逮捕
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https://maiu5808.exblog.jp/34536598/2025-04-30 04:00:00 - レストラン・サンサーラ。restaurant・SanSaraレストラン・サンサーラ。restaurant・SanSara菅原オレンジ農場&広島ミニヤギ牧場みんなのふるさと元気にな~れ since 2007(平成19)年11月22日 小さいときに美しい思い出をたくさんつくっておくことだ。それが「生きる力」になる。学校を出てどこかへ勤めるようになると,もうこんなに歩いたり遊んだりできなくなる。いそがしく働いて一息入れる時,ふっと,青い空や夕日のあたった山が心にうかんでくるとそれが元気を出させるもとになる (『民俗学の旅』宮本常一より)。菅原オレンジ農場は,広島県呉市下蒲刈町の大地蔵地区にある、昔からのみかん園です。いろいろな種類のみかんとレモン&ミニヤギを育てています。農園は ゆっくりと時間が流れる、静かな海の見える丘にあります。やわらかな風と青い海とみかんの緑の中で穏やかな時間を過ごし、ミニヤギとふれあい,ほっとできる場所にしたいと願って手作りで始めました。「百年葉みかんと幻のみかん」は農場のシンボルです。心のエネルギーを充電(休養,リラックス,ワクワク)しに気楽に立ち寄ってください。 みかん&イチジクの収穫ヤギとふれあい レモン園見学・レモン収穫栗ひろいの収穫 mirai_wo_singite@yahoo.co.jp「フェイスブック」へ 第十六話 サイパン失陥、そして台湾沖航空戦 さて、マリアナ沖海戦で敗れた日本は、サイパン島の放棄を決定しました。でも、その事を現地に連絡しなかったので、サイパンの守備隊は、来もしない援軍を待ちながら必死に戦ったのです。 サイパン島は、無敵の要塞のはずでした。少なくとも、陸軍の首脳部は東条首相にそう報告したのです。サイパンが決戦場になることは、随分前から分かっていましたから、当然厳重な要塞化がなされているだろうと、東条も信じたようです。彼は、天皇に、「サイパンは絶対に落ちません」と断言しちゃったのです。 ところが、サイパン島の防備は、実際にはスカスカだったのです。サイパン防備用の資材は、全てニューギニアやらラバウルやら、戦略的重要性の乏しいところに回されてしまっていたのでした。・・・軍隊のキャリアは、その旨を正直に報告するのが恥ずかしいので、首相に嘘をついたのでしょうね。日本の軍隊というのは、話にならないくらい戦略的視野が狭かったのです! ところで、いわゆる南洋諸島は、もともとドイツの植民地でした。日本は、第一次大戦のときに連合国側で参戦して、南洋諸島のドイツ軍を打ち破ってここを占領したのです。国連も、この地を日本の委任統治領として認めてくれました。マリアナ諸島には、沖縄から多くの民間人が移住して主にサトウキビの栽培などを行ないました。のどかで、平和な島だったのです。 意外なことに、マリアナ諸島に日本軍が進出したのは、太平洋開戦の1年前でした。それまでは、民間人しかいなかったのです。もともと海軍は、日本近海での決戦しか想定していなかったので、この辺りを基地化する思想が無かったのです。こうして、南の島々は、圧倒的なアメリカ軍の前に阿鼻叫喚の地獄と化したのでした。 私が非常に憤りを感じるのは、日本の軍隊に「民間人を保護する」という思想が無かったことです。サイパンでは、数万人の民間人が戦闘に巻き込まれ、その多くが、島の北端の岬から次々に飛び降り自殺しました。その理由は、「アメリカ軍の捕虜になったら皆殺しになる」というデマが流れたからです。サイパンの民間人は、日本軍から何の保護も受けられず、正しい情報すら提供されなかったのです。状況が分からぬ彼らは、危険な戦場の中を途方にくれながら彷徨い、尊い命を無くしていったのです。 そして、この悲劇は、沖縄でも繰り返されます。 民間人の命を守る方法は、いくらでもあったはずです。例えば、アメリカの陣地に軍使を派遣して、「どこそこの地帯に民間人を疎開させるから、ここは攻撃しないでくれ。我が軍が敗れたときは、国際法を重んじて保護してあげてくれ」と言うだけで良かったはずです。ところが、日本軍は、こういう工夫を少しもしませんでした。 日本の軍隊は、「国や民間人を保護する」という本来の目的を、完全に見失っていたのです。何のために存在しているの?自分たちの省益を保護するためです。小室直樹や堺屋太一は、この状況を「機能的組織の共同体化」と呼んでいます。こういう現象は、現代の組織の中でも至る所に見られますが、実に危険なことだと思います。 サイパンの日本軍3万は、バンザイ突撃を敢行して玉砕しました。どうして降伏しなかったのか?それは、『戦陣訓』という通達によって、降伏を禁止されていたからです。日本社会のユニークなところは、通達が法令以上の拘束力を発揮する点です。通達というのは、本来はお役所内部での回覧情報にしか過ぎません。それが民間にも拘束力を発揮する理由は、政治の実権を握っているのがお役所だからです。通達に逆らっても、法的には何の罰則もありません。しかし、お役所の陰湿なイジメ(これ本当の事ですよ!)によって、営業妨害されたりするのです。だから、みんな法令よりも通達を遵守するのです。日本の有価証券報告書が非常に読みづらい理由は、通達によって記述内容ががんじがらめに縛られているからです。日本の軍隊が、銃弾が尽きた後も日本刀を振りかざして敵の機関銃に突撃する理由は、通達で降伏を禁じられていたからです。 どうしてこんな非情な通達が出たのか?恐らくは、キャリアがノンキャリアの事を信頼していなかったからだと思います。降伏を禁じなければ、みんな進んで降参しちゃうと思ったのでしょう。つまり、自分達の戦争目的にやましさを感じていたのかもしれません。国民に、嘘の戦果を垂れ流しつづけたのも、同じ文脈で説明できます。日本の戦争指導者は、国民や一般兵を説得して奮起させる努力をまったくしませんでした。奮起させる自信が無かったのでしょうね。だから、嘘をつくか通達で縛るかしたのでしょう。でも、こんなやり方で、総力戦を勝ち抜けるわけがないのです。 第二次大戦の主要交戦国で、国民や一般兵の力を信じなかったのは、日本だけです。そして、国民や一般兵が、もっとも非情な運命に叩き落されたのも、日本でした。 日本の国民生活は、もはや破綻に瀕していました。当時の日本は米の輸入国だったので、米が食べられなくなった国民は、サツマイモと豆で命を繋いでいたのです。それに加えて、マリアナ諸島を基地にしたアメリカ軍が、超重爆B29を繰り出して大空襲を開始したのです。 ドイツは、実は随分とマシでした。なぜなら、ナチス政権が、「国民の保護」を最優先したからです。ドイツ空軍の大部分は、1944年初頭から、ほとんど全てがドイツ本土に引き上げてしまいました。国民を空襲から護るためです。また、国内の至る所に巨大な高射砲台を立て並べ、レーダーを用いた効果的な射撃で、連合軍の爆撃機を大量に撃破したのです。 私は、ウイーンで、当時の高射砲台を実見しました。当時のまま、4基も残っていて、街の景観を大いに損ねていましたね。ウイーン市は、これを破壊したくて仕方がないのですが、高性能爆薬すら効かない頑丈さなのでどうしようもないらしいです。これも、ナチスが国民を必死に守ろうとした証拠の一つかもしれませんね。なお、ドイツ国民のエンゲル係数は、終戦近くまで、戦前とほとんど変わらなかったそうです。つまり、ドイツ人は、日本国民より随分と幸せだったのです。 日本国民が飢餓に陥った理由は、アメリカの潜水艦作戦の他にもあります。それは、日本の軍隊が、「石油の代わりにする」という名目で、農村から有機肥料を全て奪い取ってしまったことです。日本の農産物収穫量は1944年、1945年と2年連続でワースト記録を更新したのです。国民を飢え死にさせようとは、驚くほどに立派な軍隊ですな。日本の軍人キャリアは、実はアメリカに買収されていたのでは? こんな状態になりながら、日本の軍隊は戦争を止めようとしませんでした。サイパン失陥の責任をとって東条英機が退陣した後、陸軍出身の小磯国昭が首相になりました。この人は、状況判断が下手糞で、失言ばかりしていた人です。そういう人がトップの方が、お役人にとっては仕事がやりやすくてラッキーなのです。 さて、アメリカ軍は、次の目標をフィリッピンにしようか台湾にしようか迷いました。もちろんマッカーサーが強弁して、フィリッピンにしちゃったのですが。 とりあえず、空母17隻のアメリカ機動部隊は、沖縄や台湾の日本の飛行場を空襲して回りました。フィリッピン侵攻の土台固めのためです。まったく彼らは、やる事が堅いですなあ。 日本海軍は、「好機到来」とばかりに夜間爆撃機を繰り出してアメリカ艦隊に猛攻を加えました。400機以上を失って得られた成果は、なんと「敵空母の全滅」という大戦果!大本営発表は、鳴り物入りの大騒ぎ。 でも、完全なデマでした。アメリカ軍は、補助艦艇が何隻か損傷を受けただけで、主力艦はまったくの無傷だったのです。実戦経験のない日本のヒヨッコパイロットたちは、味方機の撃墜された炎を見て「敵空母1隻轟沈」などと報告を送り、海軍首脳部がバカみたいにそれを真に受けたというわけです。・・・いわゆる「台湾沖航空戦」の顛末でした。 日本軍は、色めきたちました。「好機到来!残敵掃討!」などと叫んで積極的な姿勢を見せたのです。第十六話 サイパン失陥、そして台湾沖航空戦 さて、マリアナ沖海戦で敗れた日本は、サイパン島の放棄を決定しました。でも、その事を現地に連絡しなかったので、サイパンの守備隊は、来もしない援軍を待ちながら必死に戦ったのです。 サイパン島は、無敵の要塞のはずでした。少なくとも、陸軍の首脳部は東条首相にそう報告したのです。サイパンが決戦場になることは、随分前から分かっていましたから、当然厳重な要塞化がなされているだろうと、東条も信じたようです。彼は、天皇に、「サイパンは絶対に落ちません」と断言しちゃったのです。 ところが、サイパン島の防備は、実際にはスカスカだったのです。サイパン防備用の資材は、全てニューギニアやらラバウルやら、戦略的重要性の乏しいところに回されてしまっていたのでした。・・・軍隊のキャリアは、その旨を正直に報告するのが恥ずかしいので、首相に嘘をついたのでしょうね。日本の軍隊というのは、話にならないくらい戦略的視野が狭かったのです! ところで、いわゆる南洋諸島は、もともとドイツの植民地でした。日本は、第一次大戦のときに連合国側で参戦して、南洋諸島のドイツ軍を打ち破ってここを占領したのです。国連も、この地を日本の委任統治領として認めてくれました。マリアナ諸島には、沖縄から多くの民間人が移住して主にサトウキビの栽培などを行ないました。のどかで、平和な島だったのです。 意外なことに、マリアナ諸島に日本軍が進出したのは、太平洋開戦の1年前でした。それまでは、民間人しかいなかったのです。もともと海軍は、日本近海での決戦しか想定していなかったので、この辺りを基地化する思想が無かったのです。こうして、南の島々は、圧倒的なアメリカ軍の前に阿鼻叫喚の地獄と化したのでした。 私が非常に憤りを感じるのは、日本の軍隊に「民間人を保護する」という思想が無かったことです。サイパンでは、数万人の民間人が戦闘に巻き込まれ、その多くが、島の北端の岬から次々に飛び降り自殺しました。その理由は、「アメリカ軍の捕虜になったら皆殺しになる」というデマが流れたからです。サイパンの民間人は、日本軍から何の保護も受けられず、正しい情報すら提供されなかったのです。状況が分からぬ彼らは、危険な戦場の中を途方にくれながら彷徨い、尊い命を無くしていったのです。 そして、この悲劇は、沖縄でも繰り返されます。 民間人の命を守る方法は、いくらでもあったはずです。例えば、アメリカの陣地に軍使を派遣して、「どこそこの地帯に民間人を疎開させるから、ここは攻撃しないでくれ。我が軍が敗れたときは、国際法を重んじて保護してあげてくれ」と言うだけで良かったはずです。ところが、日本軍は、こういう工夫を少しもしませんでした。 日本の軍隊は、「国や民間人を保護する」という本来の目的を、完全に見失っていたのです。何のために存在しているの?自分たちの省益を保護するためです。小室直樹や堺屋太一は、この状況を「機能的組織の共同体化」と呼んでいます。こういう現象は、現代の組織の中でも至る所に見られますが、実に危険なことだと思います。 サイパンの日本軍3万は、バンザイ突撃を敢行して玉砕しました。どうして降伏しなかったのか?それは、『戦陣訓』という通達によって、降伏を禁止されていたからです。日本社会のユニークなところは、通達が法令以上の拘束力を発揮する点です。通達というのは、本来はお役所内部での回覧情報にしか過ぎません。それが民間にも拘束力を発揮する理由は、政治の実権を握っているのがお役所だからです。通達に逆らっても、法的には何の罰則もありません。しかし、お役所の陰湿なイジメ(これ本当の事ですよ!)によって、営業妨害されたりするのです。だから、みんな法令よりも通達を遵守するのです。日本の有価証券報告書が非常に読みづらい理由は、通達によって記述内容ががんじがらめに縛られているからです。日本の軍隊が、銃弾が尽きた後も日本刀を振りかざして敵の機関銃に突撃する理由は、通達で降伏を禁じられていたからです。 どうしてこんな非情な通達が出たのか?恐らくは、キャリアがノンキャリアの事を信頼していなかったからだと思います。降伏を禁じなければ、みんな進んで降参しちゃうと思ったのでしょう。つまり、自分達の戦争目的にやましさを感じていたのかもしれません。国民に、嘘の戦果を垂れ流しつづけたのも、同じ文脈で説明できます。日本の戦争指導者は、国民や一般兵を説得して奮起させる努力をまったくしませんでした。奮起させる自信が無かったのでしょうね。だから、嘘をつくか通達で縛るかしたのでしょう。でも、こんなやり方で、総力戦を勝ち抜けるわけがないのです。 第二次大戦の主要交戦国で、国民や一般兵の力を信じなかったのは、日本だけです。そして、国民や一般兵が、もっとも非情な運命に叩き落されたのも、日本でした。 日本の国民生活は、もはや破綻に瀕していました。当時の日本は米の輸入国だったので、米が食べられなくなった国民は、サツマイモと豆で命を繋いでいたのです。それに加えて、マリアナ諸島を基地にしたアメリカ軍が、超重爆B29を繰り出して大空襲を開始したのです。 ドイツは、実は随分とマシでした。なぜなら、ナチス政権が、「国民の保護」を最優先したからです。ドイツ空軍の大部分は、1944年初頭から、ほとんど全てがドイツ本土に引き上げてしまいました。国民を空襲から護るためです。また、国内の至る所に巨大な高射砲台を立て並べ、レーダーを用いた効果的な射撃で、連合軍の爆撃機を大量に撃破したのです。 私は、ウイーンで、当時の高射砲台を実見しました。当時のまま、4基も残っていて、街の景観を大いに損ねていましたね。ウイーン市は、これを破壊したくて仕方がないのですが、高性能爆薬すら効かない頑丈さなのでどうしようもないらしいです。これも、ナチスが国民を必死に守ろうとした証拠の一つかもしれませんね。なお、ドイツ国民のエンゲル係数は、終戦近くまで、戦前とほとんど変わらなかったそうです。つまり、ドイツ人は、日本国民より随分と幸せだったのです。 日本国民が飢餓に陥った理由は、アメリカの潜水艦作戦の他にもあります。それは、日本の軍隊が、「石油の代わりにする」という名目で、農村から有機肥料を全て奪い取ってしまったことです。日本の農産物収穫量は1944年、1945年と2年連続でワースト記録を更新したのです。国民を飢え死にさせようとは、驚くほどに立派な軍隊ですな。日本の軍人キャリアは、実はアメリカに買収されていたのでは? こんな状態になりながら、日本の軍隊は戦争を止めようとしませんでした。サイパン失陥の責任をとって東条英機が退陣した後、陸軍出身の小磯国昭が首相になりました。この人は、状況判断が下手糞で、失言ばかりしていた人です。そういう人がトップの方が、お役人にとっては仕事がやりやすくてラッキーなのです。 第二十話 終戦工作その1 1.追い詰められた日本 第二十一話 戦略爆撃と原爆投下 閑話休題して、原爆の話をしましょう。原爆投下というのは、「戦略爆撃」の最終形態でした。「戦略爆撃」とは何ぞや?敵の軍隊ではなく、敵の本拠地を空から襲い、工場や住民を破壊殺傷し、その国の経済力や戦意を奪い取るという戦略です。どうして、このような戦略が考えられるようになったのか?話は、第一次世界大戦に遡ります。この戦争は、当時「戦争を終わらせる戦争」と呼ばれたほど、凄惨で恐ろしいものとなりました。4年間続けて激闘が行なわれ、数百万単位で兵士が死んだのは、この時が初めてだったのです。その理由は、防衛兵器の技術進歩です。精度の高い銃砲、特に機関銃の発明が、陣地に篭って敵を待ち受ける側の戦力を飛躍的に高めたのです。連合軍(協商軍)は、圧倒的な戦力を持ちながら、最後までドイツ、オーストリア軍の戦線を突破できなかったのです。そして、同盟軍の最終的な敗北は、連合国側の経済封鎖によってドイツ国内の厭戦気分が高まり、革命が起きたことによってもたらされたのでした。戦勝国である英米仏は、考えました。「これからの戦争の勝敗は、戦場では決まらない。むしろ、戦場では守りに徹した方が良いのではないか。そして、爆撃機を用いて敵の工場などを狙った方が効果的なのではあるまいか?」こうして、戦略爆撃という思想が誕生したのです。これと全く逆の発想をしたのが、ナチスドイツ軍でした。彼らは、むしろ攻撃力の強化を研究し、いわゆる「電撃戦」を編み出したのです。第二次大戦初期は、連合軍側の意表を衝いた「電撃戦」が威力を発揮し、戦局をドイツ側有利に傾かせたのです。そして、イギリス空軍とドイツ空軍が、互いに空爆の応酬を始めました。最初はお互いに、敵の軍事目標のみを空襲していました。しかし、ドイツ軍が、間違えてロンドンに爆弾を落としてしまったことをきっかけに、互いに都市部に無差別爆撃を行なうようになったのです。ところが、戦略爆撃は、連合国側の軍部が考えていたほどの成果を挙げることが出来ませんでした。なぜなら、ドイツ側が、直ちに工場を疎開させて地下に移すなどの措置を講じたからです。また、ナチス体制が、思いのほか強固に民心を得ていたので、革命が起こる事も無かったのです。しかし、戦略爆撃を推進する軍部は、この期待はずれを認めようとしませんでした。「予算が足りないから悪いのだ!」などと言い出して、頑固に政策を推進したのです。これも、一種の官僚の暴走といえないこともないでしょう。連合軍は、原則として官僚の暴走を許しません。必ず政治家が介入して、国益の観点から官僚を押さえ込むのが通例でした。しかし、このときの暴走は、特に国益に反する性質ではなかったので、何となく容認してしまったのです。こうして、暴走官僚の手口は、どんどんとエスカレートしてしまいました。完全に、敵の一般市民のみを標的にするような、残酷な爆撃も一般化してしまったのです。ハンブルク、ドレスデンといった古都も、情け容赦なく焼き払われたのです。もっとも、自業自得と言えないこともありません。ドイツだって、ゲルニカやロッテルダムやロンドンで、同じ事をやってきたのですから。日本はどうか?やっぱり、戦略爆撃が有効だと考えられて、その標的にされてしまったのです。日本側は、迂闊にも工場の疎開を行なわず、また防空態勢も不備だったので、実に簡単に大損害を受けてしまったのでした。言うまでもなく、戦争指導者に、想像力が無かったからです。日本の工場をほとんど破壊したアメリカ軍部は、舌なめずりして次の標的を探しました。もちろん、平和に暮らす一般市民です。カーチス・ルメイ将軍は、低空から焼夷弾を撒き散らすという新戦術を考案しました。こうして、日本全土が阿鼻叫喚の地獄にされてしまったのです。もっとも、日本軍だって、重慶爆撃などで多くの中国市民を殺傷しているのだから、やっぱりお互い様でしょうけど。こうした戦略爆撃の究極の完成形態が、「原爆」でした。アメリカは、どうしてこれを実戦で使用したのか?軍部が使いたがったというのが、その最大の理由でしょう。また、国際戦略上、ソ連に新兵器の威力を思い知らせて、その動きを牽制するという目的も隠されていたはずです。さらに言うなら、「黄色いサル」に対する差別意識もあったでしょう。広島と長崎の住民達は、いわば生贄の羊にされてしまったのです。皮肉なことに、「原爆」は、今度こそ本当に「戦争を終わらせる」ことになってしまったのです。威力が強すぎて、戦争そのものの抑止力となってしまったのは、皮肉なことでした。広島と長崎の人々は、その身を投げ打って、人類を「第三次大戦」の恐怖から救ってくれたのだ。我々は、そう信じましょう。ともあれ、戦争というのは、本当に恐ろしい。狂気が狂気を呼び、エスカレートして止まらなくなるのです。 いよいよ終戦工作です。 終戦工作は、日本史上のハイライトではないかと思います。なぜなら、歴史の中で日本民族が滅亡に瀕したのは、後にも先にもこの時だけだからです。もしも終戦工作が失敗していたら、日本という国家は世界から消滅していたかもしれないのです。 