田沼意次

田沼意次の墓(勝林寺) | 祇園精舎の鐘の声

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田沼意次の墓(勝林寺)

【Point Town】田沼意次が政治上で問題になっていたことは? | 気ままに更新 ポイントサイトのクイズを攻略

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田沼意次が政治上で問題になっていたことは?賄賂寝坊虚言癖二枚舌rakuten_design="slide";rakuten_affiliateId="0ee3b2c1.056b276f

田沼意次が政治上で問題になっていたことは? | ちょいかせ日記

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田沼意次 マラソンのここだけの話 | ペットシッター左恵子の情報

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今日は田沼意次 マラソンに関する話題です。多分初めて書くと思うんですけど・・最近田沼意次 マラソンって注目されているようですね。田沼意次 マラソンがめ

| 日々徒然

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田沼意次が政治上で問題になっていたことは?賄賂

田沼意次 汚職政治家 | ポリンQな日常的ブログ

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田沼意次というと「汚職政治家」というレッテルがある・・・

た | 歴史タイムス ~ 古今東西歴史遺跡化石ニュース

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大王製紙 大気汚染 大愚物 大豆 大仙陵古墳 体操 大統領選 台風 台風2号 台風3号 台風4号 台風5号 台風6号 台風7号 台風8号 台風9号

田沼意次が政治上で問題になっていたことは? | クイズネットお役立ち情報雑談局

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田沼意次が政治上で問題になっていたことは?答えは?

田沼意次が政治上で問題になっていたことは? | ポイントタウン ポイントQ 解答

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田沼意次が政治上で問題になっていたことは?→賄賂

田沼意次が政治上で問題になっていたことは? | パパの副業

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田沼意次が政治上で問題になっていたことは?ポイントタウン賄賂寝坊虚言癖二枚舌 >賄賂

蘭学とロシアの接近【基礎のまとめ】

https://rekishisougou.seesaa.net/article/515539239.html
2025-05-25 05:34:00 - ロシアの進出17世紀、ロシアはシベリアを東進してオホーツク海に達した。17世紀末にカムチャツカ半島に至り、18世紀初めにはロシア領とした。18世紀には千島列島や樺太を南下した。また、1..

平賀源内退場で再度。某国営放送『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』は『ドラマ10大奥 』と「混ぜるな危険」とか。なんの、私は去年の『フジ大奥』と3種混合のごちゃまぜで楽しんでますよ!

http://anna.iiblog.jp/article/514317750.html
1970-01-01 01:00:00 - シリーズでお伝えした(?)我が庭の『春の白一色』。さて、どん尻に控えしは、これ、小粒のツツジです。そうなんだなあ、大木の下に居るもので万年陽の目見ずで成長が遅い、なのに、一階茶の間から..

吉原と文人 12 蔦屋の妻は本屋の娘

https://dadasantenf.seesaa.net/article/512009420.html
2025-03-18 03:39:00 - (承前 狂歌集『絵本吾妻抉』の挿絵より)江戸の出版界で活躍した蔦屋重三郎(1750~1797)は吉原の「中」で生まれ育った人だが、遊郭という特別な空間の宣伝広告だけに満足することはなく、常に新しい..

吉原と文人 9 豪遊した土山宗次郎

https://dadasantenf.seesaa.net/article/511684818.html
2025-03-13 03:29:00 - (承前 天明期の遊女たち、絵師は北尾政演)江戸期の歴史を語る時に「田沼時代」を抜きにする訳には行かない。余り好意的に田沼意次を取り上げた記事も見かけないが、彼が才能を認めた幕臣の一人に土山宗次郎(..

吉原と文人 6 人気の遊女も入門

https://dadasantenf.seesaa.net/article/511414212.html
2025-03-09 03:55:00 - (承前 枠で囲った所が加藤千蔭の屋敷、画面下方に地蔵橋がある)江戸期を代表する国学者と言えば、必ず教科書にも記載のある賀茂真淵だろう。彼は静岡浜松で1697年に生まれているが、五十を超えた元文二年..

吉原と文人 5 浪人から奉行所与力に

https://dadasantenf.seesaa.net/article/511343016.html
2025-03-08 03:48:00 - (承前 『万歳狂歌集』の跋、「橘のやちまた」は千蔭の狂名)大田南畝たちの狂歌集に推薦文を寄せた町奉行与力の加藤千蔭(1735~1808)はもともとから江戸に住んだ御家人の家柄ではなく、少し毛並みが..

2025年度 歴史総合,日本史探究 本試験 解答番号9

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2025-01-19 01:41:00 - 令和7年度(2025年度)共通テスト 歴史総合,日本史探究 本試験 解答・解説第2問A-1解答番号9正解:2配点:3解説:資料1は工藤平助の「報国以言」。田沼意..

田沼意次と田安賢丸の対決 ~NHK大河ドラマ『べらぼう 第2話「吉原細見 嗚呼御江戸」』感想~(Confrontation of Tanuma Okitsugu and Tayasu Kenmaru -Impression of NHK Taiga “Berabou 2nd ‘Yoshiwara Hosomi Oh, Ooedo’”-)

https://tkt058.seesaa.net/article/508859829.html
1970-01-01 01:00:00 - 今回のべらぼうは、蔦屋重三郎が蘭学者として名をはせていた平賀源内と出会い、女っ気のない彼に吉原を消化してもらうという代物だけれども……。平賀源内が衆道(男性同性愛)重視ということは、今の今..

250年と25年

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2025-12-29 12:23:00 - 新聞を見ていると、来年はベートーヴェンの生誕 250年だそうです。1770年生まれ、ナポレオンより 1歳下で、日本では明和七年で十代将軍徳川家治、田沼意次などの時代です。5年後にはアメリカ独立戦争が..

ねこねこ日本史15巻発売中!

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2025-09-24 09:47:00 - そにしけんじ先生の、大人気コミック『ねこねこ日本史』の最新15巻が発売となりました!今回は、2025年大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』で、人気を集めそうな蔦屋重三郎や田沼意..

