶揄している[20]。ミッドウェー海戦で「赤城」は20cm砲最低54発を発射しているが[21]、飛行甲板への影響については不明である。飛行甲板に手すりはなかったが、一段低い高角砲と機銃甲板の間にポケットと呼ばれる整備兵退避場所がある[22]。さらにネットが張ってあり、落下事故を防止していた[23]。二段の格納庫も船体の大きさの割には狭く、搭載機数は「加賀」、「翔鶴」、「瑞鶴」より少なかった。大蔵省の記録では、戦闘機27、攻撃機53、計80、補用機40、総計120(加賀は、戦闘機24、攻撃機45、計69、補用機31、総計100)となっている[24]。太平洋戦争開戦時の常用搭載機数は艦上戦闘機18機、艦上爆撃機18機、艦上攻撃機27機。加賀、翔鶴、瑞鶴はいずれも艦戦18、艦爆27、艦攻27である。航空機はエレベーターで上下するが、乗組員は左舷のタラップで飛行甲板へ上がった[16]。各種の改装によって排水量が1万tほど増加したにもかかわらず、機関出力はあまり向上しなかったため、速力は32.1ノットから30.2ノットに低下した(実速29ノット前後という報告もある[要出典])。航続距離もあまり延長されなかったため、遠距離外洋航行が問題になる真珠湾攻撃作戦の計画段階では「蒼龍」、「飛龍」とともに作戦から外されることが検討されたこともあった[25]。戦役 [編集]日中戦争 [編集]第一次上海事変発生時には予備艦とされて一部改装工事を受けており、日中戦争で空母部隊に出番のあった序盤も近代化改装を受けている最中だったため、ほとんど出番はなかった。1939年、日本本土に戻った空母「加賀」と入れ替わるように第一航空戦隊旗艦となり、1月に横須賀軍港を出港[26]。佐世保軍港で九七式艦上攻撃機を搭載したのち、駆逐艦「追風」、「疾風」に護衛されて中国へ進出する[27]。2月3日、香港島万山諸島万山湾に投錨した[28]。南支方面艦隊(近藤信竹中将[29]、第五艦隊 重巡洋艦青葉)を支援し、2月10日の海南島制圧作戦[30]に参加する[31]。「赤城」は海軍陸戦隊の支援任務を行った。「赤城」の出番はこれで終わり、その後有明湾に帰投して飛行機隊の訓練に従事した。太平洋戦争 [編集]「赤城」にとって、太平洋戦争(大東亜戦争)の真珠湾攻撃が本格的な初陣となり、「加賀」とともに第一航空戦隊を編成していた。1941年11月9日から14日にかけて、重油の入ったドラム缶900本を搭載し、内火艇などもすべて陸揚げした[32]。第一航空艦隊(南雲機動部隊)所属空母の艦載機部隊は錦江湾や志布志湾、佐伯湾で演習を行い、11月16日佐世保基地にいた「加賀」以外の空母5隻は佐伯湾にて各艦載機部隊を佐伯海軍航空隊基地から離陸させて着艦収容した。 その時の佐伯湾にはハワイ作戦に参加するほとんどの24隻の艦船が集まっており、翌17日午後に山本五十六連合艦隊司令長官の視察を受けた。各艦船は機動部隊としての行動をごまかすため、11月18日午前4時阿武隈 (軽巡洋艦)と駆逐艦9隻が動き出したのを皮切りに、時間をずらしてバラバラに佐伯湾を離れ(ちなみに「赤城」は同日午前9時に動き出した)、艦隊が最終集結する千島列島の択捉島単冠湾を個別に目指した。11月19日八丈島沖の「赤城」では飛行甲板上に全乗組員が集められて真珠湾攻撃が訓示され、艦隊集結予定日通り11月22日の朝に単冠湾へ入る[33]。各艦打ち合わせと兵器整備の後、11月26日単冠湾を出港し、南雲機動部隊の旗艦として一路ハワイ・真珠湾へと向かった[34]。赤城からの真珠湾攻撃参加機[35]第一次攻撃隊九七式艦攻27機(水平爆撃隊15機=指揮官:飛行隊長淵田美津雄中佐、雷撃隊12機=指揮官:飛行隊長村田重治少佐)、零戦9機=指揮官:飛行隊長板谷茂少佐第二次攻撃隊九九式艦爆18機=指揮官:分隊長千早猛彦大尉、零戦9機=指揮官:分隊長進藤三郎大尉12月8日午前1時30分、淵田中佐率いる第一次攻撃隊は「赤城」から発進した。日本軍航空隊の奇襲により、米軍太平洋艦隊は潰滅した。赤城第一次攻撃隊は零戦1機を喪失し、10機が被弾、戦死者2名を出した[36]。赤城第二次攻撃隊は九九艦爆4機を喪失し、13機が被弾、戦死者8名を出した[37]。「赤城」は日本への帰路につき、12月24日、日本本土に到着した[38]。1942年1月下旬ラバウルを攻撃し[39]、2月中旬のオーストラリアの港湾都市ポートダーウィンを空襲[40]、3月5日チラチャップ攻撃と南太平洋を転戦する[41]。3月26日、セレベス島を出港し、インド洋へ進出する[42]。セイロン沖海戦では、他の空母とともにイギリス海軍重巡洋艦「ドーセットシャー」、空母「ハーミーズ」を撃沈するなど破竹の進撃を続けた[43]。一方で「ハーミーズ」攻撃直前、英軍のウェリントン爆撃機(著作や戦闘詳報ではブリストル・ブレニム爆撃機)から攻撃され、10発近い爆弾が「赤城」の艦首附近に落下する[44]。対空警戒警報も出されず、爆撃されてからはじめて高高度を飛行する英軍機の存在に気づき、高角砲を撃ち始める有様だった[45]。この時、飛行甲板の下の格納庫では、九七艦攻の装備を対地攻撃用の爆弾から艦艇攻撃用の魚雷に変更している最中だった[46]。インド洋作戦中の1942年(昭和17年)4月1日、「赤城」の常用搭載機数は、艦戦18、艦爆18、艦攻18に減らされ、中型空母の「蒼龍」、「飛龍」と同じ航空攻撃力しか持たなくなった。4月24日、母港横須賀港に戻る[47]。真珠湾に向かう赤城 後に蒼龍と飛龍他、金剛型戦艦が続いている真珠湾に向かう赤城 後に加賀、翔鶴、瑞鶴、蒼龍、飛龍、が続いている1942年4月5日、インド洋にて発進する九九式艦上爆撃機ミッドウェー海戦 [編集]回避行動中の空母「赤城」そして「赤城」は1942年6月に生起したミッドウェー海戦に参加する。