永井荷風
荒川区・浄閑寺(永井荷風歌碑) | 日乗写真
https://zak270.blog.fc2.com/blog-entry-144.html作者別記録 | 頭痛系エンジニアの日記
http://labor499.blog.fc2.com/blog-entry-45.html■三島由紀夫・川端康成・永井荷風
120416 乃木坂浪漫 白石麻衣 永井荷風 『墨東綺譚』 | 乃木坂46style ~のぎすた~
http://nogizaka46style.blog.fc2.com/blog-entry-67.html120416 乃木坂浪漫 白石麻衣 永井荷風 『墨東綺譚』
乃木坂浪漫 永井荷風「墨東綺譚」 4月16日 | Youtubeバラエティ動画倉庫
http://youtubeowaraitv.blog.fc2.com/blog-entry-16348.html乃木坂浪漫2012年4月16日 120416内容:白石麻衣が永井荷風の「墨東綺譚」を朗読出演:乃木坂46
■永井荷風 電子全集 (全5巻) Kindle版 44円! | 激安特価品調査ブログ
https://tokasaiyasune.blog.fc2.com/blog-entry-11075.html⇒セール特価(blogranking) Amazonで永井荷風 電子全集 (全5巻) Kindle版が激安特価。⇒他の特価品を探す(blogranking)
日本文学 | 新米女子大生!
http://whoneybeew.blog.fc2.com/blog-entry-3.html森鴎外夏目漱石谷崎潤一郎三島由紀夫幸田露伴樋口一葉与謝野晶子齋藤茂吉永井荷風、岡本かの子横光利一川端康成中島敦梶井基次郎
新考永井荷風 秋庭太郎 | 売ってます
http://akatukisyobo.blog2.fc2.com/blog-entry-249.html春陽堂 昭和58年3月20日第1刷 3,500円 蔵書印http://www.h2.dion.ne.jp/~akatuki/comic.htm
永井荷風伝 秋庭太郎 | 売ってます
http://akatukisyobo.blog2.fc2.com/blog-entry-250.html春陽堂 昭和51年1月20日第1刷 3,500円 蔵書印http://www.h2.dion.ne.jp/~akatuki/comic.htm
■《10分間読書》 | 陣間慎衛門:歳時備忘録
http://jinmashinemon.blog109.fc2.com/blog-entry-9.html《10分間読書》■「放浪記」:林芙美子著:(新潮文庫)■「孔子」:井上靖著(新潮文庫)■「一茶」(2読目):藤沢周平著:(文春文庫)■「濹東
俳句3452 | The 3rd. .なべてこの世はこともなし
https://itzamnaj.blog.fc2.com/blog-entry-13035.html柚子の香や秋もふけ行く夜の膳永井荷風Ще не вмерла УкраїнаBGM NOWDo As Infinity/Tao
抑圧の移譲と奉仕の献上
http://burakago.seesaa.net/article/514656900.html2025-04-29 04:24:00 - 今月19日付の朝日新聞。「戦後80年 憲法生死の分かれ目」は、考えさせられた。憲法学者・駒村圭吾慶応大学教授のインタビュー記事である。 先生によると、これまでの違憲判決は家族や婚姻、ジェ..
乱丁
https://sorahei-s.seesaa.net/article/2017-06-23.html2025-06-23 06:00:00 - 梅雨入り発表後、ずっと空梅雨が続いていましたが、先日やっと雨が降りました。降り出したら今度はいっとき雨、おまけに台風並みの強風を伴って、職場では看板が飛んだり、家では畑の作物が倒れたり大変でした。 ..
【西条昇イベント情報】東武博物館での講演「永井荷風と浅草芸能」第二回を開催
https://saijonoboru.seesaa.net/article/2021-07-11-1.html2025-07-11 07:30:00 - 今日7/11(日)は14時より東向島の東武博物館ホールで、緊急事態宣言により延期されていた向島文化サロンの私、西条昇の講演「永井荷風と浅草芸能」の第二回「戦後、再び浅草へ…ロック座とフランス座」を。..
【西条昇の浅草芸能史コレクション】木俣堯喬監督の未制作映画台本「浅草の日日」
https://saijonoboru.seesaa.net/article/2018-10-09-1.html2025-10-09 10:59:00 - 手元にある、撮影されることのなかったプロダクション鷹 制作「浅草の日日」(木俣堯喬 脚本・監督)の映画台本。和泉聖治監督の父親である木俣は、昭和10年代前半には高見順と交流があり、浅草オペラ館の舞..
