稲川会

小泉純一郎一家の系譜、日本支配の構造。#小泉純一郎、#稲川会、#横須賀小泉一家 | 独眼竜国際ジャーナル ひでぽよ熱帯ジャングル通信

http://onigasima402.blog.fc2.com/blog-entry-15522.html
小泉純一郎一家の系譜、日本支配の構造。#小泉純一郎、#稲川会、#横須賀小泉一家

ギャラリー② | 任侠・ヤクザグッズ・名刺・葉書等

http://ninkyo5910.blog.fc2.com/blog-entry-11.html
稲川会常任理事 二代目山川一家 内堀組若頭・稲川会代表幹部 出川組組長・元 岸本一家組織委員長 元三代目稲川一家総長代行・現在 稲川会直参 出川

稲川会総裁 稲川聖城 (初代会長) | 人生。為になる話。

http://kingoflion2015.blog.fc2.com/blog-entry-1163.html
稲川会総裁 稲川聖城 (初代会長)続きを見る⇒http://kingoflion14323.lolipop.jp/01/?p=4093

名刺 稲川会代表幹部 出川組組長 元岸本一家組織委員長・元三代目稲川一家総長代行 ・売却済み | 任侠・ヤクザグッズ・名刺・葉書等

http://ninkyo5910.blog.fc2.com/blog-entry-155.html

5代目稲川会理事長(若頭)に内堀和也三代目山川一家総長。 | ヤクザ、任侠、暴力団(山口組、稲川会、工藤会/他)ニュース

http://jm5814.blog82.fc2.com/blog-entry-7.html
http://www.futabasha.co.jp/magazine/taishu.html

-ヤクザ-任侠DVD【山口組・稲川会・住吉会etc.】 | ■ヤクザ■任侠■DVD【山口組・稲川会・住吉会etc.】

http://yakuzadvd.blog.fc2.com/blog-entry-2.html
任侠DVD【山口組・稲川会・住吉会・会津小鉄会etc.】 ≪≪代目継承盃・親子縁組盃・義兄弟盃・事始め・通夜葬儀≫≫

5代目稲川会人事 | ヤクザ、任侠、暴力団(山口組、稲川会、工藤会/他)ニュース

http://jm5814.blog82.fc2.com/blog-entry-12.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%B7%9D%E4%BC%9A#.E7.A8.B2.E5.B7.9D.E4.BC.9A.E4.BA.94.E4.BB.A3.E7.9B.AE

稲川素子 稲川会のこと | ペットシッター左恵子の情報

http://pzq45910.blog24.fc2.com/blog-entry-1031.html
今日は稲川素子 稲川会について書いてみようと思います。最近稲川素子 稲川会が注目されていますね。稲川素子 稲川会がめちゃくちゃ検索されているらしいんで

vs 稲川淳二を崇める会 | tPs活動記

http://tpsgetttttt7.blog95.fc2.com/blog-entry-72.html

稲川会 稲川同志会の唄 男の花道 | vagabond

http://vagabond21.blog.fc2.com/blog-entry-4.html

小泉進次郎とヤクザと自民党と右翼【宮迫の闇営業より酷い】

http://oyajisama.seesaa.net/article/470024954.html
2025-09-11 09:08:00 - 下の画像をクリックしてください

山口組分裂が関東にも 稲川会「有力総長2人破門」の衝撃

http://seijikeizaigaku1185.seesaa.net/article/432636974.html
2025-01-16 01:28:00 - ついに、山口組の分裂が関東に飛び火か。指定暴力団「稲川会」傘下の有力総長2人が「破門」されたという情報が飛び交っている。ネット上には「破門状」の写真がアップされている。「破門情報が流れているの..

<ナマコ密猟>海峡挟み暴力団謀議?荒稼ぎ

http://seijikeizaigaku1185.seesaa.net/article/430528503.html
2025-12-01 12:19:00 - 陸奥湾のナマコ密漁事件で、ともに指定暴力団で青森県側の稲川会系と北海道側の山口組系が組織を超えて手を組み、海峡を挟んで荒稼ぎしていた実態が青森県警の捜査で浮かび上がった。密漁場所への手引きと、..

山口組分裂、抗争の足音 拳銃・ヒットマン…調達始まる

http://seijikeizaigaku1185.seesaa.net/article/427683108.html
2025-10-12 10:15:00 - 国内最大の指定暴力団「6代目山口組」(本拠・神戸市)が分裂した。現執行部に反発するグループが離脱して「神戸山口組」を設立した。警察当局が両派による抗争を警戒するなか、長野県飯田市では6日に暴力団関係者..

ロト6詐欺、被害1億超か 容疑の元暴力団組員ら逮捕・警視庁

http://newsmilk.seesaa.net/article/418579330.html
1970-01-01 01:00:00 - 数字選択式宝くじ「ロト6」の当せん番号を教えるなどと持ちかけて現金をだまし取ったとして、警視庁組織犯罪対策4課は詐欺容疑で、住所不定、指定暴力団稲川会系元組員、小嶋優太(28)と青森県弘前市城東、同組..

【極道】壷売り&山口組・安倍晋三が急死しても CIAが設立した愛国自民党は不滅 次は稲川会・小泉進次郎先生もいるし!

http://system4.seesaa.net/article/369145393.html
1970-01-01 01:00:00 - 〜ようこそ!GALLERY*DISCOVERYへ〜 さんを紹介します。一見の価値があるのでチェックされたし。稲川会のうちと繋 がらなければ選挙一つ出来ませんよ! - 〜ようこそ!GAL..

【選挙】先の都議選では圧勝した自公政権 横須賀市長選挙で無所属に敗れる

http://system4.seesaa.net/article/367982435.html
1970-01-01 01:00:00 - 横須賀市長選で自公敗北 小泉進次郎氏の地元 (産経新聞) - Yahoo!ニュース via kwoutそして、こちらが麻薬をサバく生業をしている稲川会の舎弟かつ政界のヒーロー小泉進次郎せん..

【常識】日本人なら最低限、知っておくべき話

http://system4.seesaa.net/article/321925835.html
1970-01-01 01:00:00 - 戦後、自民党政治支配を影で支えてきたのが暴力団稲川会の存在です。その創始者は児玉誉士夫でした。ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90… 岸信介・笹川良一・文鮮明を加えた四名が朝..

脱獄囚が貴方の隣に…。

http://senbero8chan.seesaa.net/article/245728457.html
2025-01-12 01:21:00 - 広島刑務所から殺人未遂などで懲役23年の刑を受け服役中の凶悪犯が脱獄した。この脱獄囚、李国林という韓国姓と間違いそうな中国人である。故郷の中国の刑務所に比べれば、日本の刑務所など天国だと思うの..

中居正広 稲川会 写真

http://ex777.seesaa.net/article/226334234.html
2025-09-17 09:57:00 - 中居正広 稲川会 写真写真があるの?あったら大変だよ、中居君。。。大丈夫だよね。。。

泉さんが、いわば「正規軍」をつくろうとしているのに対して、私がいまやっているのは「ゲリラ戦」だ。ゲリラ戦に取り組む理由の一つは、私が終末期のがんであることも影響している。(16)