ミッドウェー島占領後、基地航空隊の司令となる予定の森田大佐、飛行隊長、整備員達が「赤城」に乗り込み、士官室は手狭になった[48]。淵田美津雄中佐(赤城飛行隊長)や村田重治少佐(雷撃隊隊長)ら飛行搭乗員達は、山本五十六連合艦隊長官と戦艦「大和」が南雲機動部隊の300浬後方をついてくることに「戦争見物でもするつもりか」と怒りを隠さなかったという[49]。5月27日の海軍記念日に「赤城」以下南雲機動部隊は日本を出撃する[50]。6月4日、艦橋の周辺にハンモックを丸めたマントレットを装着した[51]。日本時間6月5日午前1時30分、日本軍南雲機動部隊はミッドウェー島の米軍基地に攻撃部隊を発進させた[52]。「赤城」からは零式艦上戦闘機9機(空中戦で1機喪失[53])、九九式艦上爆撃機18機が発進した。空中攻撃隊総指揮官を務めるはずだった淵田美津雄中佐は盲腸手術からの回復期で出撃できず、飛行甲板から攻撃隊を見送った[54]。その彼の足元の航空機格納庫では、魚雷を搭載した九七式艦上攻撃機が米軍機動部隊出現に備えて待機している[55]。第一次攻撃隊発進後、魚雷を搭載した第二次攻撃隊の九七艦攻が飛行甲板に揚げられた[56]。午前4時、ミッドウェー基地攻撃を終えた第一次攻撃隊が『第二次攻撃の必要性あり』と伝達する[57]。南雲忠一司令官は兵装転換を各艦に命令、第一航空戦隊(赤城、加賀)では飛行甲板の九七艦攻を格納庫に戻して魚雷を外し、陸用爆弾に転換する作業が始まる[58]。その最中、南雲機動部隊はミッドウェー基地から飛来した米軍航空機の空襲を受けた。「赤城」は攻撃を全て回避し[59]、直衛の零戦を発進させて米軍機の攻撃を撃退した[60]。午前4時40分、重巡洋艦「利根」の零式水上偵察機が予期せぬ米軍部隊の存在を報告したため[61]、南雲司令部は兵装転換を45分に一時中止する。5時20分に詳細が入り敵空母の存在を確認。5時30分、ミッドウェー基地への攻撃をとりやめ、米軍機動部隊を攻撃するため魚雷兵装転換命令を出す[62]。さらに南雲機動部隊上空に帰還した第一次攻撃隊の着艦や、直衛戦闘機の燃料・弾薬補給の着艦・発艦を優先させた。「赤城」の格納庫では兵装転換を終えていた6機の九七艦攻への魚雷再装着作業が始まる[63]。格納庫には、取り外された爆弾が乱雑に転がっている状態となった[64]。「赤城」は第一次攻撃隊27機の収容を優先し、午前6時18分に収容を終える[65]。その後も米軍は南雲機動部隊に波状攻撃を行い、直掩の零戦隊は米軍のTBFアベンジャー雷撃機に対応するため海面付近に降下した[66]。各艦の注意が低空に向いていた日本時間午前7時26分、「赤城」はアメリカ海軍空母「エンタープライズ」から発進した艦載機SBD ドーントレスの急降下爆撃を受ける[67]。面舵にて回避に努めたが、2発が命中、1発が至近弾となる[68]。至近弾となった最初の1発は艦橋左舷数十mで炸裂[69][70]、命中した2発は1発目が中部エレベーター付近に命中し[70]、飛行甲板を突き破って格納庫内で炸裂[67]。2発目が左舷後部甲板縁で炸裂[67][70]、舵を破壊した。「赤城」飛行甲板にいた牧島カメラマンによれば、初弾が左舷艦橋附近至近弾、次発が飛行甲板中央、三発目が艦尾至近弾となり、飛行甲板後部がめくれあがったという[71]。艦橋にいた橋本信号兵曹も、三発目は命中弾ではなく至近弾と回想している[72]。当時、「赤城」の飛行甲板上では直衛戦闘機の発艦準備中で、零戦1機が発艦を終えた直後だった[73]。滑走中だった二番機は甲板中央で逆立ちとなり、炎上した[74]。「赤城」の格納庫内には3機の零戦、魚雷装備艦攻18機、第一次攻撃隊として着艦収容したばかりの艦爆18機があった[75]。特に九七艦攻は米軍機動部隊攻撃のため燃料を満載し、魚雷を装備中だった。その周囲には艦攻から外した陸用爆弾が散乱していたという。中央部に命中した米軍機の爆弾により、これらが誘爆を始め、「赤城」の致命傷となった[76][67]。午前7時42分、「赤城」は舵故障により洋上に停止[77]。乗組員は炎上する飛行甲板にいられず、前部錨甲板か後部甲板に追い詰められてしまう[78]。艦橋にも炎に追われた乗組員が逃げ込んだが、その艦橋にも逆立ちとなった炎上零戦から延焼し[77]、南雲中将や草鹿龍之介参謀長ら司令部は艦橋前面の小窓から飛行甲板に下りた[79]。彼らは艦首前甲板に移り、短艇で「赤城」を脱出した[80]。源田実航空参謀は「(珊瑚海海戦で損傷・消耗した)翔鶴と瑞鶴」がいれば…」とつぶやき[81]、その後は南雲中将以下、全員が無言だったという[82]。午前7時46分、南雲忠一第一航空艦隊司令長官と司令部人員は軽巡洋艦「長良」(第十戦隊旗艦)に移乗した[83][84]。駆逐艦を経由したかどうか諸説あるが、牧島カメラマンや橋本の回想では「長良」に直接移乗している[85]。橋本によれば、駆逐艦「嵐」(第四駆逐隊司令艦)が「赤城」左舷後部至近距離に停泊して南雲司令部の移乗を待っていたところ、「赤城」左舷前方500mに停泊した「長良」からも迎えの短艇2隻が来たため、水雷戦隊の旗艦である「長良」に移乗艦を変更したらしい[86]。戦闘詳報では、この時接近した駆逐艦を「野分」と記している[77]。沈没 [編集]「赤城」は魚雷を被雷しておらず、格納庫内部の誘爆によって内部から焼き尽くされていった。甲板士官が独断で防火扉を開放したため、負傷者の移動と応急班員の移動を迅速に行うことが出来たという[87]。午前8時、機関部との連絡が途絶[88]。罐室の機関科兵は脱出に成功したが、タービン室と発電機室の兵は脱出連絡が間に合わず、全員戦死した[89]。