5月のエンタメまとめ

https://ayandayo.exblog.jp/37965986/
2025-05-31 05:00:00 - 明日から6月とは思えない寒さ。暖房つけたいくらい寒いけど暖房器具片付けちゃったし、エアコンの暖房つけるのも何だか…と思って我慢している。今週は仕事が忙しかった…というか大変な作業があったりして、毎週のことだけど疲れた。今日は洗濯の日なので、この間みたいに先に寝室を掃除して部屋干し会場にした。今日は雨だし寒いけど明日は晴れるみたいなので、布団カバーやシーツを洗おうと思って外しておいた。洗濯物を干し始めたのと同時に布団乾燥機もかけた。月末なので月一掃除。これからカビが心配な季節なのでお風呂場の漂白をしっかりとして、キッチンも掃除。時々カーテンの隙間から外を覗いて雨の様子を見ていたけど、外がピカっと光ったと思ったらバリバリと窓が振動するほどの雷が鳴ってびっくりした。今月は…全然映画を観なかった。鳥を並べ替えるゲームをやり始めたら、空いてる時間ずーっとそれをやってしまっていることが増え、有意義な時間を過ごせていない気がする。しかしどうにも疲れや身体のだるさや痛みなどで、立って動いたり何かをしなければいけない時以外は、ソファでだらだらしていたくなる。最近はTVerで配信されている過去ドラマにも特に観たいと思うものが無くて、今クールで毎週観てるものを観ているだけ。観ているドラマは「続・続・最後から二番目の恋」、「夫よ、死んでくれないか」、大河ドラマ「べらぼう」。どれもまだ途中のだけど、今のところの感想を書いてみよう。・「べらぼう」普通に面白いんだけど、人によっては江戸の出版業界の話に興味無い!という人もいるだろう。私もここ数話は少し退屈に感じている。だから主人公蔦重まわりのことだけじゃなく、徳川家や田沼意次など幕府の話も並行して描かれているんだけど、次の将軍をどうするかのところでなかなか進まない。大河ドラマはやっぱり合戦シーンとか出て来ないと!と思っている人は多いと思う。でも大河ドラマは毎年作られているので、主人公にするべき歴史上の有名人はどんどん少なくなっていくだろう。だから今回みたいにあまり知られていなかったり、派手さのない主人公も出てくると思う。過去に描かれた題材をもう一度取り上げてもいいのだろうけど、過去の作品とは違った観点でないと面白いものにならないだろうし、そうなると戦国時代とか幕末とかは作品数が多いので、それ以外の時代の作品が増えるのは必然だと思う。蔦重と一緒に吉原で暮らしていた唐丸という子供が行方不明になり、数年後大きくなって再会したのだけど成長したら染谷将太になっていて、蔦重役の横浜流星よりも年上になってしまったことがちょっと面白い。・「夫よ、死んでくれないか」衝撃的なタイトルが話題になったけど、主人公の3人の女友達がそれぞれどうして夫に死んでほしいと思うのかを見てみたかった。磯山さやかのモラハラ夫が一番嫌だなぁと思った。相武紗季の束縛が強い夫は、束縛が大丈夫な妻だったらあまり嫌じゃないと思う。ドラマ「3000万」の時もそうだったけど、安達祐実の緊迫した演技はいつも上手いなと思う。上手すぎて、見てて痛々しくてしんどくなってきてしまうほど。幸せそうで楽しそうな役を演じているのをあまり(回想シーンくらいでしか)見ることが無いので、たまにはのんびりさせてあげてほしい。次クールのドラマにも出るし、安達祐実が最近すごい。・「続・続・最後から二番目の恋」始まってからもう毎週楽しみにしていて、録画しているので各話とも2回以上は観ている。今週は千明家に女子たちが集まり、視聴者も聞いてみたいと思っている和平との関係を明らかにするシーンがあった。11年前の前シーズンの終わりの方で、酔っ払いつつもずっとそばにいろと確認し合ったあの時から何も変わっていないことが判明。お互い、プロポーズはあったけど酔っ払ってて相手は覚えてないと思っていることと、答えを出さない関係だから良いんだと思っている部分は同じだった。確かにもし付き合っていたとしたら、喧嘩したり嫌なところとか我慢出来なくなって別れたりしてたかもしれない。恋愛の終わりが人としての付き合いの終わりになりたくないから、恋愛関係にならないようにしているのはよく分かるなぁと思った。大人同士が故、そうなるのだろう。このドラマが始まって以来、前シーズンから11年も空いて出演者も視聴者も同じように時を経て歳を重ね、だからすごく分かるなぁということがあって、見ていてしみじみしてしまう。第1話でコロナ禍の様子が描かれて、ずっと一緒に生きてくっていう絆を確認したエピソードは素敵だった。でもそれはなにもコロナ時期まで遡らなくてもよかったんじゃないかと思ったけど、脚本家がどうしてもコロナのことを描きたかったんじゃないのかなぁと感じた。第4話で真平が子供の頃から診察してもらっていたお医者さんが亡くなっていたことを、皆に隠していたというエピソードがあった。坂口憲二もおじさんなのに大人たちに思いっきり怒られてるなぁ…と思いながら見ていたんだけど、なんでこんなストーリーに?と気になって調べてみたら、その先生を演じていた役者さんが去年亡くなっていたことが分かった。最初からおじいさんだった一条さん役の役者さんが亡くなってた(92歳没)のは前シーズンから11年も空いたから致し方ないと思ったけど、あの先生はまだそんなにお年寄りじゃなかったのにと思ったら59歳で亡くなったんだそうだ。このエピソードも絶対に描きたかったんだろうなぁと感じた。第1話を観返してみたら、和平と千明の同期や上司が亡くなったというエピソードから、人って死んじゃうんですねと語り合っているシーンがあったので、人の死が裏テーマとして織り込まれてるのかなと思った。…というかこのドラマは最初からそうだったか。長倉家は両親が早くに亡くなっているし、和平も奥さんを亡くしているし、真平も生まれつきいつどうなるか分からない病を抱えているし。柴田理恵が演じる市長と和平のやりとりが好き。市長は結婚を迫ったり和平を困らせるようなことを言うんだけど、和平もそれには慣れているので上手く切り返して、軽快な夫婦漫才のよう。市長はすごくチャーミングで頭の良い女性なんだろうなと感じる。話は終盤に差し掛かっていて、これから2人はどうなるのだろうか。和平は千明に対していつもちょっとドギマギしていて、千明はかかりつけのお医者さんのことをちょっと素敵だなと思ったり自由な感じで、どちらかと言うと和平の好きの方が上回ってそうに見える。でも…まぁ三浦友和素敵だもんね。和平って1話に何度も驚くシーンがあって、中井貴一の驚きの演技が上手すぎて笑いつつも感心してる。終わりに近づいてきて寂しくもあり、どうなるのかが楽しみでもある。