https://karasusan.exblog.jp/33735508/
2025-05-06 05:00:00 - 『永田町、あのときの話』 ハマコーの直情と涙の政界史浜田幸一 講談社 1994/2 <謀略の勝者と敗者> ・青嵐会(せいらんかい)の事務局長までして中川さんを担ぎ上げてきたというのに、結局、私は、昭和54年(1979年)5月に旗揚げされた中川派「自由革新同友会」には加われじまい。 このあたりから、昭和58年(1983年)1月9日の中川さんの自殺、それ以後の経過については、拙著『日本をダメにした9人の政治家』(講談社刊)に詳述しているので、そちらを読んでいただきたいが、あとで考えれば考えるほど、中川さんと中川派をめぐる一連の出来事は、福田赳夫・三塚博一派の謀略であったとしか思えない。 <池に戻れず干上がった鯉>・小なりといえ派閥の領袖、閣僚経験(農林大臣、科学技術庁長官)もあり、次代を担うニューリーダーの一角に名を連ねていた政治家・中川一郎の急死は、それだけでも重大なニュースだったが、それがやがて自殺と判明して、国民の間にさらなる衝撃が走った。 なんの遺書も残さなかったとされるため、死後、その原因をめぐっていろいろと取り沙汰されたが、自民党史の流れの中でとらえるなら、ややきつい言い方だが、結局のところ、派閥抗争の敗者としての死を選んだと言えるのではないか。 ・そとのとき、私はなにをやっていたか――。恥ずかしながら、ラスベガスでのトバク問題によって、謹慎中の身だったのですよ。かえすがえすも、情けない! <田中角栄の“お盆手当・餅代”リスト>・当時、私はまだ駆け出しの1年生議員。「いいか、お前な、天下とりになるためには、こういうことが必要なんだよ。よく見ておけ」 そう言って、田中さんが2、3枚の紙片を見せてくれた。そこには、国会議員の名前がずらっと書いてあり、その1つの名前の横に、「5百・3」とか、「5百・5」とか記してある。 聞けば、たとえば「5百・3」というのは、その議員に対し、田中さんがこれまでに5百万円を3回、計1千5百万円渡したという意味だという。盆暮れに渡す“お盆手当”や“餅代”、選挙のときの陣中見舞などだ。 5百万円といえば、当時のサラリーマンの平均年収は約120万円くらいだから、約4倍以上の大金だ。最後の部分までは見せてくれなかったからわからないが、私が見せられた一覧表には、1回から5回までの記載があった。 ・派閥の領袖が配下の議員たちに年末に“餅代”と称する金を渡すのは、永田町では常識だが(ただし、2、3百万円が相場)、その田中さんのリストには、田中派以外の自民党議員から、当時の野党議員たちの名前まで、ズラリと並んでいた。 とくに野党議員の場合、各党の党首、幹部クラスだ。国会議員なりたての私、これにはぶったまげたね。 ・いまではすっかり様変わりしてしまったが、派閥の領袖たる者、次の4つの条件が不可欠だった。第1に金。盆暮の手当はどこの派閥も同じ。田中さんが金脈の指弾を受け、三木武夫さんや福田赳夫さんらは「クリーン」とか「清貧」とかを売り物にしていたが、田中さんに比べて、金の集め方が下手だっただけの話。第2の条件は、面倒見がいいこと。第3にポストをとってくる力があること。第4が人間的魅力。田中さんは、これらすべての条件に秀でていた。まさに派閥政治の権化のような人だった。 <競争心なき政治家は去るべし>・昭和63年(1988年)12月、リクルートコスモスの未公開株の譲渡問題で蔵相の宮沢さんが辞任したのは、私が前々から言っていた「宮沢派(宏池会)は闘争心に欠ける」という弱点が、もろに出た結果だ。 ・自民党の中にも、根まわしの好きな派閥と嫌いな派閥があり、言うなれば、根まわしと喧嘩が不得意の宮沢派が、野党側から狙われたということだろう。 宮沢さんは、戦後、日本がまだ4等国と言われていた時代に、日本の国益を背に今日の日米関係を築いた人だ。経済政策にも明るく、通訳なしで、世界の首脳クラスと一人でどんな議論でもできる英才。 ・しかし、あまりにも遅すぎた春、宮沢さんの切れ味もすっかり鈍っていた。それまでの経緯から、周囲に対する不信感もあったのだろうが、とにかく人の話に耳を貸さない。そのくせ、結論をどんどん先送りする優柔不断さ。 外交と並んで、経済にも精通しているはずなのに、積極財政への転換の機を失って、不況をますます助長してしまった。 ・宮沢さんはあまりに頭がよすぎたため、他人がバカに見えた。しかし、われわれから見たら、単なる人望のなさにしか映りませんよ。 <天才的な衆参ダブル選挙の発案>・田中角栄という人は、日本の政治史上でも傑出した人物の一人に数えられると思う。 政治家の能力は、人材の使い方にある。たとえ98パーセントの欠陥があっても、残り2パーセントの才能をうまく使う能力である。 その点、田中さんの能力は抜群だった。とくに、役人の使い方、若い政治家の使い方が実にうまかった。そして、派閥内の人事、派閥統制の妙も見事だった。要するに、分断するようで分断しない。ライバル同士を競わせて希望を持たせるなど、のちの竹下さんや金丸さんの人事は、ことごとく田中さんから自然に学びとったものといえる。それから、田中さんは選挙の神様だった。 <すべてはウラで決まっている>・ポスト中曽根は竹下――しかし、これがかなり危ういところだった。例の皇民党による“褒め殺し”のせいだ。これには、金丸さんもあわてたようだね。そこで、解決策を東京佐川急便の渡辺広康社長を通じて、稲川会の石井進会長に依頼したということらしいのだが、やはり、政治家としては、そういうやり方はよくない。 そうした解決方法がどうこうよりも、その問題が起こってきた背景のほうが重要である。 竹下さんを称して、よく「まめな、つき合いを欠かさない人」と言われるが、マメでそだつのはハトだけ。その実態は「カネのつき合い」にほかならない。 <ラスベガス・トバク事件の真実>・昭和55年(1980年)3月6日、東京地裁でのロッキード事件に関する公判の中で、聞いたこともないような話が飛び出してきて、私は一躍“時の人”ですよ。検察側の冒頭陳述補充に曰く――。「小佐野被告がロッキード社から受け取った20万ドルは、昭和48年(1973年)11月3日、ラスベガスのホテルに対し、カジノで負けた借金の支払い保証をしていた分の返済に使われた。カジノで負けたのは、K・ハマダという人で、47年(1972年)の10月のゲームで、150万ドルの借金を負った。小佐野被告は借金の保証人としてホテルと交渉し、120万ドルに値引きしてもらうとともに、支払いを肩代わりした」“寝耳に水”とは、このことだ。これを聞いて、自分でも「ええっ」とびっくりしたほどである。 ・私はラスベガスへ行ってギャンブルをし、負けた。これは否定のしようもない。 当時のレートは1ドル3百6、7円だから、150万ドルといえば4億6千万円ぐらいに相当する。一緒に行った人たちの分も入っているのかもしれないが、まあ、この際、そういうことはどうでもいい。 私がびっくりしたのは、私の借金を小佐野賢治さんが肩代わりしてくれたという点だ。本当にそうなら、どれだけ助かったか知れない。己の不徳のいたすところとはいえ、支払いには大変に苦労したんだから。 ・小佐野さんが「支払いを肩代わりした」なんて、とんでもない。前にも述べたが、小佐野さんという人は、そんなに気前のいい人ではない。根っからのビジネスマンなのだ。 私は、そのときの借金の埋め合わせのために、自分が保有していた株や不動産を売却して、やっと金をつくったのである。 そして、このこともはっきり言っておこう。そのときの不動産の売り先も、小佐野さんの国際興業グループの会社ではない。 <金丸事件>・平成4年(1992年)8月、東京佐川急便からの5億円受領を認めて、自民党副総裁を辞任、同9月、5億円問題で東京地検から出頭要請、同10月、議員辞職、経世会会長解任、そして平成5年(1993年)3月6日、所得税法違反(脱税)容疑で逮捕。家宅捜索の結果、隠し財産が60億円とも70億円とも。金庫の中からは金塊も出てきた。 この金丸信さんをめぐる一連の出来事には、私は実に複雑な思いでした。なにしろ、国会議員2期目以来、押しかけ弟子入りのようなものだが、私が一貫して師事してきた人だったのだから。 ・実は、私が引退を決意した理由の一つは、この金丸事件なのです。 なにもかも金丸さん一人に罪を押しつけて、頬っかぶりしているヤツが何人もいるわけでしょう。 ・私は、実際はムジナでいながら、自分だけ清潔そうなツラをして、偉そうな口をきいているヤツが大嫌いなんだ。そんなヤツは、許すわけにはいかない。 しかし、私だって、金丸さんから“餅代”をいただき、選挙のときには陣中見舞いをもらってきた一人だ。その私が、テメエだけ頬っかぶり、知らんぷりをしている連中を批判しようと思ったら、議員としてとどまっているわけにはいかないでしょう。 私も国民のみなさんにお詫びをし、公職を辞した上でなければ、目クソが鼻クソを笑うのと同じになってしまう。 そこで、私は次の総選挙には立候補をしないと明言した上で、在職中から竹下さんや中曽根さんに議員辞職をお願いしたり、小沢くんや三塚博くん、梶山くんを批判したりしてきた。しかし、彼らにいっこうに反省の色が見えないため、引退後、拙著『日本をダメにした9人の政治家』(講談社刊)を刊行した。 ・金丸さんの逮捕だけで終わってしまったのでは、日本の政治は少しも変わらない。逮捕されるべき人は、まだまだいる。手が汚れている人がいくら制度を変えたって、よくなるはずがない。そんなことをしている間に日本はどんどん国際的信用を失い、地球上における日本国民の長期的生存は、どんどん危うくなっていく。つまり、自分たちの子や孫の代に禍根を残すことになるんです。 <権力亡者による三つ巴の抗争>・ことの真相は知らないが、田中退陣の引き金となった「文藝春秋」掲載の「田中角栄研究」について、当時、三木・福田の謀略だとの説があった。少なくとも、田中さんはそう思い込んでいた。 <毎朝8時半から勉強している国会議員もいる>・通常、自民党議員の1日の仕事は、午前8時半、東京・永田町にある自民党本部での朝食会からはじまる。議員はすべて自分の専門分野をもち、党内のそれぞれの専門部会に所属している。 <選挙に勝つ家>・余談になるが、政治家の家の建て方というものがあるんですよ。この建て方が選挙の結果にも大きく影響してくるから、無視できない。 政治家にとって、自分の家は、生活の場であるとともに、政治活動の場でもある。そこで、政治家の家にまず不可欠なものは、50人から百人が集まれる大広間だ。だから、政治家が家を建てるとなれば、まず子供部屋は犠牲にしても、50人以上入れる大広間を中心に考える。 次に気をつかうのが、台所だ。50人、百人の人間にお茶を出したり、夜食をつくったりするためには、それなりの広さがなければならない。 次が書生部屋。将来有望な青年を育てていくのも、政治家の義務である。書生の3人や4人、常時手もとに置いていないようでは、政治家とはいえない。 <権力欲への度が過ぎて>・確かに、あれだけの才能をもった政治家が、一挙に総理大臣の座に駆け登りながら、「文藝春秋」という1冊の月刊誌に載ったたった1本の記事(立花隆「田中角栄研究――その金脈と人脈」)をきっかけに退陣を余儀なくされた。当人とすれば、さぞや不完全燃焼の感が強かっただろう。 それだけに、政権の座から下りたあとも、田中さんはなお権力に執着した。いや、ますます権力に妄執した。 <大学に入って芋づくり>・しかし、母も一緒になってすすめることでもあり、まあ、東京に出るのも悪くはないと思い、日本大学農獣医学部拓殖科へ入学した。 入学してはみたものの、「いずくんぞ勉学ありや」とスネていたところだから、もちろん満足に大学なんかには行かない。第一、大学で教えていたのは、毎日、水道橋の校舎から大学の農園に行って、芋づくりばかり。 芋をつくるぐらいなら、なにも学校へ行かなくたっていい、家でもやれると思って、早々に中退してしまった。 <賭場通いの日々>・人生の目標なんてものは、微塵もない。10代の終わりごろから、20代の半ばごろまでは、不良少年、チンピラの時代だった。 とにかく、一時はものすごくグレてグレて、本格的な不良というか、いっぱしの遊び人で、ほとんどヤケッパチで生きていたようなものだった。 ヤミ市で本物のヤクザと大立ちまわりをしたり、それが縁で、そのスジの連中とも仲良くなったり、はたまた賭場に出入りしたり……。 <3畳の畳の上で>・結局、グレていたころの前歴がわざわいして、料理屋荒らしまで私の仕業であるかのように報道されてしまったが、実際は以上のような経緯なのである。 ただ、いまでも忘れられないのは、私が逮捕されたとき、町の青年団の仲間たちが、そんなどうしようもない私のために、釈放の嘆願までしてくれたことだ。 また、私が起訴されたとき、母は少しでも私の刑が軽くなるようにと、あちこち金策に駆けまわって、高い弁護料を工面し、木更津でもっとも有名な弁護士を頼んでくれた。 獄中にあって、懲役でやらされたのは、味噌や醤油をつくることだった。毎朝早くから、1日に96本のタライを洗い、桶を洗う。麹と塩を混ぜるのは、みな手作業であった。 <稲川会長の紹介で児玉誉士夫のもとへ>・私は稲川会の稲川角二会長と、私より4歳年上で、のちに稲川会2代目会長になる石井進さんにも、いろいろご面倒をかけ、お世話になっていた。 若気のいたりで、私が世をスネて、ヤクザの世界でしか生きていいく道はないなどと思っていたときに、「お前のような意気地なしには、任侠はつとまらない。お前は政治の道に進め」と諭してくれたのが、稲川会長である。石井さんはそのころから、「これからは愚連隊ではダメだ」と口癖のように言っていた。 ・それはともかくとして、昭和35年当時、稲川会長は児玉さんに心酔しているところがあった。そこで、私が国会議員選初挑戦に敗れたとき、国会議員を目ざすのなら、少し児玉さんのもとで勉強でもしてみたらどうかと、すすめられたのである。 <児玉邸に出入りしていた実力者たち>・児玉さんのところに行って、まずやらされたのは、下足番と電話番。だから、当時、政治家の誰と誰が児玉さんのところに出入りしていたか。みな知っている。 たとえば、自民党総裁の河野洋平さんのお父さんである河野一郎さんや、当時、河野派のホープだった中曽根康弘さんからの電話を取り次いだこともありますよ。 とにかく、当時の政財界に対して、児玉さんは睨みをきかせていた。政財界の実力者たちは、児玉さんに対して驚くほど腰が低かった。文字どおり、「三顧の礼」を尽くしていた。 <●●インターネット情報から●●>ウィキペディアWikipedia(フリー百科事典)より引用。「中川一郎」自殺説と他殺説 その死にはいくつかの疑問点があるとして、今もって議論されることがある。 遺書もなく、また急ぐように2日後には火葬したことや、死因の変更などでにわかに「他殺説」が浮上した。直前、中川は当時第一秘書だった鈴木宗男と口論した噂はあるが、根拠はない。