【西条昇の浅草文芸展日記】昨日はアドバイザーを務めた日本近代文学館「浅草文芸、戻る場所」展の最終日
https://saijonoboru.seesaa.net/article/2018-10-07.html2025-10-07 10:06:00 - 昨日10/6は、西条昇がアドバイザーおよび資料協力を務めた日本近代文学館の文学展「浅草文芸、戻る場所」の最終日。15時半からギャラリー・トークをさせて頂き、16時半の閉館時間と同時に撤収作業にかか..
【西条昇の浅草文芸展日記】アドバイザーを務める日本近代文学館「浅草文芸、戻る場所」展は明日10/6(土)が最終日
https://saijonoboru.seesaa.net/article/2018-10-05-1.html2025-10-05 10:11:00 - 私、西条昇がアドバイザーおよび資料協力をしております日本近代文学館で開催中の文学展「浅草文芸、戻る場所」も、明日の10月6日の土曜日を残すのみとなりました。9:30~16:30で、入場は16時まで..
【西条昇イベント情報】今週6日の土曜は日本近代文学館「浅草文芸、戻る場所」展の最終日
https://saijonoboru.seesaa.net/article/2018-10-02.html2025-10-02 10:15:00 - 私、西条昇がアドバイザーおよび資料協力をしております日本近代文学館で開催中の文学展「浅草文芸、戻る場所」も、残すところ、あと4日間。10月6日の土曜日が最終日となります。9:30~16:30で..
【西条昇メディア出演情報】本日のCwaveの生放送に出演してきました
https://saijonoboru.seesaa.net/article/2018-10-01-1.html2025-10-01 10:18:00 - 今日は14時からインターネット放送局Cwaveでの生放送「The Asakusa チャンネル2時に夢中!!」(MCはMika&Yukie)に出演して浅草文芸や浅草芸能の話をしてきました。
【西条昇の浅草の荷風研究】2年前の今日は荷風の愛したアリゾナキッチン閉店の日
https://saijonoboru.seesaa.net/article/2018-09-30.html2025-09-30 09:55:00 - 2年前の今日は、戦後の荷風が連日のように通った浅草のアリゾナキッチンが閉店した日でした。閉店当日に、店内に飾られた荷風の写真や荷風が座った席を眺めながら、荷風好みチキン・レバー・クレオールを。
【西条昇の浅草文芸展日記】浅草文芸展キャプション集、会場にて400円で発売中
https://saijonoboru.seesaa.net/article/2018-09-16-2.html2025-09-16 09:53:00 - 私が資料展示及びアドバイザーを務める日本近代文学館での文学展「浅草文芸、戻る場所」のキャプション集(400円)は、10月6日まで同展を開催中の同館にてお買い求め頂けます。西条昇が資料提供した物のキ..
【西条昇の浅草文芸展日記】特別講義、満員御礼!!②
https://saijonoboru.seesaa.net/article/2018-09-01-2.html2025-09-01 09:14:00 - 私が資料展示及びアドバイザーを務める日本近代文学館での文学展「浅草文芸、戻る場所」、本日から無事開催。14時からの私の特別講義「高見順の観た浅草芸能 ー『如何なる星の下に』を中心に」は、お陰様で定..
【西条昇の浅草文芸展日記】特別講義、満員御礼!!①
https://saijonoboru.seesaa.net/article/2018-09-01-1.html2025-09-01 09:12:00 - 私が資料展示及びアドバイザーを務める日本近代文学館での文学展「浅草文芸、戻る場所」、本日から無事開催。14時からの私の特別講義「高見順の観た浅草芸能 ー『如何なる星の下に』を中心に」は、お陰様で定..