河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(25)

https://kogotokoub.exblog.jp/33665664/
2025-05-28 05:00:00 - 河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書) さて、河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の二十五回目。 同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。 副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。 <目次>□はじめに□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝□おわりに いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。杉浦日向子『江戸へようこそ』 鳥山検校が瀬川を身請けしたのが安永四年(1775)、借金まみれになった旗本の森忠右衛門が逐電したことを発端として、鳥山他の検校が就縛されたのが安永七年(1778)のこと。 翌安永八年(1779)、鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、7人の検校の中では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった。 重三郎が日本橋通油町に耕書堂を開店したのが、天明三年(1783)。 十代将軍家治が亡くなり、田沼意次が老中の職を辞すのが天明六年(1786)。 引き続き「第二章 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨」から。 十一代将軍は一橋家の家斉、老中に松平定信が就いた。 定信は、政治批判を禁止し、贅沢品の取り締まりを行い、出版統制などを行う「処士横議の禁」を発した。 しかし、蔦重は、朋誠堂喜三二や恋川春町の、政治批判を秘めた黄表紙を刊行し、大ヒットを飛ばした。 では、そういったジャーナリスト精神を持つ人物が、他にもいたこををご紹介。 当時の版元たちも、全員が唯々諾々と御上の言いつけに従っていたわけではない。ある意味、身の危険をおかし家運をかけてまで、人びとが求める書物を世に送り出す者も少なくなかった。 その代表が蔦屋重三郎だったが、矜持を持つ版元は昔から存在した。寛政の改革より十数年前に遡るが、その一人が申椒堂を経営する須原屋市兵衛(須原屋茂兵衛の分家)である。 市兵衛は、処刑されるかもしれないという覚悟で、杉田玄白や前野良沢に協力したのだった。 玄白ら数名の医者や学者たちはオランダ語に訳されたドイツの解剖医学書(ターヘルアナトミア)の正確さに感激し、密かにこの本を四年かけて翻訳していた。結果、世の役に立てるべく翻訳書の刊行を思い立ち、市兵衛に相談をもちかけたのである。 ただ、これまでも西洋に関する書物を刊行して、当局から絶版を命じられた例があった。ゆえに前代未聞の出版事業は、かなり危険な橋をわたる行為だといえた。しかし、玄白たちの熱意に打たれた市兵衛は刊行に同意し、まずは官憲の様子をうかがうべく、解剖図と解説文数枚を出版した。これによって当局の様子をうかがったわけだが、とくに権力側からのお咎めはなかった。そこで大丈夫だと判断し、商業出版に踏み切っている。それが『解体新書』である。 須原屋市兵衛は、「べらぼう」では里見浩太郎が演じているね。 蔦重が市兵衛を頼りにするのは、同じような反権力精神を感じるからかもしれない。 杉田玄白は福井県小浜出身。 福井県立図書館サイトで、『解体新書』が紹介されているPDFを見ることができる。福井県立図書館サイトの該当ページ 画像(図1)と文章を拝借。図1は教科書等によく掲載されている『解体新書』の図版です。これらの図は、平賀源内に西洋画を学んだ秋田藩士の小田野直武(なおたけ)によって描かれました。 平賀源内と杉田玄白は、ごく親しい関係だった。源内が五歳年上。 『解体新書』の刊行に、源内は協力していた。 平賀源内は、安永三年(1774)正月に杉田玄白宅を訪問し、『解体新書』の本文の翻訳がほぼ完成し、解剖図の画家を捜していることを知らされたため、小田野直武を紹介したのだった。 源内の死後、浅草の総泉寺に玄白の尽力で墓碑が建てられ、玄白の「嗟 非常ノ人、非常ノ事ヲ好ミ、行ヒ是レ非常、何ゾ非常ニ死スルヤ」という碑文が刻まれている。 命を賭けて刊行された『解体新書』が、江戸、ひいては日本の医学発展に大きく貢献した。 とはいえ、寛政の改革による出版統制は、影響を与え始めた。 さて、蔦重の求めに応じて黄表紙を書いた朋誠堂喜三二だったが、作品の内容におそれをなした秋田藩は、喜三二に断筆を命じた。 どうも、老中の松平定信が秋田藩にそれとなく注意をうながしたようだ。 『よしの冊子(ぞうし)』に、そう理解できる記述があるからだ。 『よしの冊子』とは、定信の側近・水野為長が隠密などの諜報網を駆使して集めた膨大な情報をまとめた報告書のこと。もちろん情報収集を命じたのは定信であり、報告書は天明七年から定期的にまとめられ、定信に提出されていたようだ。 為長が集めた情報は役人や大名の人物評や言動が中心だったが、真偽の別なく、市井の噂話も手当たり次第に記録してある。 ただ、報告書は機密情報が満載だったので、その存在は長年秘匿されてきたが、寛政の改革から三十年近く経って、定信の遺品から発見されたのである。集めた情報冊子は、その末尾が「~のよし」という語で終わっていることから、のちに「よしの冊子」と名付けられた。 おそらく定信は、『よしの冊子』を人事や賞罰、取締りや政策の実行などに役立てていたのであろう。政権のトップはこうしたことをひょくやるものだ。 そんな『よしの冊子』に、朋誠堂喜三二が登場する。 つまり、秋田藩主が定信に会った際、「御家来の草双紙を作り候者」は、こんな作品を書くようでは家老の器ではない、と言われたため、国元の秋田勤務に変更したとのよし、と書かれていたのだ。 とはいえ、研究者浜田義一郎は、喜三二が秋田国元勤務になったという記録はないらしく、秋田藩が表面を取り繕ったかもしれないと推察している。 ともかく、何らかの圧力が定信側から秋田藩にあったことは十分に考えられる。 江戸庶民は、本名平沢常富、秋田佐竹藩江戸留守居役であった人気者の黄表紙作家喜三二を、失った。 そして、『よしの冊子』には、あの狂歌師のことも書かれていたのだが、その内容は次回。 さて、兵庫のバカ殿のこと。 もし、兵庫県に『よしの冊子』があったとしたら、公益通報をした元県民局長に関する私的情報について「~という人物のよし」と書かれていて、その情報を「知事の命によって元総務部長が議員に流したよし」と書かれているのだろう。 そろそろ、嘘つき知事には、退陣願おう。

あれっ、将軍家斉誕生は幕藩体制終焉の必然?