中川の秘書から北海道選挙区選出参議院議員となった高木正明が、本人の名誉を考え早急の火葬を行う指示を行ったとされる。他殺説は事実無根として、鈴木をはじめ関係者一同が抗議している。 内藤國夫 1985, p. 251によると、「中川一郎突然死のあと、巷に流れ出た“噂話”には、さまざまなものがあった。ソ連の対日工作員レフチェンコから中川一郎が巨額な政治献金を受け取っていたのを、中曽根・後藤田ラインに知られ、暴露するぞと脅され、悩んでいたとの話に始まり、総裁選で膨大な金を使いすぎ借金返済に困窮していた、ソ連のKGBに謀殺された、ニュージーランド沖のイカ漁や韓国の水産関係者との利権を“角筋”によって絶たれた、さらには、総裁選挙後に“肝臓ガン”を告げられ悩んでいた等々などが主なものである。いずれも根拠のない、無責任な“噂話”ばかりである」という。 なお、2010年10月に鈴木宗男は、中川が1975年7月に世界銀行の招待で南アメリカ諸国を歴訪する出発前日に全日本空輸の藤原経営管理室長と料亭で会食した際に、「餞別」として100万円を受け取ったこと、さらに後の東京地検特捜部による「ロッキード事件」の「全日空ルート」の捜査の過程でこのことが明らかになり、1976年8月に特捜部からの事情聴取を受けていたことを、月刊誌『新潮45』の記事で証言している。鈴木は、このことを後の1982年に福田赳夫に追及されたことが自殺の原因となったとも記しているが、これに対しては中川の妻の貞子が否定している。 中川の死から5日後の1983年1月14日、東京のソ連大使館からモスクワに宛てたKGBの暗号電報に、ソ連のスパイであり、テレビ朝日専務だった三浦甲子二の話として「中川は明らかに他殺だ。CIAの手先に消された」と記されていたことが明らかになっている。ほか、「鈴木はCIAと結託して中川を収賄疑惑に引き込んだ」との記述も確認されている。 自殺の原因としては、「しゃにむにニューリーダーの一角に割り込み、13人の少人数ではあるものの、自民党に自分の派閥を作り上げて総裁候補にまでのし上がった。その過程で、人間関係や政治資金などで相当の無理をしており、その心身の疲労が自殺という形で爆発してしまった。」というのが定説である。 『世襲格差社会』 機会は不平等なのか橋本俊詔 参鍋篤司 中公新書 2016/5/18 <二極化する世襲は、日本に何をもたらすのか!?>・医師、農家、政治家などの職業はいかに継承されているのか。世襲を通して、日本の不平等を考える。 <医師の世界における世襲>・日本において世襲の数が多いのは、前章で見た農家と商家であろう。だが、世襲の意味を際立たせているのは医師である、と言ってよい。日本の医師の数は2008年度で28万6699人(男性23万4702人、女性5万1997人)である。ついでながら人口10万人あたりの医師の数は200人強であり、先進国の中では非常に低い数となっている。この日本の医師の子どもは、どれほどが医師になっているのだろうか。 ・医師のうち約25%以上が医師の父親をもっていた。そして、その中でも父親と同じ診療科なのは全体の約15%である。つまり、60%前後が同じ診療科を引き継いでいるのである。ついでながら90%が息子であり、そして60%が長子であるために、大半は男性医師の長男が世襲していることがわかる。医師のうち開業医は25%ほどなので、それほど多い数字ではないかという解釈も可能である。 ・ところで、医師には病院で医師の仕事をする勤務医の形態がある。日本の医師のうち約60%が勤務医である。 <医学生の過半数は医師の子ども>・国立大学医学部に在籍する学生の親の職業が医師である比率は、大学によって差があるので30%から60%、私立大学医学部に在籍する学生にあっては、それは50%から90%の範囲にある。 <女性医師の増加>・医師は現時点で男性23万人、女性5万人の性比である。およそ18%が女医だが、その数はこれから急増が予想されている。なぜなら大学の医学部で学ぶ女子学生の比率は約3分の1に達しており、今後の医師の世界では女医の目立つ時代になることは確実である。 <司法の世界>・親子ともに法曹人である比率を示す数字はない。ただ、かなり信頼性のある資料からそれを類推できる。日本弁護士連合会が発行している『自由と正義』という文献(2011年発行)では、弁護士である人の父母が同じく弁護士である比率は6.4%、おじ・おばが2.9%、おい・めいが1.9%と報告されている。親族の比率は10~11%だ。医師と比較するとかなり低い世襲率であることがわかる。 本来ならば裁判官や検事の世襲率をも視野に入れねばならないが、法曹人では弁護士が圧倒的に多いので、この世襲率で司法の世界を代表させてよいと思われる。 <日本の国会議員と世襲>・日本の国会議員は、いわゆる世襲議員の占める割合が、国際的に見て非常に高いのはよく知られた事実である。 世襲議員が多いことのデメリットはよく指摘されている。政治を志すさまざまな人間が議員となる機会を奪い、参入障壁を高くする点や、議員にふさわしい能力と意欲を持たないにもかかわらず、世襲によって議員となってしまう点などが議論されている。 ・しかし、その一方で世襲議員は、ジバン(後援会組織など)・カンバン(知名度など)・カバン(資金管理団体など)のいわゆる「三バン」に恵まれているので、選挙区における冠婚葬祭、地元の行事への出席などに時間を奪われることがなく、本来は国会議員が集中して行うべき、国会における政策論議に集中することができ、政策に詳しくなることができる、という議論もある。 ・そもそも、政治家のパフォーマンスは、営業利益率などで計測できる類のものではない。また、政治家のパフォーマンスは、その政治家の信念などが一致する評価者から見れば高く、一致しない評価者から見れば低くなるのは当然である。 ・この定義のもとで、世襲議員が非世襲議員と比べて、どの程度選挙に当選しやすいか、という分析を行うと、世襲1から世襲4(世襲1=3世代にわたる世襲、世襲2=2世代にわたる世襲、世襲3=祖父からの世襲(親は議員ではない)、世襲4=おじからの世襲(親は議員ではない))までが、選挙に有利であることを示した結果となっている。世襲5(親が地方議員・首長)と世襲6(配偶者の親が国会議員)は、非世襲議員と比べてとくに選挙に強いわけではなかった。したがって、本書では、世襲1から世襲4までを世襲議員と定義する。 そして、この定義による世襲議員は、非世襲議員と比べ、第46回衆議院議員総選挙(2012年)において、小選挙区で当選する確率は37%も高かったのである。 <所属政党については、世襲議員は圧倒的に自民党に多いことがわかる><国会での活動と世襲議員>・結果は、中央官僚、地方議員、地方公務員・NPO経験者が活発に活動していた。官僚、地方公務員は、現役官僚に負担の大きい主意書を活動手段としてそれほど用いていない一方で、地方議員経験者は大いに活用している。また、次回選挙において、比例で出馬する人は、質問時間・回数が多くなっていることがわかった。 しかし、世襲と非世襲議員の活動量の違いはここでもなかった。結果として、世襲議員は、その再選確率は高く、国会活動に割ける時間が相対的に多いと考えられるにもかかわらず、そうした傾向は観察されなかったと言えよう。 ・ただ、ひとくくりに世襲議員と言っても、その中には活発に活動をしている者もおり、そうでない者も存在する。当然、世襲議員で活動量が多いのはどのような議員なのか、検討が必要となるだろう。 その結果、世襲の女性議員のパフォーマンスが高くないこと、そして世襲の官僚出身議員のパフォーマンスが高いことを示していた。また、逆にサンプルを非世襲議員に限定して同様の分析を行った時、女性議員のマイナスは消え、官僚出身者のプラスの効果も消える一方、民間企業経営者出身者の効果はマイナスになる傾向が観察されている。 <活動量の多い議員に投票すべきか>・世襲議員の支配的な現状が維持されることとなれば、「男性中心・官僚中心」といった政治体制が維持されていく可能性がある。そうした政治が今後の日本にとってはたして望ましいものかどうかという観点から、国会議員の世襲についての議論は必要となる。 <政治家と世襲>・政治家となった初代の人の苦労は、大変なものがあるに違いない。それは多くの政治家の証言としても残っている。 子どもにはそういう地を這いずり回るような経験をさせたくないので、強固な地元の後援会組織を作り上げ、子どもはその神輿に乗るだけ、という状況が大なり小なり出来上がることになる。 ・また、政治資金団体の相続は、基本的に無課税である。世襲議員は、そうした地元の集票組織が問題のある行いをしていても、それに気づかず(あるいは気づいても素知らぬ顔をして)、東京で教育を受け育ち、学校を卒業したのちも富裕な人々に囲まれ、そして地盤を引き継ぎ、優雅に暮らすことになる。そうした暮らしを続けていくうちに、世の経済格差、地方と東京の格差などについて、鈍感になっていく。 ・さらに世襲議員の存在は、一般の国民が議員となるのを妨げている側面もある。非世襲議員は、一度落選してしまうと、その後の生活が成り立ちにくい。日本の大企業ではとくに、まだまだ雇用の流動性が低く、選挙に出場するのはかなり大きなリスクをともなう。ましてや、世襲議員が存在する選挙区に参入することのコストはかなり大きく、そのコストは完全に腐敗してしまい、回収することも難しいだろう。 ・「普通」の人が、国民の代表たる議員になることは、非常に困難な状況であると言ってよいだろう。世襲議員の存在感が増すことは、その結果、世襲議員自体の質が問題となるだけでなく、「非」世襲議員の質を低めてしまうことにつながり、こうした弊害の方がむしろ大きいと言わざるを得ない。 ・世襲の制限を謳った民主党政権の誕生は、こうした状況を変える契機であった。にもかかわらず、その政権運用のまずさや、経済政策や安全保障政策に対する無理解から、国民の信頼を完全に失ってしまった。そのために、世襲の制限といった話題は、国民の一般的な関心から外れてしまっている。 その結果として、政治への参入障壁の高さは依然として変わらない、あるいはより高くなってしまい、リベラルな意見が反映される機会も大幅に減少することとなった。それが日本へ及ぼす負の影響は、計り知れないものがあると言わざるをえないだろう。 『よい世襲、悪い世襲』荒 和雄 朝日新聞出版 2009/3/30 <政界の世襲><首相は世襲議員でなければなれないの?>・プロローグでも悪い例として挙げたが、世襲制の中で最近世間に特に注目されている業界が政界である。日本の政治は、世襲政治家、世襲政治一家によって支配されているといっても過言ではない。 ・麻生太郎首相の祖父は、吉田茂元首相、その前の福田康夫元首相の父は、福田赳夫元首相、そして三代前の安倍晋三元首相の祖父は、岸信介元首相である。このようにみると日本国の首相になるには、これら三人の首相のように祖父あるいは父が首相になった家系に生まれなければ首相になれないという理屈になる。 ・国の行政の最高責任者の首相が、元首相の家系、さらには内閣を構成する大臣の半数が世襲議員である現状をみれば、現代日本の政治は、表面は近代民主国家ではあるけれども、中身は世襲議員による世襲議員や世襲一族のための世襲政治といわれてもいたしかたない。 これでは、口では「国民の目線で政治を変える」といくら唱えても世間一般の常識から大きくかけ離れ、政治は世襲政治一家の論理や常識がまかり通ってしまうことになる。その上、政治家として出世するには「世襲一家出身であること」が大きなキーポイントになっている。 <世襲議員の実態>・図表は、2005年当時(郵政解散後)の衆議院議員の世襲の実態である。 この数字でみると、自民党は129名と議席数の半分近くを占め、自民党イコール世襲政党のイメージがわく。 一方民主党を図表でみると25名、全体の22.5%に達している。まさに第一党の自民党、第二党の民主党も世襲議員のオンパレードといったのが実態である。 ・党の本部・支部の公認を得て、晴れての出馬となるが、他の立候補する新人と違い、世襲議員には、親から引き継いだ強力な「地盤」「看板」「カバン」という基盤がある。これを武器にしての選挙戦となる。 <資金管理団体の場合>・今日でも政治家に伴う金銭のトラブルは、毎日のようにマスコミを賑わしている。政治家が政治活動、なかでも選挙活動を行うには膨大な経費がかかるのは多くの人たちは知っているが、健全なる民主主義のために日本では政治資金に関して三つの制度や法律を定めている。 第一は、政党や政治団体などの政治資金の収支の公開や授受等の規正を定めた「政治資金規正法」がある。 第二は、政党助成制度、政党助成法がある。 第三は、政治資金収支報告書・政党交付金使途等報告書の提出の義務付けとその公開がある。 <「カバン」の総元締は「資金管理団体」>・政治家の世襲という面で、問題なのは資金管理団体の世襲であろう。政治家の妻子がそのまま資金管理団体を引き継ぐことは、現行法では認められているものの、世襲以外の政治家あるいはそれを志す立候補者からみると、その引き継ぎは当初から大きなハンディキャップを負うことになり、不利であることは明らかである。 政治活動の公明と公正を確保しつつ、日本の民主政治の健全なる発展に寄与することを考えれば、この資金管理団体の世襲・引き継ぎに関してはその是非について十分なる議論をすべきものといえよう。 ・特に「悪しき世襲族」の代表格ともいえる政界では「地盤」「看板」「カバン(資金)」の三つの基盤を持った世襲議員が長い間にわたって政府や政党の要職を占めている。一体これで日本の政治は、大きな世界的な変革の潮流の中で生き残れるのか疑問を感じざるを得ない。 折しも米国では100年に一度あるかないかといわれる大不況の中で、黒人のオバマ大統領が誕生、国民に自分の言葉で「変革」への対応や痛みを熱く呼びかけ、共にこの危機を乗り越え、米国の復活を果たそうと最大限の努力を振り絞っている。こうした米国の政治の果敢なる挑戦への現状をみるにつけ、政治制度の仕組みや国民気質や文化の違いはあれ、日本の政治はあまりにもお粗末、国民の意思を如実に反映したものとは程遠い。その元凶の一つは与野党、特に自民党における世襲議員の多さだ。 政治に「変革」を望む国民は、新しい発想と果敢な行動力を持ち、人望と政策とを抱えた新しいリーダーの登場を待ち望んでいるが、そこには「世襲」という大きな壁が立ちふさがっている。 <事業承継>・しかし、世襲を一概に「悪」と決めつけてしまうものではない。中小企業経営の研究をライフワークとして事業承継等を通じて長年後継者ら若手経営者を指導してきた筆者が、全国の講演活動や現地での指導・相談を通じて特に強く感じたことは、いま地方経済がピンチに陥り、疲弊している現実だ。特に地方都市にある老舗、商店街や地場産業自体が「後継者不足」を理由にM&A(企業の合併・買収)の危機にさらされ、特色のある企業、元気な企業までも東京系の企業に企業買収されている現実である。