永井荷風『ふらんす物語』
https://tiaokumura.exblog.jp/38284969/2025-12-11 12:00:00 - 永井荷風『ふらんす物語』昭和26年7月5日発行令和6年9月20日29刷新潮文庫(新潮社)630円+税「ふらんす物語」は何種類か出ている中で、Amazonで新潮社版を購入。新潮文庫って、ひも、ついてんですね。本のひも、もうなくなってたと思ってたんですが、新潮文庫は残ってる。永井荷風(ながい・かふう1879-1959)、「西暦千九百七年横浜正金銀行雇人となり米国紐育を去りて仏蘭西里昂に赴き此処に留ること十箇月余なり」。1907年から1908年にかけて約10か月のフランス滞在。荷風、28歳の誕生日はフランスで。僕は2000年8月、妻と1週間くらいパリに。アップした写真の本は、パリで買ったMICHELINのガイド本。25年前に買ってまだ持っている。あの時、エッフェル塔に「2000」のイルミネーション(と言うのか)。ミレニアム。泊ってたプチホテルのTVでプーチン。ロシア原潜事故だったか。あの時、プーチン、初めて知った。
市川市に咲いた永井荷風の物語!邦楽が彩る共催公演。
https://masaakia.exblog.jp/30786914/2025-11-01 11:00:00 - 市川・浅草 荷風散歩 第3弾!『されど老樹はなお枯れず!』いちぶんネット・劇団市川座の吉原様のご紹介で、市川市邦楽連盟&劇団市川座 共催公演を拝見しました。戦災に焼け出された永井荷風が、市川・浅草の「散歩」で再生していく様を描いた感動的な舞台です✨ほぼ満席で、大変な熱気でした!お時間がありましたら、市川市の文化が詰まった舞台に、皆様もぜひお越しください。 #永井荷風 #されど老樹はなお枯れず #劇団市川座 #市川市邦楽連盟 #市川市文化会館 #市川_浅草_荷風散歩 #長唄PRIDE #邦楽 #観劇
「夜の車 ー 永井荷風」中公文庫 文豪と酒 から
https://zuihitsuhissha.exblog.jp/34597597/2025-06-29 06:00:00 - 「夜の車 ー 永井荷風」中公文庫 文豪と酒 から夜ふけの町を徘徊する自動車の、酔客をいざない載せて、不当の賃銭をむさぼり取るを世の人呼びて、朦朧自動車となすは、嘗て吉原帰りの客を待つ人力車夫の、心からぬものに名づけたる名なりしを、そのまま移し用いたるものなりとか。さるにても日に日に世の中のかわり行くさま、亥年の大地震この方更に激しくなり行きしは、 市内一台一円の札さげたる自動車の流行に、人力車は色町を芸者の乗りあるく外、今は全く市中に跡を断ちたるにても知らるべし。過ぎし世に、猪牙舟または四手駕籠に乗り馴れしちょん髷の年寄供、新しき世と共につくり出されし人力車を好まず、徒に雲助のホイホイとよぶ掛声、さては河水の小舷うつ音、さては艪の軋るひびきをのみなつかしきものに言いなせるを聞きては、頑迷固陋の旧弊人よと嘲り笑いしわれ等も、 年と共にいつしか老いれば、身は世のならわしに従いて自動車に乗るといえども、或は衝突し、或は人を轢き殺す危険をのみ慮りて、兎角に人力車の安全この上なかりしことを思返すこそ笑止の沙汰とは謂うべけれ。さてもわれ等の遠道をいとわず、盛に車はしらせしは二十の頃、北は吉原東は洲崎の廓に浮かれ遊びし時ぞかし。中引過ぎての帰りには、五十軒より土手のあたりは、かの朦朧組の悪車夫が網を張るところと聞知りしほどに、道を阪本に取りて帰らむとすれば、土手を下りて大音寺前あたりまではすたすたと歩きつづけ、又浅草の方に出ようとす 又浅草の方に出ようとする時は、馬道あたりまで来かかりて後、同じ道をば空車ひきゆく車夫の面相、提灯の印と共によくよく見定めて、オイオイ車屋、どうせ帰り道なら安く載せて行けと、それより一二町が間は歩みながら、賃銭の掛合をするこそ気の長いはなしなりけれ。或夜いつもの如く大音寺前は通過ぎて、三島神社の角まで来かかりしに、つめたいものの顔にあたるを、雨かと見れば雪なるに、猶更おどろき、賃銭の掛合もそれなりにして、それじゃ酒手はやらねえから言値で乗ろうと言うに、年頃はもう五十あまりの老車夫、ようございますとて直様梶棒をおろし、わが乗るを待ちて幌かけながら、旦那、今夜はつもりますぜ。