その割には、終戦工作について分かり易く書かれた本は少ないようです。そのため、詳しく知っている人も少ないようです。学校では、縄文人が何を食っていたか教える前に、子供たちにこういう事を教えるべきだと思うのですが。 というわけなので、終戦工作については気合を入れて論じていきたいと思います。 本論に入る前に、当時の国際情勢を俯瞰してみたいと思います。 まず、日本の唯一の同盟国だったドイツは、1945年5月に降伏してしまいました。どうしてかというと、ヒトラーが4月末に自殺しちゃったからです。ヒトラーの死は、ナチスという国家体制を崩壊させたのみならず、ドイツ全軍の士気をゼロにしたのです。彼が、いかに物凄いカリスマ指導者だったか良く分かります。 興味のある方は、拙著『千年帝国の魔王』をどうぞ(笑)。 ドイツ人の犠牲者は、約600万人と言われています。ドイツは東西に分割され、アメリカとソ連はその上で冷たい睨み合いを開始したのです。 ドイツの幸運は、独裁者の死によって戦争から解放されたことです。日本には、このような存在がいなかったので、いつまでもズルズルと戦い続けるしかなかったのです。 陸軍は、「本土決戦」を豪語しました。民間人に竹やりを配り、刺殺の訓練をさせました。スローガンは、「1億玉砕」です。 しかし、この愚劣な計画は、実現不可能だったことでしょう。なぜなら、上陸してきたアメリカ軍を迎えるのは、竹やりを抱えた市民の群れではなくて、大量の餓死死体だったはずだからです。 厚生省の戦後の調査によれば、1945年の年末まで戦争が長引いていた場合、全国民の1/3から半数が餓死していた可能性があるそうです。 ほとんどの日本人は(お偉方を除く)、1945年に入ると、最低摂取カロリーの半分も摂ることが出来ませんでした。配給のお粥は、箸を立てると倒れるほどに貧弱なものとなり、食卓の主食は、家族当たり1本のサツマイモでした。子供たちは、野山でトンボを追いまわしました。何のため? もちろん食うためです。 しかし、軍部のお偉いさんは、このような情勢を全く問題にしていませんでした。厚生省のお偉いさんは、「ドングリの粉を食う方法を開発中ですから、民生は問題ありません」と、アホウなことを閣議で述べていました。軍部のみならず、厚生省もバカだったんですねえ。 この情勢を最も憂慮したのは、実は昭和天皇でした。 2.日本の病んだ政治構造 実は、終戦工作については、正確な記述が難しいのです。なぜかと言えば、証拠資料が乏しいから、多くの部分を推測で補わなければならないからです。 どうして資料が乏しいのか? 終戦は、「天皇&政治家グループ」が、陸軍を中心とした「軍部」と対決し、これを圧伏する事で実現したのです。しかし、後者は正常な理性を喪失して暴走していましたから、もしも前者が終戦工作を進めていることを知ったら、ただちにクーデターを起こすことが明白な情勢でした。ですから、終戦工作は、最後のギリギリの段階になるまで「密談」と「腹芸」で進められたのです。そのため、日本史上のハイライトであるにもかかわらず、正確な経過が良くわからないのです。 ですから、これから進める叙述には、私見が入っている事を了承してくださいね。 まず、天皇の立場について説明しなければなりません。 「明治憲法」などでは、天皇の地位を次のように規定していました。 ①立憲君主国の政治機関 天皇は、内閣と議会の決議を「承認する」政治機関である。国事に関する命令や意思決定を行うことはできない。 ②全日本軍の最高司令官(大元帥) 天皇は、全日本軍の最高司令官である。軍隊は、内閣や議会ではなく、天皇そのものに直属する。 ③国家神道の大祭主 天皇は、神道の大祭主として、絶大な「宗教的権威」を持つ。 つまり、天皇は、まったく異なる3つの顔を持っていたのです。 ここで、①と②を見比べてください。なんじゃこりゃ!と思った人は、正常な感覚の持ち主です。①と②は、相互に矛盾する内容になっているのです。 軍隊の最高司令官は、組織のトップである以上、当然のように軍に命令権を持っていなければなりません。しかし、天皇が臣下に命令を下す権限は、憲法で「完全に否定されていた」のです。つまり、天皇は命令権を持たない司令官だったのです。 ある役職の人が、それに応じた権限を持ち責任を負う事は、組織の常識と言っても良いでしょう。当時の日本では、こうした道理が無視されていたのです。 どうして、こんな変てこな事になったのか?これは、日本人の国民性に迫る重要な問題です。明治の日本は、西欧諸国にキャッチアップするべく、西欧の制度を学び、取り入れました。しかし、その方法に大きな欠陥があったのです。欧州諸国の諸制度を、その前提条件や本質を吟味することなく、無批判にゴチャゴチャと取り入れたのです。 ①の規定は、イギリスの制度のパクリです。そして、②の規定は、プロイセンの制度のパクリです。両者はその置かれた背景も前提も大きく異なる制度です。しかし、明治の元勲は、何も考えずにその両方を、一緒くたに日本に導入したのでした。 本質を見極めずに他人の真似をすることは、「学習」とは言いません。「猿真似」と言うのです。 現代でも、これと似たような問題が起きていますね。例えば会計制度。 ドイツの商法とアメリカの証券取引法を、本質を吟味する事無く取り入れて、何も考えずにくっつけているでしょう?この両者は、置かれた条件も前提も、まったく異なる制度です。しかも、日本の風土にも合わないのです。この矛盾とギャップを解消するのは、本来は会計学者の役割でした。しかし、過去の学者が怠慢だったために、うまく行かなかったのです。そこで、大蔵省とかの偉いお役人が知恵を絞って「通達」を乱発し、なんとか実務で使えるようにしているのです。しかし、偉い役人というのは、視野が狭くて想像力が無いでしょう?目先の事にこだわって、本質を外す通達ばかり造るのです。だから、日本の会計制度は、やたらと規定が多くて分かりにくい割には、全体として結局何がやりたいのか見えないという、変てこなものになっているのです。この異常な状況を何とかするのが、これからの学者や会計士の責務なのです!(・・・なんか、偉そうにね)。 戦前の天皇に関する規定も、実はこれと同じことになっていたのです。 日本人は、外国の文化を取り入れるのが上手だと言われます。私は、そうは思いません。日本人は、学ぶのではなく真似るだけだからです。どうして本質を見ようとしないのか?軽佻浮薄なアホウな国民ですよ。自然科学の世界がうまくいっているのは、この世界では本質や前提が国家や民族ごとに異なることがないので、結果的に「猿真似=学習」になっているからだと思います。社会科学の世界がうまくいかないのは、外人の猿真似しかできないからです。もう少し、ちゃんと学習する方法を工夫すべきでしょうね。(・・・なんか、偉そうだな)。 ともあれ、矛盾に満ちた天皇の立場だったわけですが、基本的には①の立場が最も重視されました。どうしてかというと、明治の元勲にとっては、天皇が意思を持たないお人形さんであった方が、仕事がやりやすくて都合が良いからです。山県有朋などは、仲間内の席で、「あの小僧(明治天皇)は、俺達のお陰で天皇になれたんだぜ!」などと公言していたそうです。国民には、「現人神」として崇拝することを強要していたくせに、要人たちは天皇をバカにしていたのです。この伝統が、昭和の悲劇に直結するのです。 大正天皇と昭和天皇は、ともに①の線に沿って帝王教育を受けました。大正天皇は、病弱で知られていますが、実はたいへんに聡明な人だったようです。歴史的に影が薄いのは、①の立場を良く守って大人しくしていたからなのです。そして、昭和天皇もこの路線を継承していました。 さて、政党政治が崩壊して軍部の暴走が始まりました。暴走を許した原因はいくつもありますが、天皇に関する矛盾した規定が、その一つであった事は、疑う余地がありません。 矛盾する欠陥規定は、隙だらけのザル法となるので、必ず特定の誰かに悪用されます。そして、最も有利な地位を占めたのが軍部だったのです。すなわち、軍部の要人は、己の省益拡大のための暴走を「天皇陛下のため」として正当化できたのです。もしも天皇に命令権があれば、「朕の名を騙るのはやめろ!」と言えるでしょう?実際にはそんな事言えなかったのです。天皇は、あくまでも内閣の意思決定を承認する形でしか、その意思を表明できなかったのです。そして、内閣は軍に対する「命令権を持たなかった」のです(②の規定を参照)。こうして、軍部はやりたい放題の野放し状態になったのです。 そういう意味では、昭和の最大の戦犯は、アホウな規定を造った明治の元勲だったと言えないこともありません。 天皇と政治家たちは、日中戦争にも太平洋戦争にも反対でした。別に、人道とか平和愛好とかじゃありません。彼らは、日本が、中国やアメリカと戦っても勝ち目が無いことを良く知っていたのです。これも、特筆するような事じゃありません。正常な見識がある人なら、誰にとっても自明のことだったからです。そんな常識が分からなかったのは、アホウな軍部の役人くらいのものでした。 天皇と政治家たちは、必死に軍部を止めようとしました。強力な内閣を造って、政治的に彼らを封印しようと図ったのです。さしもの軍部も、宣戦布告といった事柄については、政府の意思決定に従属するのです。ですから、強力な内閣さえ樹立できれば、少なくともアメリカとの戦争は避けられるはずでした。 ところが、欠陥憲法(及び法解釈)が足を引っ張ったのです。当時の内閣は、国務大臣が辞任を表明し、省庁が後任を出すことを拒否した場合、「閣論不統一」として解散しなければなりませんでした。問題は国務大臣です。陸海軍の国務大臣は、なんと現役のキャリアから選ばれることになっていました(現役武官内閣制)!つまり軍部は、内閣が自分達に都合の悪い意思決定をした場合、陸海軍の大臣に辞表を出させる事で、内閣の決議をご破産にできたのです。 これでは、どうしようもありません。 天皇と内大臣木戸幸一に残された最後の手段は、陸軍のキャリアを丸め込んで、これを総理大臣にすることで軍部を抑えることでした。こうして誕生したのが、東条英機内閣です。しかし、東条は軍部を抑えることができませんでした。 こうして、絶対に勝ち目のない悲惨な戦争がはじまったのです。 昭和天皇は、開戦の御前会議の席で、明治天皇の平和を希求する歌を詠みました。これは、せめてもの心理的抵抗だったのでしょう。 そして、いまや本土決戦の時が迫りました。 軍部は、最後まで戦う姿勢を崩しません。 この危機を回避するためには、前人未到の政治的詐術が必要でした。 天皇と木戸が目を付けたのは、侍従武官だった鈴木貫太郎でした。 鈴木貫太郎は、最後の切り札として登場したのです! 3.鈴木貫太郎の登場 昭和天皇が、いつごろから和平を考え始めたのか?実ははっきりした事は分かりません。この方は、戦争が有利に進んでいるうちはそれなりにご満悦だったようです。負け始めてから、いろいろと心配するようになりました。「現人神」は、意外と人間的だったのです。 ただし、天皇は軍部を通してしか情報を入手することが出来ませんでした。そして軍部は、天皇に過大な戦果報告をしつづけて、その判断を歪めていたのです。天皇が、軍部を嘘つきだと悟ったのは、東京が激しい空襲にさらされるようになってからです。天皇は、密かに侍従官を各地に派遣したり、親任する政治家たちと頻繁に歓談し、独自のルートで情報収集を始めるのでした。 さて、1945年4月、政局に重大な転機が訪れました。小磯内閣の倒壊です。この人は、失言やトンチンカンな判断が多すぎて、この頃は重大な会議にも呼ばれないようになっていました。なんのための総理大臣だったんだ?彼の最大の失点は、いわゆる「重慶工作」です。蒋介石が送り込んだスパイを和平の使者だと勘違いして、国家機密を勝手にベラベラ喋りまくったのです。これには、天皇や政治家のみならず、軍部の役人たちも怒りました。こうして小磯国昭は失脚するのでした。そもそも、国家の重大事にこんな人を首相にすることが間違ってます。まあ、現代の日本も同じようなものですがね。 で、次の総理を誰にするか、要人たちの間で話し合いがもたれました。ちなみに、当時の総理大臣はどのように決まっていたかというと、元総理が中心となる政治家サロンで、談合して決めていたのです。要するに、現代と同じだったのです。・・・あれ?日本って、民主主義国家に生まれ変わったはずなのでは?なんか変だなあ。タイムスリップしたような気分! さてさて、「本土決戦」を志向する陸軍は、陸軍のキャリアを首相にしたがっていました。まあ、これは当然といえば当然です。陸軍を代弁する東条英機は、熱心にこれを主張しました。しかし、岡田啓介や近衛文麿らが猛反対して、たまたま(?)その場に呼ばれていた枢密院議長の鈴木貫太郎を推薦したのです。 驚いたのは鈴木です。彼は海軍出身なのですが、「日露戦争」に従軍して以来、第一線の軍務から足を洗っていたので、 最近の軍事には疎かったのです。しかも、年齢は79歳(!)。どう考えても、本土決戦の指揮官は勤まりません。しかも鈴木は、次のようなポリシーを持っていました。 「軍務経験者は、政治家になってはいけない。省益に目がくらんで、国事を忘れてしまうからだ」 まさにそのとおりです。昭和の悲劇は、こうした見識を無くした役人が引き起こしたのです。軍部のヘッドたちが、鈴木のような見識を半分でも持っていたら、あんなに多くの人々が苦しまずに済んだのです。 ともあれ、鈴木は固辞しつづけました。 昼食になったとき、鈴木は天皇から参内を命じられました。意外な思いを抱きながら、鈴木は天皇の前でなおも固辞しようとしました。ところが、天皇はこういったのです。 「鈴木がそう申すであろうことは分かっていた。しかし、この危急の時に際して、もう他に人はいないのだ。どうか承知してもらいたい。頼む」 鈴木はもとより、周囲の侍従たちは大いに驚きました。天皇が臣下に対して「頼む」といったのは、恐らく日本開闢以来の出来事だったのです。 鈴木は、もはや承諾せざるを得ませんでした。そして、どうして自分がそこまで信任されたのか、真剣に考えざるを得ませんでした。 本土決戦をやるのなら、他にいくらでも軍人キャリアはいるのです。軍務に疎い老齢の鈴木が推されたという事は、天皇と政治家たちの真意が「和平」にあることは明白でした。 鈴木が何よりも苦慮したのは、閣内の人材です。もっとも重要なのは、外務大臣と陸軍大臣でした。外務大臣は、和平交渉に欠かせない要職です。陸軍大臣は、和平成立の暁に、軍部のクーデターを押さえ込めるような実力者が必須でした。そして、鈴木は、二人の人物に白羽の矢を立てたのです。すなわち、東郷茂徳と阿南惟畿です。 東郷は、開戦時の外務大臣で、終始、開戦に反対しつづけ、開戦後も節を曲げなかった硬骨漢です。このころは要職を干されて、軽井沢あたりでフテ寝していました。鈴木は自ら出向いて、熱心に協力を要請したのです。東郷は、鈴木の口から「和平」という言葉が出ることを期待していたのですが、鈴木は周囲の耳を気にして切り出せませんでした。そのため、このときは物別れに終わったのです。 しかし、鈴木は諦めませんでした。その後も、あの手この手で東郷を口説いて、ようやく首を縦に振らせたのです。「三顧の礼」の世界ですな。 さて、問題は陸軍です。軍部は、鈴木が和平をやるつもりではないかと疑っていました。まあ、そりゃあそうでしょう。そう考えるのが当然です。彼らは、当初、陸軍大臣を出すのを止めようかと思ったのです。しかし、陸軍省を訪れた鈴木に継戦を要求したところ、鈴木が二つ返事で「いいですよ」と応えたので、妥協する気になったのでした。鈴木は、軍部の景気の良いスローガンにいちいち頷いて、「わしは老人で耳が遠いのじゃ」などと、ボケ老人ぶりを発揮しました。そこで油断した軍部は、望まれたように阿南を内閣に出すことを決めたのです。鈴木の演技力は、なかなか大したものだったようですね。 阿南惟畿は、いわば陸軍の切り札でした。高い見識と明晰な頭脳、そして何よりも部下思いの人格者だったので、若手将校の間で絶大な人気を誇っていたのです。しかし、これまではあまり重用されていませんでした。どうして?受験の成績が良くなかったからです。彼は、陸軍大学に入るまで4浪もしちゃったのでした。そんなこと、実社会に出てしまえば関係ないのですが、当時の(今の)役所では、そういうくだらない事にこだわるのです。 ともあれ、阿南陸相が誕生しました。阿南は鈴木と一緒に仕事をした時期もあり、互いに気心がしれていました。鈴木には、阿南を味方に取り込む成算があったのです。 さて、こうして鈴木内閣は走り出しました。鈴木は、口では本土決戦を呼号し、タカ派の印象を振りまいていました。しかし、裏では東郷と手を結んで、和平の糸口を必死に模索したのです。 まずは4月、ルーズヴェルト大統領の訃報に接して、次のような声明を出しました。 「ルーズヴェルト氏の指導が成功をおさめ、今日のアメリカの優位をもたらしたことを、私は素直に認めます。彼の死がアメリカ国民にとって意味する大きな損失を考えて、私は深い哀悼の意を表明します・・・」 アメリカの要人たちは大いに驚きました。彼らは、日本軍の狂信的な戦い振りを目の当たりにして、理性的な話し合いの可能性を諦めていたのです。 しかし、鈴木の声明は、彼らの考えを変えました。 「日本人は、立派だ。こんな状況になっても武士道を守るのだな」 後任のトルーマン大統領は、こうして、交渉による和平を志向するようになったのです。実は、トルーマン政権は、前大統領の出した「無条件降伏」要求を、理不尽なものだと考えていました。なんとかして修正できないか、知恵を絞っていたのです。国際的信用にかかわる問題なので、撤回は出来ません。そこで、学者を集めて、条文の拡大解釈を行なわせたのです。すなわち、「無条件降伏」を、「連合国が出した要求を無条件に受け入れる降伏」という意味に摩り替えたのです。つまり、実質的に「条件付降伏」にしちゃったのでした。 既述のとおり、ルーズヴェルトの出した「無条件降伏」は、戦争をいたずらに長引かせる残虐非道なものでした。アメリカの国益のために、世界を苦痛のどん底に突き落とすものでした。ヒトラーがいみじくも叫んだように、ルーズヴェルトこそ「戦争犯罪人」といって差し支えないと思うのです。そして、この非道な政策によって日独が弱体化したため、ソ連の勢力が急浮上して、アメリカの国益を脅かしかねない状況になってしまったのです。トルーマン政権は、この事態を大きく憂慮して、なんとかして第二次大戦を早期終結させたいと考えたのでした。 これが、「ポツダム宣言」として結実します。 4.外交の問題 今回は、現代でも大きな問題となっている日本の「外交」に迫ってみようと考えています。 さて、戦争末期の日本では、和平派と主戦派が水面下で激しく暗闘していました。しかし、この両者はある1点で一致していました。それは、連合軍の「無条件降伏」要求が撤回されなければ、最後まで戦う、という点です。 つまり、和平派の目的は、日本を無条件降伏させることでは無くて、様々な外交的手段を用いて、連合軍の無条件降伏要求を撤回させることにあったのでした。 しかし、陸軍はそういう動きも許さなかったのです。現に、元駐英大使の吉田茂は、「和平を企んだ」という理由で逮捕され、豚箱で生活している有様でした。 鈴木と東郷は、和平をやるという点で早くから意見を一致させていたのですが、陸軍の動きが恐ろしくて、なかなか具体的な行動を起こせなかったのです。 ところが、転機が訪れました。5月7日、ドイツが降伏し、欧州戦線のソ連軍が、満州方面に大挙して移動中との情報が入ったのです。明らかに対日参戦を企んでいるとしか思えません。陸軍は大いに恐れ、河辺虎四郎(参謀本部次長)を東郷のところに派遣して、ソ連の対日参戦を阻止するように依頼したのです。 天皇と鈴木は、これを転機と考えました。参戦阻止交渉を名目にして、ソ連に連合国との講和仲介を依頼できると考えたからです。 東郷は、実はこのアイデアに懐疑的でした。なぜなら、日本とソ連は中立条約を結んでいるといっても、その間柄は険悪だったからです。 「外交」で最も大切なのは、ディベートの能力ではありません。日ごろの信用なのです。そして、日本という国家の信用は、どん底にまで落ち込んでいました。 なぜって?過去10年、周辺諸国に理不尽な喧嘩を売りまくっていたからです。宣戦布告もしないで中国奥地まで攻め込み、宣戦布告前の卑怯な奇襲でハワイを襲ったからです。そんな国を信用しろというのは、虫が良すぎるというものです。特にソ連は、張鼓峰事件やノモンハン事件で日本と直接刃を交えていたし、独ソ戦の勃発時には、もう少しで関東軍にシベリアに攻め込まれるところでした(北進論)。スターリンは、日本を憎んでいたのです。 しかし、天皇も鈴木も、このような事情を全く気にしていませんでした。「真心を見せれば分かってもらえる」と、単純に考えていたのです。海軍大臣の米内光政などは、「ソ連と話に行くなら、ついでに石油を貰って来てよ」と東郷に依頼する無邪気さでした。 東郷は、大いに呆れました。外交というのは、国と国とのビジネスなのです。頼みごとをするのなら、それ相応の報酬を支払わなければなりません。「誠意を見せた」って、駄目なものは駄目なのです。