日銀は、消費者物価上昇率2%を目標として異次元金融緩和を開始したが、実現できなかった。それは、日銀が行った政策に、物価を上昇させる効果が元々なかったからだ。(15)

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2025-03-25 03:00:00 - <24時間政局の始まり>・インターネットとは無縁だったが、実は携帯電話の方は「加藤つぶし」の中心にいた野中氏の専売特許だった。新幹線の座席に着くやいなや、すぐ携帯電話で話し込む野中氏の写真が新聞に載り、「政治家は車内で携帯を使っていいのか」との抗議が新聞社や野中事務所に殺到したほどである。 野中氏は四方八方から情報を携帯電話で集め、それを自分の中で撹拌して、また四方八方に拡散する。これはという情報を要所要所にしっかりと打ち込んで、自分の目指す流れをつくる。「加藤の乱」は「ネット政局」の幕開けであると同時に、「携帯政局」の本格化を告げた。 <シンキロウの孤独><下足番が絶賛>・「聞くと見るとは大違い」多くの人がこの言葉で評するのは森喜朗氏である。森氏は大柄で、ガンを患って食事制限を余儀なくされるまでは0.1トンもの体重があり、顔も四角の代官顔で、物腰も何となく傲岸。失言ばかりしているイメージも定着し、悪役を一手に引き受けている。 ところが間近で会った人の印象は違う。座談はうまいし、気配りは心憎いし、実物は全然違うじゃないかという人が少なくない。 しかも会った翌日、しばしば「昨日はよくおいでいただいた」「あなたとお目にかかれてうれしかった」「時間がなくて申し訳なかった」というハガキが届く。 ・1981年11月、東京・赤坂の料亭「大野」で、玄関の下足番として勤めた人が『夜に蠢く政治家たち』(エール出版社)という本を出した。 頻繁に出入りする政治家や高級官僚の生態を実名で記録し、これを公表することで「公費天国」を告発する結果となった。「大野」の女将は申し訳ないとショックの余り寝込んでしまった。 <ドン金丸の「常識」><台所記者への道>・一昔前、自民党の派閥記者には「玄関記者」「応接間記者」「居間記者」「台所記者」というランク付けがあった。 実力者と呼ばれる政治家になると、その自宅へ毎日、「朝回り」する。夜は「夜回り」。いわゆる夜討ち朝駆けである。ここで顔と名前を憶えてもらい、昼間の記者会見などの公式な場では聞けない話を聞く。 最初のころは、来る日も来る日も政治家が自宅を出る際、玄関脇に立っていて「おはようございます。○○新聞の××です」と挨拶する。ほとんどはこの挨拶だけで終わる。これが「玄関記者」である。 ・もっと努力と工夫を重ねて、だんだん親しくなって食い込んでいくと、今度は応接間より奥に進んで、居間で政治家が1人で新聞を広げているところなどに入り込める。サシで、つまり2人だけで言葉を交わせる。「居間記者」である。 究極はそのまま台所まで行って、勝手に朝食を食べてしまう。もう奥さんやお手伝いさんともすっかり顔なじみ。これがゴールの「台所記者」である。 <才人と呼ばないで><俳句、絵画、ハーモニカ>・政界きっての「才人」は誰だろうか。いい意味でも、悪い意味でも、多くの人の頭に浮かぶのは宇野宋佑氏である。ところが当の宇野氏は「才人」と評されることが少しもうれしくなかった。むしろ大嫌いだったと言ってもいいだろう。 俳句、絵画、史伝、ハーモニカ、ピアノ……。自己流で何でもこなし、ほとんどがプロ級の腕前だった。特に俳句は高名な俳人にも感嘆され、質、量ともに本格派だった。 <努力家と言ってほしい>・河野氏の秘書としての仲間で、後に文相などを務めた砂田重民氏が「こんなに忙しいのにどうしてあんなに本が書けるのか」と聞いたことがある。宇野氏の答えは「どうということはない。君がゴルフをしている時に書いているだけだよ」。悪気のないことはわかっているにしても、砂田氏は鼻白んだ。 遅れをとってはならない、落伍をしてはならない—―。裕福だが、厳格な生家の教えと、シベリア抑留の体験から、いつも精進に余念がなかった。議員宿舎の部屋で散らばっていたのは原稿用紙と参考図書だけである。 <つなぎの役割、幸不幸>・就任の記者会見の雄弁ぶりに「大化けするかもしれない」との声もあったのに、最後の最後でまた本当に「つなぎの役割」に終わってしまったのである。この因縁は何なのか。 東京・神楽坂のカモメと呼ばれる芸者見習いとの関係が問われた女性問題。女性の告白によると、初めてお座敷で会った時、真ん中の指を3本握って「これでどうか」と言われたという。 そこで1ヵ月のお手当てが30万円。「3本指」が流行語になった。永田町のことである。「カネで女性をとはけしからん」ではなく、内閣総理大臣たるものがたった「3本」なのかという変な批判もあった。 しかしあえて言えば、金額が少なかったのには理由があった。 <わしはずっと元気>・歴史に「もし」はないにしても、宇野氏も総理に担ぎ出さなければ、女性問題という汚名も着ることなく、わき役であっても何でもこなせる存在感のある政治家で一貫できたはずである。「文人議長」などと呼ばれている姿が想像できる。 実際の宇野氏のその後は体調を崩し、引退を余儀なくされ、寂しい晩年だった。だから総理になりさえしなければ、との思いが側近にはずっと残った。 <新生クラブの椅子><控え目に生くる幸せ>・「未来の宰相」と大方が想定していた藤波氏。それが一転、リクルート事件の受託収賄罪で逮捕され、奈落に沈むとはだれが思っただろうか。 金丸信はリクルート事件とは無縁で、他の実力者が総退陣のような形になってしまったため、一頭地を抜く存在になった。当時、「江副(浩正・リクルート会長)は将来のある政治家にカネを回したが、俺のところには来なかった。将来がないというのもいいことだ」と嘯いていた。その金丸氏が藤波氏の逮捕を聞いて「自民党に300人の代議士がいるとして、汚れている順番に並べたら、藤波は299番目だ」と驚いたくらいで、この逮捕には誰もが首を傾げた。 ・その頃の建設省、運輸省、農水省などには自民党に強力な応援団がいて、予算をまさに分捕っていた。法務省には応援団などいるはずもないが、藤波氏は矯正施設の修復といったどう考えても票にならないところに目配りしていた政治家だった。それだけに「なぜだ」の思いは本人が一番、強かったはずである。 公判を通じて自分がスケープゴートにされたのだと思っても、一方でその時の内閣の官房長官としてこれを受入れなくてはならないという責任も感じ、煉獄の火に焼かれる苦しさだったろう。 <この本の読者の数の上限は「全国の政治記者とそのOBの数プラスαである」ということになろうか。>・その伝でいけば、筆者も海外勤務などで永田町を離れていた時代や、管理職となって永田町を「遠望」していた時代も含めれば政治取材歴40年、安倍晋三首相から数えて22人前の三木武夫首相から取材と長さだけは結構な水準である。 そのうえ幸か不幸か、野党や労働界を担当したことはなく、政府・自民党、すなわちほとんどすべての期間、政権与党だけを取材してきた。 くわえて自民党でも実力者といわれるようないわゆる大物と、ちょっと語弊はあるが、規格から外れた政治家の取材に自主的に傾斜してきた。 『なぜいま安倍晋三なのか』山本一太 リヨン社 2006/8/10 <官僚に評判のいい政治家なんて>・「新しい政治文化」というのは何も政治とカネの関係に限ったことではありません。これまでの政治と官僚の関係を見直す、すなわち、旧来の政官の文化を変えるという視点も重要です。 ・その政策判断がもたらした結果については、当然、政治家が最終責任を負います。 ところが、日本ではこれまで政治家と官僚の間に貫かれているはずの原理原則が、実際には「絵に描いた餅」になっていました。官僚を縦横無尽に駆使するはずの政治家が中央省庁の応援団にされ、逆に官僚に使われるという「主客転倒」の姿になっていったのです。 ・たとえば、私が、力を注いできた外交、安全保障の分野をとってみても、外交政策決定のプロセスは実質的に外務官僚が独占してきました。これは官僚が悪いというより、政治家の罪だと思います。官僚をコントロールするだけの力量が政治家のサイドになかったということに他ならないからです。 ・私は、「官僚に評判のいい政治家」をあまり信用しないようにしています。特に外務省に好かれている政治家は要注意です、それは外務省の世界観や常識の枠にとどまっていることを意味するからです。 <いままでの政治政策決定プロセスはぶっ壊せ>・官僚主導の政策決定プロセスは、この国で過去50年間にわたって続いてきました。このシステムを変えるというのは、決して容易な作業ではありません。政治を官僚の手から取り返す試みは、党と政府の内部で同時並行的に進められています。党においては個々の政治家が族議員として特定の省庁の省益のために行動する「持ちつ持たれつの構造」を打破すること。 <官僚の「天下り文化」が崩壊しつつある>・「政治家というものは選挙があるから、短期的なことしか考えられない。長期的なビジョンでものを考えられるのは官僚しかない」 ・私は、官僚主導の政策決定と言う構図は変えなければならないと感じていますが、「何でもかんでも官僚叩きをすればよい」という最近の風潮には違和感を感じます。官僚組織のモラルを一気に低下させることは、国益上、得策ではないと考えているからです。 ・日本が議員内閣制をとっている限り、大統領制をとる米国のように「議員立法」が法案の主流になることは考えにくい気がします。英国と同様、政府提案の「閣法」が今後とも法案の中心を為すとすれば、立法の過程における官僚の役割は引き続き重要となります。実際に成立した法律が機能するかどうかは、法律学者には判断できないからだ。 さらに付け加えるなら、現段階で官僚組織を代替するようなシンクタンクは育っていません。 ・安倍さんが党改革本部長として号令をかけた自民党のシンクタンク構想は極めて重要である。 ・私は、マイナーリーグ(参議院)の、大した肩書も持たない「ちび議員」です。が、政治家として自分がやったことに責任を取る覚悟だけは持っています。いつ議員バッジを外してもいいという気持ちで政治活動をやってきました。 <新しい政治文化と古い政治文化の衝突>・政界でのキャリアが長ければ長いほど、「古い政治活動の慣習」に染まってしまうのはある意味当然かもしれません。その証拠に「政治とカネの問題にメスを入れるべきだ」と主張するベテラン議員には、ただの1人も会ったことがありません。 ・理由はいたって簡単です。現在の法律をそのまま厳格に適用すれば、「私の政治活動にグレーゾーンはない。政治資金や選挙活動に関する全てのルールを100%守っている」などと言える国会議員は、ほとんど存在しないからです。少なくとも私が、知る限り、そういう政治家に会ったことはありません。 ・私は、父親(故山本富雄参議院議員)の地盤を継いで当選した、いわゆる「世襲議員」です。地盤や看板と言う点では、亡父から貴重な「無形の財産」を受け継ぎました。このことには感謝しています。 しかし、同時に「古い政治文化の尻尾」という負の遺産も引き受けることになったのです。この10年間は、亡父の残した、無形の財産を生かそうと努力しつつ、古い政治文化の尻尾を切り取るための戦いでした。 ・「おかしい」と思っていることが、なかなか変えられず、「自分には国会議員の資格があるのだろうか」「このまま政治家を続けていいのだろうか」と真剣に悩んだことも、一度や二度ではありません。 ・他の政治家を比較しても何の意味もありませんが、自民党の国会議員の中では「クリーン度」というジャンルで上位5%に入っていると自負しています。 『永田町、あのときの話』 ハマコーの直情と涙の政界史浜田幸一 講談社 1994/2 <謀略の勝者と敗者> ・青嵐会(せいらんかい)の事務局長までして中川さんを担ぎ上げてきたというのに、結局、私は、昭和54年(1979年)5月に旗揚げされた中川派「自由革新同友会」には加われじまい。 このあたりから、昭和58年(1983年)1月9日の中川さんの自殺、それ以後の経過については、拙著『日本をダメにした9人の政治家』(講談社刊)に詳述しているので、そちらを読んでいただきたいが、あとで考えれば考えるほど、中川さんと中川派をめぐる一連の出来事は、福田赳夫・三塚博一派の謀略であったとしか思えない。 <池に戻れず干上がった鯉>・小なりといえ派閥の領袖、閣僚経験(農林大臣、科学技術庁長官)もあり、次代を担うニューリーダーの一角に名を連ねていた政治家・中川一郎の急死は、それだけでも重大なニュースだったが、それがやがて自殺と判明して、国民の間にさらなる衝撃が走った。 なんの遺書も残さなかったとされるため、死後、その原因をめぐっていろいろと取り沙汰されたが、自民党史の流れの中でとらえるなら、ややきつい言い方だが、結局のところ、派閥抗争の敗者としての死を選んだと言えるのではないか。 ・そとのとき、私はなにをやっていたか――。恥ずかしながら、ラスベガスでのトバク問題によって、謹慎中の身だったのですよ。かえすがえすも、情けない! <田中角栄の“お盆手当・餅代”リスト>・当時、私はまだ駆け出しの1年生議員。「いいか、お前な、天下とりになるためには、こういうことが必要なんだよ。よく見ておけ」 そう言って、田中さんが2、3枚の紙片を見せてくれた。そこには、国会議員の名前がずらっと書いてあり、その1つの名前の横に、「5百・3」とか、「5百・5」とか記してある。 聞けば、たとえば「5百・3」というのは、その議員に対し、田中さんがこれまでに5百万円を3回、計1千5百万円渡したという意味だという。盆暮れに渡す“お盆手当”や“餅代”、選挙のときの陣中見舞などだ。 5百万円といえば、当時のサラリーマンの平均年収は約120万円くらいだから、約4倍以上の大金だ。最後の部分までは見せてくれなかったからわからないが、私が見せられた一覧表には、1回から5回までの記載があった。 ・派閥の領袖が配下の議員たちに年末に“餅代”と称する金を渡すのは、永田町では常識だが(ただし、2、3百万円が相場)、その田中さんのリストには、田中派以外の自民党議員から、当時の野党議員たちの名前まで、ズラリと並んでいた。 とくに野党議員の場合、各党の党首、幹部クラスだ。国会議員なりたての私、これにはぶったまげたね。 ・いまではすっかり様変わりしてしまったが、派閥の領袖たる者、次の4つの条件が不可欠だった。第1に金。盆暮の手当はどこの派閥も同じ。田中さんが金脈の指弾を受け、三木武夫さんや福田赳夫さんらは「クリーン」とか「清貧」とかを売り物にしていたが、田中さんに比べて、金の集め方が下手だっただけの話。第2の条件は、面倒見がいいこと。第3にポストをとってくる力があること。第4が人間的魅力。田中さんは、これらすべての条件に秀でていた。まさに派閥政治の権化のような人だった。 <競争心なき政治家は去るべし>・昭和63年(1988年)12月、リクルートコスモスの未公開株の譲渡問題で蔵相の宮沢さんが辞任したのは、私が前々から言っていた「宮沢派(宏池会)は闘争心に欠ける」という弱点が、もろに出た結果だ。 ・自民党の中にも、根まわしの好きな派閥と嫌いな派閥があり、言うなれば、根まわしと喧嘩が不得意の宮沢派が、野党側から狙われたということだろう。 宮沢さんは、戦後、日本がまだ4等国と言われていた時代に、日本の国益を背に今日の日米関係を築いた人だ。経済政策にも明るく、通訳なしで、世界の首脳クラスと一人でどんな議論でもできる英才。 ・しかし、あまりにも遅すぎた春、宮沢さんの切れ味もすっかり鈍っていた。それまでの経緯から、周囲に対する不信感もあったのだろうが、とにかく人の話に耳を貸さない。そのくせ、結論をどんどん先送りする優柔不断さ。 外交と並んで、経済にも精通しているはずなのに、積極財政への転換の機を失って、不況をますます助長してしまった。 ・宮沢さんはあまりに頭がよすぎたため、他人がバカに見えた。しかし、われわれから見たら、単なる人望のなさにしか映りませんよ。 <天才的な衆参ダブル選挙の発案>・田中角栄という人は、日本の政治史上でも傑出した人物の一人に数えられると思う。 政治家の能力は、人材の使い方にある。たとえ98パーセントの欠陥があっても、残り2パーセントの才能をうまく使う能力である。 その点、田中さんの能力は抜群だった。とくに、役人の使い方、若い政治家の使い方が実にうまかった。そして、派閥内の人事、派閥統制の妙も見事だった。要するに、分断するようで分断しない。ライバル同士を競わせて希望を持たせるなど、のちの竹下さんや金丸さんの人事は、ことごとく田中さんから自然に学びとったものといえる。それから、田中さんは選挙の神様だった。 <すべてはウラで決まっている>・ポスト中曽根は竹下――しかし、これがかなり危ういところだった。例の皇民党による“褒め殺し”のせいだ。これには、金丸さんもあわてたようだね。そこで、解決策を東京佐川急便の渡辺広康社長を通じて、稲川会の石井進会長に依頼したということらしいのだが、やはり、政治家としては、そういうやり方はよくない。 そうした解決方法がどうこうよりも、その問題が起こってきた背景のほうが重要である。 竹下さんを称して、よく「まめな、つき合いを欠かさない人」と言われるが、マメでそだつのはハトだけ。その実態は「カネのつき合い」にほかならない。 <ラスベガス・トバク事件の真実>・昭和55年(1980年)3月6日、東京地裁でのロッキード事件に関する公判の中で、聞いたこともないような話が飛び出してきて、私は一躍“時の人”ですよ。検察側の冒頭陳述補充に曰く――。「小佐野被告がロッキード社から受け取った20万ドルは、昭和48年(1973年)11月3日、ラスベガスのホテルに対し、カジノで負けた借金の支払い保証をしていた分の返済に使われた。カジノで負けたのは、K・ハマダという人で、47年(1972年)の10月のゲームで、150万ドルの借金を負った。小佐野被告は借金の保証人としてホテルと交渉し、120万ドルに値引きしてもらうとともに、支払いを肩代わりした」“寝耳に水”とは、このことだ。これを聞いて、自分でも「ええっ」とびっくりしたほどである。 ・私はラスベガスへ行ってギャンブルをし、負けた。これは否定のしようもない。 当時のレートは1ドル3百6、7円だから、150万ドルといえば4億6千万円ぐらいに相当する。一緒に行った人たちの分も入っているのかもしれないが、まあ、この際、そういうことはどうでもいい。 私がびっくりしたのは、私の借金を小佐野賢治さんが肩代わりしてくれたという点だ。本当にそうなら、どれだけ助かったか知れない。己の不徳のいたすところとはいえ、支払いには大変に苦労したんだから。 ・小佐野さんが「支払いを肩代わりした」なんて、とんでもない。前にも述べたが、小佐野さんという人は、そんなに気前のいい人ではない。根っからのビジネスマンなのだ。 私は、そのときの借金の埋め合わせのために、自分が保有していた株や不動産を売却して、やっと金をつくったのである。 そして、このこともはっきり言っておこう。そのときの不動産の売り先も、小佐野さんの国際興業グループの会社ではない。 <金丸事件>・平成4年(1992年)8月、東京佐川急便からの5億円受領を認めて、自民党副総裁を辞任、同9月、5億円問題で東京地検から出頭要請、同10月、議員辞職、経世会会長解任、そして平成5年(1993年)3月6日、所得税法違反(脱税)容疑で逮捕。家宅捜索の結果、隠し財産が60億円とも70億円とも。金庫の中からは金塊も出てきた。 この金丸信さんをめぐる一連の出来事には、私は実に複雑な思いでした。なにしろ、国会議員2期目以来、押しかけ弟子入りのようなものだが、私が一貫して師事してきた人だったのだから。 ・実は、私が引退を決意した理由の一つは、この金丸事件なのです。 なにもかも金丸さん一人に罪を押しつけて、頬っかぶりしているヤツが何人もいるわけでしょう。 ・私は、実際はムジナでいながら、自分だけ清潔そうなツラをして、偉そうな口をきいているヤツが大嫌いなんだ。そんなヤツは、許すわけにはいかない。 しかし、私だって、金丸さんから“餅代”をいただき、選挙のときには陣中見舞いをもらってきた一人だ。その私が、テメエだけ頬っかぶり、知らんぷりをしている連中を批判しようと思ったら、議員としてとどまっているわけにはいかないでしょう。 私も国民のみなさんにお詫びをし、公職を辞した上でなければ、目クソが鼻クソを笑うのと同じになってしまう。 そこで、私は次の総選挙には立候補をしないと明言した上で、在職中から竹下さんや中曽根さんに議員辞職をお願いしたり、小沢くんや三塚博くん、梶山くんを批判したりしてきた。しかし、彼らにいっこうに反省の色が見えないため、引退後、拙著『日本をダメにした9人の政治家』(講談社刊)を刊行した。 ・金丸さんの逮捕だけで終わってしまったのでは、日本の政治は少しも変わらない。逮捕されるべき人は、まだまだいる。手が汚れている人がいくら制度を変えたって、よくなるはずがない。そんなことをしている間に日本はどんどん国際的信用を失い、地球上における日本国民の長期的生存は、どんどん危うくなっていく。つまり、自分たちの子や孫の代に禍根を残すことになるんです。 <権力亡者による三つ巴の抗争>・ことの真相は知らないが、田中退陣の引き金となった「文藝春秋」掲載の「田中角栄研究」について、当時、三木・福田の謀略だとの説があった。少なくとも、田中さんはそう思い込んでいた。 <毎朝8時半から勉強している国会議員もいる>・通常、自民党議員の1日の仕事は、午前8時半、東京・永田町にある自民党本部での朝食会からはじまる。議員はすべて自分の専門分野をもち、党内のそれぞれの専門部会に所属している。 <選挙に勝つ家>・余談になるが、政治家の家の建て方というものがあるんですよ。この建て方が選挙の結果にも大きく影響してくるから、無視できない。 政治家にとって、自分の家は、生活の場であるとともに、政治活動の場でもある。そこで、政治家の家にまず不可欠なものは、50人から百人が集まれる大広間だ。だから、政治家が家を建てるとなれば、まず子供部屋は犠牲にしても、50人以上入れる大広間を中心に考える。 次に気をつかうのが、台所だ。50人、百人の人間にお茶を出したり、夜食をつくったりするためには、それなりの広さがなければならない。 次が書生部屋。将来有望な青年を育てていくのも、政治家の義務である。書生の3人や4人、常時手もとに置いていないようでは、政治家とはいえない。 <権力欲への度が過ぎて>・確かに、あれだけの才能をもった政治家が、一挙に総理大臣の座に駆け登りながら、「文藝春秋」という1冊の月刊誌に載ったたった1本の記事(立花隆「田中角栄研究――その金脈と人脈」)をきっかけに退陣を余儀なくされた。当人とすれば、さぞや不完全燃焼の感が強かっただろう。 それだけに、政権の座から下りたあとも、田中さんはなお権力に執着した。いや、ますます権力に妄執した。 <大学に入って芋づくり>・しかし、母も一緒になってすすめることでもあり、まあ、東京に出るのも悪くはないと思い、日本大学農獣医学部拓殖科へ入学した。 入学してはみたものの、「いずくんぞ勉学ありや」とスネていたところだから、もちろん満足に大学なんかには行かない。第一、大学で教えていたのは、毎日、水道橋の校舎から大学の農園に行って、芋づくりばかり。 芋をつくるぐらいなら、なにも学校へ行かなくたっていい、家でもやれると思って、早々に中退してしまった。 <賭場通いの日々>・人生の目標なんてものは、微塵もない。10代の終わりごろから、20代の半ばごろまでは、不良少年、チンピラの時代だった。 とにかく、一時はものすごくグレてグレて、本格的な不良というか、いっぱしの遊び人で、ほとんどヤケッパチで生きていたようなものだった。 ヤミ市で本物のヤクザと大立ちまわりをしたり、それが縁で、そのスジの連中とも仲良くなったり、はたまた賭場に出入りしたり……。 <3畳の畳の上で>・結局、グレていたころの前歴がわざわいして、料理屋荒らしまで私の仕業であるかのように報道されてしまったが、実際は以上のような経緯なのである。 ただ、いまでも忘れられないのは、私が逮捕されたとき、町の青年団の仲間たちが、そんなどうしようもない私のために、釈放の嘆願までしてくれたことだ。 また、私が起訴されたとき、母は少しでも私の刑が軽くなるようにと、あちこち金策に駆けまわって、高い弁護料を工面し、木更津でもっとも有名な弁護士を頼んでくれた。 獄中にあって、懲役でやらされたのは、味噌や醤油をつくることだった。毎朝早くから、1日に96本のタライを洗い、桶を洗う。麹と塩を混ぜるのは、みな手作業であった。 <稲川会長の紹介で児玉誉士夫のもとへ>・私は稲川会の稲川角二会長と、私より4歳年上で、のちに稲川会2代目会長になる石井進さんにも、いろいろご面倒をかけ、お世話になっていた。 若気のいたりで、私が世をスネて、ヤクザの世界でしか生きていいく道はないなどと思っていたときに、「お前のような意気地なしには、任侠はつとまらない。お前は政治の道に進め」と諭してくれたのが、稲川会長である。石井さんはそのころから、「これからは愚連隊ではダメだ」と口癖のように言っていた。 ・それはともかくとして、昭和35年当時、稲川会長は児玉さんに心酔しているところがあった。そこで、私が国会議員選初挑戦に敗れたとき、国会議員を目ざすのなら、少し児玉さんのもとで勉強でもしてみたらどうかと、すすめられたのである。