蹴込にあん火があります。下駄をぬいで足をお載せなせえましと言いながら、綿入の鯉口半纏をぬいで、毛布の上より更にわが膝を包んでくれる深切も、過ぎては却で場所柄だけに気味わるく、やがて増銭ねだる下心ではないかと、用心しながら乗って行くに、阪本通より山下の暗いところも無事に過ぎ、広小路より御成道へ来かかりても、提灯の蠟燭つぎ替えようとも言わず、次第に吹きまさる吹雪の中をせっせと駈けつづけるは、よくよく達者な親爺と見えたり。稍安心すると共に、飯田町なるわが家まではまだなかなかの道のりと思へば、気の毒になりて、雪も大分つもったようだが、何ならその辺で帰りの車の見つかり次第、乗り替えて行ってもいいぜと言えば、ナニお前さん夜業をすれば毎晩のこと。天気を気にしていたら商売はできません。ダガ、お見掛け申したところ、まだお若いのによく気のつきなさる方だ。とこれが話のはじまりにて、小川町より神保町を過ぎ、九段下へ来かかるまで、雪の中を走りながら、老車夫がかたりつづける身の上ばなし。そう申しては、ぶしつけなれど、お見かけ申したところ、内の伜も丁度旦那くらいの年格恰。麹町三丁目のさる御店へ奉公に上っていましたが、若気の無分別から、今じゃ暗い処へ行っています。そのわけは新宿の辰相模という店の女と深い仲になり、お店の金をつかい込んだところへ、身受の客がつき、どうでも別れなければならぬはめになったので、何とやらいう薬を飲むで心中をしたはいいが、女の方ばかりあの世へ行き、枠の方は命が助かったので、生恥を晒した挙句人殺しの罪で、監獄へ送られるという始末。まだ其上に、死んだ女郎には六十になる母親と目の見えない婆さんがあって、娘の仕送りで命をつないでいたが、娘を殺されてからは三度のものにも差しつかえるという話。聞いて見れば打っちゃっても置けず。子を持つ親の心は誰しも同じこと。さぞ伜の事を怨んでいるだろう。わしにも娘があったなら殺されたものの身替りに、勤めをさせてなりと貢いでやりたいとは、心の中で思うばかり。伜一人の外には子のない身はどうにもならず、唯六十の此の年まで、植木屋の日雇職人、一日も休んだ事のない身体一つが何よりの頼みだと、それからは昼のかせぎをしまってから、 毎晩夜なべに車をひきはじめました。殺された娘の親達も今では手を合して拝まぬばかり喜んでいますと話す中、いつか来かかるわが家の門前。御苦労だった。これは今のはなしの聞賃。一杯やって行きなさいと、女郎買の糠味噌汁も、時によっては義に感じ情につまされて、蟇口の底はたくことも折々ありしは、同じ衰世とはいいながら、人の心のまだまだゆるやかなりし証拠なるべし。その頃には義理といい人情という言葉も、さしてめずらしからず、日常のはなしにも聞く所なりしが、今は芝居の台詞か義太夫の文句の外は耳にすることもなくなりて、月日たつ事早くもここに二三十年。むかしの人力車は自動車となり、その頃の車夫は運転手となりて、夜半の巷に客をいざない、おのれが情婦の時に案内するものさえあるようになりぬと、或人の語るを聞くに、或夜、日比谷の四辻に電車を待ちしが故障のありてや来るべき様子もなく、吹きさらしの寒風忍び難ければ、行過る自動車呼止めて乗りしに、言いつけたる行先とはまるでちがった方へと行くらしきに、オイ、君、どこへ行くのだと問うに、運転手小声にて、今夜は土曜日で御在ます。どうせ、どこかでお遊びになるのなら、面白いところを御紹介致しますが、いかがでしょうと言う。それは大方亀井戸か玉の井辺の事だろうとあざ笑えば、運転手憤然として、そんな平凡な処じゃ有りませぬと云う。では素人家かと又問えば、まアそんなものです。実は若い後家さんで、美人ですが、お金のためばかりでもないのですから、面白かろうと思いますと、次第に好奇の心を起させる勧上手につい載せられながら、併しあんまり遠くでは帰りがこまるからと躊躇[ためら]えば、ナニついそこです。神田ですからわけはありませぬと言うに、それなら行って見ようと承知して、車の行く道、心して眺めやれば、神田橋をわたって真暗な堀端に新しくかかりたる錦町の橋を左に見て、その頃やっと区画整理が済んだと見ゆる大通り。