もちろん、日本に国際的な信用があるのなら、「ツケにしといて!」という具合に信用取引も可能でしょう。しかし、信用ゼロの現状では、トランク一杯の現ナマをチラつかせる覚悟が必要なのです。 そこで東郷は、次のような取引を考えました。「ソ連が和平の仲介をしてくれるなら、南樺太と千島列島とそれにまつわる漁業権、そして満州と内蒙古の利権を全面的に割譲してあげますよ」。これは、実はたいへんな慧眼でした。この提案が実現していれば、ソ連の参戦はなかったし、戦争自体も早期に決着し、広島と長崎の悲劇もなかったでしょう。 しかし、この提案がなされた極秘会議で、参加者ほぼ全員が反対したのです。「まだ負けたわけじゃないのに、なんで、そこまでしなけりゃならんのだ?」という論調が一般的だったのです。負けてないからこそ、可能な取引もあるのですが、東郷以外の人々は、そういう事に気付かなかったのです。 このような外交センスの無さは、現代に通じる大きな問題だと思います。大多数の日本の為政者には、「外交はビジネスだ」という常識的な感覚が欠如しているように思えるのです。「外交は、みんなが仲良く話し合って親睦を深める場所だ」と、勘違いしているように見えるのです。 小渕総理没後にやった沖縄サミットなんか好例ですよね。5億ものカネを出して立派な施設を造り、やったことといえば、世界の要人に安室ちゃんの歌を聞かせただけでした。 北方諸島が帰ってこないのも、同じ事です。対価を提示しない話し合いでは、ビジネスにならないのです。 「心を篭めて話せば通じ合える」というのは、単なる甘えです。国際政治というのは、生き馬の目を抜くような残酷な世界なのですが、日本人は、そんなことも分からず、ただ甘えているのです。 ODAの問題だってそうですよ。ODAの対象国は、日本に感謝して尊敬してくれるかって?違いますよ。財布だと思ってバカにしてるんですよ。対価を要求しないでおカネをばら撒いてる国なんて、変です。カツアゲされている小学生と同じ事なのですが、日本人のお偉いさんは、それに気付いていないのです。私は、ODA関係の人と面識があるので、その辺のドロドロした実態を知っているのです。 昭和天皇も、実は全然そういうことが分かっていませんでした(不敬罪?)。 起死回生の方策を否認された東郷は、まずは草の根の努力で、日本の信用を高めることから始めたのですが、そんな悠長なことをしている余裕はもう無いのです。 7月、焦った天皇は、スターリンに親書を書いて、それを重臣筆頭の近衛文麿にモスクワまで届けさせようと考えたのです。やっぱり、「誠意を見せて分かってもらおう」と考えたわけです。近衛は、もう少し大人でしたから、そんなことをしても無駄だと知っていました。けれど天皇に口説き落とされて、モスクワ行きの準備を始めたのです。 しかし、ソ連の対日宣戦は、もはや秒読みの段階に入っていました。 事は、2月に遡ります。「ヤルタ会談」です。戦後社会の方針を決めるこの重大会議で、ルーズヴェルトは、スターリンに対日参戦を懇請したのです。スターリンは、大いに喜びました。ソ連は極東に野心を持っていたのですが、「日ソ中立条約」の存在が、その野心に歯止めを掛けていたのです。そして、ルーズヴェルトがそれを取っ払ってくれたのです。 スターリンは、ルーズヴェルトに要求しました。南樺太、千島列島、満州、内蒙古・・・。驚くべきことに、ルーズヴェルトは、その全てに承認を与えたのです!だいたい、満州と内蒙古って、もともと中国のものでしょう?なんでルーズヴェルトが意思決定できるんだ? この時期のルーズヴェルトは、心身ともに疲れきり、半病人の状態だったようです。「日本を滅ぼす」という目的のためなら、何でも良いと考えて、大局的な洞察力を失ってしまったのではないでしょうか。 この政策が、あれほどアメリカが欲した「中国市場」を、共産圏に追いやる布石となるのでした。世界市場席捲を目論んだアメリカの野望は、中国の凍土で粉砕されることになるのです! それにしても、ヤルタでスターリンが出した領土要求が、東郷が取引材料として想定した内容とほとんど一致するのは驚くべきことです。だからもしも東郷の提案が実現していれば、スターリンは軍事力の行使を思いとどまった可能性が高いのです。 外交音痴の日本の為政者たちは、広島と長崎、そして満州や樺太、千島列島の人々の運命を、地獄に突き落とす意思決定をしてしまったのでした。 これは、現代に通じる重要な教訓だと思います。 5.ポツダム宣言 さて、東郷の奔走は、空振りが多かったように見えて、実はそうでもなかったのです。アメリカは、日本の外務通信を全て傍受して解読していましたから、日本がソ連を使って交渉したがっていることを知りました。そこで、トルーマンは、ますます外交によって日本を屈服させる自信を強めたのです。彼は、知日家といわれる人々を集めて意見を聞きました。日本が絶対に譲れない一線とは何か?グルー元駐日大使は、「天皇制の維持」だと明言しました。ボルネオの戦場からは、マッカーサー大将(この人は、戦前に日本に住んでいた時期がある)も同じ事を言ってきました。しかし、大多数のアメリカの要人は、日本人の天皇に対する想いというのが理解できませんでした。天皇は、何しろ軍隊の最高司令官なのです。これを許すなんて、とても容認できることではありません。そこで、知日家の人々は、次のようなレトリックを用いて彼らを説得しました。「天皇制を保護すれば、日本人も満足するから、占領政策が円滑に進むだろう。アメリカだって得をするんだよ・・・」アメリカは、既に戦後のソ連との対決を覚悟していました。トルーマンは、前大統領の政策を全面転換するために、閣僚の首をほとんど挿げ替えました。そして、前大統領の愚策であった「ヤルタの密約」を中国に教え、蒋介石にスターリンを牽制させました。この臨機の処置によって、満州と内蒙古は中国領として確保されたのです。スターリンは、その引き換えにモンゴルの独立を勝ち取り、中国から引き離すことに成功したのです。既に、冷戦の暗闘は幕を開けていたのでした。トルーマンは、おそらくソ連の対日参戦を望んでいなかったでしょう。しかし、そればかりは、ルーズヴェルトがスターリンに言質を与えてしまったために撤回できませんでした。アメリカは、ソ連よりも先に日本を確保し、ソ連と対決するための基地にする必要に迫られたのです。こうしてアメリカは、日本に対して妥協する決意をしたのです。「条件付降伏」を要求し、日本側が「天皇制の保全」を求めてきたら、それを受け入れようと考えたのでした。1945年7月下旬、連合国の首脳はベルリン郊外のポツダムに参集を始めました。ここで、日本に対する最後の降伏勧告が行なわれたのです。いわゆる、「ポツダム宣言」です。「ポツダム宣言」でなされた日本に対する要求は、次のようなものでした。 ①軍国主義勢力の永久除去。 ②そのための手段としての、日本各地の占領。 ③日本の領土は、本州、北海道、九州、四国および連合国の決定する諸小島とする。 ④日本軍の完全な武装解除。 ⑤戦争犯罪人の処罰。民主主義の強化。言論、宗教、思想の自由。基本的人権の確立。 ⑥経済を維持する程度の産業は認めるが、再軍備のための産業は認めない。 ⑦以上の目的が達成され、日本国民の自由に表明せる意思に従い、平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立されたら、占領軍は撤退する。 そして、宣言の末尾には、次のことが書かれていました。「以上の要求をのみ、全軍隊の無条件降伏を行なわなければ、日本国は迅速かつ完全に破壊されるであろう」最後の文句はハッタリではありませんでした。アメリカは、宣言が拒否された直後に原爆を投下する手はずだったのです。この宣言が日本に伝わったのは、7月27日のことでした。東郷は、この宣言文を読んで、アメリカの真意を見抜きました。「これは、無条件降伏の要求ではありません!従来のカイロ宣言などでは『日本国の無条件降伏』とあった文言が、『日本軍の無条件降伏』に変わっているからです!敵は、交渉の余地を与えてくれたのです」天皇と鈴木は、この報告を聞いて大いに喜びました。しかし、彼らが気にしたのは、ポツダム宣言を発表した国々の中に、ソ連の名前が見当たらなかった事です。彼らは、都合よく解釈しました。すなわち、ソ連は密かに仲介作業を推進中なのではないか?だったら、しばらく静観してその結果を見ようじゃないか。東郷は半信半疑だったのですが、「それならば、何も公表せずにいるべきです」と言いました。ところが、そうはいかなくなったのです。軍部が、政府の動向を怪しみ出したからです。鈴木は、何か談話を発表しなければなりません。しかし、迂闊なことは言えないのです。宣言を受け入れるような事を言えば、クーデターが起こるでしょう。かといって、拒否する事は絶対にできないのです。そこで鈴木は、こう発表しました。「黙殺する・・・」これは、IGNOREと翻訳されてワシントンに伝わりました。アメリカの要人たちは、宣言が「拒否」されたと捉えてしまったのです!こうして、広島は一瞬にして灰になりました。8月6日、テニアン島から発進したB29『エノラ・ゲイ』は、世界最初の核爆弾を、平和な広島の街に投下したのです。約20万人の、普通の市民が犠牲になりました。これは、英米軍が戦争当初から推進してきた戦略爆撃戦略の、究極の完成形態だったのです。戦争は、ついにこのような段階に突入してしまったのでした。東郷から報告を受けて、天皇は蒼白になりました。「有利な条件を模索していては手遅れになる。一刻も早く和平を!」しかし、鈴木はなおもソ連に希望を繋いでいたのです。しかし、ソ連からの解答は非情なものでした。「世界平和のために、軍国主義日本に宣戦布告する!」 第二十話 終戦工作その1 1.追い詰められた日本 いよいよ終戦工作です。 終戦工作は、日本史上のハイライトではないかと思います。なぜなら、歴史の中で日本民族が滅亡に瀕したのは、後にも先にもこの時だけだからです。もしも終戦工作が失敗していたら、日本という国家は世界から消滅していたかもしれないのです。 その割には、終戦工作について分かり易く書かれた本は少ないようです。そのため、詳しく知っている人も少ないようです。学校では、縄文人が何を食っていたか教える前に、子供たちにこういう事を教えるべきだと思うのですが。 というわけなので、終戦工作については気合を入れて論じていきたいと思います。 本論に入る前に、当時の国際情勢を俯瞰してみたいと思います。 まず、日本の唯一の同盟国だったドイツは、1945年5月に降伏してしまいました。どうしてかというと、ヒトラーが4月末に自殺しちゃったからです。ヒトラーの死は、ナチスという国家体制を崩壊させたのみならず、ドイツ全軍の士気をゼロにしたのです。彼が、いかに物凄いカリスマ指導者だったか良く分かります。 興味のある方は、拙著『千年帝国の魔王』をどうぞ(笑)。 ドイツ人の犠牲者は、約600万人と言われています。ドイツは東西に分割され、アメリカとソ連はその上で冷たい睨み合いを開始したのです。 ドイツの幸運は、独裁者の死によって戦争から解放されたことです。日本には、このような存在がいなかったので、いつまでもズルズルと戦い続けるしかなかったのです。 陸軍は、「本土決戦」を豪語しました。民間人に竹やりを配り、刺殺の訓練をさせました。スローガンは、「1億玉砕」です。 しかし、この愚劣な計画は、実現不可能だったことでしょう。なぜなら、上陸してきたアメリカ軍を迎えるのは、竹やりを抱えた市民の群れではなくて、大量の餓死死体だったはずだからです。 厚生省の戦後の調査によれば、1945年の年末まで戦争が長引いていた場合、全国民の1/3から半数が餓死していた可能性があるそうです。 ほとんどの日本人は(お偉方を除く)、1945年に入ると、最低摂取カロリーの半分も摂ることが出来ませんでした。配給のお粥は、箸を立てると倒れるほどに貧弱なものとなり、食卓の主食は、家族当たり1本のサツマイモでした。子供たちは、野山でトンボを追いまわしました。何のため? もちろん食うためです。 しかし、軍部のお偉いさんは、このような情勢を全く問題にしていませんでした。厚生省のお偉いさんは、「ドングリの粉を食う方法を開発中ですから、民生は問題ありません」と、アホウなことを閣議で述べていました。軍部のみならず、厚生省もバカだったんですねえ。 この情勢を最も憂慮したのは、実は昭和天皇でした。 2.日本の病んだ政治構造 実は、終戦工作については、正確な記述が難しいのです。なぜかと言えば、証拠資料が乏しいから、多くの部分を推測で補わなければならないからです。 どうして資料が乏しいのか? 終戦は、「天皇&政治家グループ」が、陸軍を中心とした「軍部」と対決し、これを圧伏する事で実現したのです。しかし、後者は正常な理性を喪失して暴走していましたから、もしも前者が終戦工作を進めていることを知ったら、ただちにクーデターを起こすことが明白な情勢でした。ですから、終戦工作は、最後のギリギリの段階になるまで「密談」と「腹芸」で進められたのです。そのため、日本史上のハイライトであるにもかかわらず、正確な経過が良くわからないのです。 ですから、これから進める叙述には、私見が入っている事を了承してくださいね。 まず、天皇の立場について説明しなければなりません。 「明治憲法」などでは、天皇の地位を次のように規定していました。 ①立憲君主国の政治機関 天皇は、内閣と議会の決議を「承認する」政治機関である。国事に関する命令や意思決定を行うことはできない。 ②全日本軍の最高司令官(大元帥) 天皇は、全日本軍の最高司令官である。軍隊は、内閣や議会ではなく、天皇そのものに直属する。 ③国家神道の大祭主 天皇は、神道の大祭主として、絶大な「宗教的権威」を持つ。 つまり、天皇は、まったく異なる3つの顔を持っていたのです。 ここで、①と②を見比べてください。なんじゃこりゃ!と思った人は、正常な感覚の持ち主です。①と②は、相互に矛盾する内容になっているのです。 軍隊の最高司令官は、組織のトップである以上、当然のように軍に命令権を持っていなければなりません。しかし、天皇が臣下に命令を下す権限は、憲法で「完全に否定されていた」のです。つまり、天皇は命令権を持たない司令官だったのです。 ある役職の人が、それに応じた権限を持ち責任を負う事は、組織の常識と言っても良いでしょう。当時の日本では、こうした道理が無視されていたのです。 どうして、こんな変てこな事になったのか?これは、日本人の国民性に迫る重要な問題です。明治の日本は、西欧諸国にキャッチアップするべく、西欧の制度を学び、取り入れました。しかし、その方法に大きな欠陥があったのです。欧州諸国の諸制度を、その前提条件や本質を吟味することなく、無批判にゴチャゴチャと取り入れたのです。 ①の規定は、イギリスの制度のパクリです。そして、②の規定は、プロイセンの制度のパクリです。両者はその置かれた背景も前提も大きく異なる制度です。しかし、明治の元勲は、何も考えずにその両方を、一緒くたに日本に導入したのでした。 本質を見極めずに他人の真似をすることは、「学習」とは言いません。「猿真似」と言うのです。 現代でも、これと似たような問題が起きていますね。例えば会計制度。 ドイツの商法とアメリカの証券取引法を、本質を吟味する事無く取り入れて、何も考えずにくっつけているでしょう?この両者は、置かれた条件も前提も、まったく異なる制度です。しかも、日本の風土にも合わないのです。この矛盾とギャップを解消するのは、本来は会計学者の役割でした。しかし、過去の学者が怠慢だったために、うまく行かなかったのです。そこで、大蔵省とかの偉いお役人が知恵を絞って「通達」を乱発し、なんとか実務で使えるようにしているのです。しかし、偉い役人というのは、視野が狭くて想像力が無いでしょう?目先の事にこだわって、本質を外す通達ばかり造るのです。だから、日本の会計制度は、やたらと規定が多くて分かりにくい割には、全体として結局何がやりたいのか見えないという、変てこなものになっているのです。この異常な状況を何とかするのが、これからの学者や会計士の責務なのです!(・・・なんか、偉そうにね)。 戦前の天皇に関する規定も、実はこれと同じことになっていたのです。 日本人は、外国の文化を取り入れるのが上手だと言われます。私は、そうは思いません。日本人は、学ぶのではなく真似るだけだからです。どうして本質を見ようとしないのか?軽佻浮薄なアホウな国民ですよ。自然科学の世界がうまくいっているのは、この世界では本質や前提が国家や民族ごとに異なることがないので、結果的に「猿真似=学習」になっているからだと思います。社会科学の世界がうまくいかないのは、外人の猿真似しかできないからです。もう少し、ちゃんと学習する方法を工夫すべきでしょうね。(・・・なんか、偉そうだな)。 ともあれ、矛盾に満ちた天皇の立場だったわけですが、基本的には①の立場が最も重視されました。どうしてかというと、明治の元勲にとっては、天皇が意思を持たないお人形さんであった方が、仕事がやりやすくて都合が良いからです。山県有朋などは、仲間内の席で、「あの小僧(明治天皇)は、俺達のお陰で天皇になれたんだぜ!」などと公言していたそうです。国民には、「現人神」として崇拝することを強要していたくせに、要人たちは天皇をバカにしていたのです。この伝統が、昭和の悲劇に直結するのです。 大正天皇と昭和天皇は、ともに①の線に沿って帝王教育を受けました。大正天皇は、病弱で知られていますが、実はたいへんに聡明な人だったようです。歴史的に影が薄いのは、①の立場を良く守って大人しくしていたからなのです。そして、昭和天皇もこの路線を継承していました。 さて、政党政治が崩壊して軍部の暴走が始まりました。暴走を許した原因はいくつもありますが、天皇に関する矛盾した規定が、その一つであった事は、疑う余地がありません。 矛盾する欠陥規定は、隙だらけのザル法となるので、必ず特定の誰かに悪用されます。そして、最も有利な地位を占めたのが軍部だったのです。すなわち、軍部の要人は、己の省益拡大のための暴走を「天皇陛下のため」として正当化できたのです。もしも天皇に命令権があれば、「朕の名を騙るのはやめろ!」と言えるでしょう?実際にはそんな事言えなかったのです。天皇は、あくまでも内閣の意思決定を承認する形でしか、その意思を表明できなかったのです。そして、内閣は軍に対する「命令権を持たなかった」のです(②の規定を参照)。こうして、軍部はやりたい放題の野放し状態になったのです。 そういう意味では、昭和の最大の戦犯は、アホウな規定を造った明治の元勲だったと言えないこともありません。 天皇と政治家たちは、日中戦争にも太平洋戦争にも反対でした。別に、人道とか平和愛好とかじゃありません。彼らは、日本が、中国やアメリカと戦っても勝ち目が無いことを良く知っていたのです。これも、特筆するような事じゃありません。正常な見識がある人なら、誰にとっても自明のことだったからです。そんな常識が分からなかったのは、アホウな軍部の役人くらいのものでした。 天皇と政治家たちは、必死に軍部を止めようとしました。強力な内閣を造って、政治的に彼らを封印しようと図ったのです。さしもの軍部も、宣戦布告といった事柄については、政府の意思決定に従属するのです。ですから、強力な内閣さえ樹立できれば、少なくともアメリカとの戦争は避けられるはずでした。 ところが、欠陥憲法(及び法解釈)が足を引っ張ったのです。当時の内閣は、国務大臣が辞任を表明し、省庁が後任を出すことを拒否した場合、「閣論不統一」として解散しなければなりませんでした。問題は国務大臣です。陸海軍の国務大臣は、なんと現役のキャリアから選ばれることになっていました(現役武官内閣制)!つまり軍部は、内閣が自分達に都合の悪い意思決定をした場合、陸海軍の大臣に辞表を出させる事で、内閣の決議をご破産にできたのです。 これでは、どうしようもありません。 天皇と内大臣木戸幸一に残された最後の手段は、陸軍のキャリアを丸め込んで、これを総理大臣にすることで軍部を抑えることでした。こうして誕生したのが、東条英機内閣です。しかし、東条は軍部を抑えることができませんでした。 こうして、絶対に勝ち目のない悲惨な戦争がはじまったのです。 昭和天皇は、開戦の御前会議の席で、明治天皇の平和を希求する歌を詠みました。これは、せめてもの心理的抵抗だったのでしょう。 そして、いまや本土決戦の時が迫りました。 軍部は、最後まで戦う姿勢を崩しません。 この危機を回避するためには、前人未到の政治的詐術が必要でした。 天皇と木戸が目を付けたのは、侍従武官だった鈴木貫太郎でした。 鈴木貫太郎は、最後の切り札として登場したのです! 3.鈴木貫太郎の登場 昭和天皇が、いつごろから和平を考え始めたのか?実ははっきりした事は分かりません。この方は、戦争が有利に進んでいるうちはそれなりにご満悦だったようです。負け始めてから、いろいろと心配するようになりました。「現人神」は、意外と人間的だったのです。 ただし、天皇は軍部を通してしか情報を入手することが出来ませんでした。そして軍部は、天皇に過大な戦果報告をしつづけて、その判断を歪めていたのです。天皇が、軍部を嘘つきだと悟ったのは、東京が激しい空襲にさらされるようになってからです。