24.10.29(火) 千葉県警察創立150周年記念 • 暴力団追放千葉県民大会

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2024-10-29 10:00:00 - 9時、事務所で仕事、事務作業。 10時、議長公用車(TOYOTAアルファード)で印西を出て県庁へ向かう。 11時半、議会事務局、千葉アクアライン準備室、総務部財政課よりレクを受ける。 13時、県庁から徒歩で千葉県教育会館・大ホールへ向かう。 13時半、千葉県警察創立150周年記念 暴力団追放千葉県民大会に出席。県議会議長として祝辞を申上げました。 暴力団追放運動功労団体表彰に続き、参加者一同が大会宣言を拍手で承認。警察音楽隊のFanfareが式典に花を添えました。 で、御参考までに暴力団に関する基礎データは下記の通り。 1.暴力団の勢力〇 全国の指定暴力団(25団体)主要団体は六代目山口組、神戸山口組、絆會、池田組、住吉会、稲川会。全国の暴力団構成員及び準構成員の数は、平成17年以降減少傾向。令和5年末現在で約20,400人と、統計のある昭和33年以降、最少人数を更新。〇 千葉県の情勢 令和5年末現在、約990人で前年比70人減少。主な活動地域(縄張り)は、東葛北部・印旛・香取:住吉会、海匝・山武・長生・夷隅・安房:双愛会、葛南・千葉・市原・君津:稲川会〇 暴力団犯罪の現況 令和5年全国の検挙数:9,610人、千葉県の検挙数:596人〇 主な犯罪 覚醒剤、詐欺、傷害、大麻、窃盗、暴行、恐喝、脅迫、強盗、賭博等(千葉県警察HP「安全な暮らし」より) 私は、高倉健、鶴田浩二、Vシネマ等の任侠映画やゴッドファーザーなどマフィア映画のファンであることを正直に告白します。 ただ、社会の人々に実害をもたらす暴力団は、決して映画のようなフィクションの美しい存在ではない。断固NOです。 暴力団3ない運動+ONE・暴力団を恐れない・暴力団に金を出さない・暴力団を利用しない・暴力団と交際しない を県民に呼び掛けるものである。 14:20、千葉を出て印西へ向かう。 15時半、事務所にもどり仕事。電☎話掛け。 18時半、帰宅。御終い