立続く洋風まがいの商店には、カツフエー自動車屋などの看板は見ゆれど、まだ貸家札の貼ったままの処多く、道の面は掘り返されたままにて、電柱あちこちに突立ち、あたり何となくひっそりとして薄暗く、人通も絶えがちなる曲角に、運転手は車を留め、どうぞと戸を明けながら小声に会釈して、スタスタ先に立って狭い横町に入る故、その後につき従いながら行けば、両側ともに新しき二階建の貸家つづき。冬の夜のことなれば戸は皆締めてあれど、大方はふさがっているらしく、軒並の電灯あかるく、ピアノの音も近くに聞え、支那蕎麦屋も笛吹きながら通る様子。表通よりは却てにぎやかなり。一寸御待ち下さいと先に立ちし運転手、突然立留って、交通巡査の手振りもよろしく此方を見返り、二三軒先なる貸家の間の路地に入りしと見る程もなく、表口の雨戸一枚しずかにあけて、ハイカラに髪結いたる女、軒の火影に厚化粧一際目立ちたる首さし出して、わが佇立む方を眺めやりてすぐに内へと入りしは、あたりを憚りての事なるべしと、そのまま進寄れば、雨戸と共に格子戸も明けたままにて、女は土間に立ち、外はお寒いでしょうと言いながら、わが靴をぬぐ中、雨戸をしめて猿をおろし、さアどうぞこちらへとて、上口の二畳よりすぐに梯子段を上りて案内するは、二階の六畳らしき座敷なり。畳もまだ汚れていず、障子の紙にも破れはなく、天井板より柱まで皆生々しきまで新しければ、どうやら一段明く見ゆる電灯の光に照されて、炬燵にかけし唐縮緬の布団の真赤な模様、なまめかしく何より先に目を射たり。女は年の頃二十四五とも見えし中肉中丈、大島まがいの銘仙に、同じようなる羽織きて、浅葱色無地の半襟の大分よごれたる合せ目より、赤い縁とりたる肌襦袢の襟先ちらと見せ、わざとらしく足袋はかぬ裾前、気のせいか何となくいやらしく見えたるに、女はすぐさま炬燵布団の片端めくりて、火鉢よりも此の方があったかですわ。さアおはいりなさいましと、人より先にべったり坐る様子のなれなれしさ。すこしあきれて外套も着たまま炬燵に胡坐かきつつ見返れば、明けたる襖の間より見えすく次の間、三畳らしき窓の下には既に夜の物さえ敷いてある様子なり。その時、梯子段に跫音して、入らっしゃいましと、紅茶にアメチョコ硝子皿に盛りたるを、盆に載せて持ち来りしを見れば、これは耳かくしに髪結いたる十八九。顔は面長なれど小作りの身体円々とふとりたるに、羽織と共に着物までけばけばしきメレンスづくめ。白粉濃くつけたる様子、女中ではなし。アノ自動車の料金をというに、われは始て心づき、蟇口より五拾銭銀貨二枚出してわたせば、若い女ハイと受取りて降りて行く。その足音聞きすまし、アレは妹さんかときけば、年増の女の早合点。まだ十八なんですヨ。アノ方がよろしいなら、どちらでもと云うは自分とわかい方といずれなりと御遠慮には及ばぬという心なるべし。ナニそういう訳でもないと言えば、そう、では、アノ、済みませぬがと、この度ばかり言いにくそうに口ごもるは、言わずと知れた阿堵物のことなりと思うものから、いくらだと正面から切り出すに、アラ、大抵御存じのくせに。カツフエーだのダンス場だの、何もかも承知していらっしゃるくせにサ。ねえ、あなた。今夜ゆっくりしていらっしゃいヨ。お泊りになっても大丈夫なのよ。お泊りなら隣の家へ行くんですから。隣はおもてに貸家の札が貼ってあるんだから、知れる気づかいはないのよという。そうか、それはうまい趣向だ。隣の空家へはどうして行くのだ。物干台から屋根づたいかと問うに、猫ではあるまいしと女は笑いながら、それでは雨が降る時にこまります。まア鳥渡来て御覧なさいましとわが手を取って、障子の外なる縁側に出で、突当りのひらき戸あけて、三尺の押入の中に入込んで向の戸を押せば、此方と同じつくりなる二階の縁側は即ち隣の空家なり。女は押入の中に立ち、真暗な方より明きこなたを指さし、ホラ、ここから覗くとまる見えでしょう。今に誰か来るからゆっくりなさいましと万事心得顔なるこそ怪しけれ。思えば東京なる都会の暗黒面もいつの間にやら、巴里の裏町に変らぬ有様となりし進化のほど、恐入ったものなり。