天皇は、密かに侍従官を各地に派遣したり、親任する政治家たちと頻繁に歓談し、独自のルートで情報収集を始めるのでした。 さて、1945年4月、政局に重大な転機が訪れました。小磯内閣の倒壊です。この人は、失言やトンチンカンな判断が多すぎて、この頃は重大な会議にも呼ばれないようになっていました。なんのための総理大臣だったんだ?彼の最大の失点は、いわゆる「重慶工作」です。蒋介石が送り込んだスパイを和平の使者だと勘違いして、国家機密を勝手にベラベラ喋りまくったのです。これには、天皇や政治家のみならず、軍部の役人たちも怒りました。こうして小磯国昭は失脚するのでした。そもそも、国家の重大事にこんな人を首相にすることが間違ってます。まあ、現代の日本も同じようなものですがね。 で、次の総理を誰にするか、要人たちの間で話し合いがもたれました。ちなみに、当時の総理大臣はどのように決まっていたかというと、元総理が中心となる政治家サロンで、談合して決めていたのです。要するに、現代と同じだったのです。・・・あれ?日本って、民主主義国家に生まれ変わったはずなのでは?なんか変だなあ。タイムスリップしたような気分! さてさて、「本土決戦」を志向する陸軍は、陸軍のキャリアを首相にしたがっていました。まあ、これは当然といえば当然です。陸軍を代弁する東条英機は、熱心にこれを主張しました。しかし、岡田啓介や近衛文麿らが猛反対して、たまたま(?)その場に呼ばれていた枢密院議長の鈴木貫太郎を推薦したのです。 驚いたのは鈴木です。彼は海軍出身なのですが、「日露戦争」に従軍して以来、第一線の軍務から足を洗っていたので、 最近の軍事には疎かったのです。しかも、年齢は79歳(!)。どう考えても、本土決戦の指揮官は勤まりません。しかも鈴木は、次のようなポリシーを持っていました。 「軍務経験者は、政治家になってはいけない。省益に目がくらんで、国事を忘れてしまうからだ」 まさにそのとおりです。昭和の悲劇は、こうした見識を無くした役人が引き起こしたのです。軍部のヘッドたちが、鈴木のような見識を半分でも持っていたら、あんなに多くの人々が苦しまずに済んだのです。 ともあれ、鈴木は固辞しつづけました。 昼食になったとき、鈴木は天皇から参内を命じられました。意外な思いを抱きながら、鈴木は天皇の前でなおも固辞しようとしました。ところが、天皇はこういったのです。 「鈴木がそう申すであろうことは分かっていた。しかし、この危急の時に際して、もう他に人はいないのだ。どうか承知してもらいたい。頼む」 鈴木はもとより、周囲の侍従たちは大いに驚きました。天皇が臣下に対して「頼む」といったのは、恐らく日本開闢以来の出来事だったのです。 鈴木は、もはや承諾せざるを得ませんでした。そして、どうして自分がそこまで信任されたのか、真剣に考えざるを得ませんでした。 本土決戦をやるのなら、他にいくらでも軍人キャリアはいるのです。軍務に疎い老齢の鈴木が推されたという事は、天皇と政治家たちの真意が「和平」にあることは明白でした。 鈴木が何よりも苦慮したのは、閣内の人材です。もっとも重要なのは、外務大臣と陸軍大臣でした。外務大臣は、和平交渉に欠かせない要職です。陸軍大臣は、和平成立の暁に、軍部のクーデターを押さえ込めるような実力者が必須でした。そして、鈴木は、二人の人物に白羽の矢を立てたのです。すなわち、東郷茂徳と阿南惟畿です。 東郷は、開戦時の外務大臣で、終始、開戦に反対しつづけ、開戦後も節を曲げなかった硬骨漢です。このころは要職を干されて、軽井沢あたりでフテ寝していました。鈴木は自ら出向いて、熱心に協力を要請したのです。東郷は、鈴木の口から「和平」という言葉が出ることを期待していたのですが、鈴木は周囲の耳を気にして切り出せませんでした。そのため、このときは物別れに終わったのです。 しかし、鈴木は諦めませんでした。その後も、あの手この手で東郷を口説いて、ようやく首を縦に振らせたのです。「三顧の礼」の世界ですな。 さて、問題は陸軍です。軍部は、鈴木が和平をやるつもりではないかと疑っていました。まあ、そりゃあそうでしょう。そう考えるのが当然です。彼らは、当初、陸軍大臣を出すのを止めようかと思ったのです。しかし、陸軍省を訪れた鈴木に継戦を要求したところ、鈴木が二つ返事で「いいですよ」と応えたので、妥協する気になったのでした。鈴木は、軍部の景気の良いスローガンにいちいち頷いて、「わしは老人で耳が遠いのじゃ」などと、ボケ老人ぶりを発揮しました。そこで油断した軍部は、望まれたように阿南を内閣に出すことを決めたのです。鈴木の演技力は、なかなか大したものだったようですね。 阿南惟畿は、いわば陸軍の切り札でした。高い見識と明晰な頭脳、そして何よりも部下思いの人格者だったので、若手将校の間で絶大な人気を誇っていたのです。しかし、これまではあまり重用されていませんでした。どうして?受験の成績が良くなかったからです。彼は、陸軍大学に入るまで4浪もしちゃったのでした。そんなこと、実社会に出てしまえば関係ないのですが、当時の(今の)役所では、そういうくだらない事にこだわるのです。 ともあれ、阿南陸相が誕生しました。阿南は鈴木と一緒に仕事をした時期もあり、互いに気心がしれていました。鈴木には、阿南を味方に取り込む成算があったのです。 さて、こうして鈴木内閣は走り出しました。鈴木は、口では本土決戦を呼号し、タカ派の印象を振りまいていました。しかし、裏では東郷と手を結んで、和平の糸口を必死に模索したのです。 まずは4月、ルーズヴェルト大統領の訃報に接して、次のような声明を出しました。 「ルーズヴェルト氏の指導が成功をおさめ、今日のアメリカの優位をもたらしたことを、私は素直に認めます。彼の死がアメリカ国民にとって意味する大きな損失を考えて、私は深い哀悼の意を表明します・・・」 アメリカの要人たちは大いに驚きました。彼らは、日本軍の狂信的な戦い振りを目の当たりにして、理性的な話し合いの可能性を諦めていたのです。 しかし、鈴木の声明は、彼らの考えを変えました。 「日本人は、立派だ。こんな状況になっても武士道を守るのだな」 後任のトルーマン大統領は、こうして、交渉による和平を志向するようになったのです。実は、トルーマン政権は、前大統領の出した「無条件降伏」要求を、理不尽なものだと考えていました。なんとかして修正できないか、知恵を絞っていたのです。国際的信用にかかわる問題なので、撤回は出来ません。そこで、学者を集めて、条文の拡大解釈を行なわせたのです。すなわち、「無条件降伏」を、「連合国が出した要求を無条件に受け入れる降伏」という意味に摩り替えたのです。つまり、実質的に「条件付降伏」にしちゃったのでした。 既述のとおり、ルーズヴェルトの出した「無条件降伏」は、戦争をいたずらに長引かせる残虐非道なものでした。アメリカの国益のために、世界を苦痛のどん底に突き落とすものでした。ヒトラーがいみじくも叫んだように、ルーズヴェルトこそ「戦争犯罪人」といって差し支えないと思うのです。そして、この非道な政策によって日独が弱体化したため、ソ連の勢力が急浮上して、アメリカの国益を脅かしかねない状況になってしまったのです。トルーマン政権は、この事態を大きく憂慮して、なんとかして第二次大戦を早期終結させたいと考えたのでした。 これが、「ポツダム宣言」として結実します。 4.外交の問題 今回は、現代でも大きな問題となっている日本の「外交」に迫ってみようと考えています。 さて、戦争末期の日本では、和平派と主戦派が水面下で激しく暗闘していました。しかし、この両者はある1点で一致していました。それは、連合軍の「無条件降伏」要求が撤回されなければ、最後まで戦う、という点です。 つまり、和平派の目的は、日本を無条件降伏させることでは無くて、様々な外交的手段を用いて、連合軍の無条件降伏要求を撤回させることにあったのでした。 しかし、陸軍はそういう動きも許さなかったのです。現に、元駐英大使の吉田茂は、「和平を企んだ」という理由で逮捕され、豚箱で生活している有様でした。 鈴木と東郷は、和平をやるという点で早くから意見を一致させていたのですが、陸軍の動きが恐ろしくて、なかなか具体的な行動を起こせなかったのです。 ところが、転機が訪れました。5月7日、ドイツが降伏し、欧州戦線のソ連軍が、満州方面に大挙して移動中との情報が入ったのです。明らかに対日参戦を企んでいるとしか思えません。陸軍は大いに恐れ、河辺虎四郎(参謀本部次長)を東郷のところに派遣して、ソ連の対日参戦を阻止するように依頼したのです。 天皇と鈴木は、これを転機と考えました。参戦阻止交渉を名目にして、ソ連に連合国との講和仲介を依頼できると考えたからです。 東郷は、実はこのアイデアに懐疑的でした。なぜなら、日本とソ連は中立条約を結んでいるといっても、その間柄は険悪だったからです。 「外交」で最も大切なのは、ディベートの能力ではありません。日ごろの信用なのです。そして、日本という国家の信用は、どん底にまで落ち込んでいました。 なぜって?過去10年、周辺諸国に理不尽な喧嘩を売りまくっていたからです。宣戦布告もしないで中国奥地まで攻め込み、宣戦布告前の卑怯な奇襲でハワイを襲ったからです。そんな国を信用しろというのは、虫が良すぎるというものです。特にソ連は、張鼓峰事件やノモンハン事件で日本と直接刃を交えていたし、独ソ戦の勃発時には、もう少しで関東軍にシベリアに攻め込まれるところでした(北進論)。スターリンは、日本を憎んでいたのです。 しかし、天皇も鈴木も、このような事情を全く気にしていませんでした。「真心を見せれば分かってもらえる」と、単純に考えていたのです。海軍大臣の米内光政などは、「ソ連と話に行くなら、ついでに石油を貰って来てよ」と東郷に依頼する無邪気さでした。 東郷は、大いに呆れました。外交というのは、国と国とのビジネスなのです。頼みごとをするのなら、それ相応の報酬を支払わなければなりません。「誠意を見せた」って、駄目なものは駄目なのです。もちろん、日本に国際的な信用があるのなら、「ツケにしといて!」という具合に信用取引も可能でしょう。しかし、信用ゼロの現状では、トランク一杯の現ナマをチラつかせる覚悟が必要なのです。 そこで東郷は、次のような取引を考えました。「ソ連が和平の仲介をしてくれるなら、南樺太と千島列島とそれにまつわる漁業権、そして満州と内蒙古の利権を全面的に割譲してあげますよ」。これは、実はたいへんな慧眼でした。この提案が実現していれば、ソ連の参戦はなかったし、戦争自体も早期に決着し、広島と長崎の悲劇もなかったでしょう。 しかし、この提案がなされた極秘会議で、参加者ほぼ全員が反対したのです。「まだ負けたわけじゃないのに、なんで、そこまでしなけりゃならんのだ?」という論調が一般的だったのです。負けてないからこそ、可能な取引もあるのですが、東郷以外の人々は、そういう事に気付かなかったのです。 このような外交センスの無さは、現代に通じる大きな問題だと思います。大多数の日本の為政者には、「外交はビジネスだ」という常識的な感覚が欠如しているように思えるのです。「外交は、みんなが仲良く話し合って親睦を深める場所だ」と、勘違いしているように見えるのです。 小渕総理没後にやった沖縄サミットなんか好例ですよね。5億ものカネを出して立派な施設を造り、やったことといえば、世界の要人に安室ちゃんの歌を聞かせただけでした。 北方諸島が帰ってこないのも、同じ事です。対価を提示しない話し合いでは、ビジネスにならないのです。 「心を篭めて話せば通じ合える」というのは、単なる甘えです。国際政治というのは、生き馬の目を抜くような残酷な世界なのですが、日本人は、そんなことも分からず、ただ甘えているのです。 ODAの問題だってそうですよ。ODAの対象国は、日本に感謝して尊敬してくれるかって?違いますよ。財布だと思ってバカにしてるんですよ。対価を要求しないでおカネをばら撒いてる国なんて、変です。カツアゲされている小学生と同じ事なのですが、日本人のお偉いさんは、それに気付いていないのです。私は、ODA関係の人と面識があるので、その辺のドロドロした実態を知っているのです。 昭和天皇も、実は全然そういうことが分かっていませんでした(不敬罪?)。 起死回生の方策を否認された東郷は、まずは草の根の努力で、日本の信用を高めることから始めたのですが、そんな悠長なことをしている余裕はもう無いのです。 7月、焦った天皇は、スターリンに親書を書いて、それを重臣筆頭の近衛文麿にモスクワまで届けさせようと考えたのです。やっぱり、「誠意を見せて分かってもらおう」と考えたわけです。近衛は、もう少し大人でしたから、そんなことをしても無駄だと知っていました。けれど天皇に口説き落とされて、モスクワ行きの準備を始めたのです。 しかし、ソ連の対日宣戦は、もはや秒読みの段階に入っていました。 事は、2月に遡ります。「ヤルタ会談」です。戦後社会の方針を決めるこの重大会議で、ルーズヴェルトは、スターリンに対日参戦を懇請したのです。スターリンは、大いに喜びました。ソ連は極東に野心を持っていたのですが、「日ソ中立条約」の存在が、その野心に歯止めを掛けていたのです。そして、ルーズヴェルトがそれを取っ払ってくれたのです。 スターリンは、ルーズヴェルトに要求しました。南樺太、千島列島、満州、内蒙古・・・。驚くべきことに、ルーズヴェルトは、その全てに承認を与えたのです!だいたい、満州と内蒙古って、もともと中国のものでしょう?なんでルーズヴェルトが意思決定できるんだ? この時期のルーズヴェルトは、心身ともに疲れきり、半病人の状態だったようです。「日本を滅ぼす」という目的のためなら、何でも良いと考えて、大局的な洞察力を失ってしまったのではないでしょうか。 この政策が、あれほどアメリカが欲した「中国市場」を、共産圏に追いやる布石となるのでした。世界市場席捲を目論んだアメリカの野望は、中国の凍土で粉砕されることになるのです! それにしても、ヤルタでスターリンが出した領土要求が、東郷が取引材料として想定した内容とほとんど一致するのは驚くべきことです。だからもしも東郷の提案が実現していれば、スターリンは軍事力の行使を思いとどまった可能性が高いのです。 外交音痴の日本の為政者たちは、広島と長崎、そして満州や樺太、千島列島の人々の運命を、地獄に突き落とす意思決定をしてしまったのでした。 これは、現代に通じる重要な教訓だと思います。 5.ポツダム宣言 さて、東郷の奔走は、空振りが多かったように見えて、実はそうでもなかったのです。アメリカは、日本の外務通信を全て傍受して解読していましたから、日本がソ連を使って交渉したがっていることを知りました。そこで、トルーマンは、ますます外交によって日本を屈服させる自信を強めたのです。彼は、知日家といわれる人々を集めて意見を聞きました。日本が絶対に譲れない一線とは何か?グルー元駐日大使は、「天皇制の維持」だと明言しました。ボルネオの戦場からは、マッカーサー大将(この人は、戦前に日本に住んでいた時期がある)も同じ事を言ってきました。しかし、大多数のアメリカの要人は、日本人の天皇に対する想いというのが理解できませんでした。天皇は、何しろ軍隊の最高司令官なのです。これを許すなんて、とても容認できることではありません。そこで、知日家の人々は、次のようなレトリックを用いて彼らを説得しました。「天皇制を保護すれば、日本人も満足するから、占領政策が円滑に進むだろう。アメリカだって得をするんだよ・・・」アメリカは、既に戦後のソ連との対決を覚悟していました。トルーマンは、前大統領の政策を全面転換するために、閣僚の首をほとんど挿げ替えました。そして、前大統領の愚策であった「ヤルタの密約」を中国に教え、蒋介石にスターリンを牽制させました。この臨機の処置によって、満州と内蒙古は中国領として確保されたのです。スターリンは、その引き換えにモンゴルの独立を勝ち取り、中国から引き離すことに成功したのです。既に、冷戦の暗闘は幕を開けていたのでした。トルーマンは、おそらくソ連の対日参戦を望んでいなかったでしょう。しかし、そればかりは、ルーズヴェルトがスターリンに言質を与えてしまったために撤回できませんでした。アメリカは、ソ連よりも先に日本を確保し、ソ連と対決するための基地にする必要に迫られたのです。こうしてアメリカは、日本に対して妥協する決意をしたのです。「条件付降伏」を要求し、日本側が「天皇制の保全」を求めてきたら、それを受け入れようと考えたのでした。1945年7月下旬、連合国の首脳はベルリン郊外のポツダムに参集を始めました。ここで、日本に対する最後の降伏勧告が行なわれたのです。いわゆる、「ポツダム宣言」です。「ポツダム宣言」でなされた日本に対する要求は、次のようなものでした。 ①軍国主義勢力の永久除去。 ②そのための手段としての、日本各地の占領。 ③日本の領土は、本州、北海道、九州、四国および連合国の決定する諸小島とする。 ④日本軍の完全な武装解除。 ⑤戦争犯罪人の処罰。民主主義の強化。言論、宗教、思想の自由。基本的人権の確立。 ⑥経済を維持する程度の産業は認めるが、再軍備のための産業は認めない。 ⑦以上の目的が達成され、日本国民の自由に表明せる意思に従い、平和的傾向を有し、かつ責任ある政府が樹立されたら、占領軍は撤退する。 そして、宣言の末尾には、次のことが書かれていました。「以上の要求をのみ、全軍隊の無条件降伏を行なわなければ、日本国は迅速かつ完全に破壊されるであろう」最後の文句はハッタリではありませんでした。アメリカは、宣言が拒否された直後に原爆を投下する手はずだったのです。この宣言が日本に伝わったのは、7月27日のことでした。東郷は、この宣言文を読んで、アメリカの真意を見抜きました。「これは、無条件降伏の要求ではありません!従来のカイロ宣言などでは『日本国の無条件降伏』とあった文言が、『日本軍の無条件降伏』に変わっているからです!敵は、交渉の余地を与えてくれたのです」天皇と鈴木は、この報告を聞いて大いに喜びました。しかし、彼らが気にしたのは、ポツダム宣言を発表した国々の中に、ソ連の名前が見当たらなかった事です。彼らは、都合よく解釈しました。すなわち、ソ連は密かに仲介作業を推進中なのではないか?だったら、しばらく静観してその結果を見ようじゃないか。東郷は半信半疑だったのですが、「それならば、何も公表せずにいるべきです」と言いました。ところが、そうはいかなくなったのです。軍部が、政府の動向を怪しみ出したからです。鈴木は、何か談話を発表しなければなりません。しかし、迂闊なことは言えないのです。宣言を受け入れるような事を言えば、クーデターが起こるでしょう。かといって、拒否する事は絶対にできないのです。そこで鈴木は、こう発表しました。「黙殺する・・・」これは、IGNOREと翻訳されてワシントンに伝わりました。アメリカの要人たちは、宣言が「拒否」されたと捉えてしまったのです!こうして、広島は一瞬にして灰になりました。8月6日、テニアン島から発進したB29『エノラ・ゲイ』は、世界最初の核爆弾を、平和な広島の街に投下したのです。約20万人の、普通の市民が犠牲になりました。これは、英米軍が戦争当初から推進してきた戦略爆撃戦略の、究極の完成形態だったのです。戦争は、ついにこのような段階に突入してしまったのでした。東郷から報告を受けて、天皇は蒼白になりました。「有利な条件を模索していては手遅れになる。一刻も早く和平を!」しかし、鈴木はなおもソ連に希望を繋いでいたのです。しかし、ソ連からの解答は非情なものでした。「世界平和のために、軍国主義日本に宣戦布告する!」8月9日、この宣戦布告が東京に届く頃、すでに満州はソ連軍の戦車に埋め尽くされていました。かつて精強を誇第十七話 レイテ沖海戦 第十八話 硫黄島と沖縄 フィリッピンでの大敗で、日本海軍は事実上壊滅したため、戦争の主導権は完全に陸軍に委ねられました。陸軍は、まだ日本本土に200万近い兵力を温存していましたから、これを用いて「本土決戦」を行なおうと考えたのです。そのためには、入念な準備期間が必要です。そこで、次にアメリカ軍の来攻が予想される地域(小笠原、台湾、沖縄)で長期の持久戦を挑み、彼らの進撃ペースを遅らせるという戦略が練られたのです。 1945年2月16日、アメリカ軍7万5千は、激しい艦砲射撃と空爆に支援されながら、小笠原諸島の硫黄島に上陸を開始しました。どうしてこの島なのか?この島は平野がちの地形なので、飛行場適地なのです。そしてここからなら東京まで戦闘機を飛ばせるので、B29に護衛戦闘機を付けることが出来て、日本本土への空襲が楽になるのでした。 日本軍守備隊は、栗林忠道中将に率いられた2万3千。栗林は、「愛馬行進曲」の作者としても知られる文人肌の冷静な指揮官で、部下たちから篤く信頼されていました。彼は、画期的な戦術を用いました。すなわち、島の全土に、延べ18キロに及ぶ地下トンネルを掘り、ここに立て篭もって敵を迎え撃ったのです。アメリカ軍の艦砲射撃と空爆は空振りに終わり、上陸してきた米兵は、地下から踊り出た日本軍によって、血まみれの白兵戦に引きずり込まれたのです。日本軍の勇戦奮闘は、3月17日の玉砕までに、アメリカ軍に死傷2万6千(うち、戦死5千)の大損害を与えたのです。