当選のバンザイをした瞬間から、次の選挙は始まって始まっているのだ。決して浮かれてはいけないし、勝ち誇ったような顔を見せてもいけない。 握った手の数、歩いた家の数しか票は出ないのだ。(13)

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2024-10-22 10:00:00 - 『マクモニーグルが語るリモート・ヴューイングの世界』(植田睦子) (ハート出版) 2007/5/30 <これまでのところ、過去に行くのに、限界を見出したことはない>・以前、100万年以上前の過去にさかのぼったことがある。また、未来については、40万年先まで行ったことがある。距離は、一番遠い所で、天の川銀河の中心まで行った。いまのところ、まだ時間的にも空間的にも限界というものがあるかどうかはわからない。 <ジョーの「ここだけの話」><宇宙人はこんな「人」だった!>・宇宙人にも種類がある。高度に発達した文明をもつ知的生命体や二度と見たくないような、醜い容姿を持った宇宙人と遭遇したことがある。どんなふうに醜いかって?あまりに醜いので、友達には絶対なりたくないようなヤツだった。 ・リモート・ヴューイングで、宇宙人を見たことが数回あった。我々が、彼ら知的生命体のテリトリーに侵入しているのも、彼らは、もちろん承知しているようだった。 ・しかし、目を合わせることを避け、それとなく無視するような態度だった。彼らから我々に、直接コンタクトしてくることはない。彼らは、我々地球人のことを、まだ未成熟な存在であると考えているからだ。我々がもっと霊的に成長して思いやりの心をもち、宇宙の住人として参画するにふさわしい存在となったらコンタクトしてくる可能性はある。 <2012年にマヤの暦が終わる・・・だが・・・>・2012年にマヤのカレンダーが終わっていることから、そのときに人類にカタストロフィ(大変災)が起きるか?という質問をよく受ける。2012年もリモート・ヴューイングで見ても、地球の壊滅とか、人類の滅亡などは見えない。 ・もしマヤ人が2012年に生きていたら、それ以降の新しいカレンダーを作っただろう。しかし、十分に多くの人々が、ひとつの事柄について心配したら、実際にそれが現実化して起きてしまう。人の思念のパワーには、それだけの影響力がある。 (2018/2/13) 『自民党秘史』 過ぎ去りし政治家の面影あの頃の政治家たちは良くも悪くも器が違ったなぁ…岡崎守恭 講談社 2018/1/17 <政治家の「顔」が見えた頃><今の政治記者はつまらないだろう。国民は、有権者はもっとつまらない。>・膨れ上がった議席。こんなたくさんの自民党の国会議員がいるのに、その「顔」が見えないのである。 次をねらう人たちの名前は知っているが、その人たちをめぐるドラマは何も見えない。「一強」の人ににらまれないように、あえて見えないようにしているのだろうか。 バイプレーヤーと思われる人はなおさらである。こうした人たちの存在こそ面白かったのが自民党である。「近代政党」なるものに脱皮したのだろうか。そうではないだろう。野党の分裂や内紛などは見たくも、聞きたくもない。 野党の役割の第一は政権を倒すことである。是々非々とか、責任野党とかいう言葉に逃げ込み、その使命を忘れ、とりわけその気迫すらない姿はうんざりである。 <政治の基本は「人」である>・一昔前、永田町には、というより自民党には「人」がいて、いろいろな「顔」が見えた。「顔」がしっかりと見える政治だった。もちろん、とんでもない「顔」もあった。 しかしノッペラボーと金太郎飴ばかりよりましである。 現代風に言えば、キャラが立っていなければ、ヒール(悪役)にはならないが、主役にもなれない。 制度的に言えば、小選挙区制の導入で党公認が得られないと新人の当選は難しくなり、しかもそれが執行部の「面接」で決められるとなると、いい意味でエッジの利いた候補者は出にくくなる。 スキャンダル以外では「顔」はますます見えなくなりそうである。 ・国会はかつて学歴不問の“職場”だった。猛獣もいれば、猛獣使いもいた。いま、石を投げれば世襲議員に当たるようになり、海外留学でハクを付けた高学歴の職場に変わったが、果たして「人材の宝庫」になったのかどうか。 2017年秋の衆議院総選挙を経て、政治への「あきらめ」と「冷笑」が一段と広がっている。 <日中「人民」の岩盤>・中国の指導部はかつてはソ連留学組で占められていたが、今は米国留学組の時代になりつつある。幹部の子弟の留学先も米国が一番、習得を希望する外国語も英語が一番である。 <日本留学組>・中国が言いたがらない歴史なので、あまり知られていないが、1921年、中国共産党の第1回全国代表大会が上海で開かれた時、13人の代表のうち4人は日本留学組だった。その前にも周恩来らが日本にやってきたが、結局、フランスに行ってしまう。「日本への留学の機会を得ながら、日本では何も学びませんでした。覚えているのは日本の豆腐が中国のよりおいしかったことくらい」という言葉を残した。 ・観光のための訪日でも、中国「人民」の印象が変わり、無意識のうちに日中の岩盤が少しずつできていけば、国会議員の訪中ラッシュなどはますます不要になるだろう。 <学歴不問><「後楽園球場」いっぱい>・かつて国会は日本一の学歴不問の職場というか、平等社会であった。何しろ最高のリーダーである内閣総理大臣が尋常小学校卒だったのである。 やがて2世、3世議員の時代へと移り、初代は中学卒、高校卒だったが、2代目は大学卒。この大学はあまり聞いたことのないところも多かったが、3代目は一流大学卒。 が、先々代の時代に比べて、今の方が「人材の宝庫」と言えるのかどうか、ここが悲喜劇である。 ・新聞社で政治部に配属された時、上司(デスク)にこう言われた。「明日から国会に行ってもらうが、曲がりなりにも最高学府を出た君より頭がいいと言うか、まっとうな議員は10人もいないだろう」 いくら何でもそんなことはないでしょうと怪訝な顔をしていると、先輩記者でもあるデスクは付け加えた。「ただしだ、いまここで5億円のカネをもらったとしても、次の選挙までに後楽園球場いっぱいの5万人に君の名前を書かせることができるか」 中選挙区制の下での平均的な当選ラインは5万票だった。「こんな奴が日本の選良なのかと義憤にかられることもままあるだろう。が、みんな後楽園球場いっぱいの人に名前を書かせてここに来ているんだなあと考えると、本当はどこかすごいところがあるはずだと思わざるを得ない」「そうとでも思わなければ馬鹿らしくてやっていけないよ」あえて極端に話してくれたわけだが、「5万人」が頭に残った。 <真室川音頭大臣>・それを実感する場面に出くわしたことがある。 最初に担当した閣僚は行政管理庁長官だった松沢雄蔵氏である。戦時中は満蒙学校本科を出て、そのまま中国大陸で活動、戦後、郷里の山形県に帰って真室川村長になる。 ・踊り出したくなる粋な「真室川音頭」である。北海道の港町で歌われていた「ナット節」が真室川に入ってはやった作者不詳の山形県民謡というのが公式的な解説。が、永田町や地元では松沢氏が元の歌詞を補作し、世に出したと伝えられ、「真室川音頭大臣」とあだ名された。書や水墨画も巧みで、風流人としても知られた。 ・ある朝、議員宿舎を訪ねると、部屋から遠いのに松沢氏の声が聞こえる。「あの地区のだれだれに電話してひっぱがせ」「今日中にだれだれを訪ねて頭を下げてこい」 普段と違って言語明瞭、声に気迫がこもり、廊下にまで響き渡っていた。 実は松沢氏の選挙区である山形2区にはイケショーと言われた名物男の池田政之輔氏がいた。その前の選挙で落選はしていたが、ずっと山形県政界の保守陣営を二分する宿敵だった。 池田氏は日通事件に連座、最高裁で実刑が確定し、病気で服役は免れたものの、政界からの引退を表明した。松沢氏はそれを聞くやいなや、地元の池田氏の陣営に手を突っ込むよう電話で指示していたのである。「別人」になっている松沢氏を見て、「5万人」を思い出した。 <広大な中間地帯>・新聞社というのは、入ってしまえば、出身校による差別などはない。むしろ取材の動作がのろかったりすると、自分が行けなかった恨みも込めて、「君はひょっとして東大を出ているんじゃないか」などと馬鹿にされる。 それでも、記者はほとんどが大卒は大卒だが、国会議員は違った。中卒も高卒も大卒も本当に入り乱れていた。 ・その角栄氏には学歴のないことからくる独自の「多数派工作」とはなんぞやについての考え方があった。角栄氏にとって、頂上を目指すには味方を増やすのではなく、敵を減らすことが基本中の基本である。「富士のお山を見ろ。峰の白雪、これが味方だ。ふつうはこの白雪を大きくしようとする。しかし俺には難しんだ」「一高―—東大の奴には仲間がいる。これが白雪になってくれるし、広げてもくれる。一高に行けなくて、静高だった奴にもそれなりに仲間がいる」 この場合、一高は福田赳夫氏、静高は静岡高校の中曽根康弘氏のことである。「俺にはそういうものはない。だから俺は白雪を増やすのではなく、その下に広がる裾野に目をやる」「それでもこの裾野を全部、味方にすることはできない。『田中がいい』と言ってくれなくてもいいんだ。何かの時に『田中だけはダメ』と言わせない。そうした『広大な中間地帯』をつくるために頑張っているんだ」 <稲門会から三田会>・竹下登氏が総理・総裁の座を目指している頃、「国会稲門会」の動きも活発になっていった。 戦後、それまでに総理になった早稲田大学卒の国会議員は石橋湛山氏だけだったが、竹下氏の後は海部俊樹、小渕恵三、森喜朗、福田康夫氏と続いた。当時の民主党からも野田佳彦氏。 ・その後、二世議員、三世議員が多くなると、慶応大学卒の国会議員が増え、時代は稲門会から三田会へといわれた。総理・総裁になったのは橋本龍太郎、小泉純一郎氏。 <いまや高校、麻立会>・ところが大学卒が当たり前になってきたせいか、今度は高校の同窓会が誕生する。例えば「麻立会」。麻布高校を卒業した衆院議員の集まりとして1988年3月に発足した。親睦団体を標榜しているのはもちろんだが、ちょうど橋本氏が将来の総理候補としてとりざたされ始めたころだった。 <次いで開成、永霞会><「有りて無き者は人なり、無くして有る者もまた人なり」>・このところ東大の合格者数では開成が水をあけている。かつては東京23区のはずれにあるバンカラの開成と高級官僚というのはイメージが湧かなかったが、最近は財務次官を輩出するなど、勢力を拡大している。 開成出身の国会議員と中央官庁の官僚が集う「永霞会」も発足した。永田町・霞が関開成会の意味である。発起人代表に名があがったのは首相の座をうかがう宏池会会長の岸田文雄氏。国会議員は9人だったが、官僚は退官した人を含めると約600人だという。稲門会から三田会のように、麻布から開成への時代が来つつあるのだろうか。 ・今の永田町を眺め渡すと、初当選の時からエスカレーター式に出てきた世襲議員のオンパレードになり、派閥の領袖から政権の座に就くまでの切磋琢磨もかつてのような迫力はなく、情けなくもなってくる。四世議員も出始めて、国会議員がすっかり「家業」になってしまった。 ・「本を書くことは恥をかくことだ」といわれるが、これからどんどんご指摘、ご叱正を頂いて、一層、恥をかくことになるだろう。 <連日、メールが1000通>・加藤氏が自宅に戻ってパソコンを開くと、そこには全国から軽く1000通を超えるメッセージが届いていた。毎夜、毎夜である。手紙を書いて、切手を貼り、ポストに入れるのと比べて、格段にお手軽な電子メール。匿名性があるだけに、内容も日増しに過激になっていく。2週間足らずの間に届いたメールは1万5000通。ほぼすべてが応援、支持だったという。 山崎氏は後に「都市部のインテリ層の考えに非常に影響された。たくさんのインターネットでの激励に、加藤さんの頭と心がいっぱいになったということだ」と振り返った。 鎮圧した方の野中広務氏も「加藤さんはインターネットに狂わされたのだと思う。私が『何を言っているんだ』と諭そうとしても『俺のところに来ているメールを見てみろ』の一点張りだった。そのメールの多くはまだ選挙権もない若い人たちだったのに」と言う。 バーチャルな空間での意見を世論の圧倒的な勢力と見たことが、加藤氏の見通しを狂わせ、“暴走”を生んだのだ。 <24時間政局の始まり>・インターネットとは無縁だったが、実は携帯電話の方は「加藤つぶし」の中心にいた野中氏の専売特許だった。新幹線の座席に着くやいなや、すぐ携帯電話で話し込む野中氏の写真が新聞に載り、「政治家は車内で携帯を使っていいのか」との抗議が新聞社や野中事務所に殺到したほどである。 野中氏は四方八方から情報を携帯電話で集め、それを自分の中で撹拌して、また四方八方に拡散する。これはという情報を要所要所にしっかりと打ち込んで、自分の目指す流れをつくる。「加藤の乱」は「ネット政局」の幕開けであると同時に、「携帯政局」の本格化を告げた。 <シンキロウの孤独><下足番が絶賛>・「聞くと見るとは大違い」多くの人がこの言葉で評するのは森喜朗氏である。森氏は大柄で、ガンを患って食事制限を余儀なくされるまでは0.1トンもの体重があり、顔も四角の代官顔で、物腰も何となく傲岸。失言ばかりしているイメージも定着し、悪役を一手に引き受けている。 ところが間近で会った人の印象は違う。座談はうまいし、気配りは心憎いし、実物は全然違うじゃないかという人が少なくない。 しかも会った翌日、しばしば「昨日はよくおいでいただいた」「あなたとお目にかかれてうれしかった」「時間がなくて申し訳なかった」というハガキが届く。 ・1981年11月、東京・赤坂の料亭「大野」で、玄関の下足番として勤めた人が『夜に蠢く政治家たち』(エール出版社)という本を出した。 頻繁に出入りする政治家や高級官僚の生態を実名で記録し、これを公表することで「公費天国」を告発する結果となった。「大野」の女将は申し訳ないとショックの余り寝込んでしまった。 <ドン金丸の「常識」><台所記者への道>・一昔前、自民党の派閥記者には「玄関記者」「応接間記者」「居間記者」「台所記者」というランク付けがあった。 実力者と呼ばれる政治家になると、その自宅へ毎日、「朝回り」する。夜は「夜回り」。いわゆる夜討ち朝駆けである。ここで顔と名前を憶えてもらい、昼間の記者会見などの公式な場では聞けない話を聞く。 最初のころは、来る日も来る日も政治家が自宅を出る際、玄関脇に立っていて「おはようございます。○○新聞の××です」と挨拶する。ほとんどはこの挨拶だけで終わる。これが「玄関記者」である。 ・もっと努力と工夫を重ねて、だんだん親しくなって食い込んでいくと、今度は応接間より奥に進んで、居間で政治家が1人で新聞を広げているところなどに入り込める。サシで、つまり2人だけで言葉を交わせる。「居間記者」である。 究極はそのまま台所まで行って、勝手に朝食を食べてしまう。もう奥さんやお手伝いさんともすっかり顔なじみ。これがゴールの「台所記者」である。 <才人と呼ばないで><俳句、絵画、ハーモニカ>・政界きっての「才人」は誰だろうか。いい意味でも、悪い意味でも、多くの人の頭に浮かぶのは宇野宋佑氏である。ところが当の宇野氏は「才人」と評されることが少しもうれしくなかった。むしろ大嫌いだったと言ってもいいだろう。 俳句、絵画、史伝、ハーモニカ、ピアノ……。自己流で何でもこなし、ほとんどがプロ級の腕前だった。特に俳句は高名な俳人にも感嘆され、質、量ともに本格派だった。 <努力家と言ってほしい>・河野氏の秘書としての仲間で、後に文相などを務めた砂田重民氏が「こんなに忙しいのにどうしてあんなに本が書けるのか」と聞いたことがある。宇野氏の答えは「どうということはない。君がゴルフをしている時に書いているだけだよ」。悪気のないことはわかっているにしても、砂田氏は鼻白んだ。 遅れをとってはならない、落伍をしてはならない—―。裕福だが、厳格な生家の教えと、シベリア抑留の体験から、いつも精進に余念がなかった。議員宿舎の部屋で散らばっていたのは原稿用紙と参考図書だけである。 <つなぎの役割、幸不幸>・就任の記者会見の雄弁ぶりに「大化けするかもしれない」との声もあったのに、最後の最後でまた本当に「つなぎの役割」に終わってしまったのである。この因縁は何なのか。 東京・神楽坂のカモメと呼ばれる芸者見習いとの関係が問われた女性問題。女性の告白によると、初めてお座敷で会った時、真ん中の指を3本握って「これでどうか」と言われたという。 そこで1ヵ月のお手当てが30万円。「3本指」が流行語になった。永田町のことである。「カネで女性をとはけしからん」ではなく、内閣総理大臣たるものがたった「3本」なのかという変な批判もあった。 しかしあえて言えば、金額が少なかったのには理由があった。 <わしはずっと元気>・歴史に「もし」はないにしても、宇野氏も総理に担ぎ出さなければ、女性問題という汚名も着ることなく、わき役であっても何でもこなせる存在感のある政治家で一貫できたはずである。「文人議長」などと呼ばれている姿が想像できる。 実際の宇野氏のその後は体調を崩し、引退を余儀なくされ、寂しい晩年だった。だから総理になりさえしなければ、との思いが側近にはずっと残った。 <新生クラブの椅子><控え目に生くる幸せ>・「未来の宰相」と大方が想定していた藤波氏。それが一転、リクルート事件の受託収賄罪で逮捕され、奈落に沈むとはだれが思っただろうか。 金丸信はリクルート事件とは無縁で、他の実力者が総退陣のような形になってしまったため、一頭地を抜く存在になった。当時、「江副(浩正・リクルート会長)は将来のある政治家にカネを回したが、俺のところには来なかった。将来がないというのもいいことだ」と嘯いていた。その金丸氏が藤波氏の逮捕を聞いて「自民党に300人の代議士がいるとして、汚れている順番に並べたら、藤波は299番目だ」と驚いたくらいで、この逮捕には誰もが首を傾げた。 ・その頃の建設省、運輸省、農水省などには自民党に強力な応援団がいて、予算をまさに分捕っていた。法務省には応援団などいるはずもないが、藤波氏は矯正施設の修復といったどう考えても票にならないところに目配りしていた政治家だった。それだけに「なぜだ」の思いは本人が一番、強かったはずである。 公判を通じて自分がスケープゴートにされたのだと思っても、一方でその時の内閣の官房長官としてこれを受入れなくてはならないという責任も感じ、煉獄の火に焼かれる苦しさだったろう。 <この本の読者の数の上限は「全国の政治記者とそのOBの数プラスαである」ということになろうか。>・その伝でいけば、筆者も海外勤務などで永田町を離れていた時代や、管理職となって永田町を「遠望」していた時代も含めれば政治取材歴40年、安倍晋三首相から数えて22人前の三木武夫首相から取材と長さだけは結構な水準である。 そのうえ幸か不幸か、野党や労働界を担当したことはなく、政府・自民党、すなわちほとんどすべての期間、政権与党だけを取材してきた。 くわえて自民党でも実力者といわれるようないわゆる大物と、ちょっと語弊はあるが、規格から外れた政治家の取材に自主的に傾斜してきた。 『なぜいま安倍晋三なのか』山本一太 リヨン社 2006/8/10 <官僚に評判のいい政治家なんて>・「新しい政治文化」というのは何も政治とカネの関係に限ったことではありません。これまでの政治と官僚の関係を見直す、すなわち、旧来の政官の文化を変えるという視点も重要です。 ・その政策判断がもたらした結果については、当然、政治家が最終責任を負います。 ところが、日本ではこれまで政治家と官僚の間に貫かれているはずの原理原則が、実際には「絵に描いた餅」になっていました。官僚を縦横無尽に駆使するはずの政治家が中央省庁の応援団にされ、逆に官僚に使われるという「主客転倒」の姿になっていったのです。 ・たとえば、私が、力を注いできた外交、安全保障の分野をとってみても、外交政策決定のプロセスは実質的に外務官僚が独占してきました。これは官僚が悪いというより、政治家の罪だと思います。官僚をコントロールするだけの力量が政治家のサイドになかったということに他ならないからです。 ・私は、「官僚に評判のいい政治家」をあまり信用しないようにしています。特に外務省に好かれている政治家は要注意です、それは外務省の世界観や常識の枠にとどまっていることを意味するからです。 <いままでの政治政策決定プロセスはぶっ壊せ>・官僚主導の政策決定プロセスは、この国で過去50年間にわたって続いてきました。このシステムを変えるというのは、決して容易な作業ではありません。政治を官僚の手から取り返す試みは、党と政府の内部で同時並行的に進められています。党においては個々の政治家が族議員として特定の省庁の省益のために行動する「持ちつ持たれつの構造」を打破すること。 <官僚の「天下り文化」が崩壊しつつある>・「政治家というものは選挙があるから、短期的なことしか考えられない。長期的なビジョンでものを考えられるのは官僚しかない」 ・私は、官僚主導の政策決定と言う構図は変えなければならないと感じていますが、「何でもかんでも官僚叩きをすればよい」という最近の風潮には違和感を感じます。官僚組織のモラルを一気に低下させることは、国益上、得策ではないと考えているからです。 ・日本が議員内閣制をとっている限り、大統領制をとる米国のように「議員立法」が法案の主流になることは考えにくい気がします。英国と同様、政府提案の「閣法」が今後とも法案の中心を為すとすれば、立法の過程における官僚の役割は引き続き重要となります。実際に成立した法律が機能するかどうかは、法律学者には判断できないからだ。 さらに付け加えるなら、現段階で官僚組織を代替するようなシンクタンクは育っていません。 ・安倍さんが党改革本部長として号令をかけた自民党のシンクタンク構想は極めて重要である。 ・私は、マイナーリーグ(参議院)の、大した肩書も持たない「ちび議員」です。が、政治家として自分がやったことに責任を取る覚悟だけは持っています。いつ議員バッジを外してもいいという気持ちで政治活動をやってきました。 <新しい政治文化と古い政治文化の衝突>・政界でのキャリアが長ければ長いほど、「古い政治活動の慣習」に染まってしまうのはある意味当然かもしれません。その証拠に「政治とカネの問題にメスを入れるべきだ」と主張するベテラン議員には、ただの1人も会ったことがありません。 ・理由はいたって簡単です。現在の法律をそのまま厳格に適用すれば、「私の政治活動にグレーゾーンはない。政治資金や選挙活動に関する全てのルールを100%守っている」などと言える国会議員は、ほとんど存在しないからです。少なくとも私が、知る限り、そういう政治家に会ったことはありません。 ・私は、父親(故山本富雄参議院議員)の地盤を継いで当選した、いわゆる「世襲議員」です。地盤や看板と言う点では、亡父から貴重な「無形の財産」を受け継ぎました。このことには感謝しています。 しかし、同時に「古い政治文化の尻尾」という負の遺産も引き受けることになったのです。この10年間は、亡父の残した、無形の財産を生かそうと努力しつつ、古い政治文化の尻尾を切り取るための戦いでした。 ・「おかしい」と思っていることが、なかなか変えられず、「自分には国会議員の資格があるのだろうか」「このまま政治家を続けていいのだろうか」と真剣に悩んだことも、一度や二度ではありません。 ・他の政治家を比較しても何の意味もありませんが、自民党の国会議員の中では「クリーン度」というジャンルで上位5%に入っていると自負しています。 『永田町、あのときの話』 ハマコーの直情と涙の政界史浜田幸一 講談社 1994/2 <謀略の勝者と敗者> ・青嵐会(せいらんかい)の事務局長までして中川さんを担ぎ上げてきたというのに、結局、私は、昭和54年(1979年)5月に旗揚げされた中川派「自由革新同友会」には加われじまい。 このあたりから、昭和58年(1983年)1月9日の中川さんの自殺、それ以後の経過については、拙著『日本をダメにした9人の政治家』(講談社刊)に詳述しているので、そちらを読んでいただきたいが、あとで考えれば考えるほど、中川さんと中川派をめぐる一連の出来事は、福田赳夫・三塚博一派の謀略であったとしか思えない。 <池に戻れず干上がった鯉>・小なりといえ派閥の領袖、閣僚経験(農林大臣、科学技術庁長官)もあり、次代を担うニューリーダーの一角に名を連ねていた政治家・中川一郎の急死は、それだけでも重大なニュースだったが、それがやがて自殺と判明して、国民の間にさらなる衝撃が走った。 なんの遺書も残さなかったとされるため、死後、その原因をめぐっていろいろと取り沙汰されたが、自民党史の流れの中でとらえるなら、ややきつい言い方だが、結局のところ、派閥抗争の敗者としての死を選んだと言えるのではないか。 ・そとのとき、私はなにをやっていたか――。恥ずかしながら、ラスベガスでのトバク問題によって、謹慎中の身だったのですよ。かえすがえすも、情けない! <田中角栄の“お盆手当・餅代”リスト>・当時、私はまだ駆け出しの1年生議員。「いいか、お前な、天下とりになるためには、こういうことが必要なんだよ。よく見ておけ」 そう言って、田中さんが2、3枚の紙片を見せてくれた。そこには、国会議員の名前がずらっと書いてあり、その1つの名前の横に、「5百・3」とか、「5百・5」とか記してある。 聞けば、たとえば「5百・3」というのは、その議員に対し、田中さんがこれまでに5百万円を3回、計1千5百万円渡したという意味だという。盆暮れに渡す“お盆手当”や“餅代”、選挙のときの陣中見舞などだ。 5百万円といえば、当時のサラリーマンの平均年収は約120万円くらいだから、約4倍以上の大金だ。最後の部分までは見せてくれなかったからわからないが、私が見せられた一覧表には、1回から5回までの記載があった。 ・派閥の領袖が配下の議員たちに年末に“餅代”と称する金を渡すのは、永田町では常識だが(ただし、2、3百万円が相場)、その田中さんのリストには、田中派以外の自民党議員から、当時の野党議員たちの名前まで、ズラリと並んでいた。 とくに野党議員の場合、各党の党首、幹部クラスだ。国会議員なりたての私、これにはぶったまげたね。 ・いまではすっかり様変わりしてしまったが、派閥の領袖たる者、次の4つの条件が不可欠だった。第1に金。盆暮の手当はどこの派閥も同じ。田中さんが金脈の指弾を受け、三木武夫さんや福田赳夫さんらは「クリーン」とか「清貧」とかを売り物にしていたが、田中さんに比べて、金の集め方が下手だっただけの話。第2の条件は、面倒見がいいこと。第3にポストをとってくる力があること。第4が人間的魅力。田中さんは、これらすべての条件に秀でていた。まさに派閥政治の権化のような人だった。 <競争心なき政治家は去るべし>・昭和63年(1988年)12月、リクルートコスモスの未公開株の譲渡問題で蔵相の宮沢さんが辞任したのは、私が前々から言っていた「宮沢派(宏池会)は闘争心に欠ける」という弱点が、もろに出た結果だ。 ・自民党の中にも、根まわしの好きな派閥と嫌いな派閥があり、言うなれば、根まわしと喧嘩が不得意の宮沢派が、野党側から狙われたということだろう。 宮沢さんは、戦後、日本がまだ4等国と言われていた時代に、日本の国益を背に今日の日米関係を築いた人だ。経済政策にも明るく、通訳なしで、世界の首脳クラスと一人でどんな議論でもできる英才。 ・しかし、あまりにも遅すぎた春、宮沢さんの切れ味もすっかり鈍っていた。それまでの経緯から、周囲に対する不信感もあったのだろうが、とにかく人の話に耳を貸さない。そのくせ、結論をどんどん先送りする優柔不断さ。 外交と並んで、経済にも精通しているはずなのに、積極財政への転換の機を失って、不況をますます助長してしまった。 ・宮沢さんはあまりに頭がよすぎたため、他人がバカに見えた。しかし、われわれから見たら、単なる人望のなさにしか映りませんよ。 <天才的な衆参ダブル選挙の発案>・田中角栄という人は、日本の政治史上でも傑出した人物の一人に数えられると思う。 政治家の能力は、人材の使い方にある。たとえ98パーセントの欠陥があっても、残り2パーセントの才能をうまく使う能力である。 その点、田中さんの能力は抜群だった。とくに、役人の使い方、若い政治家の使い方が実にうまかった。そして、派閥内の人事、派閥統制の妙も見事だった。要するに、分断するようで分断しない。ライバル同士を競わせて希望を持たせるなど、のちの竹下さんや金丸さんの人事は、ことごとく田中さんから自然に学びとったものといえる。それから、田中さんは選挙の神様だった。 <すべてはウラで決まっている>・ポスト中曽根は竹下――しかし、これがかなり危ういところだった。例の皇民党による“褒め殺し”のせいだ。これには、金丸さんもあわてたようだね。そこで、解決策を東京佐川急便の渡辺広康社長を通じて、稲川会の石井進会長に依頼したということらしいのだが、やはり、政治家としては、そういうやり方はよくない。 そうした解決方法がどうこうよりも、その問題が起こってきた背景のほうが重要である。 竹下さんを称して、よく「まめな、つき合いを欠かさない人」と言われるが、マメでそだつのはハトだけ。その実態は「カネのつき合い」にほかならない。