そもそもかかる陋巷の女どもは、洋書を読んで海外の事情を知りたるにもあらざるに、おのずから裏面の生活の極意を会得して、直に之を実行する事を思えば、地方より出稼ぎの労働者の、東京の地理さえ知らざる先に、早くも露西亜の政治を諭ぜむとするも無理ならずと、談話は忽ち時局に遷り来れば、傍なる人のまた言うよう。君の遭いたまいし空家の奇談も、いつぞやわが見たりしものにくらべなば更に不思議とはいわれまじ。やはり夜ふけて乗りたる自動車なり。運転手と背中並べし助手の、帽子は眉深に、外套の襟高く返したれば、十七八の少年とばかり思いいたるに、やがて山の手の人通なき屋敷町へ来かかりし時、運転手俄に便通を催したればとて姿をかくすや、少年の助手、此方に振返り帽子を取りて話しかけるを見れば、少年にはあらで、二十を越したる女の、手にはウイスキーの場まで持ちたるは、車の中を仮寝の宿にするものと知られたり。おかしからずや、法令の網いよいよ厳密となれば、之を潜るの道いよいよ巧妙となる。荘子[そうじ]も言わずや。弓弩[きゆうど]、畢弋[ひつよく]、機変の知多ければ、則ち鳥は上に乱れ、鉤餌[こうじ]、網罟[もうこ]、●●[そうこう]の知多ければ、則ち魚は水に乱ると。三千年来人の世にかわりはなし。何ぞひとり今の世のさまを見て、わが国をのみ責むるに当らむやと、みなみな語り興じて果ては笑いに終りぬ。◎荘子の部分わご存知の方、是非とも御開陳戴ければと存じます。
老人 永井荷風 朗読
https://haru123fu.exblog.jp/37952285/2025-05-16 05:00:00 - 妻の初七日の夜、残された夫の思いとは。老いて知る人生の切なさや思いが静かに綴られていきます。お聞き下さい。(*^^*)オネガイシマスこの世に生を受けた以上、誰しもが老いていくのは当たり前の摂理です。当然のことと分かっていながらも、若い時にはいずれ来る自分の老いを考えるということはあまりなかったように思います。けれど自分の歳が親の歳に近くなってくると、なぜかしら親の介護をしていた当時のことや自分の人生をふと考えさせられます。老いの一番の悲しさは、親しかった人たちとの死と向き合わなくてはならないことだと思いました。友人が、この頃は結婚式より葬儀に出る方がずっと多くなったと話していたことがありました。親しかった人たちとの永遠の別れは辛いことです。この「老人」をよみながら妙に思いが重なるような気がしました。アクロバットみたいなそらの寝相です。(笑)
永井荷風の日記「断腸亭日乗」に描かれた麻布市兵衛町・偏奇館跡を訪ねてみた
https://chikusai.exblog.jp/33660536/2025-01-14 01:00:00 - 麻布市兵衛町・偏奇館跡年末年始の十日余りを東京で過ごしていた。小星宅の庭木の枝落しやら、雑草の刈取り、ランプの交換、大掃除などはいつものことだけど、年が明けたら…さて何をしようかと考えた。そうだ…永井荷風の『断腸亭日乗』に出てきた麻布あたりを散策してみようか、なんて思いついたのだ。そして一月五日に六本木駅を基点に、まずは麻布市兵衛町を目指して歩いて見たのだった。長垂坂(なだれざか)は偏奇館の西側にあった坂。偏奇館とはニ三百メートルの距離か。戦時中、ここから出た火(焼夷弾?)が偏奇館を焼いた。三月九日の日記には、「天気快晴、夜半空襲あり、翌暁四時わが偏奇館焼亡す、火は初長垂坂中程より起り西北の風にあふられ忽市兵衛町二丁目表通りに延焼す、余は枕元の窓火光を受けてあかるくなり隣人の叫ぶ声のただならぬに驚き日誌及草稿を入れたる手革包を提げて庭に出でたり」とある。麻布市兵衛町・道源寺坂に向う道々、高層ビルがたくさんあることに驚く。さすがは東京だわい。京都の烏丸通り・御池通りとは規模が違う!六本木駅から歩き始めたわけは、昔(50余年前)この辺りがわたしの仕事の中心地だったことによる。街がどのように変貌したのか見たかったのだ。喫茶店アマンドのある交差点はとくに大きな変化は感じられなかったけど、記憶にあるアマンドと位置が違っていた(記憶の間違い?)。さらに溜池方向に向かって気づいたことは、エライ坂道だなぁ…と思ったことだ。溜池から六本木の交差点に向って勾配の急な上り坂だったなんて、すっかり記憶から抜け落ちていた。麻布・六本木周辺は坂が多かったのね。