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2025-05-25 05:00:00 - 【 11代将軍家斉と松平定信 】 先日、鈴木荘一著「遊王将軍・徳川家斉の功罪 堅臣・松平定信との相克」(花伝社)を読んだ 以下は一部抜粋 はじめに  わが国の骨格を形成したのは、二百六十四年におよぶ平和を確立した徳川政権である。家康が幕府を開いてから慶喜が大政奉還するまで、最も在任期間が長かった将軍は十一代家斉の在位五十年であり、徳川二百六十四年の約二割に及んでいる。これは八代吉宗の二十九年をはるかにしのぐ長期政権だった。  だから江戸時代=徳川政権を理解するうえで、家斉の功罪を避けることはできない。 家斉は十代将軍家治の実子ではない。 前将軍家治が病死したとき直系男児の血統は絶えていたから後継将軍は御三卿(田安家、一橋家、清水家)から出すことになり、後継将軍の座を田安家の嫡男松平定信と一橋家の嫡男一橋家斉が争った。御三卿の序列は田安家が一橋家より上位にあったし、松平定信は八代吉宗の孫であり一橋家斉は吉宗の曽孫にすぎないから、家格からいっても血筋からいっても、御三卿筆頭・田安家の嫡男松平定信が後継将軍の最短距離にいた。 そのうえ定信は幼少より聡明で知られ、自分がやがて将軍になるとの自覚をもっていて、「将軍になったら祖父吉宗の『享保の改革』を手本として、立派な幕政改革を行いたいたい」と考えていた。のちにこれを実現するのが定信の「寛政の改革」である。  しかるに家斉の父一橋治斉は権謀術策の人であり、「何とか家斉を将軍にしたい」と念願し、かなり早い段階から幕閣の最大実力者・田沼意次に近づいて田沼と組み田沼の剛腕を利用して、定信を白河藩主へ追い出し、息子の家斉を将軍に押し込んだのである。 定信は後継将軍の座をめぐる抗争に際し戦わずに降りて、代わりに首席老中になった。 将軍になった家斉は一切の政治運営を定信にゆだね「象徴天皇」ならぬ「象徴将軍」になった。家斉と父治斉の願いは「家斉が将軍になりさえすれば良い」ということだったから、目的を達成した家斉と治斉は政治運営の一切を最も有能な定信にゆだねたのだ。 これが徳川政権の「柔構造」だったのである。  将軍家斉は朝廷・諸大名・家臣団との摩擦を避ける「みんな仲良く」という融和政策をとったが、幕政の矛盾は日々拡大し、勃発する内憂外患に対処することができず、やがて幕藩体制は傾いて終焉をむかえる。 内政外交という政治運営は、まことに難しいものなのだ。 家斉と定信の時代は、家斉が文化を、定信は幕政を二人三脚で分担した。真面目一方の定信と、放漫経営で幕府を傾けてしまう家斉の相克こそ、徳川政権後期の実相であった。 こうした徳川政治は、今日にいたる近代日本の基層をなしているのである。 <感想>放漫経営の家斉と真面目な定信の相克 徳川政権後期の幕政の矛盾 一橋治斉の権謀術策からの幕藩体制の終焉 全てが必然だったようにも見える ----------------------------------------------------------------------元証券マンが「あれっ」と思ったこと発行者HP http://tsuru1.blog.fc2.com/同X https://mobile.twitter.com/tsuruichipooh----------------------------------------------------------------------

河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(24)

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2025-05-22 05:00:00 - 河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書) さて、河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の二十四回目。 同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。 副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。 <目次>□はじめに□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝□おわりに いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。杉浦日向子『江戸へようこそ』 鳥山検校が瀬川を身請けしたのが安永四年(1775)、借金まみれになった旗本の森忠右衛門が逐電したことを発端として、鳥山他の検校が就縛されたのが安永七年(1778)のこと。 翌安永八年(1779)、鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、7人の検校の中では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった。 重三郎が日本橋通油町に耕書堂を開店したのが、天明三年(1783)。 田沼意次の嫡男で若年寄だった意知(おきとも)が、佐野政言(まさこと)に江戸城中で斬られたのが、天明四年(1784)三月。 引き続き「第二章 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨」から。 松平定信の思想・情報の統制と、蔦重の抵抗について。 朱子学以外の学問を昌平坂学問所で教えてはならぬとか、好色本は絶版にせよとか、政治を風刺する黄表紙や洒落本を書くなとか、さまざまな統制政策を展開していった。 このため、版元たちが、黄表紙や洒落本の刊行を控えた李、内容を穏便なものにしているなかで、天明八年(1788)、蔦屋重三郎は朋誠堂喜三二の黄表紙『文武二道万石通(ぶんぶにどうまんごくどうし)』を出版してしまう。 その内容だが、鎌倉時代を舞台とし、間抜けな武士が文武を奨励する幕府にあわてふためくという滑稽な内容だった。 当時の老中松平定信がうるさく文武に励むよう通達していたので、源頼朝の重臣畠山重忠を定信に見立てるなど、暗に寛政の改革を茶化したものだった。幕政批判としては最も早い作品の一つだといえる。 ただ、馬琴が先の『近世物之本江戸作者部類』で「古今未曾有の大流行」と記したように、『文武二道万石通』は予想外に部数を伸ばし、売り切れてしまうほどだった。 農業と上下の秩序を重視した朱子学を重視した定信の政策は、「寛政異学の禁」と呼ばれる。 政治批判を禁止したり、贅沢品の取り締まり、そして、出版統制などについては、「処士横議の禁」と言われた。 この禁止条例が、蔦重たちに襲いかかってくるのだが、それについては、後述。 ベストセラーとなった『文武二道万国通』の一部を「国書データベース」のサイトから拝借。「国書データベース」サイトの該当ページ 重三郎は、このヒットに味を占め、同じような黄表紙、あの恋川春町作の『鸚鵡返文武二道(おうむがえしぶんぶのふたみち)』を刊行した。 こちらは元号が替わり寛政元年(1789)のことだ。 Wikipedia「鸚鵡返文武二道」から、どんな内容か引用する。Wikipedia「鸚鵡返文武二道」 延喜の帝(醍醐天皇)の御代のこと、天下泰平が続いたはよいが、それにより人の心も華美に流れ、要らざる費えが増えたことを帝は嘆き、自ら質素倹約に励んだ。また菅原道真の子である菅秀才を補佐として政治を任せるが、世は生憎の人材不足。そこでまず人々に武芸を習わせ兵事を強くしようと菅秀才は考え、源義経、源為朝、小栗判官を呼んで人々へ武芸の指南をさせることになった。義経も為朝も小栗判官も、延喜とは時代の違う後の世の人物だが、そこは菅秀才いわく「草双紙だから、うっちゃっておきやれ」さ。 義経たちは人々にそれぞれ剣術や弓、馬術の指南をする。ところが教えられた側はやることが次第に脱線してきて、あたりかまわず矢を放ち人の物を壊すやら、義経が牛若丸と名乗っていた時に五条大橋で千人切りをしたのに倣い、五条橋などで人を襲うやら、果ては馬術の稽古と称して馬には乗らずに陰間に乗るやら女郎に乗るやら…と、人々は市中で数々の見当違いを起こしたのであった。 「草双紙だから、うっちぇっておきやれ」というのが、笑える。 よくも、このような突拍子もない発想ができるものだ。 案思づくりの才能が豊か。 そうそう「案思(あんじ)」と言えば、18日の「べらぼう」で、恋川春町に黄表紙を書いてもらうため、重三郎たちが、「案思」を考える、という場面があった。 案思は、「構想」とでも言い換えることができるだろう。 春町は、誰もやったことのない案思で作品を作りたがるからと、重三郎たちは、いろんなアイデアを思いついては、過去の作品で同じような内容がないか確認していた。 結果、「百年後の江戸」という案思が、春町の心を動かした。 そして出来上がった黄表紙は、『無益委記(むだいき)』。 今後「べらぼう」で内容の紹介があるかと思うので、ここでは説明しない。 さて、寛政の改革による出版統制で、次第に戯作者や狂歌師にも影響が及ぶのだが、それについては次回。

河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(23)