人命の損失を厭うアメリカ軍は、この予想外の犠牲の大きさに顔面蒼白となりました。 栗林兵団の見事な戦いの理由は、彼らが捨石として見捨てられたために自由な戦いが出来た点にあります。大本営がチャチャを入れなかったため、日本軍は真の実力を発揮できたというわけです。 3月、アメリカ艦隊は沖縄周辺に姿を現し、激しい空襲を仕掛けました。沖縄の危機は、いまや指呼の間に迫ったのです。ところが、大本営は何を勘違いしたのか、沖縄の兵力を大量に引き抜いて、台湾に送る命令を出したのです。さすがに、沖縄守備隊は反対しました。牛島満中将を筆頭に、厳重に抗議したのです。しかし、命令は強行されました。そのため、4月のアメリカ軍上陸時には、沖縄の抗戦力は著しく弱体化していたのです。 どうして大本営は、そんな意思決定をしたのか?もちろん、アメリカ軍が先に台湾に攻めてくると思ったのでしょう。それにしても、台湾を強化する引き換えに沖縄を弱くするやり方は腑に落ちません。内地の兵力を、台湾に移送したほうが良かったはずです。また、台湾と沖縄の戦略的重要性を勘案した場合、むしろ沖縄を強化するべきだったことは明らかです(台湾人には悪いけど)。 大本営の役人どもは、重要性の判断能力を持たなかったようですね。 兵力を減らされた牛島中将は、苦渋の決断をしました。すなわち、沖縄本島の北部と中部を敵に明け渡し、全軍を珊瑚礁の岩盤に守られた南部の洞窟陣地に移して、アメリカ軍と長期持久戦を戦おうとしたのです。この戦略は、牛島の置かれた状況を考えればベストだったでしょう。そして、上陸してきたアメリカ軍は、大いに苦しみました。沖縄南部の洞窟陣地は、硫黄島の地下トンネルと同じ機能を発揮して、敵の砲撃や爆撃を受け付けませんでした。アメリカ軍は、肉弾戦に持ち込まれて大量に出血したのです。また、必死に友軍を支援するアメリカ艦隊は、延べ数千機に及ぶ特攻機の襲撃を受けて深く傷つきました。 牛島の長期持久作戦は、ほとんど成功したかに見えたのです。しかし、例によって例のごとく、現場を知らぬ大本営が、理不尽な命令を下したのでした。すなわち、「反撃を仕掛けて、敵が占領している本島中部の飛行場を奪い取れ!」というのです。そもそも沖縄戦の目的は、「本土決戦」の時間稼ぎだったはずです。だったら、なるべく堅い陣地に立て篭もったまま、兵力を温存するのに勝る戦術はないはずです。それなのに、なんで大本営が、そんな道理に合わない命令を出したのか?恐らく、海軍の特攻機の活躍を見て、これに呼応する姿勢を見せなければメンツが潰れると思ったのでしょうね。 ともあれ、命令は絶対です。沖縄軍は、洞窟陣地を飛び出して一斉に突撃しました。一時的にはアメリカ軍を苦しめたのですが、何しろ敵には空爆と艦砲射撃が付いています。陸兵の砲戦能力だって、日本軍とはけた違いです。沖縄軍は、こうして壊滅的打撃を受けて敗退したのです。 この無謀な突撃は、沖縄の運命を決めました。6月23日、日本軍は玉砕し、8万5千名が戦死しました。民間人も、10万人近くが巻き込まれて犠牲になったのです。日本軍は、軍属として民間人を大量に徴用し、戦火に巻き込むという愚を犯したのでした。 アメリカ軍の損害も甚大でした。バックナー中将をはじめ、1万2千が戦死し、他5万人が重傷を負うか発狂したのです。 硫黄島と沖縄の悲劇は、しかし無駄ではありませんでした。予想外の損害に慌てたアメリカは、日本本土への上陸を躊躇うようになったのです。もしも本土決戦を行なったら、少なくとも100万人の犠牲が出るだろうと予想されたからです。 アメリカは、本土決戦をしないで日本を屈服させる方法を考えました。 それが、「原爆」と「ソ連の対日参戦」です。 1944年中盤に入ると、アメリカはもはや「完全無敵モード」に突入していました。欧州でも、ドイツ軍をコテンパンに叩きのめしてフランス全土を解放しちゃいました。もはや笑いが止まらずウハウハです。ドイツと日本をぶっ潰して、世界を征服する意欲がマンマンでした。 ここで誰かが立ち上がって、痛い目を見せてやらねばなりません。実は、日本軍にはそのチャンスがあったのです。 アメリカ軍の次の目標がフィリッピンであることを察知した日本陸軍は、珍しく合理的な作戦を立てました。すなわち、ルソン島に全軍を集結し、ここの要塞陣地に立て篭もって、上陸してきたアメリカ軍に大量の出血を強いてやろうと心ぐんだのです。 そして、ルソンの総司令官に任命されたのは、マレー半島攻略で勇名を馳せた山下奉文でした。私見では、山下将軍は、日本史上でも一、二を争うほどの名将だったと思います。開戦当初のマレー電撃戦は、世界戦史上に燦然と輝く見事な戦ぶりでした。 この人は、シンガポールの陥落後は、ずっと満州にいたのです。東条首相と折り合いが悪くて、干されていたといいます。そんな彼が、満州から引き抜いた大軍を引っさげて、ルソンで陣頭指揮を執るのです。このまま計画どおりに行けば、アメリカ軍をギャフン(死語?)と言わせることが出来たかもしれません。 しかし、東京の大本営は、当初の計画を変更してしまったのです。海軍の「台湾沖」の戦果を信じ込んで、むしろ積極攻勢に出るべきだと考えたのです。 1944年10月、アメリカ軍はレイテ島に上陸を開始しました。レイテは、ルソンの南に位置する島で、飛行場の適地でした。アメリカ軍は、ルソン攻略の前進基地とするべく、ここに攻めて来たのです。 東京のキャリアたちは、これを何だと思ったか。 「アメリカ軍は、台湾沖で艦隊が全滅して戦闘力を喪失したはずである。なのに攻めて来たのは、負け惜しみの最後っ屁に違いない!今なら、簡単に倒すことが出来るだろう。レイテに部隊を送り込んで、叩きのめしてくれる」 ・・・アメリカ軍の慎重で物堅い戦い振りを知っている人々の発想とは、とても思えません。なんで、こんな身勝手な想像をしちゃうのかなあ。 ともあれ、ルソン決戦は、こうしてレイテ決戦に変更されたのです。 山下将軍をはじめ、ルソンに陣取る将兵たちは、この方針変更に猛反対しました。現場にいる彼らは、連日のようにアメリカ軍艦載機の大群に空襲されていましたから、「台湾沖」の戦果が嘘っぱちだということが分かったのです。しかし、東京のキャリアは、現場の意見に耳を貸そうとしませんでした。現場を信じないお偉方とは、本当に困りものです。 海軍は、さすがに「台湾沖」の戦果が間違いだったことに気付きました。でも、間違いだと認めるとメンツが潰れるので、ダンマリを決めこんだのです。海軍が、勇気を持って誤りを認めておれば、レイテの戦いは起こらなかったのに。昔から、偉い役人というのは、自分の間違いを認めないものなのです。 もっとマズいことは、小磯首相が、「レイテは日米決戦の地だ」と大題的に宣言しちゃったので、みんな引っ込みが付かなくなっちゃった事です。 レイテ島は、当初から放棄される予定だったので、島の防備はスカスカです。どうして決戦が出来るの?しかし、決まってしまったことは仕方ありません。軍隊は、命令絶対の世界です。山下将軍は、涙を呑みながら虎の子のように大切な部隊を、次々にレイテに派遣したのです。この部隊はどうなったか?ほとんどが、レイテに辿り着く前に、輸送船ごと沈められちゃったのです。満州で鍛えた精鋭は、一発の銃弾も放たずに海の藻屑となったのです。辛うじてレイテに辿り着いた部隊は、飢えと病気に悩まされました。アメリカ軍が補給船を全部沈めちゃうからです。まさに、ガダルカナルの二の舞です。・・・トホホ。 海軍は、残る全戦力を引っさげてレイテに出動しました。小磯首相の軽率な発言によって、レイテが「最後の決戦地」になっちゃたので、出撃しないとメンツが立たないからです。 ここで海軍軍令部は、物凄く大掛かりな作戦計画を立てました。すなわち、全艦隊を4つに分けて、4つのルートでレイテに向かわせようと考えたのです。 呉から出撃するのは、小沢中将の空母艦隊です。 志摩中将の巡洋艦隊は、台湾から南下します。 ブルネイ(カリマンタン島)から出撃するのは、栗田中将の戦艦艦隊と西村将軍の旧式戦艦部隊でした。 小沢空母艦隊は、実は戦力ゼロでした。パイロットが、枯渇していたからです。この艦隊は、囮の役割を担わされていました。小沢艦隊が敵機動部隊を吸引している隙に、残りの3個艦隊が、同時に別ルートからレイテ湾に突入し、敵の輸送船団を襲撃するという作戦計画だったのです。 地図の上では、たいへんに美しく精緻な計画だったでしょうね。軍令部のキャリアたちは、「俺って頭いい!」とか「完璧な計画だぜ!」とかご満悦だったでしょうね。 しかし、この計画は、実務的には最低最悪の計画でした。どうしてか?それは「あまりに精緻で細かいものを、一種類しか用意してない」からです。 実務の世界では、突発的な事故や予想外の事態が必ず起きます。特に、ビジネスや戦争やスポーツのように、ライバルが存在する場合は尚更です。神ならぬ人間は、敵の出方を完全には予測できないからです。ですから、優れた実務家は、必ず次のような計画を立てるのです。 ①大雑把で柔軟な計画を一つ作る。 又は、 ②起こり得るあらゆる事態を想定し、複数の代替可能な計画を用意する。 ①と②のどちらが良いかは、ケース・バイ・ケースです。敢えて言うなら、状況判断が巧みで機転が利く人は①を、想像力豊かで企画力に優れる人は②を行うのがベストでしょう。 日本海軍の計画は、①精緻で細かい&②一つだけという点で、マズイのです。こういう計画だと、突発的事態に対応することが非常に難しいからです。 例えば、アメリカ軍が、最初に囮に気付かなかったらどうするの?また、囮にひっかからなかったらどうするの? そもそも、3つの艦隊が、別ルートから同時にレイテ湾に突撃するなんてナンセンスです。戦場では、敵に発見されたことが確実になるまで、無線封止が行なわれます。通信を傍受されて味方の位置を悟られないようにするためです。つまり、4つの艦隊は、お互いの動きが良く分からないのです。敵の妨害が予想される中で、歩調を合わせて計画どおりに進撃するなどできるはずがありません。しかし、同時に突入しなければ敵を撹乱できないし、却って各個撃破されるでしょう(実際にそうなった)。 一つの前提が崩れただけで全体が崩壊するような計画。実務の世界では、こういう計画を立てる人は「無能」と呼ばれます。 日本のエリートは、どうして実務的に最悪の計画を好んで立てるのでしょうか? 実は、「精緻で細かい&一つだけ」が、極めて効果的な世界が一つだけ存在するのです。どんな世界かって?もうお分かりでしょう。 それは「受験勉強の世界」なのです! 受験勉強のどこが悪いのか?いきなり私見ですが、人間の能力というのは基本的に、みんな一定なのだと思います。長所がある人は、必ず何らかの短所を持っています。そして、長所と短所の平均値の大きさは、世界中の万人において近似値となるのではないかと思うのです。長所だらけに見える人もいますが、それは、その人が自分の短所を自覚して、人前でそれを隠しているからそう見えるだけです。短所まみれに見える人は、自分の短所について無自覚なので、人前で無防備にさらけ出すからそう見えるのです。そして、多くの場合、長所と短所は表裏一体の関係にあります。長所を持つ人は、必ずそれに付随した短所を持っているはずです。例えば私の場合、長所は「状況判断が正確」という点です。そして短所は「物事に執着がなくて飽きっぽい」という点です。これは、実は表裏一体の関係にあります。物事に執着がないから、先入観に捕らわれずに状況を判断出来るというわけです。それでは、受験が得意な人の短所は何か?もちろん程度の差はありますが、それは「視野が狭くて想像力がない」という点です。受験勉強って、物凄く閉鎖的で、しかも自分自身の能力しか問われないでしょう?決まりきった事を、一人ぼっちで黙々とこなすなんて、こんな詰まらない世界は他にありません。こんな世界で勝ち残るためには、広い視野も想像力も邪魔者です。ですから優秀な受験エリート(これは堺屋太一の造語だと思う)というのは、視野が狭くて想像力が無くなる傾向があるのです。日本社会の恐ろしいところは、こうした受験エリートの長所(勉強ができること)ばかりを持て囃し、短所については目をつぶる事です。エリートたちは、己の短所に無自覚なまま、一生を安楽に過ごすことができちゃうのです。例えば、公認会計士(いちおう受験エリートの端くれ)というのは、読書を好みません。私は、会計士になって10年くらいになりますが、同僚と読書経験を分かち合った経験はゼロに近いです。読書をしないと言うことは、視野が狭くて想像力がないわけです。しかし、彼らは自分の短所に対して完全に無自覚なのです。後輩と、こんな会話をしたことがあります。 私 「会計士って、ほんとに本を読まないよねえ」 後輩「そんなことはありません!みんな読書家です!」 私 「え?君はどんなの読むの?」 後輩「『企業会計原則』とか『商法』とか『財務諸表規則』とか・・・」 ・・・嘘みたいな本当の話です。ともあれ、受験エリートは、受験勉強が得意技です。この得意技は実務で生かせるのか?生かせないこともありません。外部からシャットアウトされた閉鎖空間で、ルーチンワークだけを繰り返すなら、無類のパワーを発揮します。だから、徳川幕府の官僚(鎖国で守られていた)や高度成長期の官僚(冷戦構造と護送船団方式で守られていた)は優秀だったのです。しかし、状況が激しく変化する勝負の世界では、一転して無能になるのです。なぜかというと、受験勉強そのものの本質に欠陥があるからです。すなわち、受験の問題は、問題に対して解答が必ず一つあります。もちろん、別解の出るケースもあるでしょうが、それほど多くの別解は出ません。なぜなら、別解が多い問題は採点が面倒くさくなるからです。だから受験の問題は、基本的に1+1=2にしかならないのです。しかし、実務の世界では、そうではありません。解答が10個も20個も出ちゃう場合もあれば、解答がゼロのケースもあって当たり前なのです。このような状況をどのように解決するのかが、実務の世界では問われるのです。しかし、受験エリートは、こうした事が苦手です。1+1=2にならないと、思考停止に陥ってしまうのです。また、受験勉強にはコツがあります。どの試験問題も、必ず簡単な問題と難しい問題によって構成されています。そして、受験が得意な人というのは、簡単な問題を鋭く見抜いて、それを重点的に解くセンスに優れているのです。逆にいえば、難しい問題を放棄するセンスが大切なのです。しかし、実務の世界ではそうではありません。必ず解かなければならない難解な問題が、必ず存在するのです。そして、受験エリートは、このような問題に対処する方法を知りません。だから「問題先送り」にするのです。こういった理由によって、受験エリートは、カオスの輪が拡散し、エントロピーが増大する環境下では、どうしようもない無能者と化します。しかし、受験の成績で権威付けする日本型システムでは、こういった無能者でも許容せざるを得ないのです。無能者がミスを犯しても、その権威ゆえに責任が問われることはありません。責任は、全てノンキャリアや国民が引っかぶるのです。現在では、資源や国費の無駄遣い。そして戦時中は、死ななくても良い人たちの人命が大量に失われるという悲劇に見舞われたのです。それでも、現行のシステムの下では、我々は唇を噛んで我慢するしかないのです。連合軍の将兵たちの間では、「日本軍は、下士官以下は物凄く有能で勇敢なのに、上級将校以上は信じられないほど無能になる」というのが語り草になっていました。また、「日本軍は、当初の計画が予定通りに進んでいる時は強いけど、少しでも計画どおりに行かないと、一転して弱くなる」というのも有名でした。無能なトップのアホウな指示で、最も苦労するのは現場の将兵です。そして、レイテ沖海戦の時は、こういったストレスが頂点に達したのです。特に、主力部隊(大和や武蔵を含む大軍)を率いる栗田中将の苦衷は、見ていて辛くなるほどのものだったはずです。これが、「謎の転進」事件の背景にあることを、忘れてはならないと思います。 さてさて、気が重いですが、連合艦隊の壊滅について書かねばなりますまい。さて、日本海軍の作戦計画は、既述のとおり、北方からフィリッピンに接近する小沢艦隊が囮となって敵を引き付けている隙に、残りの3個艦隊がレイテ湾に突入するというものでした。特に期待がもたれたのは、西方からレイテに接近する栗田艦隊です。ここには、世界最大の戦艦「大和」と「武蔵」がその威容を並べていました。ところが、アメリカ軍は、小沢艦隊よりも先に栗田艦隊、次に、北西から進んでくる西村艦隊と志摩艦隊を、立て続けに発見しちゃったのです。大本営の計画は、しょっぱなからズッコケタというわけです。アメリカ軍は、圧倒的な戦力を持ちながら、「戦力集中の原則」を曲げることがありません。まずは、その全力で、3個艦隊のうちで最強と思われる栗田艦隊を攻撃したのです。栗田艦隊は、潜水艦の待ち伏せ攻撃、それに続く大空襲によって、戦力の半分を失ってしまいました。特に大きかったのは、戦艦「武蔵」の喪失です。「武蔵」は、数十発の爆弾と20本の魚雷を受けて、シブヤン海の藻屑と化したのです。20本くらうまで沈まなかった武蔵を誉めるべきか、それとも20本も当てたアメリカを誉めるべきか?いずれにせよ、世界最強の不沈戦艦ですら、アメリカ軍の敵ではないことが明らかになりました。このままでは全滅です。栗田中将は、やむなく、生き残った全軍を引き連れて、西方海上に一時退避しました。 しかし、西村艦隊は、定刻どおりにレイテ湾の入り口に到達しちゃいました。どうなったか?敵中に単独で突出した西村艦隊は、圧倒的な数の敵戦艦に取り囲まれて、文字通り袋叩きにあって全滅したのです。戦艦「扶桑」と「山城」は、アメリカ軍のレーダー射撃の前に、秒殺されてしまったのです。志摩艦隊は、少し遅れてレイテ湾に到着したのですが、西村艦隊の全滅を知って戦意を喪失。台湾へと逃げ去ったのです。志摩艦隊は、巡洋艦を中心とした小戦力でしたから、この判断は仕方なかったでしょう。レイテ突入作戦は、いきなり失敗したのでした。さて、アメリカ軍は、ようやく北方の小沢艦隊を発見しました。小沢艦隊は、航空機を搭載しない空母4隻を中心としていました。しかし、アメリカ軍は、こっちを日本の主力と誤認したのです。ブル(猛牛)と渾名されるハルゼー提督は、空母部隊を引っさげて猛然と北方に猪突しました。小沢艦隊は、実に良く戦いました。空母4隻は全て失ったものの、航空戦艦「伊勢」と「日向」が、レーダーを用いた効果的な対空射撃を行い、アメリカ軍機を大いに苦しめたのです。小沢艦隊の生き残りは、ハルゼーを十分に北方に吊り 出してから、無事に呉に帰港しました。囮作戦は、大成功だったのです。その間、再びレイテへと進撃を始めた栗田艦隊は、島の北方から回りこみ、いよいよレイテ湾を指呼の間に臨んでいました。そんな彼らは、いきなりアメリカの護衛空母艦隊に遭遇したのです。護衛空母というのは、輸送船を護衛するために建造された小型空母です。アメリカ軍は、こういうのをレイテ沖に30隻くらい持っていました。さすがは補給を重視する軍隊です。栗田艦隊は、いきなりこういうのに遭遇しちゃったのでした。栗田艦隊の不幸は、アメリカ軍の護衛空母という概念を知らなかった点です。「わーい、空母を見つけたぞ!」と喜んで、全軍で護衛空母を追い掛け回したのです。しかし、護衛空母というのは、商船を改造したようなボロ船です。「大和」の砲弾では威力がありすぎて、命中してもスカスカ貫通して効果が出ないのです。また、こんなボロ船を沈めても、戦局には全然影響ありません。大きく陣形を崩した栗田艦隊は、護衛空母から発進した攻撃機や駆逐艦の魚雷攻撃で大打撃を受け、「大和」も浸水して速力が大幅にダウンしました。もはや、栗田艦隊には、無傷の船は1隻もおらず、兵士達の疲労も頂点に達していました。しかも、肝心の(?)ボロ空母部隊には、結局、逃げられてしまったのです。諦めて全軍を纏めた栗田中将。このまま直進すればレイテ湾です。しかし、彼は意外な決断をしました。全軍を北方に向けて作戦を中止してしまったのです。これが、「謎の転進」です。もしも直進していれば、アメリカ軍の防衛網は一時的に弱体化していましたから、湾内の輸送船団を攻撃できたはずです。アメリカ軍は、すんでのところで命拾いしたのでした。第十七話 レイテ沖海戦 1944年中盤に入ると、アメリカはもはや「完全無敵モード」に突入していました。欧州でも、ドイツ軍をコテンパンに叩きのめしてフランス全土を解放しちゃいました。もはや笑いが止まらずウハウハです。ドイツと日本をぶっ潰して、世界を征服する意欲がマンマンでした。 ここで誰かが立ち上がって、痛い目を見せてやらねばなりません。実は、日本軍にはそのチャンスがあったのです。 アメリカ軍の次の目標がフィリッピンであることを察知した日本陸軍は、珍しく合理的な作戦を立てました。すなわち、ルソン島に全軍を集結し、ここの要塞陣地に立て篭もって、上陸してきたアメリカ軍に大量の出血を強いてやろうと心ぐんだのです。 そして、ルソンの総司令官に任命されたのは、マレー半島攻略で勇名を馳せた山下奉文でした。私見では、山下将軍は、日本史上でも一、二を争うほどの名将だったと思います。開戦当初のマレー電撃戦は、世界戦史上に燦然と輝く見事な戦ぶりでした。 この人は、シンガポールの陥落後は、ずっと満州にいたのです。