目印にしていた高速道路の分岐にたどり着いた。ここまで徒歩で十分余りか。道源寺坂に向うため、歩道橋に上り、途中でビル群を撮影…奥に見えるビルはいったい何階建てのビルを建てているのだろうか。歩道橋を渡り切ったところに案内図があった。道源寺坂の入口のようだ。左に見える門柱は西光寺西光寺道源寺坂を上る坂道の名の由来か、道源寺が見えた道源寺坂をほぼ上りきったところで、来た道をふり返る。ここにも「道源寺坂」の表示がある。地図を見ただけでは分からなかったことが、実際自分で経験すると分かることもある。荷風氏は、買物や食事で銀座や浅草などに出かけるのに谷町電車通り道まで道源寺坂を下ったり、上ったりしていたのね。スペイン大使館前の交差点に案内図があった。よくよく見れば小さな文字で「永井荷風偏奇館跡」と書いてあるのが読み取れる(かなぁ?)。この案内図には助けられました ハイ。偏奇館跡に来る予定ではなかったのでナンも準備をしていなかったのよ ^^;あの陸橋(泉はし)を越えれば偏奇館跡があるみたい?ん?…オカメ笹の中に見える、あの黒御影石が探している石碑かな?永井荷風・偏奇館跡(六本木一丁目)かつてこの崖上の地にぺンキ塗りの偏奇館という洋館があったそれまで住んでいた築地二丁目の「路地裏の侘住居にも飽き」山の手の住居を探す荷風であった。好んで築地に移居し路地裏の隠棲を楽しんだ荷風であったが、度たび若い芸妓衆が押しかけてきたりして、小説を書くことも少なくなっていたようだ。また病弱な身体の荷風にはコレラやチブスの流行には神経質になったのであろう。荷風研究者-川本三郎氏が言うには、下町に心惹かれていたのに下町特有な濃密な人間関係が嫌になり、「家を定むるには貴族富豪の屋敷多き町内に如くはなし」、と荷風の言を引用し、勝手なことを…と紹介する。そして二度ほど麻布市兵衛町の貸地を見る。大正八年十一月八日の日記には「此のあたりの地勢高低常なく、岨崕の眺望恰も初冬の暮靄に包まれ意外なる佳景」。重ねて十二日にも貸地を検察し、「帰途、氷川神社の境内を歩む。岨崕の黄葉到所に好し」とあるので麻布が気に入ったようで、翌日には「市兵衛町崖上の地所を借りる(筆者注・後に購入)ことに決す。…来春を待ち一蘆を結びて隠棲せんと欲す」とある。下町での隠棲から山の手での隠棲に意趣替えしたみたいである。大正九年五月二十三日、「この日麻布に移居す。母上下女一人をつれ手つだいに来らる。麻布新築の家ペンキ塗りにて一見事務所の如し。名づけて偏奇館という。」築地二丁目には、大正七年十二月から一年半住んでいたことになる。荷風はお屋敷町、麻布市兵衛町で関東大震災を経験し、戦災で偏奇館が焼失するまでの二十五年間を過ごした。関東大震災当日の日記より大正12年9月1日" さっそう雨やみしが風なを烈し。空折々掻き曇りて細雨烟の来るが如し。日まさに昼にならむとする時、天地忽ち鳴動す。予 初夏の下に坐し瓔鳴館遺草を読みゐたりしが、架上の書帙頭上に落ち来るに驚き、立って窓を開く。門外塵烟濛々殆ど咫尺(しせき-きわめて近い距離の意)を弁せず。児女雛犬の声頻りなり。塵烟は門外人家の瓦の雨下したるが為なり。予もまたおもむろに逃走の準備をなす。時に大地再び震動す。書巻を手にせしまま表の戸を排いて庭に出でたり。数分間にしてまた震動す。身体の動揺、さながら船上に立つが如し。門に倚りておそるおそるわが家を顧みるに、屋瓦少しく滑りしのみにて窓の扉も落ちず。やや安堵の思いをなす。昼餉をなさむとて表通りなる山形ホテルに至るに、食堂の壁落ちたりとて食卓を道路の上に移しニ三の外客椅子に坐したり。食後家に帰りしが震動止まざるをもって内に入ること能わず。庭上に坐して唯戦々兢々たるのみ。物凄く曇りたる空は夕に至り次第に晴れ、半輪の月出でたり。ホテルにて夕餉をなし、愛宕山に登り市中の火を観望す。十時過ぎ、江戸見阪を上り家に帰らむとするに、赤坂溜池の火は既に葵橋に及べり。河原崎長十郎一家来りて予の家に露宿す。葵橋の火は霊南坂を上り、大村伯爵家の隣地にて熄む。吾 蘆を去ること僅に一町ほどなり。"偏奇館は崖の上に建っていた偏奇館で書かれた「日記」には「東京大空襲」が描かれている毎日のように読んでいる荷風の日記「断腸亭日乗」。