午前8時20分、青木泰二郎大佐は火勢が強まった艦橋から飛行甲板前部に移ると[90]、負傷兵の駆逐艦移乗を命じる[91]。この時点で格納庫内の魚雷と爆弾の誘爆により飛行甲板は大火災となり、艦長以下幹部達は艦首錨甲板(飛行甲板と船体の間)に追い込まれた[92]。午前9時3分、「赤城」はなぜか自然に前進をはじめ、右回りに円を描いた[93]。午前10時38分、昭和天皇の写真(御真影)を駆逐艦「野分」に移す[94]。この後、後部との連絡が可能となったが、正午ちょうどに前部格納庫で再び大爆発が起きた[95]。午後1時、青木艦長は「赤城」は一部の乗組員を駆逐艦「野分」や「嵐」に移乗させた[96]。それでも青木は「赤城」を救おうと努力し、午後3時20分には機関部の復旧を試みたが、ガスと熱気のため作業不可能であった[97]。午後4時20分、赤城機関長の「自力航行不可能」の報告をもって青木艦長は総員退去を決定[98]。自沈のため、駆逐艦の魚雷発射を要請した[98]。午後5時、乗組員は艦長の訓示を受け、駆逐艦「嵐」、「野分」に移乗を開始する[99]。午後7時、「嵐」に約500名、「野分」に約200名が移乗した[100]。ところが午後7時25分、後方の主力部隊・旗艦「大和」に座乗していた山本五十六連合艦隊司令長官から「赤城の処分は待て」と命令が入る[83][100]。午後7時30分、青木艦長は第四駆逐隊の有賀幸作司令官(後の戦艦「大和」艦長)と三浦中佐(赤城航海長)の説得により「嵐」に移ったため[101]、「赤城」は無人のまま第四駆逐隊の各艦と共に漂流を続けた。午後11時55分、空母「飛龍」の喪失により勝敗が決したことを悟った山本長官は、連合艦隊電令第161号にてミッドウェー攻略中止を各部隊に命じる[102]。日本時間6月5日午後11時50分、山本長官は魚雷による「赤城」の処分を命令した[83][103]。第四駆逐隊は日付変更の時点でも燃えていると報告したが[103]、この頃になると可燃物が全て燃え尽きたため、「赤城」は焼け焦げた姿で漂流していたという[101]。一方、未だ誘爆が起きていたという証言もある[104]。6月6日午前2時「赤城」の右舷に対し、第四駆逐隊各艦(嵐、萩風、野分、舞風)から各1本が発射される[103]。4本の魚雷のうち2ないし3本が命中。1942年(昭和17年)6月6日午前2時10分、北緯30度30分、西経178度40分の地点で、「赤城」は艦尾から沈んでいった[83][105]。ミッドウェー海戦時の「赤城」に乗り組んでいた実員は不明である。これはミッドウェー基地占領時、同島基地に進出するための基地要員や兵員が便乗していた為である。「赤城」の定員は1,630名、第一航空艦隊司令部員が64名で、准士官以上8名、下士官兵213名の計221名が戦死した[106]。機関科員が閉じ込められた「加賀」、「蒼龍」と異なり、その多くが救出されたため人的被害はこの二艦ほど多くはなかった。同海戦における赤城搭載機搭乗員の戦死者は機上3名、艦上4名の合わせて7名(戦闘機4名、艦爆1名、艦攻2名)で[107]、淵田中佐、板谷少佐、村田少佐の3飛行隊長ら多くの搭乗員が救助された。「赤城」炎上後も、数機の零戦が空母「飛龍」に着艦したが[108]、その後の戦闘や「飛龍」沈没によって全機が失われた。艦歴 [編集]1920年(大正9年)12月6日 - 巡洋戦艦「赤城」として呉海軍工廠において起工1925年(大正14年)4月22日 - 進水1927年(昭和2年)3月25日 - 航空母艦として竣工1935年(昭和10年)11月15日 - 予備艦に編入、佐世保海軍工廠にて改装工事開始1938年(昭和13年)8月31日 - 改装工事終了12月15日 - 現役艦に復帰1942年(昭和17年)6月5日 - ミッドウェー海戦で大破、翌日駆逐艦の雷撃により処分9月25日 - 除籍歴代艦長 [編集]艤装員長 [編集]海津良太郎 大佐:1925年12月1日 -艦長 [編集]海津良太郎 大佐:1927年3月25日 -小林省三郎 大佐:1927年12月1日 -山本五十六 大佐:1928年12月10日 -小林省三郎 大佐:1929年10月8日 -北川清 大佐:1929年11月1日 -(兼)原五郎 大佐:1930年10月26日 -和田秀穂 大佐:1930年12月1日 -大西次郎 大佐:1931年8月28日 -柴山昌生 大佐:1931年12月1日 -近藤英次郎 大佐:1932年12月1日 -塚原二四三 大佐:1933年10月20日 -堀江六郎 大佐:1934年11月1日 -松永寿雄 大佐:1935年11月15日 -寺田幸吉 大佐:1936年12月1日 -茂泉慎一 大佐:1937年8月27日 -水野準一 大佐:1937年12月1日 -寺岡謹平 大佐:1938年11月15日 -草鹿龍之介 大佐:1939年11月15日 -伊藤皎 大佐:1940年10月15日 -長谷川喜一 大佐:1941年3月25日 -青木泰二郎 大佐:1942年4月25日 -ドイツへの技術供与 [編集]1935年に英国との海軍協定を締結したナチス・ドイツ海軍は、2隻の空母建造を計画した。空母建造の経験を持たない同海軍は同年、第二次ロンドン海軍軍縮会議予備交渉の帰途にあった大日本帝国海軍中将・山本五十六とベルリンで会談、日本から空母建造に関する技術提供を受けることで合意した[109]。その後日本からは赤城の航空艤装の図面がドイツに提供されたほか、同年にはドイツ高官、さらにドイツからの来日技術調査団が赤城の視察を行っている。これら赤城の技術を参考して建造が開始されたのが、ドイツ空母「グラーフ・ツェッペリン」(1936年末起工)であった。さらに、第二次世界大戦勃発後には赤城の設計図が九五式酸素魚雷などと共にドイツに届けられた(遣独潜水艦作戦)が[110]、空母「グラーフ・ツェッペリン」は遂に完成されることはなかった。