2024/8

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2024-10-01 10:00:00 - 8月の読書メーター 読んだ本の数:29 読んだページ数:8153 ナイス数:1099 江戸POP道中文字栗毛の感想 「浮世風呂」「東海道中膝栗毛」「世間胸算用」とか題名は知っていても中身を知らないものね。読み始めて、ヘーというのがまず感想。いや知らないことが多すぎでした。1 異種ヤンデレ純愛幼馴染ハーレムBL/2 机上のマジカルバナナ/3 天下一言語遊戯会/4 江戸時代漫画事情/5 地獄の沙汰は人間次第/6 流行語ほんま草生い茂って山/7 復讐と恋と少年少女/8 アンドロギュノスと心/9 湯の中の世の中(1)/10 湯の中の世の中(2)/11 夕霧太夫の昼の顔/12 この座敷に花魁は永遠に来ない 読了日:08月01日 著者:児玉 雨子 ##NAME##の感想 フーン。これって芥川賞 候補だったのか。 読了日:08月02日 著者:児玉 雨子 声の網 (角川文庫)の感想 初版1970年 それを考えながら読む。やっぱ星新一ってすごいわ。 読了日:08月04日 著者:星 新一 ぶらり、世界の家事探訪<ヨーロッパ編> (だいわ文庫)の感想 うーん。もう、息子たちは、家事男子は無理か。はじめに 海外暮らし体験の旅をしよう/1か国目 フランスーカッコよく暮らす/2か国目 ポーランドー豊かさを目標に暮らす/3か国目 フィンランドーナチュラルに暮らす/4か国目 ノルウェーーシンプルに暮らす/5か国目 イタリアーフレンドリーに暮らす/あとがき 「体験」-それは人生を豊かにする 読了日:08月05日 著者:阿部 絢子 マル暴: 警視庁暴力団担当刑事 (小学館新書 さ 21-1)の感想 事実は小説よりも…これを元に何冊の警察小説が書けるかと思うほどの話だった。ただ、東京の話が中心。事件についても ああそんなことがあったなぁくらい。これが関西の話だったら もっと身近に感じるだろうな。第1章 マル暴刑事/第2章 ヤクザとシノギ/第3章 日医大事件 -- 稲川会と住吉会/第4章 頂上作戦 -- 極東会/第5章 マル暴とヤクザとメディア/第6章 東京進出 -- 山口組/第7章 ヤクザと経済事件/第8章 外国人マフィア/第9章 闇落ち/第10章 新たな出発 読了日:08月06日 著者:櫻井 裕一 文体練習の感想 二度目の挑戦。確かにすごいんだけど、結局最後までは読み切れない。訳者もすごいんだよね。もうあきらめて 最後まで読んだことにする。と思ったけど、結局斜め読みで最後まで読んじゃった。訳者後書き。これから読めばよかった。 読了日:08月06日 著者:レーモン クノー 誇張、省略、描き換え…地図は意外とウソつきの感想 題名の付け方が、絶妙。なるほどね。確かに、地図って思ったほど 正確無比 じゃないってことね。 読了日:08月07日 著者:遠藤 宏之 凜として弓を引く 青雲篇 (講談社文庫)の感想 シリーズ2。次の3も 楽しみ。それにしても、弓道って、お金かかりそう。 読了日:08月08日 著者:碧野 圭 痣 (徳間文庫)の感想 一気読み。真壁シリーズが、あるのね。 読了日:08月08日 著者:伊岡瞬 変見自在 安倍晋三を葬ったのは誰かの感想 「週刊新潮」連載中の超辛口コラム「変見自在」。 週刊誌を読まないので、ヘーということばかり。ウクライナとロシアって、宗教戦争も理由の一つだったのか。それにしても、知らないことが多かった。何を信じるかは、本当に難しい😓 読了日:08月09日 著者:髙山 正之 交渉人・遠野麻衣子 爆弾魔 (河出文庫)の感想 シリーズ2。前回同様 何故か、影が薄いように感じるのだけれど。次回は 交渉人としての力を発揮できる部署にいるのかしら。 読了日:08月10日 著者:五十嵐 貴久 交渉人・遠野麻衣子 籠城 (河出文庫)の感想 やっと交渉人らしい仕事が出来た感じだけど、なんだかなぁ。話の筋が今ひとつだったなぁ。りかちゃんの方が面白い。 読了日:08月11日 著者:五十嵐 貴久 100年の手みやげを買いにいくの感想 ああ、東京横浜のんか。でも見たことあるのんもあるってことは、関西でもデパートにあるんかなぁ。というか、もともと京都のんかも。ま、見てるだけで、満足。 読了日:08月11日 著者: 柚木沙弥郎 美しい本の仕事の感想 どこかで見たと思ったら、婦人之友の表紙絵か。 絵本のとか見てみたい。メモメモ。 読了日:08月11日 著者:柚木 沙弥郎,小林 真理 ネコシェフと海辺のお店 (角川文庫)の感想 短編連作。猫も好きなんだけど、今一つのり切れず。構成の仕方なのか 話が中途半端に感じてしまうところなのか、料理がおいしそうに思えないところなのか。第一章 ネコにもご馳走/第二章 ネコにも居場/第三章 ネコにも繋がる/第四章 ネコにも休息/第五章 ネコはこの道を歩く/エピローグ 読了日:08月12日 著者:標野 凪 虚無レシピの感想 予約して 手元にくるのにメチャ時間がかかった。こりゃ、私向きやないわ。こんな食事してたらあかんよと 言いたくなったけど、お手軽と言えばお手軽なので、独身手抜き諸君には 丁度良いのかな。 読了日:08月13日 著者:リュウジ マチネの終わりに (文春文庫 ひ 19-2)の感想 マチネってそういう意味だったのね。知らなかった。だいたいコンサートなんか 行かないもんな。 読了日:08月14日 著者:平野 啓一郎 いまこそガーシュウィンの感想 一気読み。ラプソインブルーが、聞こえてくるね。 読了日:08月16日 著者:中山 七里 バッタを倒すぜ アフリカで (光文社新書 1305)の感想 分厚いので時間がかかった。「バッタを倒しにアフリカへ」の続編。半端ないバッタ愛を込めた本。バッタアレルギーになっちゃったのか。 読了日:08月18日 著者:前野ウルド浩太郎 あの人が好きって言うから…-有名人の愛読書50冊読んでみた (単行本)の感想 あっという間に読了。こうやって読みたい本が増えていくのよね。あーあ。 読了日:08月18日 著者:ブルボン 小林 絵に隠された記憶 熊沢アート心療所の謎解きカルテ (宝島社文庫 『このミス』大賞シリーズ)の感想 短編連作。アートセラピーの話。昔 読んだ「紫色の太陽」を思い出した。ちなみに 紫色の太陽は 小説ではなく、絵を描いた子どもの心理状態をどう解釈するかという本で、絶版なのか調べても出てこないわ。 序章/第一章 乗り物の絵/第二章 家族の絵/第三章 動物の絵/第四章 記憶の絵 読了日:08月19日 著者:一色 さゆり 高校事変 X (角川文庫)の感想 やっぱり結衣ちゃん 不死身だー。って市村凛も不死身だし、不死身な人間多いナ。 読了日:08月21日 著者:松岡 圭祐 ちぎれた鎖と光の切れ端の感想 面白かった。一気読み。如子さんすごい👍 読了日:08月22日 著者:荒木 あかね レーエンデ国物語 喝采か沈黙かの感想 シリーズ3。大きな戦闘シーンは無いものの秘めたる戦いがすごい。次の4はどうなるのか、楽しみ。 読了日:08月24日 著者:多崎 礼 チャックより愛をこめて (文春文庫 く 2-3)の感想 読んでいなかった黒柳さんのエッセイ。懐かしいなと思いつつ読む。今とは違うニューヨークかも。 読了日:08月28日 著者:黒柳 徹子 蝶として死す: 平家物語推理抄 (ミステリ・フロンティア 108)の感想 短編連作。面白いんだけど読みにくい。それって 漢字のせいかしら?禿髪殺し/葵前哀れ/屍実盛/弔千手/六代秘話 読了日:08月28日 著者:羽生 飛鳥 1日1分!座ったままでOK!ズルい腹筋の感想 できるかどうか。とりあえず やり方だけは わかったので後は 実行するのみ。続ける根性ないかもな。 読了日:08月28日 著者:星野光一 102歳、一人暮らし。哲代おばあちゃんの心も体もさびない生き方の感想 年齢を聞くとびっくりする。写真を見ても、生き方も若いよ。 読了日:08月29日 著者:石井 哲代,中国新聞社 笑うマトリョーシカの感想 ドラマを見て。頭ん中で 翔君とか、玉鉄とか あさみちゃんとか、高岡さきちゃんとか、駆け巡る。それにしてもドラマの演出よくできてると思った。 読了日:08月30日 著者:早見 和真 読書メーター
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