東条首相と折り合いが悪くて、干されていたといいます。そんな彼が、満州から引き抜いた大軍を引っさげて、ルソンで陣頭指揮を執るのです。このまま計画どおりに行けば、アメリカ軍をギャフン(死語?)と言わせることが出来たかもしれません。 しかし、東京の大本営は、当初の計画を変更してしまったのです。海軍の「台湾沖」の戦果を信じ込んで、むしろ積極攻勢に出るべきだと考えたのです。 1944年10月、アメリカ軍はレイテ島に上陸を開始しました。レイテは、ルソンの南に位置する島で、飛行場の適地でした。アメリカ軍は、ルソン攻略の前進基地とするべく、ここに攻めて来たのです。 東京のキャリアたちは、これを何だと思ったか。 「アメリカ軍は、台湾沖で艦隊が全滅して戦闘力を喪失したはずである。なのに攻めて来たのは、負け惜しみの最後っ屁に違いない!今なら、簡単に倒すことが出来るだろう。レイテに部隊を送り込んで、叩きのめしてくれる」 ・・・アメリカ軍の慎重で物堅い戦い振りを知っている人々の発想とは、とても思えません。なんで、こんな身勝手な想像をしちゃうのかなあ。 ともあれ、ルソン決戦は、こうしてレイテ決戦に変更されたのです。 山下将軍をはじめ、ルソンに陣取る将兵たちは、この方針変更に猛反対しました。現場にいる彼らは、連日のようにアメリカ軍艦載機の大群に空襲されていましたから、「台湾沖」の戦果が嘘っぱちだということが分かったのです。しかし、東京のキャリアは、現場の意見に耳を貸そうとしませんでした。現場を信じないお偉方とは、本当に困りものです。 海軍は、さすがに「台湾沖」の戦果が間違いだったことに気付きました。でも、間違いだと認めるとメンツが潰れるので、ダンマリを決めこんだのです。海軍が、勇気を持って誤りを認めておれば、レイテの戦いは起こらなかったのに。昔から、偉い役人というのは、自分の間違いを認めないものなのです。 もっとマズいことは、小磯首相が、「レイテは日米決戦の地だ」と大題的に宣言しちゃったので、みんな引っ込みが付かなくなっちゃった事です。 レイテ島は、当初から放棄される予定だったので、島の防備はスカスカです。どうして決戦が出来るの?しかし、決まってしまったことは仕方ありません。軍隊は、命令絶対の世界です。山下将軍は、涙を呑みながら虎の子のように大切な部隊を、次々にレイテに派遣したのです。この部隊はどうなったか?ほとんどが、レイテに辿り着く前に、輸送船ごと沈められちゃったのです。満州で鍛えた精鋭は、一発の銃弾も放たずに海の藻屑となったのです。辛うじてレイテに辿り着いた部隊は、飢えと病気に悩まされました。アメリカ軍が補給船を全部沈めちゃうからです。まさに、ガダルカナルの二の舞です。・・・トホホ。 海軍は、残る全戦力を引っさげてレイテに出動しました。小磯首相の軽率な発言によって、レイテが「最後の決戦地」になっちゃたので、出撃しないとメンツが立たないからです。 ここで海軍軍令部は、物凄く大掛かりな作戦計画を立てました。すなわち、全艦隊を4つに分けて、4つのルートでレイテに向かわせようと考えたのです。 呉から出撃するのは、小沢中将の空母艦隊です。 志摩中将の巡洋艦隊は、台湾から南下します。 ブルネイ(カリマンタン島)から出撃するのは、栗田中将の戦艦艦隊と西村将軍の旧式戦艦部隊でした。 小沢空母艦隊は、実は戦力ゼロでした。パイロットが、枯渇していたからです。この艦隊は、囮の役割を担わされていました。小沢艦隊が敵機動部隊を吸引している隙に、残りの3個艦隊が、同時に別ルートからレイテ湾に突入し、敵の輸送船団を襲撃するという作戦計画だったのです。 地図の上では、たいへんに美しく精緻な計画だったでしょうね。軍令部のキャリアたちは、「俺って頭いい!」とか「完璧な計画だぜ!」とかご満悦だったでしょうね。 しかし、この計画は、実務的には最低最悪の計画でした。どうしてか?それは「あまりに精緻で細かいものを、一種類しか用意してない」からです。 実務の世界では、突発的な事故や予想外の事態が必ず起きます。特に、ビジネスや戦争やスポーツのように、ライバルが存在する場合は尚更です。神ならぬ人間は、敵の出方を完全には予測できないからです。ですから、優れた実務家は、必ず次のような計画を立てるのです。 ①大雑把で柔軟な計画を一つ作る。 又は、 ②起こり得るあらゆる事態を想定し、複数の代替可能な計画を用意する。 ①と②のどちらが良いかは、ケース・バイ・ケースです。敢えて言うなら、状況判断が巧みで機転が利く人は①を、想像力豊かで企画力に優れる人は②を行うのがベストでしょう。 日本海軍の計画は、①精緻で細かい&②一つだけという点で、マズイのです。こういう計画だと、突発的事態に対応することが非常に難しいからです。 例えば、アメリカ軍が、最初に囮に気付かなかったらどうするの?また、囮にひっかからなかったらどうするの? そもそも、3つの艦隊が、別ルートから同時にレイテ湾に突撃するなんてナンセンスです。戦場では、敵に発見されたことが確実になるまで、無線封止が行なわれます。通信を傍受されて味方の位置を悟られないようにするためです。つまり、4つの艦隊は、お互いの動きが良く分からないのです。敵の妨害が予想される中で、歩調を合わせて計画どおりに進撃するなどできるはずがありません。しかし、同時に突入しなければ敵を撹乱できないし、却って各個撃破されるでしょう(実際にそうなった)。 一つの前提が崩れただけで全体が崩壊するような計画。実務の世界では、こういう計画を立てる人は「無能」と呼ばれます。 日本のエリートは、どうして実務的に最悪の計画を好んで立てるのでしょうか? 実は、「精緻で細かい&一つだけ」が、極めて効果的な世界が一つだけ存在するのです。どんな世界かって?もうお分かりでしょう。 それは「受験勉強の世界」なのです! 受験勉強のどこが悪いのか?いきなり私見ですが、人間の能力というのは基本的に、みんな一定なのだと思います。長所がある人は、必ず何らかの短所を持っています。そして、長所と短所の平均値の大きさは、世界中の万人において近似値となるのではないかと思うのです。長所だらけに見える人もいますが、それは、その人が自分の短所を自覚して、人前でそれを隠しているからそう見えるだけです。短所まみれに見える人は、自分の短所について無自覚なので、人前で無防備にさらけ出すからそう見えるのです。そして、多くの場合、長所と短所は表裏一体の関係にあります。長所を持つ人は、必ずそれに付随した短所を持っているはずです。例えば私の場合、長所は「状況判断が正確」という点です。そして短所は「物事に執着がなくて飽きっぽい」という点です。これは、実は表裏一体の関係にあります。物事に執着がないから、先入観に捕らわれずに状況を判断出来るというわけです。それでは、受験が得意な人の短所は何か?もちろん程度の差はありますが、それは「視野が狭くて想像力がない」という点です。受験勉強って、物凄く閉鎖的で、しかも自分自身の能力しか問われないでしょう?決まりきった事を、一人ぼっちで黙々とこなすなんて、こんな詰まらない世界は他にありません。こんな世界で勝ち残るためには、広い視野も想像力も邪魔者です。ですから優秀な受験エリート(これは堺屋太一の造語だと思う)というのは、視野が狭くて想像力が無くなる傾向があるのです。日本社会の恐ろしいところは、こうした受験エリートの長所(勉強ができること)ばかりを持て囃し、短所については目をつぶる事です。エリートたちは、己の短所に無自覚なまま、一生を安楽に過ごすことができちゃうのです。例えば、公認会計士(いちおう受験エリートの端くれ)というのは、読書を好みません。私は、会計士になって10年くらいになりますが、同僚と読書経験を分かち合った経験はゼロに近いです。読書をしないと言うことは、視野が狭くて想像力がないわけです。しかし、彼らは自分の短所に対して完全に無自覚なのです。後輩と、こんな会話をしたことがあります。 私 「会計士って、ほんとに本を読まないよねえ」 後輩「そんなことはありません!みんな読書家です!」 私 「え?君はどんなの読むの?」 後輩「『企業会計原則』とか『商法』とか『財務諸表規則』とか・・・」 ・・・嘘みたいな本当の話です。ともあれ、受験エリートは、受験勉強が得意技です。この得意技は実務で生かせるのか?生かせないこともありません。外部からシャットアウトされた閉鎖空間で、ルーチンワークだけを繰り返すなら、無類のパワーを発揮します。だから、徳川幕府の官僚(鎖国で守られていた)や高度成長期の官僚(冷戦構造と護送船団方式で守られていた)は優秀だったのです。しかし、状況が激しく変化する勝負の世界では、一転して無能になるのです。なぜかというと、受験勉強そのものの本質に欠陥があるからです。すなわち、受験の問題は、問題に対して解答が必ず一つあります。もちろん、別解の出るケースもあるでしょうが、それほど多くの別解は出ません。なぜなら、別解が多い問題は採点が面倒くさくなるからです。だから受験の問題は、基本的に1+1=2にしかならないのです。しかし、実務の世界では、そうではありません。解答が10個も20個も出ちゃう場合もあれば、解答がゼロのケースもあって当たり前なのです。このような状況をどのように解決するのかが、実務の世界では問われるのです。しかし、受験エリートは、こうした事が苦手です。1+1=2にならないと、思考停止に陥ってしまうのです。また、受験勉強にはコツがあります。どの試験問題も、必ず簡単な問題と難しい問題によって構成されています。そして、受験が得意な人というのは、簡単な問題を鋭く見抜いて、それを重点的に解くセンスに優れているのです。逆にいえば、難しい問題を放棄するセンスが大切なのです。しかし、実務の世界ではそうではありません。必ず解かなければならない難解な問題が、必ず存在するのです。そして、受験エリートは、このような問題に対処する方法を知りません。だから「問題先送り」にするのです。こういった理由によって、受験エリートは、カオスの輪が拡散し、エントロピーが増大する環境下では、どうしようもない無能者と化します。しかし、受験の成績で権威付けする日本型システムでは、こういった無能者でも許容せざるを得ないのです。無能者がミスを犯しても、その権威ゆえに責任が問われることはありません。責任は、全てノンキャリアや国民が引っかぶるのです。現在では、資源や国費の無駄遣い。そして戦時中は、死ななくても良い人たちの人命が大量に失われるという悲劇に見舞われたのです。それでも、現行のシステムの下では、我々は唇を噛んで我慢するしかないのです。連合軍の将兵たちの間では、「日本軍は、下士官以下は物凄く有能で勇敢なのに、上級将校以上は信じられないほど無能になる」というのが語り草になっていました。また、「日本軍は、当初の計画が予定通りに進んでいる時は強いけど、少しでも計画どおりに行かないと、一転して弱くなる」というのも有名でした。無能なトップのアホウな指示で、最も苦労するのは現場の将兵です。そして、レイテ沖海戦の時は、こういったストレスが頂点に達したのです。特に、主力部隊(大和や武蔵を含む大軍)を率いる栗田中将の苦衷は、見ていて辛くなるほどのものだったはずです。これが、「謎の転進」事件の背景にあることを、忘れてはならないと思います。 さてさて、気が重いですが、連合艦隊の壊滅について書かねばなりますまい。さて、日本海軍の作戦計画は、既述のとおり、北方からフィリッピンに接近する小沢艦隊が囮となって敵を引き付けている隙に、残りの3個艦隊がレイテ湾に突入するというものでした。特に期待がもたれたのは、西方からレイテに接近する栗田艦隊です。ここには、世界最大の戦艦「大和」と「武蔵」がその威容を並べていました。ところが、アメリカ軍は、小沢艦隊よりも先に栗田艦隊、次に、北西から進んでくる西村艦隊と志摩艦隊を、立て続けに発見しちゃったのです。大本営の計画は、しょっぱなからズッコケタというわけです。アメリカ軍は、圧倒的な戦力を持ちながら、「戦力集中の原則」を曲げることがありません。まずは、その全力で、3個艦隊のうちで最強と思われる栗田艦隊を攻撃したのです。栗田艦隊は、潜水艦の待ち伏せ攻撃、それに続く大空襲によって、戦力の半分を失ってしまいました。特に大きかったのは、戦艦「武蔵」の喪失です。「武蔵」は、数十発の爆弾と20本の魚雷を受けて、シブヤン海の藻屑と化したのです。20本くらうまで沈まなかった武蔵を誉めるべきか、それとも20本も当てたアメリカを誉めるべきか?いずれにせよ、世界最強の不沈戦艦ですら、アメリカ軍の敵ではないことが明らかになりました。このままでは全滅です。栗田中将は、やむなく、生き残った全軍を引き連れて、西方海上に一時退避しました。 しかし、西村艦隊は、定刻どおりにレイテ湾の入り口に到達しちゃいました。どうなったか?敵中に単独で突出した西村艦隊は、圧倒的な数の敵戦艦に取り囲まれて、文字通り袋叩きにあって全滅したのです。戦艦「扶桑」と「山城」は、アメリカ軍のレーダー射撃の前に、秒殺されてしまったのです。志摩艦隊は、少し遅れてレイテ湾に到着したのですが、西村艦隊の全滅を知って戦意を喪失。台湾へと逃げ去ったのです。志摩艦隊は、巡洋艦を中心とした小戦力でしたから、この判断は仕方なかったでしょう。レイテ突入作戦は、いきなり失敗したのでした。さて、アメリカ軍は、ようやく北方の小沢艦隊を発見しました。小沢艦隊は、航空機を搭載しない空母4隻を中心としていました。しかし、アメリカ軍は、こっちを日本の主力と誤認したのです。ブル(猛牛)と渾名されるハルゼー提督は、空母部隊を引っさげて猛然と北方に猪突しました。小沢艦隊は、実に良く戦いました。空母4隻は全て失ったものの、航空戦艦「伊勢」と「日向」が、レーダーを用いた効果的な対空射撃を行い、アメリカ軍機を大いに苦しめたのです。小沢艦隊の生き残りは、ハルゼーを十分に北方に吊り 出してから、無事に呉に帰港しました。囮作戦は、大成功だったのです。その間、再びレイテへと進撃を始めた栗田艦隊は、島の北方から回りこみ、いよいよレイテ湾を指呼の間に臨んでいました。そんな彼らは、いきなりアメリカの護衛空母艦隊に遭遇したのです。護衛空母というのは、輸送船を護衛するために建造された小型空母です。アメリカ軍は、こういうのをレイテ沖に30隻くらい持っていました。さすがは補給を重視する軍隊です。栗田艦隊は、いきなりこういうのに遭遇しちゃったのでした。栗田艦隊の不幸は、アメリカ軍の護衛空母という概念を知らなかった点です。「わーい、空母を見つけたぞ!」と喜んで、全軍で護衛空母を追い掛け回したのです。しかし、護衛空母というのは、商船を改造したようなボロ船です。「大和」の砲弾では威力がありすぎて、命中してもスカスカ貫通して効果が出ないのです。また、こんなボロ船を沈めても、戦局には全然影響ありません。大きく陣形を崩した栗田艦隊は、護衛空母から発進した攻撃機や駆逐艦の魚雷攻撃で大打撃を受け、「大和」も浸水して速力が大幅にダウンしました。もはや、栗田艦隊には、無傷の船は1隻もおらず、兵士達の疲労も頂点に達していました。しかも、肝心の(?)ボロ空母部隊には、結局、逃げられてしまったのです。諦めて全軍を纏めた栗田中将。このまま直進すればレイテ湾です。しかし、彼は意外な決断をしました。全軍を北方に向けて作戦を中止してしまったのです。これが、「謎の転進」です。もしも直進していれば、アメリカ軍の防衛網は一時的に弱体化していましたから、湾内の輸送船団を攻撃できたはずです。アメリカ軍は、すんでのところで命拾いしたのでした。しかし、栗田提督の決断にも、やむをえないものがあったでしょう。彼は、おそらく当初からこの作戦計画に疑問を抱いていたはずですし、レイテの輸送船団を沈めても、戦局を逆転させることはできない事を知っていました。そして、栗田艦隊は、日本海軍の最後の戦力です。戦艦「大和」を、意味の無い戦いで輸送船と刺し違えさせたくなかったのでしょう。せめて、北方で再び敵空母に砲撃するチャンスがあれば、と思って転進してしまったのです。いずれにせよ、レイテ沖海戦は、日本海軍の壊滅という結果で幕を閉じたのでした。1945年1月、レイテを制圧したアメリカ軍は、いよいよルソン島に上陸を開始しました。兵力を大幅にレイテに引き抜かれた山下将軍は、とても太刀打ちできないと判断。残りの全軍を山岳地帯に退却させて、長期持久戦を戦う方針に切り替えました。山下軍団は、終戦の日まで粘り強く戦い、アメリカの大軍をルソンに引き付ける事に成功したのです。もしも山下に十分な兵力があったなら・・・。後知恵になるから止めましょう。アメリカ軍は、いよいよ日本本土に迫ります。しかし、栗田提督の決断にも、やむをえないものがあったでしょう。彼は、おそらく当初からこの作戦計画に疑問を抱いていたはずですし、レイテの輸送船団を沈めても、戦局を逆転させることはできない事を知っていました。そして、栗田艦隊は、日本海軍の最後の戦力です。戦艦「大和」を、意味の無い戦いで輸送船と刺し違えさせたくなかったのでしょう。せめて、北方で再び敵空母に砲撃するチャンスがあれば、と思って転進してしまったのです。いずれにせよ、レイテ沖海戦は、日本海軍の壊滅という結果で幕を閉じたのでした。1945年1月、レイテを制圧したアメリカ軍は、いよいよルソン島に上陸を開始しました。兵力を大幅にレイテに引き抜かれた山下将軍は、とても太刀打ちできないと判断。残りの全軍を山岳地帯に退却させて、長期持久戦を戦う方針に切り替えました。山下軍団は、終戦の日まで粘り強く戦い、アメリカの大軍をルソンに引き付ける事に成功したのです。もしも山下に十分な兵力があったなら・・・。後知恵になるから止めましょう。アメリカ軍は、いよいよ日本本土に迫ります。った関東軍は、南方や本土に主戦力を引き抜かれて弱体化していたのです。満州で生活する人々は、そのような事態をまったく知らないで平和に暮らしていました。またもや軍が民間人を裏切ったのです!関東軍は壊滅し、数え切れない人々が戦火に呑まれて行きました。知らせを受けて呆然とする鈴木の耳に、さらなる悲報が届きました。長崎に原爆が投下された・・・。しかし、鈴木は、壊れそうな心を、意志の力で必死に持ちこたえたのでした。「わしが、全ての始末を付けるのだ・・・」いよいよ、戦争終結に向けて、最後の戦いが始まろうとしていました。 8月9日、この宣戦布告が東京に届く頃、すでに満州はソ連軍の戦車に埋め尽くされていました。かつて精強を誇った関東軍は、南方や本土に主戦力を引き抜かれて弱体化していたのです。満州で生活する人々は、そのような事態をまったく知らないで平和に暮らしていました。またもや軍が民間人を裏切ったのです!関東軍は壊滅し、数え切れない人々が戦火に呑まれて行きました。知らせを受けて呆然とする鈴木の耳に、さらなる悲報が届きました。長崎に原爆が投下された・・・。しかし、鈴木は、壊れそうな心を、意志の力で必死に持ちこたえたのでした。「わしが、全ての始末を付けるのだ・・・」いよいよ、戦争終結に向けて、最後の戦いが始まろうとしていました。 さて、アメリカ軍は、次の目標をフィリッピンにしようか台湾にしようか迷いました。もちろんマッカーサーが強弁して、フィリッピンにしちゃったのですが。 とりあえず、空母17隻のアメリカ機動部隊は、沖縄や台湾の日本の飛行場を空襲して回りました。フィリッピン侵攻の土台固めのためです。まったく彼らは、やる事が堅いですなあ。 日本海軍は、「好機到来」とばかりに夜間爆撃機を繰り出してアメリカ艦隊に猛攻を加えました。400機以上を失って得られた成果は、なんと「敵空母の全滅」という大戦果!大本営発表は、鳴り物入りの大騒ぎ。 でも、完全なデマでした。アメリカ軍は、補助艦艇が何隻か損傷を受けただけで、主力艦はまったくの無傷だったのです。実戦経験のない日本のヒヨッコパイロットたちは、味方機の撃墜された炎を見て「敵空母1隻轟沈」などと報告を送り、海軍首脳部がバカみたいにそれを真に受けたというわけです。・・・いわゆる「台湾沖航空戦」の顛末でした。 日本軍は、色めきたちました。「好機到来!残敵掃討!」などと叫んで積極的な姿勢を見せたのです。 こうして、とんでもない勘違いの中でフィリッピンの戦いが始まりました。 こうして、とんでもない勘違いの中でフィリッピンの戦いが始まりました。 Last Up date2019(令和元)年6月25(火)ふるさと再生 瀬戸内海の島 トップ > プロフィール 店主 難波 久佳 1997年に広島市内から当地福富町に移り住み、里山の林の中に暮らしております。季節の移ろいを目にしながら、美味しい空気、美味しい水、新鮮で安全な地元の野菜などをたっぷり使った食事の喜びを感じ、この幸せを是非多くの人々と共有したいと思って2003年4月に レストラン サンサーラSanSaraを開業いたしました。 日常から離れてのんびりと”サンサーラ風”フランス料理を楽しんでください。ご来店を心からお待ちいたしております。 三代目シェフ 難波久佳(2016.3~現在) 二代目シェフ 古川 伸昌(2003.12~2015.12) 二代目シェフが2015年末に病気治療のために離職しました。翌1月と2月レストランを休業して熟慮し、店長自らがシェフを引き継ぎ、3月からレストランを再開しました。お客様が、料理、サービス、ホスピタリテイ、自然環境・・・等を喜んでくださるように、またそれらを提供する私自身も大きな喜びとなるように精進しております。ご来店をお待ちしております。 地元の食材をたっぷり使って流行やジャンルにとらわれず、“あたたかい”料理を創っていきたいと思っています。 気軽に食べに来てください。 初代シェフ Dale Mander(2003.4~2003.12) デール マンダーは2003年2月から12月末まで、婚約者のElizabethと福富町に住み、その間に雪を喜び、夏の蒸し暑さに疲れ、春、秋の美しさを愛で、地元の人々やサンサーラのお客様から厚い人情をたくさん頂きました 。大きな体、明るく楽しい人柄で頼もしい存在でした。 婚約者のElizabeth がオーストラリアの大学に再入学するために、2003年12月末彼女と一緒に帰国しました。日本語は不自由でしたが、開業の準備やシェフとして明るく一生懸命に働いてくれました。 この記事の1行目に飛ぶ 個人情報保護について サイトマップ メニューを更新しました(2019年02月24日)サンサーラに春の訪れを感じます(2019年02月24日)謹賀新年(2019年01月01日) 個人情報保護について サイトマップ