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2025-05-19 05:00:00 - 昨夜の「べらぼう」では、鱗形屋の終焉、恋川春町の耕書堂での仕事の始まりなどが描かれた。 ラスト、鱗形屋が重三郎に一つ残った赤本の版木を渡すという演出、なかなか泣かせる。河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書) さて、河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の二十三回目。 同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。 副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。 <目次>□はじめに□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝□おわりに いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。杉浦日向子『江戸へようこそ』 鳥山検校が瀬川を身請けしたのが安永四年(1775)、借金まみれになった旗本の森忠右衛門が逐電したことを発端として、鳥山他の検校が就縛されたのが安永七年(1778)のこと。 翌安永八年(1779)、鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、7人の検校の中では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった。 重三郎が日本橋通油町に耕書堂を開店したのが、天明三年(1783)。 田沼意次の嫡男で若年寄だった意知(おきとも)が、佐野政言(まさこと)に江戸城中で斬られたのが、天明四年(1784)三月。 引き続き「第二章 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨」から。 昨夜の「べらぼう」では、十代将軍家治と意次の場面が描かれた。 その家治が、天明六年(1786)8月25日に亡くなり、その二日後には意次は老中を辞任させられた。 しかし、まだ幕閣の残る意次の勢力は強かった。 だが、天明の打ちこわしによる無政府状態となった社会不安が、田沼時代の終焉につながった。 ついに、老中松平定信の出番である。 田沼意次=賄賂政治家、というイメージは、意次亡き後に造られた虚像に近く、かつての教科書もその虚像づくりに加担してきたと紹介してきたが、松平定信についても、誤解があるようだ。 寛政の改革は、田沼時代の反動政治と思いこんでいる方もいるだろう。今の教科書にも定信は「田沼時代の政策を改め、幕政の改革に着手した。飢饉で危機におちいった農村を復興することによって幕府の財政基盤を復旧し」(『新説日本史 日本史探求』)たとある。 だから重商主義を掲げて商活動の活性化をうながした諸政策を廃止し、農民からの年貢米を財政の基本とする農本主義へと押し戻したというイメージが定着している。しかし近年の研究によると、意外にも定信が「改革において講じた経済政策は、株仲間や冥加金、南鐐二朱判、公金貸付など、実は田沼政権のそれを継承したものが多かった」(高橋憲治著『松平定信』吉川弘文館)ことがわかっているのだ。それはそうだろう。 商工業がますます発達し、貨幣経済が浸透していた当時にあって、こうした伝統的政策への回帰は、そもそも無理がある。 ただ、定信の当面にして最大の課題は、天明の飢饉で荒廃しきってしまった農村を復興させることにあったの確かだ。 定信の農村復興施策としては、次のようなものがある。 □旧里帰農令(きゅうりきのうれい) 他国への出稼ぎを制限し、都市に出て来た農民で正業をもたない者に資金を与え帰農を促す □公金貸付 荒廃した田畑を復旧しようとする農民に、農具代などのため公金貸付を積極的に行う □村役人・代官の刷新 人徳ある豪農を名主(村役人)に積極的の登用 幕府直轄地の代官で不正の疑いのある者を多数処罰し、四分の三以上を有能な者に交代 他に外交政策として、ロシアとの通商を模索するなど、松平定信の施策はいろいろあるが、蔦重に関わる内政について引用。 松平定信は、田沼時代に弛緩しきってしまった武士の気風を立て直すことにも力を注ぎ、盛んに文武の奨励を説いた。 将軍の御前における上覧試合をたびたび催すとともに、文武に秀でた者の名を書き上げて幕閣に報告させ、その武術や学問を見聞し、一芸に秀でた幕臣を積極的に登用していった。 また、湯島聖堂に置かれた昌平坂学問所を官立とし、ここで学問を磨くことを幕臣に命じ、学問吟味を開始した。学問吟味というのは、いわゆる幕府主催の公的な学術試験と考えてよいだろう。科目は。四書五経・歴史・論策などがあり、これで好成績をおさめた者は抜擢を受けた。後述するが、寛政の改革に恐れをなし、狂歌の筆を折った四方赤良(大田南畝)も、学問気味を受けて優秀な成績を収め、抜擢を受けている。 このように、文武に励めば昇進できるというシステムを構築し、下級武士にも登用の道を開いたのである。こうした政策により、江戸市中では私塾や剣術道場が勃興し、にわかに士風が引き締まっていった。 だが、こうした政策に対して、「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、ぶんぶぶんぶといふて夜もねむれず」 と、蚊の羽音と文武奨励をひっかけた狂歌が出るなど、かつての田沼時代の自由な空気を懐かしむ声も出るようになった。 紹介した「世の中に」は、狂歌ではなく落首といえる。 四方赤良が作者であるという噂が流れ、彼は上司から呼び出しを受けるなど、迷惑を被った。 その落首など、庶民の中での改革への批判が高まるにつれ、定信は、思想・情報の統制を始める。 政治を風刺する黄表紙や洒落本なども統制の対象となった。 しかし、そんなお上の意向に立ち向かったのが、蔦重であった。 その内容は、次回。 18日の「べらぼう」では、伊藤淳史演じる初代大文字屋市兵衛が亡くなった。 私は、当初彼が市兵衛の二代目だと勘違いしていた。 二代目は、初代の姪の婿が継ぎ、狂歌名、加保茶元成(かぼちゃのもとなり)。 狂歌吉原連の中心人物でもあった。 四方赤良にとって後援者とも言える実に重要な人物。 また、18日の「べらぼう」に、四方赤良本人は登場しなかったが、その著作のことが話題になった。 黄表紙の評判記『菊寿草』だ。 この本で、耕書堂発行の黄表紙の戯作者や絵師が高く評価されたこと、そして、この本をきっかけに、蔦重と赤良が出会いったことなどは、シリーズ13回目でご紹介した。2025年3月6日のブログ さあ、天明の時代を迎え、狂歌の話が登場する今後に期待だ。

河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(22)