赤城が登場する作品 [編集]実写映画 [編集]「日本ニュース第99号<凱歌高しインド洋>」(1942年4月28日) - セイロン沖海戦全般を国民に向け報道するニュース映画で、赤城の飛行甲板上で零戦の発艦作業及び零戦と九七式艦攻の発艦シーンが撮影されている。NHKの戦争証言アーカイブスにて全編を無料視聴可能。「日本海軍艦艇集【下】」(2005年(平成17年)コニービデオ発売。ASIN:B000A6K8AG) - 過去にVHSで発売されていたもののDVD再発売版。日本海軍が撮影したフィルムのうち未公開のものを集めて解説を加えたもの。真珠湾攻撃に出撃する直前に赤城の外舷を塗装している模様などが撮影されている。「ハワイ・マレー沖海戦」(1942年、東宝作品) - 記録映像の流用やミニチュアによる特撮映像のほか、艦橋や飛行甲板を再現した実物大のセットが千葉県の海岸に建てられ、攻撃隊の発艦シーンなどが撮影された。「太平洋の鷲」(1953年、東宝作品) - 真珠湾攻撃の場面を中心に「ハワイ・マレー沖海戦」や戦中の記録映像を流用した。なお、ミッドウェイ海戦の場面はミニチュアや実物大セットを用いて新規に撮影されている。「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」(1960年、東宝作品) - 洋上航行が可能な大型のミニチュアが製作され、航行シーンが三浦半島沖で撮影された。「連合艦隊司令長官 山本五十六」(1968年、東宝作品) - 瀬戸内海に停泊する姿やミッドウェイ海戦の場面で特撮映像が新規撮影されたが、発艦シーンなどは「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」で飛龍として撮影したものを一部流用した。「トラ・トラ・トラ!」(1970年、20世紀フォックス作品) - 日本側での撮影用として福岡県の海岸に実物大セットが製作された。なお、アメリカ側で撮影された攻撃隊発艦シーンの撮影にレキシントンを使用した関係上、実物大セットや特撮用ミニチュアの艦橋配置は実物と異なる右側とされている。なお、「ミッドウェイ」(1976年、ユニバーサル映画作品)や「連合艦隊」(1981年、東宝作品)でも赤城は登場するが、映像の多くは「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」や「トラ・トラ・トラ!」などから流用、編集したものであった。アニメ [編集]アニメンタリー決断 (1971年4月 - 9月) - 第1話「真珠湾奇襲」、第2~3話「ミッドウェイ海戦」(前・後)に描写がある。ストライクウィッチーズ(第1期)(2008年7月 - 9月) - 第1話~第2話において主人公・宮藤芳佳と坂本美緒が乗艦し扶桑からブリタニアに向かう途中でネウロイに襲撃される。またラストの第11話~第12話においても作中で重要な存在となる。オープニングフィルムにも描かれている。参考文献 [編集]アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)Ref.C04016182200「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」Ref.C04015098600「軍艦天城(赤城)改造工事材料に関する件」Ref.C04015099100「赤城建造予算減額の件」Ref.C04015098800「4月16日附進達呉工機密第182号14航空母艦赤城工事予定概括表の件」Ref.C05034244800「第1168号 10.3.22 横厰工第29号の56航空母艦赤城艦橋見張所新設の件」Ref.C08050174000「軍艦尾張製造の件」Ref.C04015628700「赤城艦隊編入に関する件」Ref.C04015274000「教練運転成績表 赤城」Ref.C08051350900「軍艦赤城」Ref.C04015069300「航空母艦赤城満艦飾不施行の件」(三段空母時代の図面付。艦側面図、機密保持のため消去)Ref.C08051579600「昭和16年12月~昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書(1)」Ref.C08051579700「昭和16年12月~昭和17年6月 赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」Ref.C08030023800「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(1)」Ref.C08030023900「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(2)」Ref.C08030024000「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(3)」Ref.C08030024100「昭和17年5月27日~昭和17年6月9日 機動部隊 第1航空艦隊戦闘詳報 ミッドウェー作戦(4)」アジア歴史資料センター(公式)(国立公文書館)Ref.A09050370500「飛行機格納数」Ref.A06031028400『週報 第122号』Ref.A06031028500『週報 第123号』「海南島攻略の新展開」Ref.B04122588300「3.資料(一)(艦船要目、艦船表、その他)分割3」防衛庁防衛研修所戦史室編『戦史叢書10 ハワイ作戦海戦』(朝雲新聞社、1967年)防衛庁防衛研修所戦史部編『戦史叢書43 ミッドウェー海戦』(朝雲新聞社、1971年)澤地久枝 『記録ミッドウェー海戦』 文藝春秋社、1986年5月。