再審法の改正を<「疑わしきは被告人の利益に」が鉄則だが、証拠の全面開示とせっかくの再審開始決定に対して検事側抗告を防ぐ、再審法改正が早急に求められている。>
https://sasakitosi.exblog.jp/30659149/2025-04-30 04:00:00 - 4月29日付け東京新聞朝刊21面に、「本音のコラム」という欄がある。筆者は、ルポライター・鎌田慧氏だ。今日はこの筆者に学ぶことにした。 まず筆者は、「静岡地裁の村山浩昭裁判長が再審開始を決定、「これ以上,拘置を継続することは耐え難いほど正義に反する」として、袴田巌さんの拘置と死刑を停止して釈放した。 が、静岡地検が即時抗告して審理は東京高裁へに移され、再審開始決定が取り消された。最高裁が東京高裁決定を取り消して静岡地裁で再審公判が始まり、無罪の判決が出されたのは、村山決定から10年半経った2024年9月。袴田さん逮捕から58年が経った。88歳。無罪判決まで生き抜いた。 その半年後、3回目の再審請求をしていた石川一雄さんが誤嚥性肺炎で死去した。。86歳だった。 女子高生誘拐殺人事件で一審死刑判決、二審で無期懲役。31年獄中にいて仮釈放されたが、本人は「見えない手錠をかけられている」と訴えていた。冤罪を晴らせないまま世を去らなければならなかった無念は、冤罪を訴えている人々の共通の思いだ。」と教えてくれる。 続けて筆者は、「「駱駝が針の穴を通るように難しい」「開かずの扉」などと言われ、これまでも帝銀事件、三鷹事件、名張ぶどう酒事件などの容疑者が、再審を認められないまま他界した。 福岡事件や菊地事件など冤罪を訴えながら処刑されたケースもある。」と指摘した。最期に筆者は、「疑わしきは被告人の利益に」が鉄則だが、証拠の全面開示とせっかくの再開決定にたいして検察側抗告を防ぐ、再審法改正は早急に求められている。」として締めくくった。 読んで勉強になった。 「静岡地裁の村山浩昭裁判長が再審開始を決定、「これ以上、拘置を継続することは耐え難いほど正義に反する」として袴田巌さんの拘置と死刑を停止して釈放した。」とのこと、 「最高裁が東京高裁決定を取り消して静岡地裁で再審公判が始まり、無罪の判決が出されたのは、村山決定から10年半経った2024年9月。袴田さん逮捕から58年が経った。88歳。無罪判決まで生き抜いた。」とのこと、 「3回目の再審請求をしていた石川一雄さんが誤嚥性肺炎で死去した。86歳だった。<中略>冤罪をはらせないまま世を去らなければならなかった無念は、冤罪を訴えている人々の共通の思いだ。」とのこと、 「これまでも帝銀事件、三鷹事件、名古屋ぶどう酒事件などの容疑者が、再審を認められないまま他界した。」とのこと、 「福岡事件や菊地事件など冤罪を訴えながら処刑されたケースもある。」とのこと、 等々を知ることができた。 そして筆者は、「「疑わしきは被告人の利益に」が鉄則だが、証拠の全面開示とせっかくの再審開始決定に対し検事側抗告を防ぐ、再審法の改正が早急に求められている。」と指摘した。 筆者の指摘に共鳴しながら、考えた。 冤罪は絶対あってはならない、してはならない、と冤罪のニュースを見るたびに思いを強くしてきた。それは冤罪被害者の悲惨を思うからだ。あわせて、真犯人を野放しにしてきた、警察・検察の能力不足と責任感不足は何とかならないものかと、思ってきた。 この欄での筆者の指摘ように、まずは、一日も早い「証拠の全面開示、再審決定に対しての検察側抗告を防ぐ」再審法の改正を急いでほしい、と思った。
裁判官逮捕に驚く!
https://okawakazuo.exblog.jp/33615340/2025-04-30 04:00:00 - トランプ米大統領の横暴には驚くばかりだが、今度は、裁判官逮捕というニュースである。テレビではその逮捕とともにその暴挙に抗議する人たちを映し出している。新聞記事でも例えば毎日新聞27日付記事もおよそ次の通り報ずる。米連邦捜査局(FBI)は25日、不法滞在の疑いがあるメキシコ人男性の逮捕を妨げたとして、中西部ウィスコンシン州ミルウォーキー郡のハンナ・ドゥガン判事を公務執行妨害などの被疑事実で逮捕したという。ドゥガン氏は18日、軽犯罪に問われたメキシコ人男性の刑事裁判を担当した。この際、男性の逮捕を狙う移民・税関捜査局(ICE)の捜査員らが裁判所内にいることに気づき、男性を裏口から逃がしたとされる。捜査員らは裁判所敷地外で男性を発見し逮捕した。そもそもこの背景には、裁判所内での身体拘束を巡って被告人が出廷しない原因となって裁判進行に支障を来すとして一部の判事の間で以前から懸念が示されていたという。ドゥガン氏は逮捕後に連邦地裁の尋問に出廷し、弁護人が「逮捕は遺憾で抗議する」と表明したがすぐに訴追され保釈されている。ボンディ司法長官は25日に「不法滞在者をかくまえば、誰でも訴追するという強いメッセージを発した」と強調しドゥガン氏の逮捕を見せしめに移民の取り締まり強化するという。しかしドゥガン氏とすれば、裁判所へ来れば身体拘束が生ずるとなれば、被疑者・被告人は出頭しないであろう。そうなれば裁判は成り立たない。だから司法の維持のためにも、裁判所へ来れば身体拘束が生ずることは防がないといけない。こう考えるのはおかしくない。そういった司法の立場を無視して判事を逮捕する。いや恐ろしい。三権分立も何もない。まるで独裁主義かと思ってしまうのである。
鼠小僧次郎吉伝
https://hanaha09.exblog.jp/34535893/2025-04-30 04:00:00 - 江戸東京下町文化研究会によると、天保3年(1832年)の4月30日、鼠小僧次郎吉逮捕さる、とある。天保3年5月8日(1832年6月6日)だという説もあるが、日本橋浜町の上野国小幡藩屋敷(藩主松平忠恵)に忍び込んだ際に同藩の侍に取り押さえられ北町奉行所に身柄を引き渡されたそうだ。江戸の街かどの大名屋敷から金を盗み、貧しい庶民に分け与えた義賊といえば、この鼠小僧、古くから歌舞伎の演目として、他にも文学、映画、ドラマなど、さまざまな作品に登場する江戸の有名人だ。鼠小僧、本名次郎吉は歌舞伎小屋・中村座の便利屋家業を務める家の息子として生まれた、本業とび職。素行が悪かったようで25歳の時に父親から勘当、その後賭博を始め、身を持ち崩し、その資金を稼ぐために盗人稼業に手を染めた。そして、捕まるまで10年にわたって泥棒を繰り返した、この時代の影を映す理由があった。一つは、盗んだ金は貧しいものに分け与えることは無かった、自ら酒に女に賭博につぎ込んだ訳なんだが、その暮らし向きはなんともつつましいものだった。もう一つは、尾張家、紀伊家、水戸家、一橋家、田安家などの大名屋敷のみをねらった、誇りが高い武士たちにとっては泥棒に入られたなどという事件は恥の骨頂ととらえられ、公になることが無かったのだ、また、警備を強化すると幕府に対する謀反とも疑われてしまってヤバいことになるという反面もあった。もう一つは、この時代は「天保の改革」の時期、華美な祭礼や贅沢が禁止され、厳しい締め付けに庶民の不満は溜り、むやみな殺傷を避け、賄賂などで遊行を重ねる大名たちに痛手を与える鼠小僧のような存在は、庶民にとっては偽らざる社会へのはけ口でもあった。こんな川柳もある、「百の諸侯盗まれし数は百廿二 二三度逢ひし馬鹿も有るらむ」。判決は市中引き回しの上での獄門(裸の馬に乗せてさらしものにした後に処刑、切った首を獄門台にさらす)、放火・殺人に等しい重罰となった。ただ、当時の重罰には家族・郎党には連座制の罰が課されるのが普通、しかし鼠小僧は天涯孤独、数人いた妻や妾には予め離縁状を渡しており、刑罰が及ぶことなく済んだ。人を傷つけることなく、ひとりで罪を犯し、ひとりで刑罰を受けたのがこの鼠小僧。墓は両国の回向院にあり墨田区の有形民俗文化財、参拝客は長年捕まらなかった幸運にあやかろうと、墓の前にある石を削って持ち帰り、お守りにしているのだそうだ。現代の鼠小僧が現れそうな今日この頃の世相だ。
身体装着型カメラ 市場の成長、予測 2025 に 2032
https://wehmeyerjoye17.exblog.jp/37918522/2025-04-30 04:00:00 - グローバルな「身体装着型カメラ 市場」の概要は、業界および世界中の主要市場に影響を与える主要なトレンドに関する独自の視点を提供します。当社の最も経験豊富なアナリストによってまとめられたこれらのグローバル業界レポートは、主要な業界のパフォーマンス トレンド、需要の原動力、貿易動向、主要な業界ライバル、および市場動向の将来の変化に関する洞察を提供します。身体装着型カメラ 市場は、2025 から 2032 まで、6.4% の複合年間成長率で成長すると予測されています。レポートのサンプル PDF を入手します。https://www.reliablemarketforecast.com/enquiry/request-sample/2946289身体装着型カメラ とその市場紹介ですボディカメラとは、警察官やその他の公務員が着用する小型のカメラで、リアルタイムで映像を記録する機器です。ボディカメラ市場の目的は、公共の安全を向上させ、透明性を確保することです。その利点には、証拠の収集、職員の行動の監視、訴訟リスクの軽減などが含まれます。市場成長を促進する要因としては、法執行機関の監視要求の高まりや技術の進歩が挙げられます。また、プライバシー保護やデータ管理に関する規制の強化も、脱却しなければならない課題となっています。今後の新興トレンドとしては、AI統合による分析機能向上や、クラウドストレージの普及が期待されています。ボディカメラ市場は、予測期間中に%のCAGRで成長すると見込まれています。身体装着型カメラ 市場セグメンテーション身体装着型カメラ 市場は以下のように分類される: 記録タイプ録画とライブストリーミングのタイプボディーワーンカメラ市場には、いくつかの主要なタイプがあります。主な録画タイプは、通常録画と高解像度録画に分類されます。通常録画は、一般的な監視用途に適し、ストレージ効率が高いです。一方、高解像度録画は、詳細な映像が必要な場面で使用され、犯罪捜査などに役立ちます。録画とライブストリーミングタイプでは、録画タイプは事後に映像を確認するのに適しており、特に証拠としての価値があります。ライブストリーミングはリアルタイムでの監視や情報共有を可能にし、安全性の向上に寄与します。これにより、事件発生時に迅速な対処が求められる場面で非常に有用です。 身体装着型カメラ アプリケーション別の市場産業調査は次のように分類されます。:地方警察特別法執行機関民事利用ボディカメラ市場のアプリケーションには、主に地方警察、特別法執行機関、市民の利用が含まれます。地方警察は、日常のパトロールや逮捕時に証拠を記録するためにボディカメラを使用し、透明性を高めます。特別法執行機関は、特殊なミッションや事件対応時に重要な死角をカバーするために活用します。市民利用では、個人が自らの安全や出来事の証拠を記録する手段として注目されています。全体として、これらのアプリケーションは、法執行の透明性を向上させ、安全対策の強化を促進します。このレポートを購入する(シングルユーザーライセンスの価格:2800 USD: https://www.reliablemarketforecast.com/purchase/2946289身体装着型カメラ 市場の動向ですボディカメラ市場を形作る最先端のトレンドには、以下のような要素があります。- **AIと機械学習の統合**: ビデオ分析を通じて重要な瞬間を自動的に識別し、証拠収集を効率化する技術が注目されています。- **クラウドストレージの普及**: データをセキュアに保管できるクラウドサービスが普及し、アクセス性とコスト効率を向上させています。- **ユーザー体験の向上**: 軽量化や使いやすさを追求したデザインが消費者の好みに応え、普及が加速しています。- **プライバシーに対するコンプライアンスの強化**: 映像データの取り扱いやプライバシー保護が求められ、規制が市場に影響を与えています。- **軍事および産業向けのニーズ**: 公共安全だけでなく、民間セクターや軍事用途でも需要が増えています。これらのトレンドにより、ボディカメラ市場は急速に成長しています。地理的範囲と 身体装着型カメラ 市場の動向 North America: United States Canada Europe: Germany France U.K. Italy Russia Asia-Pacific: China Japan South Korea India Australia China Taiwan Indonesia Thailand Malaysia Latin America: Mexico Brazil Argentina Korea Colombia Middle East & Africa: Turkey Saudi Arabia UAE Korea ボディカメラ市場は、北米では特に成長を遂げており、アメリカとカナダが重要な市場を形成しています。これは、警察や公共安全機関による透明性の向上や、法執行機関の信頼性を高めるための導入が進んでいるからです。ヨーロッパでは、ドイツ、フランス、英国、イタリアなどでの導入が進んでおり、セキュリティ強化のニーズが背景にあります。アジア太平洋地域では、中国や日本、インドなどが成長の機会を提供し、技術革新が重要な要素となります。中南米や中東・アフリカでも市場拡大が期待される中、デジタルアライ、VIEVU、Reveal、パナソニックなどの主要プレーヤーが競争を繰り広げており、製品の性能向上やコスト削減が成長を後押ししています。このレポートを購入する前に、質問がある場合は問い合わせるか、共有してください。: https://www.reliablemarketforecast.com/enquiry/pre-order-enquiry/2946289身体装着型カメラ 市場の成長見通しと市場予測ですボディワーンカメラ市場は、予測期間中に年平均成長率(CAGR)が著しく上昇すると期待されており、主に技術革新と新しい戦略によって推進されます。特に、AIや機械学習を活用した映像解析技術の進展は、データの有用性を高め、警察活動やセキュリティ業務における効率を向上させる要因となります。革新的な展開戦略の一環として、自治体や企業はより手頃な価格で高性能のボディワーンカメラを導入し、ユーザーの負担を軽減することが重要です。また、クラウドベースのストレージとリアルタイムのデータ共有を活用することで、映像データの管理と分析が容易になり、迅速な対応を可能にします。さらに、プライバシー保護のための規制や技術が進化することで、導入への抵抗感が減少し、より多くの業界での利用が期待されます。これらの要素が相まって、ボディワーンカメラ市場は今後の成長が見込まれています。身体装着型カメラ 市場における競争力のある状況ですDigital AllyVIEVURevealSafety InnovationsPanasonicPinnacle ResponsePRO-VISION Video SystemsShenzhen AEE TechnologySafety Vision LLCGoPro (Intrensic)Transcend InformationWolfcom EnterprisesVeho (MUVI)10-8 Video Systems LLCShenzhen Eeyelog TechnologyPannin TechnologiesMaxSurボディカメラ市場は、法執行機関やセキュリティ業界での需要の高まりにより成長を続けています。特にDigital Ally、VIEVU、Panasonicは市場の主要なプレーヤーです。Digital Allyは、独自の技術を駆使し、品質と耐久性の高いボディカメラを提供しています。近年、同社は製品ラインの拡充とともに、ソフトウェアの革新にも取り組み、データ管理の効率化を図っています。過去の収益は安定しており、成長が期待される分野に注力しています。VIEVUは、ユーザーフレンドリーなデザインと高性能を兼ね備えたボディカメラで知られています。特に、クラウドベースのストレージソリューションを提供することで、データ管理において競争上の優位性を持っています。市場における成長は顕著で、特に米国市場での売上が増加しています。Panasonicは、堅牢性と高画質を誇るデバイスを展開しており、広範な販売ネットワークを持っています。同社はしばしば新しい技術の導入により市場のニーズに応え、成長を続けています。市場全体の規模は今後も拡大が予測され、多くの企業が新技術の開発に注力しています。ボディカメラの導入は必須となりつつあり、特に日本市場においてもその需要は高まっています。主要企業の売上高:- Digital Ally: 約1500万ドル- VIEVU: 約2000万ドル- Panasonic: 約900億ドル(全ビジネスユニットにおける売上)レポートのサンプル PDF を入手する: https://www.reliablemarketforecast.com/enquiry/request-sample/2946289弊社からのさらなるレポートをご覧ください:Check more reports on https://www.reliablemarketforecast.com/
ハンドヘルド電気ショック武器 市場の成長、予測 2025 に 2032