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2025-05-12 05:00:00 - 昨夜の「べらぼう」は、あの人物が歌麿だった、と判明したが、それについては後程。 それにしても、朋誠堂喜三二の夢の場面には驚いた。河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書) 河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の二十二回目。 同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。 副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。 <目次>□はじめに□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝□おわりに いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。杉浦日向子『江戸へようこそ』 鳥山検校が瀬川を身請けしたのが安永四年(1775)、借金まみれになった旗本の森忠右衛門が逐電したことを発端として、鳥山他の検校が就縛されたのが安永七年(1778)のこと。 翌安永八年(1779)、鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、7人の検校の中では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった。 重三郎が日本橋通油町に耕書堂を開店したのが、天明三年(1783)。 田沼意次の嫡男で若年寄だった意知(おきとも)が、佐野政言(まさこと)に江戸城中で斬られたのが、天明四年(1784)三月。 引き続き「第二章 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨」から、田沼時代の終焉について。 意知の死、そして、天明六年の将軍家治の死によって、意次は老中職を失ったが、まだ意次の親戚や彼が引き立てた大名たいによって、田沼派の勢力は強いものだった。 二十年間権力を握り続けたこともあって、それほど田沼派の勢力は強かったのである。 たとえば、十一代将軍家斉の実父である一橋治済(はるさだ)が、徳川御三家とともに「白河藩主の松平定信を老中にすべきだ」と提案したさいも、田沼派の工作によって正式に拒否されてしまっている。このように意次の失脚後も、幕府の中では田沼派と反田沼とのの激しい政治闘争が繰り広げられていたのだ。 そんな状況が一変したのが、天明七年(1787)五月のことであった。将軍のお膝元である江戸で、大規模な打ちこわしが発生したのである。 連年の大凶作による物価の高騰で生活苦に陥った貧しい人びとが米屋や商家を襲撃、蔵や屋敷を破壊して金穀を道ばたにぶちまけたのである。こうした打ちこわしは江戸だけでなく、大坂や奈良、長崎などの大都市でも発生。甲府、駿府、和歌山、堺、伏見、大津、広島、下関、博多など、諸都市へ広がり、日本全体が騒擾(そうじょう)状態になってしまった。 とくに江戸の打ちこわしはすさまじく、数日間も無政府状態に陥ってしまう。混乱の責任を負うかたちで、田沼派の閣僚たちは次々と罷免されていき、ついに松平越中守定信は老中首座にのぼり、幕政を掌握できたのである。 しかし、打ちこわしで無政府状態になった事実は、定信にとっても衝撃だった。 そうした事態から、悲壮な決意で松平定信の政治が始まった。 その後の、いわゆる寛政の改革については、次回ということで、少し先に飛ぶ。 昨夜の「べらぼう」は、あの唐丸が歌麿となることが描かれた。 私は、歌麿か写楽かどっちかだと思っていたが、歌麿だった。 この脚色も、悪くない。 「ありうるかも」と思わせる。 歌麿のことは、よく分かっていないのだ。 「第三章 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す」から、歌麿について。 この人の前半生は、蔦屋重三郎以上にわかっていないのだ。 重三郎とは比較にならないほど多くの歌麿研究があるのに、いまだに彼がいつどこで生まれたのかすら、確かな史料を見いだすことができていない。 そんなわけだから、両親のことも、幼少期のことも語ることはできない。いまのところ有力なのは、宝暦三年(1753)に誕生したという説だ。これが本当なら、重三郎より三つ年下なので、ほぼ同世代といえる。 「べらぼう」では、もう少し年の差がある設定だが、昨夜は「兄弟」という関係で収めていたので、そうは外れてはいないと言える。 夜鷹の子、という設定も、歌麿の謎の前半生を考えると、可能性はあるだろう。 少年時代の師匠について。 少年の頃、歌麿は町狩野(幕府や藩に属さない在野の狩野派の町絵師たち)の鳥山石燕(せきえん)から絵を学んだといわれる。はじめは石要(せきよう)と名乗っていたとされ、現在、確認しうる最古の絵が、歳旦帖(さいたんちょう)『ちよのはる』の茄子の絵である。発刊されたのは、明和七年(1770)のこと。 とことで歳旦帖という語は、あまり聞きなじみはないと思う。江戸時代の連歌師や俳諧師たちは、正月の吉日を選んで弟子たちを招き、新春の句会を開いた。それを歳旦開きと呼んでいる。このおり、参加者への挨拶がわりに前年に印刷しておいた句集を配布する。これが歳旦帖である。 「べらぼう」でも『ちよのはる』が紹介されていた。 これは、俳諧師・東柳窓燕志(とうりゅうさいえんし)の歳旦帖。 自身の絵に加え、鳥山石燕や北尾重政など多くの絵師が挿絵を寄せた。 その中の一つが、若き日の歌麿の茄子だった。 詳しい蔦重と歌麿などのことは、後日、あらためてご紹介する予定。 おまけ(?)として、水木しげるにも大きな影響を与えた、鳥山石燕の河童の図をご紹介。Wikipedia「鳥山石燕」 妖怪漫画の祖、とも言えるのが鳥山石燕であり、歌麿など多くの絵師を育てた。 「べらぼう」は、こういう人たちも登場してくるので、嬉しくなる。

蚯蚓出(みみず いずる)