橋本敏男・田辺弥八ほか 『証言・ミッドウェー海戦 私は炎の海で戦い生還した!』 光人社、1992年。ISBN 4-7698-0606-x。松田憲雄 『忘れ得ぬ「ト連送」 雷撃機電信員50年目の遺稿』 光人社、1993年10月。ISBN 4-7698-0663-9。松田は九七式艦上攻撃機電信員。ミッドウェー海戦後、嵐に救出され、翔鶴に転属。小林昌信ほか 『証言・昭和の戦争 戦艦「大和」檣頭下に死す』 光人社、1995年。渡辺義雄『ああ「瑞鶴」飛行隊帰投せず』(著者は整備科。1938年12月17日、赤城配属。1940年5月10日転勤)亀井宏 『ミッドウェー戦記 さきもりの歌』 光人社、1995年2月。ISBN 4-7698-2074-7。橋本廣 『機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記』 光人社、2001年。ISBN 4-7698-1028-8。橋本は南雲司令部信号兵、艦橋勤務。1938年12月15日「赤城」配属。回想中に牧島貞一も登場する。牧島貞一 『炎の海 報道カメラマン空母と共に』 光人社、2001年。ISBN 4-7698-2328-2。牧島は日映カメラマン。「赤城」に乗艦し、セイロン沖海戦、ミッドウェー海戦を体験。牧島貞一 『続・炎の海 激撮報道カメラマン戦記』 光人社、2002年。ISBN 4-7698-2339-8。『炎の海』より、ミッドウェー海戦部分のみ詳しく描写している。前作は南太平洋海戦まで収録。相澤淳『海軍の選択 再考 真珠湾への道』(中央公論新社、2002年)淵田美津雄 『真珠湾総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』 講談社、2007年12月。ISBN 978-4-06-214402-5。脚注 [編集]^ 「航空母艦赤城満艦飾不施行の件」p.2^ 『戦史叢書43 ミッドウェー海戦』^ 「軍艦尾張製造の件」pp.17-19^ a b 「軍艦天城(赤城)改造工事材料に関する件」^ 「赤城艦隊編入に関する件」pp.6-7^ 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」p.2-3^ 「軍艦赤城」p.14等^ 「軍艦加賀を航空母艦に改造する件」^ #続 炎の海16頁^ 「3.資料(一)(艦船要目、艦船表、その他)分割3」pp.5,29^ #続 炎の海24頁^ 「赤城建造予算減額の件」p.7-8^ 『世界の艦船 2011年1月号増刊 日本航空母艦史』21頁^ 歴史群像シリーズ太平洋戦史スペシャルvol.3「決定版 日本の航空母艦」学研パブリッシング p.10^ #続 炎の海41頁^ a b #炎の海149頁^ #続 炎の海51頁^ #続 炎の海38頁^ #続 炎の海39頁^ #続 炎の海42頁^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.10^ #続 炎の海30頁^ #炎の海147頁^ 「飛行機格納数」(航空隊設備関係説明資料)^ 『戦史叢書10 ハワイ作戦』111頁、文芸春秋『完本・太平洋戦争〈上〉』1991年39-40頁^ #橋本信号員47頁^ #大和檣頭下に死す214頁^ #橋本信号員48頁^ 『週報 第123号』p.17^ 『週報 第122号』p.17「大本営陸海軍部公表、昭和14年2月10日、海南島奇襲上陸に成功せり」^ #大和檣頭下に死す215-217頁、#橋本信号員47頁^ #橋本信号員64頁^ #電信員遺稿11-12頁^ #電信員遺稿14頁^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(1)」pp.1-3^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(1)」pp.1-2^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(1)」pp.3-4^ #電信員遺稿30頁^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(1)」pp.10-29^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(1)」pp.30-36^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」pp.2-5^ #炎の海155頁^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」pp.17-24^ #橋本信号員98頁。#炎の海184頁^ #橋本信号員99頁。#炎の海185頁^ #電信員遺稿109-110頁^ #橋本信号員102頁^ #炎の海198頁^ #続 炎の海58頁、64-65頁^ #橋本信号員108頁^ #続 炎の海97-98頁^ #橋本信号員108頁。