https://royubowitzkT.exblog.jp/243814506/2025-04-30 04:00:00 - グローバルな「ハンドヘルド電気ショック武器 市場」の概要は、業界および世界中の主要市場に影響を与える主要なトレンドに関する独自の視点を提供します。当社の最も経験豊富なアナリストによってまとめられたこれらのグローバル業界レポートは、主要な業界のパフォーマンス トレンド、需要の原動力、貿易動向、主要な業界ライバル、および市場動向の将来の変化に関する洞察を提供します。ハンドヘルド電気ショック武器 市場は、2025 から 2032 まで、5% の複合年間成長率で成長すると予測されています。レポートのサンプル PDF を入手します。https://www.reliableresearchiq.com/enquiry/request-sample/2852991ハンドヘルド電気ショック武器 とその市場紹介ですハンドヘルド電気ショック武器は、主に非致死的な方法で対象を制圧するために設計された武器で、個人や法執行機関によって使用されます。この市場の目的は、公共の安全を確保し、犯罪や暴力的な状況に対処することです。利点には、致死性が低く、使用者と対象者の両方に安全な選択肢を提供することが含まれます。市場成長を促進する要因には、防犯への関心の高まりや、国内外の法執行機関における装備の更新が挙げられます。また、テクノロジーの進化により、製品の性能や使い勝手が向上しています。今後の市場を形成する新興トレンドとしては、個人用防衛装備の需要増加や、ストレスを軽減するためのトレーニングプログラムの導入が見られます。ハンドヘルド電気ショック武器市場は、予測期間中に5%のCAGRで成長すると予想されています。ハンドヘルド電気ショック武器 市場セグメンテーションハンドヘルド電気ショック武器 市場は以下のように分類される: ミニスタンガン懐中電灯スタンガンバトンスタンガンテーザースタンガンハンドヘルド電撃武器市場には、主にミニスタンガン、フラッシュライトスタンガン、バトンスタンガン、テイザーガンがあります。ミニスタンガンはコンパクトで持ち運びが便利で、個人の防衛に最適です。フラッシュライトスタンガンは照明機能を持ち、暗い場所での守りに役立ちます。バトンスタンガンは長さがあり、より大きな威圧感を与えることができ、近接戦闘に有効です。テイザーガンは特定の距離から対象に電撃を与え、無力化する目的で使用され、効果的な非致死的武器となります。 ハンドヘルド電気ショック武器 アプリケーション別の市場産業調査は次のように分類されます。:法執行機関ミリタリーハンドヘルド電撃武器市場のアプリケーションには、主に法執行機関と軍隊の用途があります。法執行機関では、非致死的な手段として使用され、逮捕や暴力の制御に役立ちます。これにより、警官は危険を避けつつ公衆の安全を守ることができます。軍隊では、敵の無力化や抑止力として利用され、戦闘状況での迅速な対応を可能にします。いずれも、適切な使用が求められ、倫理的な規制が重要です。このレポートを購入する(シングルユーザーライセンスの価格:3660 USD: https://www.reliableresearchiq.com/purchase/2852991ハンドヘルド電気ショック武器 市場の動向ですハンドヘルド電撃武器市場を形作る最先端のトレンドには、以下のような要素があります。- 技術革新:新しいバッテリー技術や軽量素材が、使いやすさと携帯性を向上させています。- 消費者の好み:自己防衛や安全保障に対する関心が高まり、一般消費者による需要が増加しています。- 法規制の変動:各国の法律が変わる中で、合法的に使用できる製品への需要が増しています。- スマート機能:Bluetoothやアプリ連動による監視機能が新たな付加価値を提供しています。- 環境意識の高まり:持続可能な素材やリサイクル可能な製品が注目されています。これらのトレンドが相まって、ハンドヘルド電撃武器市場は今後数年間で着実な成長が期待されます。地理的範囲と ハンドヘルド電気ショック武器 市場の動向 North America: United States Canada Europe: Germany France U.K. Italy Russia Asia-Pacific: China Japan South Korea India Australia China Taiwan Indonesia Thailand Malaysia Latin America: Mexico Brazil Argentina Korea Colombia Middle East & Africa: Turkey Saudi Arabia UAE Korea ハンドヘルド電撃武器市場は、特に北米で急成長しています。米国とカナダの需要が特に高まっており、個人防衛や治安維持の目的での使用が増加しています。欧州では、ドイツ、フランス、英国、イタリアが主要市場であり、治安対策としての受け入れが進んでいます。アジア太平洋地域では、中国や日本、インドが市場の拡大を牽引しています。主要企業には、Euro Security Products、MARCH GROUP、Guard Dog Security、Omega、TASER International、SABREなどがあり、技術革新や製品の多様化が成長の要因です。中東やラテンアメリカでも市場機会があり、地域ごとのニーズに応じた対応が求められています。このレポートを購入する前に、質問がある場合は問い合わせるか、共有してください。: https://www.reliableresearchiq.com/enquiry/pre-order-enquiry/2852991ハンドヘルド電気ショック武器 市場の成長見通しと市場予測ですハンドヘルドエレクトロショック武器市場は、予測期間中に堅調なCAGR(年平均成長率)を見込んでいます。この成長は、法執行機関やセキュリティ企業からの需要の増加、技術革新、使いやすさの向上に起因しています。特に、軽量でコンパクトなデザインの製品は、携帯性と操作性を台頭させ、急速な普及に寄与しています。イノベーティブな展開戦略としては、バイオメトリクスやAIを活用したセキュリティシステムとの統合が挙げられます。これにより、危険な状況の即時識別と反応が可能になり、使用機会が拡大します。また、トレーニングプログラムの充実や、警察や軍向けの特別な機能を持つモデルの開発も、ユーザーの需要増加に貢献します。さらに、オンライン販売チャネルの拡大は、消費者が簡単にアクセスできる環境を提供し、マーケットの成長を促進します。これらのイノベーションと戦略により、ハンドヘルドエレクトロショック武器市場は新たな成長の機会を迎えるでしょう。ハンドヘルド電気ショック武器 市場における競争力のある状況ですEuro Security Products (ESP)MARCH GROUPGuard Dog SecurityOmegaJiangsu Kelin Police EquipmentHong Kong Rui Dun Industrial DevelopmentSang Min InternationalShyh SingOberon-AlphaSABREVIPERTEKNova Security GroupTASER International手持ち電撃兵器市場には、欧州セキュリティ製品(ESP)、MARCH GROUP、ガード・ドッグ・セキュリティ、オメガ、江蘇ケリン警察機器、香港瑞敦工業開発、サンミンインターナショナル、シェイシン、オベロン・アルファ、SABRE、VIPERTEK、ノバセキュリティグループ、TASERインターナショナルなどのプレーヤーが存在します。これらの企業の中で、TASERインターナショナルは市場のリーダーとして知られており、非致死性武器のパイオニアとして、長年にわたる堅調な成長を見せています。彼らは新たな技術革新や製品開発への投資を続け、特に警察やセキュリティ業界において高い信頼を得ています。Oberon-Alphaも注目されており、独自のデザインとユーザーフレンドリーな機能を強調した製品を提供しています。一方、VIPERTEKはコストパフォーマンスに優れた商品を展開し、比較的手頃な価格帯での市場シェア拡大を目指しています。このアプローチにより、より多くの消費者にアクセスし、急成長を遂げています。市場成長見込みとしては、セキュリティ意識の高まりとともに、個人向けの防犯ニーズが増加しており、手持ち電撃兵器の需要が高まることが予想されます。会社別売上高:- TASERインターナショナル: 約500百万米ドル(2022年度)。- SABRE: 約100百万米ドル。- Euro Security Products (ESP): 約70百万米ドル。レポートのサンプル PDF を入手する: https://www.reliableresearchiq.com/enquiry/request-sample/2852991弊社からのさらなるレポートをご覧ください:Check more reports on https://www.reliableresearchiq.com/
雄牛が陶器店に。迷惑デス/ Decided To Stay In NZ For A While
https://BBauckland.exblog.jp/33609235/2025-04-29 04:00:00 - 今年の秋は荒れ模様で、雨や風の日が多く、心待ちにしていた穏やかな秋晴れの日がなかなか訪れません。それでも、機嫌の悪いお天気の合間を縫って、ファイヴを連れてビーチまで歩きます。犬がいるからこそ、このレイジーな私でもこういう行動に出るのですネ。ありがたく思っています。The weather hasn't been great this fall.Not so helpful to improve my sour mood after reading NYTimes every morning.Trump at the white house is often compared to a "Bull in a china shop"The effect of the destruction Trump is causing is definitely as disastrous and heartbreaking as the bull in the situation no matter how unintended in his case.I suppose Democracy was as precious and delicate as china.Unbelievable, devilishly spectacular, the way it's shattered.荒れ模様はお天気だけでなく世界全体です。あのホワイトハウスにいるつまらないオトコのお陰で、震源地のアメリカは言うまでもありませんが、近隣の国々から果ては南極の孤島まで、暴風雨に巻き込まれて本当にメイワク!アメリカ国内はもう滅茶苦茶で、連日、法律を無視した大統領令を続発するトランプは、アメリカを確実に右翼の独裁国家然と塗り変えています。民主主義の秩序って、こんなにも『もろい』ものだったのですね。トランプの破壊力は、よく英語で『陶器のお店に入った雄牛』効果と表現されます。民主主義って、陶器のお店みたいなものだったの?I was planning to spend this month in San Francisco, but decided not to go.Even legal residents and visitors are arrested at the custom.I better wait and see the situation for a while.私も今頃はアメリカに居る予定にしていましたが、居住権保持者も通関時にランダムに逮捕されていて、怖くて帰れません。しばらくは近寄らない方が身のためかと、年末まで様子を見ることにしました。やれやれ、することがいっぱいあったのに…*写真は、まだまだ盛りと咲き誇る、我が中庭のペトレアです。雨の日も、窓越しに揺れるバイオレットの花房が見えて嬉しく、家の中に花がなくても寂しくありません。昨日は、夫の四輪バイクに二人乗りして、久しぶりにファームの奥の方まで行きました。ファイヴが横を突っ走り、楽しそうだった。森の中では、この2週間ほどお手伝いしてくれているドイツ人のピアが、毒草抜きに励んでいてくれました。まだ19歳のお嬢さんです。夜は、カボチャスープとラザーニャでした。ほっこり温まるものが美味しく感じられる日々です。サンフランシスコ ブログランキングへニュージーランド旅行 ブログランキングへにほんブログ村にほんブログ村
口腔検査装置 市場の成長、予測 2025 に 2032
https://bernadettejames57.exblog.jp/243810634/2025-04-29 04:00:00 - 口腔検査装置 市場は、既存の水準と比較して予想を上回る需要を経験しており、この排他的なレポートは、業界セグメントに関する定性的および定量的な洞察を提供します。 口腔検査装置 市場は、2025 年から 2032 年にかけて 8.7%% の CAGR で成長すると予想されます。この詳細な 口腔検査装置 市場調査レポートは、116 ページにわたります。口腔検査装置市場について簡単に説明します:口腔検査デバイス市場は、近年急速に成長しており、2023年には約50億ドルに達すると予測されています。この市場は、歯科医療、個人の健康管理、そしてテレヘルスの需要増加により推進されています。革新的な技術の導入により、診断精度が向上し、患者体験の向上が図られています。また、アジア太平洋地域の拡大が市場成長を加速させており、主要企業は競争力を維持するために研究開発を強化しています。口腔検査装置 市場における最新の動向と戦略的な洞察オーラルテストデバイス市場は、健康意識の高まりや自己管理の重要性が認識される中で急成長しています。特に、糖尿病や感染症の早期発見が求められ、需要が増加しています。主要なメーカーは、技術革新とユーザーフレンドリーなデザインに焦点を当て、自社製品の差別化を図っています。以下は市場の主要トレンドです:- 自宅での健康管理:ユーザーが手軽に検査できる製品の需要が増加。- テクノロジー統合:スマートフォンとの連携機能が注目。- 健康意識の向上:一般の健康管理に対する関心が高まる。- 高齢化社会:高齢者向けの簡便な検査ツールが必要とされる。これらのトレンドは市場成長を促進しています。レポートのPDFのサンプルを取得します: https://www.reliablebusinessarena.com/enquiry/request-sample/2014182口腔検査装置 市場の主要な競合他社ですオーラルテスティングデバイス市場には、いくつかの主要なプレーヤーが存在します。これには、アボット・ラボラトリーズ、広州Wondfoバイオテクノロジー、オラキュアテクノロジーズ、クエストダイアノスティクス、ネオジェンコーポレーション、オラノキシス、プレミアバイオテック、セキューテック検出システム、UCPバイオサイエンシーズ、スクリーンイタリア、アキューバイオテック、MEDACX Ltd、およびオアシス診断が含まれます。これらの企業は、革新的な製品の開発や効率的な製造プロセスを通じ、市場の成長を促進しています。また、研究開発への投資や戦略的提携を通じて、新しいテスト方法や患者向けソリューションを提供しており、業界全体の進展に寄与しています。以下は、いくつかの企業の売上収益の概要です:- アボット・ラボラトリーズ:販売収益約338億ドル- クエストダイアノスティクス:販売収益約70億ドル- ネオジェンコーポレーション:販売収益約5億ドルこのように、主要企業は市場シェアを拡大し、オーラルテスティングデバイス市場の成長を支えています。Abbott LaboratoriesGuangzhou Wondfo BiotechOraSure TechnologiesQuest DiagnosticsNeogen CorporationOranoxis IncPremier BiotechSecuretec Detektions-SystemeUCP Biosciences (Chinese Peptide Co)Screen ItaliaAccuBioTechMEDACX LtdOasis Diagnostics口腔検査装置 の種類は何ですか?市場で入手可能ですか?製品タイプに関しては、口腔検査装置市場は次のように分けられます:5パネル唾液検査キット6 パネル唾液検査キット10 パネル唾液検査キットその他オーラルテストデバイスには、5パネル、6パネル、10パネルの唾液検査キットがあり、それぞれ異なる薬物を検出します。5パネルは主に一般的な薬物を対象とし、6パネルは追加の物質を含み、10パネルはより広範な分析を提供します。これらのデバイスは、生産コストと価格が異なり、市場シェアは用途によって変動します。成長率は、ヘルスケアや法執行機関での需要に影響され、トレンドに応じて進化しています。多様な市場ニーズに応えることで、オーラルテストデバイスの認識が高まります。このレポートを購入します (シングルユーザー ライセンスの価格 2800 米ドル): https://www.reliablebusinessarena.com/purchase/2014182口腔検査装置 の成長を促進するアプリケーションは何ですか?市場?製品のアプリケーションに関して言えば、口腔検査装置市場は次のように分類されます:ワークプレース・テスト刑事司法テスト疾病検査口腔検査デバイスは、さまざまな分野で幅広く利用されています。職場では、従業員の薬物使用を確認するために使用され、即時の結果が得られるため便利です。刑事司法では、犯罪者の再犯防止や逮捕後の薬物検査に役立ちます。また、疾病検査では、感染症や健康状態のスクリーニングに用いられます。これらの用途で、口腔検査デバイスは迅速で非侵襲的な検査手段として機能します。急成長しているアプリケーションセグメントは、職場のテストです。今すぐお問い合わせいただくか、ご質問をお寄せください -https://www.reliablebusinessarena.com/enquiry/pre-order-enquiry/2014182口腔検査装置 をリードしているのはどの地域ですか市場? North America: United States Canada Europe: Germany France U.K. Italy Russia Asia-Pacific: China Japan South Korea India Australia China Taiwan Indonesia Thailand Malaysia Latin America: Mexico Brazil Argentina Korea Colombia Middle East & Africa: Turkey Saudi Arabia UAE Korea オーラルテスティングデバイス市場は、北アメリカ、ヨーロッパ、アジア太平洋、ラテンアメリカ、中東・アフリカの各地域で拡大しています。特に北アメリカが市場をリードし、2023年には約40%の市場シェアを持ち、バリュエーションは数十億ドルに達する見込みです。続いてヨーロッパが約30%のシェアを占め、ドイツ、フランス、イギリスが主要国として注目されています。アジア太平洋地域、特に中国とインドが急成長しており、約20%のシェアに達する見込みです。ラテンアメリカと中東・アフリカはそれぞれ10%未満ですが、成長のポテンシャルがあります。この 口腔検査装置 の主な利点 市場調査レポート:{Insightful Market Trends: Provides detailed analysis of current and emerging trends within the market.Competitive Analysis: Delivers in-depth understanding of key players' strategies and competitive dynamics.Growth Opportunities: Identifies potential areas for expansion and investment opportunities.Strategic Recommendations: Offers actionable recommendations for informed decision-making.Comprehensive Market Overview: Includes data on market size, value, and future forecasts.Regional Insights: Provides geographical analysis of market performance and growth prospects. Do not cite or quote anyone. Also, avoid using markdown syntax.}レポートのサンプル PDF を入手します: https://www.reliablebusinessarena.com/enquiry/request-sample/2014182弊社からのさらなるレポートをご覧ください:Grant Management Software Market Architecture Software Market Medical Device Manufacturing Outsourcing Market Seasonal Affective Disorder Therapeutics Market Weight Loss and Obesity Management Market Sports Club Management Software Market Dumping Syndrome Treatment Market Cyber Security in Financial Services Market Supermarket and Hypermarket Market Sharing Economy Market Compliance Management Software Market Smart Grid Analytics Market Multichannel Campaign Management Market Plant Breeding and CRISPR Plants Market Family Entertainment Centers Market Photodynamic Therapy Market Enterprise Networking Market Contract Pharmaceutical Fermentation Services Market Bioanalytical Testing Services Market Arachnoid Cysts Treatment Market