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2025-05-10 05:00:00 - 5月10日は、七十二候では20候、立夏の次候、『蚯蚓出(みみず いずる)』の始期です。初夏を迎えて、土の中で冬眠から目覚めたミミズの活動が活発になり、土の上に出てくる頃。『立夏』の節気は、初候は水辺にて「蛙」の第一声が夏の訪れを告げた後、この次候では地中を耕す「蚯蚓(みみず)」が地上にも這い出てきて存在感を示します。そして、末候では「筍」が登場し、「初夏」に入り、蚯蚓の耕した滋養豊かな大地に根ざして育ってきた若芽・根菜・山菜など、食材の恵みの種類が広がっていきます。「蚯蚓」は、「キュウイン」とも読まれ、中国では「ねじり、ひきずる」というミミズの行動を表現し、和名のミミズのことを表しております。ミミズの名前の由来として、目がなく光を感知する視細胞を体表に持って行動していることから、「目不見(めみず)」が転じて「みみず」になったという説が知られております。冬眠をする多くの生き物は『啓蟄』の頃に土の外に出てきますが、ミミズは活動が遅めであり、土の中に留まって土を耕します。ミミズは暑くなると土から這い出してくる習性があるようで、それだけ夏に向けて気温が上がる時季になったということです。ミミズは、女性を中心に苦手という人も多いと思いますが、実は畑の土作りには欠かせない存在であり、地球規模で土壌環境の改善に大いに貢献していると言えます。ミミズの英名は正に「earth worm = 地球の虫」であり、それ程までの存在として呼ばれているには、以下の通り、歴史的な経緯及び確かな理由・裏付けがあります。先ず、ミミズが土壌改良の切り札となっていることは古くから知られており、アリストテレスはミミズを「大地の腸」と言い表しました。そして、最初に学術的にミミズの働きを明らかにしたのは、進化論で有名なチャールズ・ダーウィンであり、何と40年間に亘ってミミズを研究し、その成果は『ミミズの作用による肥沃土の形成とミミズの習性の観察』という本に結実しております。日本では『ダーウィンのミミズの研究』という科学絵本が出版されており、その辺の研究模様がわかりやすく解説されているようです。また、ダーウィンは、進化論の中も「植物が生えている土はミミズの体を何度も通ってきている」と述べているそうです。ダーウィンの研究を経て、ミミズは地中で八面六臂の大活躍をしてくれる農業の益虫であることが明らかにされました。ミミズは、先ず、土の中で這い回って畑土を掘ってほぐし、鍬で耕すような役割を果たしており、ミミズが多い土はふんわりと柔らかくなり、ミミズの掘ったトンネルは空気や水の通り道となるため、通気性や保水性が改善し、地中深くまで空気や水が行き渡るようになり、植物の成長を大いに助けます。まさに、ミミズが「大地の鍬」とも呼ばれる所以です。ミミズは生物学的には「環形(かんけい)動物」に分類され、体には環節(かんせつ)という節が沢山あり、環節は隔壁によって仕切られ、体腔液で圧力をかけることで骨がなくとも土を掘り進むことができる構造になっています。全体は円筒形の細長い体をしていますが、片方にある膨らんだ部分を環帯(かんたい)といい、こちらが頭側になるそうです。また、ミミズは、土を食べ、そこに含まれる落ち葉や死骸などの有機物や微生物などを栄養源として摂取し、消化吸収・分解した上で、粒状の糞を排泄します。一日にミミズが食べる土の量は、自分の体重に匹敵するとも言われており、土中に多くのミミズがいればいるほど、毎日の活動で土壌に豊富な栄養分をもたらしてくれます。体の先端に口、後端に肛門、その間に消化吸収器官の砂嚢と腸があり、腸でリパーゼやアミラーゼを分泌、タンパク質・脂質・多糖類・セルロースを吸収した後、老廃物を各体節の腎管から排出します。ミミズの糞は栄養豊富な肥料の役割を果たしており、更にミミズの体には窒素・リン酸などが含まれており、死体も植物にとっては良い肥料になります。なお、ミミズは体に傷を受けた場合、血管から細胞を移動させて瞬時に修復する能力を持っております。ミミズを捕まえると、自切という自ら切る行為で体がちぎれますが、この高い修復能力により、切った部分から体を再生できるのです。ミミズは、更に自然界の食物連鎖において重要な役割を担っており、昆虫や両生類、モグラなどの小動物、鳥などの中型動物、猪などの大型動物まで、数多くの生物の大切な命の糧となってきました。栄養価豊富なミミズは、人間界でも、淡水での釣り餌としてよく用いられていますが、世界の中には食材として使用されている例もあるようです。江戸時代の三大俳人の中では、小林一茶の俳句の中に、この時季の蚯蚓を詠んだ句が見つかりました。土壌改良の切り札、数多の生物の命の糧と言いながらも、情景を想い浮かべると、蚯蚓が少し気の毒な気持ちになります。 「出るやいな 蚯蚓は蟻に 引かれけり」 小林一茶地球誕生から46億年、11億年前にはミミズに似た生物はいたようで、4億年前の堆積岩の地層からはミミズの仲間である環形動物の化石が発見されています。海中から陸上へと進出した最初の生物のひとつでもあったようで、地上における「土づくり」はミミズの歴史と言っても過言ではないかもしれません。日本画の世界では、江戸時代の浮世絵師、喜多川歌麿には「画本虫撰(がほんむしえらび)」という全15画からなる絵本作品があります。喜多川歌麿は、葛飾北斎や歌川広重、歌川国芳と並ぶ人気浮世絵師であり、美人画の評判が高かった絵師として有名であり、幕府の実権が田沼意次から松平定信に代わった後は、寛政の改革による幕府統制にも屈することなく、蔦屋重三郎と組んで多くの作品を世に送り出しました。「画本虫撰」は、見開き2ページの中に2匹の虫と草花の絵を描き、その2匹の虫に因んだ2首の狂歌を掲載した狂歌絵本といわれる作品であり、蔦屋重三郎が版元として出版・刊行する中、歌麿は絵画制作を一手に担い、大評判となって歌麿の出世作となったようです。画本の一つに「蚓(みみず)」「甲虫(こうろき)」をテーマに描いたものがあり、細部にわたる観察力と緻密な表現力で、虫と草花の質感のある世界をリアルに表現しております。他の14の絵には、七十二侯に登場する虫として、前回の「蛙」をはじめ、「蝶」「蛍」「蟷螂」「蜩」なども繊細に描かれていて、全体で30の虫を掲載、まるで昆虫図鑑のようです。時節は「青嵐(あおあらし・せいらん)」、初夏に薫る青葉を揺すって吹き渡るやや強めの風、または青々とした山の気を感じる頃合いです。新緑の清々しい風や気を感じながら、初夏の輝きの太陽を仰ぎ見れば、有名な童謡『手のひらを太陽に』(作詞やなせ・たかし氏/作曲いずみたく氏)の一節、「ミミズだって オケラだって アメンボだって みんな みんな生きているんだ 友だちなんだ」というフレーズも想い出し、生命の有り難さを感じます。現代の生活ではあまり重きも置かれず、むしろ、嫌われることもあるミミズですが、古来、農業には欠かせない存在として七十二候に登場することを踏まえ、植物界と動物界の両方の生態系において他に比類ない役割を担っていることを改めて認識し、その恩恵に感謝して、ミミズの生息できる環境を大切にしていきたいものです。この数年、気候変動問題や生物多様性の観点から、またSDGsという視点も踏まえて、人類と地球・生態系全体との共生のあり方を見直し、サステナビリティを展望して、考察・行動していく活動が定着しつつあります。気候変動問題をはじめとした地球環境の危機について、強い関心を持って適切に情報収集を行い、適正な事実認識を持って、カーボンニュートラルも含め、企業と個人の両方の立場から的確な対策や取組みを進めていくことが大切です。残念ながら、大国において政権サイドの無理解やネガティブな動きもあり、国際的には足並みが揃わなくなってきているのも事実ですが、惑わされることなく科学的識見に基づいて行動し、また、短期的な対応・一過性の対処に終始してしまわないように継続・発展を心掛けて、地道に粘り強く、成果に繋がるように、取り組んでいきたいと思う次第です。地球に優しい環境対応印刷を推進する久栄社では、環境問題に取り組む必要性や、自然の尊さをお伝えしたいと考えております。このブログでは、四季折々の風情ある写真にのせて、古代中国で考案された季節の区分である七十二候をお届けする「七十二候だより」を連載しております。お忙しい日々の気分転換に、気象の動きや動植物の変化など、季節の移ろいを身近に感じていただけましたら幸いです。\\\ ぜひこちらも合わせてご覧ください ///▼運営会社久栄社のサイトはこちらhttps://www.kyueisha.com▼久栄社のFacebookはこちらhttps://www.facebook.com/kyueisha▼お問い合わせフォームはこちらhttps://www.kyueisha.com/お問い合わせ/<お問い合わせ先> 株式会社久栄社 TEL:03-3552-7571(代)受付時間/9:00〜17:30

河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(20)