「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.6^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(4)」p.46^ #淵田自叙伝197-198頁^ #電信員遺稿114頁、#続 炎の海112頁^ #電信員遺稿115頁^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.7^ #電信員遺稿117頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.9^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.38^ #橋本信号員123-126頁^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.20^ #橋本信号員130-131頁^ #電信員遺稿121頁^ #電信員遺稿122頁^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.17^ #橋本信号員136頁^ a b c d 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.39^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.26^ #橋本信号員137頁^ a b c 「第1航空艦隊戦闘詳報(4)」p.20^ #炎の海256頁、#続 炎の海151頁^ #橋本信号員138頁^ #電信員遺稿123頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.26、「赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」p.32^ #電信員遺稿123頁、#炎の海255-256頁、#橋本信号員139頁^ #橋本信号員139頁^ #続 炎の海154頁^ a b c 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.28^ #橋本信号員143頁^ #炎の海259頁、#続 炎の海155-156頁^ #電信員遺稿129頁、#炎の海261頁^ #続 炎の海161頁^ #炎の海262頁^ a b c d 「第1航空艦隊戦闘詳報(1)」p.40^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.29^ #続 炎の海165頁、#橋本信号員147-148頁^ #橋本信号員147-148頁^ #続 炎の海158頁^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.30^ #続 炎の海219頁^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.31^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.32^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.33^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.35^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.41^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.43^ #電信員遺稿130頁、「第1航空艦隊戦闘詳報(2)」p.46^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.2^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.5^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.6^ a b 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.8^ a b #橋本信号員171頁^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」pp.13-14^ a b c 「第1航空艦隊戦闘詳報(3)」p.14^ #電信員遺稿131頁^ #電信員遺稿132頁、#続 炎の海221頁。#亀井戦記515頁^ 「第1航空艦隊戦闘詳報(4)」p.47^ #澤地記録^ 「赤城飛行機隊戦闘行動調書(2)」p.32^ 相澤『海軍の選択』^ 吉村昭 『深海の使者』関連項目 [編集]大日本帝国海軍艦艇一覧赤城 (砲艦)外部リンク [編集]ウィキメディア・コモンズには、赤城 (空母)に関連するメディアがあります。WW2DB: 赤城赤城 Tabular Record of Movement[隠す]表・話・編・歴大日本帝国海軍の航空母艦△印は未成艦正規空母 同型艦無し 鳳翔 | 龍驤 | 蒼龍 | 飛龍 | 大鳳翔鶴型 翔鶴 | 瑞鶴雲龍型 雲龍 | 天城 | 葛城 | 笠置△ | 阿蘇△ | 生駒△ | 鞍馬△ | 5009号艦△ | 5010号艦△ | 5011号艦△ | 5012号艦△ | 5013号艦△ | 5014号艦△ | 5015号艦△Naval Ensign of Japan.svg改装空母 同型艦無し 加賀 | 信濃 | 龍鳳 | 伊吹△天城型 天城△ | 赤城祥鳳型 祥鳳 | 瑞鳳千歳型 千歳 | 千代田特設空母 同型艦無し 神鷹 | 海鷹飛鷹型 飛鷹 | 隼鷹大鷹型 大鷹 | 雲鷹 | 冲鷹計画のみ G6△ | G14△ | G18△改大鳳型 5021号艦△ | 5022号艦△ | 5023号艦△ | 5024号艦△ | 5025号艦△戦艦 | 巡洋艦(防護巡洋艦・装甲巡洋艦・軽巡洋艦・重巡洋艦) | 駆逐艦 | 潜水艦大日本帝国海軍艦艇一覧カテゴリ:日本の航空母艦1927年竣工船案内メニューアカウント作成ログインページノート閲覧編集履歴表示メインページコミュニティ・ポータル最近の出来事新しいページ最近の更新おまかせ表示練習用ページアップロード (ウィキメディア・コモンズ)ヘルプヘルプ井戸端お知らせバグの報告寄付ウィキペディアに関するお問い合わせツールボックス他言語版العربيةБългарскиCatalàČeskyDeutschEnglishEspañolEuskaraSuomiFrançaisעבריתMagyarBahasa IndonesiaItaliano한국어LëtzebuergeschBahasa MelayuNederlandsNorsk bokmålPolskiPortuguêsРусскийСрпски / srpskiŚlůnskiTürkçeУкраїнськаTiếng Việt中文リンクを編集最終更新 2013年3月12日 (火) 14:52 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。テキストはクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスの下で利用可能です。追加の条件が適用される場合があります。詳細は利用規約を参照してください。プライバシー・ポリシーウィキペディアについて免責事項モバイルビューWikimedia FoundationPowered by MediaWiki

JKT~寄のロウバイまつり他~2

https://Wingofwi.exblog.jp/33673434/
2025-02-03 02:00:00 - 御茶畑なども見つつ広大な蝋梅園を登って一番上の寄展望台でパノラマを堪能したんだ静寂だけど時々大砲のような音が聞こえるのは熊よけなのかな?それからも黄色い蝋梅の森を抜けながら売店食堂まで戻ってきたんだ。最後はトイレに入ってからマイクロバスを登ってきた道を歩いて下ってゆく。下から登ってくる人がどんどん増えていた。帰り道も茶畑などを見ながら降りてきた。やっぱり上りはマイクロバスにして正解だったな。寄自然休養村管理センターまで戻ってきた。センター前の左右には地元のフルーツとか売ってる出店があって彼女は湘南ゴールドとか安かったから買っていた。寄自然休養村管理センターの中にもちょっとだけ入ったけれどすぐに出て駐車場に戻ったんだ。………………………………………………………………………………………………★Kazekenの寄のロウバイまつり情報~第13回松田町・寄のロウバイまつり~2025年1/18(土)~2/16(日)………スタッフの方は満開と言っていたけれど僕的には60%の開花状況かと。それでも見応えはあったけれど…まだまだ蕾がいっぱいだから僕が思った蝋梅園満開の時期は来週あたりかな?と。………………………………………………………………………………………………●JK's day-06…………幻の丹沢湖への山越え僕らが停めたみやま運動広場駐車場はいっぱいになっててやっぱり隣の、みやま運動広場まで車が停まっていた。出口…からみやま運動広場を出て左に中津川を見ながら県道710号線をまっすぐ走った。山を越えて丹沢へ抜けようと思ったのだ。ところが赤い寄大橋を渡ったら……え?うっそ!通行止め?鉄の扉で封鎖されていた。なんてこった!がっくりしながらも通れないもんはしょうがないから戻ることにしたんだ。さっきの寄自然休養村管理センター前を抜けて県道710号線を戻ってゆく。山を越えて寄入口まで降りてきたら信号を右折して国道246号線を松田方面へ。●JK's day-07…………丹沢湖中津川を渡っても左には中津川は四十八瀬川と一緒になって川の名前は川音川に変わっていつの間にかその向こうにオバQも走ることになる。やがて東名高速の高架を目印に新籠場信号を左折し籠場インター信号も越えてひたすらに国道246号線を走ってゆく右上には東名高速が左下には松田町や酒匂川に足柄方面の山々を見ながら走ってゆく。左右を様に挟まれて走ってると東名高速の高架を見上げながら走ると間もなく清水橋の信号だけどここで酒匂川が右の河内川と左の鮎沢川に分かれる。清水橋信号を右折して県道76号線に入り山北町清水の町中を走りすぐに河内川を渡ると同じ県道76号線だけれども別称が山北藤野線に変わるんだ。そんな河内川沿いに沿って走ってゆく。程なくして予定じゃ丹沢湖の帰りに寄る予定だった道の駅山北が右に見えるけど左の川沿いの公園には十月桜が前は見れたんだよね。っていうかちょうどすぐ上には新東名高速の大迫力の橋脚を作ってる最中で凄かった。帰りに夜からじっくり見たいけれどやっぱ山道の通行止めは痛かったなぁ。同じ道を二度通るのは好きじゃない人なので^^それからも思った以上に長いこと山間の道を走ってゆく。道は緩やかだけれど坂道だ。湖手前で道を間違えて県道76号線から外れて県道710線の神縄神山線に入っちゃったけれど丹沢湖が見えた瞬間左折して元の道に戻ったんだよな。前回はちょうどマラソン大会で道路規制してて大渋滞してたから諦めてUターンして帰ってきたんだった。初めてきた時は紅葉の頃であちこち見れて良かったんだ。もう4~5年前くらいかもしれない。丹沢湖は綺麗で前に入った丹沢湖無料駐車場に入りたかったんだけど……へ?……うっそ…………入口が閉鎖されて入れなかった。嘘だろ~~~~~~~っ!やっときたのに。(後で調べてみたら今日水曜日は休業日だった)仕方なく橋を渡って向こう側へ。城山信号右折して山北高校とかがある突端な小さな町中を抜けて大仏大橋を渡った。橋の左右には折りたたみの椅子に座った釣りのおじさんが10人くらいいてびっくり!橋を渡って丹沢湖・千代の沢駐車場に入った。(後で調べたら渡ってから駐車場方面は一方通行だった……唖然)………………………………………………………………………………………………★午前11時50分ごろ…丹沢湖・千代の沢駐車場に…到着!