終戦前の昭和19年ー20年頃の日記には、夜間米軍の焼夷弾を受けて東京の浅草・銀座・新宿などや、近郊の工業地帯などが焼かれていることが記録されている。永井荷風の家「偏奇館」も昭和20年3月9日(実際は10日午前4時頃)延焼で焼けた。そんな時代だからか、延焼を防ぐため、強制的に木造建築の引き倒しがあったようだ。ちなみに京都市内の五条通り・烏丸通り・堀川通りなどが広いのもその理由による(平安京時代から広い通りではなかったのだ)。3月10日の日記には、「町会の男来たり、罹災のお方は焚き出しがありますから仲の町の国民学校にお集り下さいと呼び歩む。行きて見るに、向い側なる歯科医師岩本氏及びその家人の在るに逢う。握り飯一個を食い、茶を喫するほどに旭日輝きそめしが寒風は昨夜に劣らず今日もまた肌を切るが如し、…昨夜猛火は殆ど東京全市を灰になしたり、北は千住より南は芝、田町に及べり。浅草観音堂、五重塔、公園六区見世物町、吉原遊郭焼亡、芝増上寺及び霊廟も烏有に帰す。明治座に避難せしもの悉く焼死す。本所深川の町々、亀戸天神、向嶋一帯、玉の井の色里すべて烏有となれりと云う。午前二時に至り寝に就く。灯を消し眼を閉じるに火星紛々として暗中に飛び、風声啾啾として鳴りひびくを聞きしが、やがてこの幻影も次第に消え失せいつか眠りにおちぬ。」荷風は同じ年5月のある日、「午前麻布区役所に行く、その途次麻布市兵衛町の旧宅焼跡を過ぎるに兵卒の一隊諸所に大なる穴を掘りつつあり、士官らしく見ゆる男に問うに、都民所有地の焼け跡は軍隊にて随意に使用することになれり、委細は麻布区役所防衛課に行きて問わるべしと言う、軍部の横暴なる今さら憤慨するも愚の至りなればその儘捨て置くより外に道なし」と。また5月8日の日記には、近日見聞録として「1, 川崎の町にて家を焼かれし人民焼け跡に小屋を立て雨露をしのがんとせしに、巡査憲兵来たりこれを取払んとせしかば忽ち衝突し、四方より罹災の人々集まり来たり憲兵数名に傷を負わせしと云う。深川辺にもこれに似たる事件度々ありし由。1, 東京市街焦土となりてより戦争の前途を口にする者憲兵隊に引致せられ、また郵書の検閲を受け罰せらるる者多しと云う…」※荷風の文は、読みやすいように直しています。偏奇館の東側には広大な住友邸があった。現在は泉屋博古館という美術館(京都鹿ヶ谷にも博古館がある)になっている。泉屋博古館はあいにく休館。カフェが開いていたので入ろうかと思ったけど、コーヒー一杯が千円を超えるのでやめた^^;歩道橋のような泉橋が見える。橋の左下に偏奇館があった。泉屋博古館の向い(東側)にはスエーデン大使館がある。そろそろ帰るとしよう…今日は妻の記念の日なので銀座でケーキを買って帰ろう…虎ノ門に向って高級マンション群の中の道を通る。ふり返って、いま歩いて来た方角を眺める。ホント麻布って山の上なのね…もうすぐ神谷町の駅だ。荷風は腸は弱かったけど、意外に思うのは健脚だったのね…だって浅草界隈を広い範囲で歩いたり、時には新橋から偏奇館まで徒歩で帰っているんだもの。あらら…愛宕山を登るような階段だったのね。もう一つ下の階段にはエスカレーターまで付いていた。最後に『断腸亭日乗』にはこんな詞が残されている。虫の声に敏感な荷風だけに… 鳴しきる虫の聲あまりに急なれば、 何とて鳴くや 庭のこうろぎ夜もすがら、 雨ふりそへば猶更に あかつきかけて鳴きしきる。 何とて鳴くや こうろぎと問へど答へず、 夜のみならで、 秋ふけゆけば昼も鳴く。 庭のみならで臺どころ、 湯どのすみにも来ては鳴く。 思い出しぬ。 わかき時、 われに寄り添ひ わが恋人はただ泣きぬ。 慰め問へば猶さらに むせびむせびて唯泣きぬ。 「何とて鳴くや 庭のこうろぎ。 何とて泣くや わが恋びと。」 たちまちにして秋は盡きけり。 冬は行きけり。月日は去りぬ。 かくの如くにして青春は去りぬ。 とこしなへに去りぬ。 「何とて鳴くや 庭のこうろぎ。 何とて泣くや わが恋びと。」 われは今ただひとり泣く。 こうろぎは死し 木がらしは絶ゑ ともし火は消えたり。 冬の夜すがら われは唯泣く一人泣く。「恋びと」とはイデスのことだろうか…【参考図書】 永井荷風『断腸亭日乗』ほか【芸術・デザイン部門】に応募