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2025-04-27 04:00:00 - テニスの居残りでイタリアンで昼食中、スマホでMLBの進捗を時々確認していた。 佐々木は、また勝てなかったが、久しぶりに大谷の三安打やキケの本塁打などでドジャーズ勝利。 たかが野球だが、なんとなく気分がいい。 生ビールとワイン二杯の心地よい酔いが、ようやく醒めてきて、ブログ。 「べらぼう」は、来週から大きく時代が変わろうとする第二章。 そう、田沼時代が終焉を迎えようとしている。 今日、NHK「べらぼう」は休みで、特別番組が放送される。 ということで、「ありがた山スペシャル」の前に、田沼意次に関し記事を書こう。河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書) 河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の二十回目。 同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。 副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。 <目次>□はじめに□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝□おわりに いつものように、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』の巻末の表を参考のため拝借。杉浦日向子『江戸へようこそ』 鳥山検校が瀬川を身請けしたのが安永四年(1775)、借金まみれになった旗本の森忠右衛門が逐電したことを発端として、鳥山他の検校が就縛されたのが安永七年(1778)のこと。 翌安永八年(1779)、鳥山も京都の惣録の下に身柄を移され、7人の検校の中では最も重い武蔵・山城・摂津・遠江より追放の上、解官・不座となった。 重三郎が日本橋通油町に耕書堂を開店したのか、天明三年(1783)。 前回は、第一章に戻り、平賀源内のことについての特別篇だったが、今回は、あらためて第二章「田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨」から。 蔦重の耕書堂は、重三郎の人脈を生かして、黄表紙での大ヒットを飛ばし続けた。 しかし、良いことは長続きしない。 こうして大きな版元に成り上がった蔦屋重三郎だったが、やがて潮目が大きく変わってくる。田沼意次が失脚し、天明七年(1787)から老中の松平定信が幕政改革(寛政の改革)を始めたのである。 松平定信は田沼意次を殺したいほど憎悪していた 別項でも記した田沼意次について改めて触れておきたい。意次といえばもう賄賂政治家のイメージしか思い浮かばないという方が多いのではないだろうか。 やはり小説や時代劇の影響に加え、かつて学校でそう習ったからだと思う。 たとえば、およそ五十年前の歴史の教科書を紐解いてみよう。そこには、確かにこう書かれている。「意次はわいろを受け取ったらしたので、非難された」(『中学校社会 歴史的分野』(日本書籍 1974年) 三十年前の日本史の教科書でも、「意次は、賄賂による役職の売買などを非難されて失職した」(『高校日本史』三省堂 1993年)と明記されている。 また、田沼意次の屋敷には毎日大勢の客人が高価な贈答品をもって現れ、客間はそうした人々であふれかえっていたという話は、定信を同時代を生きた松浦静山(まつらせいざん)の『甲子夜話(かっしやわ)』に記されているし、意次が日本橋稲荷堀に下屋敷を新築したとき、「庭の泉水に魚を入れたら面白かろう」とつびやいたところ、その日の夕方までに諸大名から続々鮒や鯉が贈られ、池には魚が群れていたという話もある。また、これは俗説だろうが、さる大名は、等身大の京人形だと称し、大きな箱に京美人を入れ、意次に進呈したという話も人口に膾炙している。 教科書の影響力は、恐ろしい。 私も、中学や高校の歴史の教科書で、「賄賂の意次」というイメージを刷り込まれていた。 また、人の噂も、恐ろしい。 そういった情報操作(?)が、賄賂政治家意次、というイメージをつくった。 本書では、現代の教科書も紹介している。「意次の政策は、商人の力を利用しながら、幕府財政を改善しようとするものであり、これに刺激を受けて、民間の学問・文化・芸術が多様な発展をとげた。一方で、幕府役人のあいだで賄賂や縁故による人事が横行するなど、武士の気風を退廃させたとする批判が強まった」(『図説日本史 日本史探求』(山川出版社 2023年) 本書で著者が指摘しているが、あくまで、この「時代」に賄賂が横行した、と書いてはいるが、意次が賄賂政治を行っていた、とは書いていない。 これは、近年、田沼意次への評価が変わってきていることを反映している。 本書では、次のように指摘している。 確かに江戸時代の史料には、意次が賄賂を受け取った記述がいくつも残っている。ただ、その出所をよくよく探ってみると、平戸藩主・松浦静山など意次の政敵・松平定信一派が発信していたり、誰彼と悪口を言う人物が書いていたりする。 しかも、研究者の大石慎三郎氏によれば、こうした賄賂に関する逸話は「すべて田沼意次が失脚したのちに書かれたものである」(『田沼意次の時代』岩波書店)という。田沼が政権を握っていたときの記録ではないわけだ。 なのに、賄賂政治家の汚名を着せられたのは、やはり意次を失脚に追いやった松平越中守定信とその一派の仕業だと思われる。つまり意次失脚後、わざと巷にフェイクニュースを流した可能性が高いのだ。 「べらぼう」を観ている人はよくお分かりのように、松平定信は、自分に次期将軍のチャンスがあるにも関わらず、意次によって妨害された、と思っていた。 本書から。 十代将軍家治には嫡男・家基がおり、彼が十一代将軍になるのは確実であった。 ところが十八歳のときに急死し、次期将軍に御三卿(八代吉宗の子や孫の家柄)から一橋家の家斉が選ばれた。これを松平定信が憎悪したというのだ。 じつは定信は、御三卿の田安宗武の次男で、そのまま田安家にいたら、このとき将軍になれた可能性があった。田安家を継いだのは兄の治察(はるあき)だったが、治察はとても病弱で、いつ没してもおかしくない状態。このため田安家では、次男の定信を家中に置いておきたかった。なのに定信は、幕府の命により、無理やり白河藩主松平定邦(十一万石)の養子に出されてしまった。案の定、それから半年後に治察が死んでしまい、田安家は当主不在に陥ってしまう。そこで田安家としては、幕府に定信の復帰を願ったが、認められなかったのである。 そしてそれから五年後、先述のとおり、将軍家治の嫡男・家基が急逝したというわけだ。もし定信が田安家の当主になっていたら、英邁の噂が高かったので、十一代将軍を拝命していたかもしれない。つまり定信は、裏で意次が自分の将軍就任を妨害したと信じ、憎悪するようになったという説だ。 殺したいほど意次を憎んでいた、というのは、定信本人の言葉を踏まえている。 意次を殺すため短刀を懐に忍ばせて江戸城内を歩いていた、と本人が告白しているのだ。 ということで、松平定信とその周囲の人間が、文書や流言で、田沼=賄賂、という、前の権力者に真っ黒な印象を植え付けたというのが、実態のようだ。 あらためて、先入観の怖さを痛感する。 松平定信とその周辺の人物たちの陰謀による風説が、数百年に渡って多くの人に信じられてきたのだ。 そう考えると、歴史上で権力を握った人物の高い評価、あるいは、権力を失った人物の低い評価は、本当なのかどうか。 そんなことも考えてしまう。 次回は、田沼時代が、どのように終焉を迎えたかについて。
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