………………………………………………………………………………………………駐車場に車が3台くらい停まってた。外に出て逆光の湖を見た。湖面がキラキラ綺麗だったけれど寒いのでトイレに入って撤収することにしたんだ。●JK's day-08…………道の駅山北………………………………………………………………………………………………★午後12時15分ごろ…道の駅山北の駐車場に…到着!………………………………………………………………………………………………来た道を戻って道の駅山北の道路の反対側の駐車場に停めた。道の駅の前に十月桜(冬桜)が気になっていたから。駐車場のフェンスから眼下のオアシス公園を見下ろす。桜は殆ど十月桜だけれども…流石にもう終わった感じ。それでも…ほんの少しだけ咲いていた。公園のすぐ横を河内川が流れてるるけれど水がめちゃくちゃ綺麗だった。ダムの水らしい少し緑が買って入るけれど底まで見えるくらい綺麗だった。そして左をみると来る時もチラ見したけれど新東名高速の橋脚を作ってる最中だけれど大迫力な光景ですごいとしか言いようがなかった。考えてみたら一昨年に来た時から工事が始まってた気がする。道路を渡って道の駅山北に入ってゆく。彼女が道の駅とか路地ものの野菜とかが好きだから丹沢湖のがっかりは挽回できる気がした。様々なものがあってみてるだけでも面白い。そんなに大きな道の駅じゃないけれどちゃんと奥には食堂なエリアもあった。………▶︎▶︎▶︎JKT~寄のロウバイまつり他~3▶︎▶︎▶︎へ続く…………

ある日の一花 No,540/♯841

https://nobukok.exblog.jp/34442559/
2025-02-02 02:00:00 - 今日の一花 バラご近所の松田花店で見つけた!純白ではなくうすいクリーム色奥にそっと一束が。美しかった!そっと触ってみた!ほどけた花びらは温もりのある柔らかさ!蕾はしっかり硬い!エアコンの風を避けて楽しみが少しでも長く続きますように・・・・・。牛乳がたくさん余ったので食後の杏仁豆腐を作った。牛乳の中に少し赤ワインを入れたので真っ白でなくなった!美味しくできたよ!

アロワナライブスケジュール

https://livemurra.exblog.jp/23479438/
2025-02-02 02:00:00 - |HOME|Live at Murra[ライブ録音CD]|アクセス|ライブのご予約、お問い合わせについては、木曜日~日曜日(13時~17時)に電話でのみ対応させていただいております。お手数ですが、℡075-703-0120までお電話くださるようお願いします。またライブ時には、お一人さま2オーダー以上のご注文をお願いいたします。【ライブスケジュール】2025年2月のライブスケジュール2025年3月のライブスケジュール2025年4月のライブスケジュール【NEW】[2025/02/05]下記のライブメンバーに変更があります。2月6日(木) vol.3,807start:19:00、(予約)¥3,000、(当日)¥3,500岩波邦江(vo),中野純(g)[2025/02/02]・2月9日(日)のジャズ喫茶営業は、イベント開催のため勝手ながらお休みさせていただきます、ご了承ください。・2025年4月のライブスケジュールを更新しました。[2025/01/04]2月11日(火·祝)の19周年スペシャルライブ[JAZZ]の昼の部、夜の部のメンバーが決定しました。入替制、(1st)各¥4,500、(通し)¥8,000昼の部:13:30~井頭月(vo),石田裕子(vo),魚谷のぶまさ(b),衛藤修治(b),おーたかずお(p),黄啓傑(tp,vo),COCOA(tapdance),小柳淳子(vo),佐川明子(vo),滝沢ミナコ(fl),中川さつき(vo),永田有吾(p),NARUMI(vo),登敬三(ts),古田てるみ(vo),松田“ゴリ”広士(ds),山内詩子(vo)夜の部:17:30~あかぎしほ(p),石田裕子(vo),魚谷のぶまさ(b),衛藤修治(b),黄啓傑(tp,vo),COCOA(tapdance),小柳淳子(vo)小林亜希子(vi),佐川明子(vo),里村稔(ts),滝沢ミナコ(fl),武井努(ts),寺井豊(g),中川さつき(vo),永田有吾(p),登敬三(ts),古田てるみ(vo),松田“ゴリ”広士(ds),山内詩子(vo)[50音順][2024/08/24]Live at Murra第5弾「Rhythm & Strum]、おかげさまで完売となりました。[2024/07/30]2024年10月のライブスケジュールを更新しました。[2024/05/14]店内のようすを更新しました。店内に飾っているレコードジャケットを変更、今回は「デヴィッド·ストーン·マーティン」特集にしてみました。[2024/04/18]Live at Murra第4弾「匠」、おかげさまで完売となりました。[2024/01/05]誠に勝手ながら、昨今の原材料高騰につき、フードメニューの料金を2024年1月より改訂させていただいております。ご了承ください。詳細はこちらをご覧ください。【ジャズ喫茶】営業日:木曜日~日曜日営業時間:13:00~17:00※月曜日~水曜日が祝日に当たっても営業はいたしません。【ライブ営業】営業日:不定休(詳細についてはライブスケジュール にてご確認ください)営業時間:オープンはライブスタート30分前。ライブは19:00(若しくは19:30)~22:00(演奏終了21:30)今後とも、Jazz cafe Murraをどうぞよろしくお願いします。店主:北村 嘉章
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