鎌倉幕府
test | かもみーるv3
http://hanagekiribasami.blog.fc2.com/blog-entry-1.html1192作ろう鎌倉幕府
鎌倉幕府 | Face Flash
http://faceflash.blog.fc2.com/blog-entry-73.html鎌倉幕府抗争史 細川重男 | 読んだ本めも
http://horisato.blog96.fc2.com/blog-entry-1260.html日本の歴史7(中公文庫) 鎌倉幕府 石井進 | 読んだ本めも
http://horisato.blog96.fc2.com/blog-entry-1163.html| 楽天ポイントキャンペーンのブログ
https://aoiroring.blog.fc2.com/blog-entry-804.html鎌倉幕府を創設したのは誰? 源頼朝 源義朝 源義経 源義仲源頼朝※鎌倉幕府成立:1192年→1185年
07/04のツイートまとめ | ゆるゆる1口馬主
http://akua1947152.blog.fc2.com/blog-entry-98.htmlxutengyuwen1 【刀剣ワールド】鎌倉幕府5代執権/北条時頼 https://t.co/wm9s6IfAVZ 07-04 15:11
鶴岡八幡宮 | 昼夜邊際
http://mizuru99.blog125.fc2.com/blog-entry-155.html八幡宮:建於1063年,供奉戰神八幡。
源頼朝 (1147~1199) Yoritomo Minamoto | 加島玄麒 「あなたの原風景を探そう」
http://genkikashima.blog.fc2.com/blog-entry-400.html忘れ難き人々。 鎌倉幕府、初代 征夷大将軍。 挙兵の日
[特]日本史 | 倒映的雲
http://kisalan.blog64.fc2.com/blog-entry-507.html今日授課內容:院政~鎌倉幕府的開創期中考範圍-授課內容:大化革新~鎌倉幕府 課本自修:十八世紀幕藩體制的動搖~第
金沢文庫訪問
https://tobotoboshinnkou.seesaa.net/article/2018-09-04.html2025-09-04 09:00:00 - ポスターにある4体の彫像は、四天王像 (宮城・天王寺所蔵・大崎市指定 文化財) 大崎市とは、宮城県北西部の大崎地方に位置する市 ..
顧話§今日の歴史~源氏将軍は三代で断絶~
https://1516reinheitsgebot.seesaa.net/article/2020-02-13-1.html2025-02-13 02:01:00 - 1219年2月13日、鎌倉三代将軍源実朝が公暁により暗殺。“いい国作ろう鎌倉幕府”で覚えている1192年に、源頼朝が征夷大将軍に就いて、それからたった27年で源氏の幕府は崩壊してしまった。..
動画のブックマーク: #鎌倉幕府3代執権 #鎌倉 市内にある #北条泰時ゆかりの地 を巡る| #大河ドラマ 「 #鎌倉殿の13人 」紀行 / #北条泰時
https://mitch-3jeffbeck1.seesaa.net/article/2022-05-27-5.html1970-01-01 01:00:00 - 動画のブックマーク: 鎌倉幕府3代執権 鎌倉市内にある北条泰時ゆかりの地を巡る |大河ドラマ「鎌倉殿の13人」紀行 <義時ではなくて、” 泰時 ” 縁の地>
22.07.20A #横須賀美術館 開館15周年記念 800年遠忌記念特別展「 #運慶 #鎌倉幕府 と #三浦一族 」観覧 #横須賀市鴨居
https://mitch-3jeffbeck1.seesaa.net/article/2022-07-21.html1970-01-01 01:00:00 - 22.07.20A 横須賀美術館 開15周年記念 800年遠忌記念特別展「運慶 鎌倉幕府と三浦一族」観覧
『承久の乱』
https://sanchaiblog2005.seesaa.net/article/2022-10-23.html1970-01-01 01:00:00 - またしてもここ3日間、SSブログの管理ページにアクセスできなくなりました。記事の新規作成と投稿も、そのせいでできませんでした。毎日ログインを試み、うまくいったタイミングで一気に記事を書くようにしていま..
『源氏将軍断絶』
https://sanchaiblog2005.seesaa.net/article/2022-02-13.html1970-01-01 01:00:00 - 源氏将軍断絶 なぜ頼朝の血は三代で途絶えたか (PHP新書)作者: 坂井 孝一出版社/メーカー: PHP研究所発売日: 2020/12/16メディア: Kindle版内容紹介●「承久の乱」へと続く、幕..
『夜叉の都』
https://sanchaiblog2005.seesaa.net/article/2022-02-06-1.html1970-01-01 01:00:00 - 夜叉の都 (文春e-book)作者: 伊東 潤出版社/メーカー: 文藝春秋発売日: 2021/11/22メディア: Kindle版内容紹介2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の世界を描く!武士の府は..
『修羅の都』
https://sanchaiblog2005.seesaa.net/article/2022-01-14.html1970-01-01 01:00:00 - 修羅の都作者: 伊東潤出版社/メーカー: コルク発売日: 2018/02/26メディア: Kindle版内容紹介「武士の世を創る」―――生涯の願いを叶えるため手を携えて進む、源頼朝と政子。平家討伐、奥..
『海の武士団』
https://sanchaiblog2005.seesaa.net/article/2014-02-14-1.html1970-01-01 01:00:00 - 海の武士団 水軍と海賊のあいだ (講談社選書メチエ)作者: 黒嶋 敏出版社/メーカー: 講談社発売日: 2013/09/11メディア: 単行本(ソフトカバー)内容紹介「一所懸命」の語が象徴する、土地の..
北条政子(夏美口調)と弟の北条義時(冬樹口調)が執権政治や承久の乱について語り合っている感じ
https://narikirirekishi.seesaa.net/article/%EF%BC%88%E4%B8%AD%E5%AD%A6%EF%BC%89%E5%9F%B7%E6%A8%A9%E6%94%BF%E6%B2%BB%E3%82%84%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1.html1970-01-01 01:00:00 - 政子:「頼朝公が亡くなってからは、北条氏(ほうじょうし)が執権(しっけん)として鎌倉幕府の実権を握ることになったわね。」義時:「そうだね、お姉ちゃん。父の北条時政(ほうじょうときまさ)に続いて..
源頼朝(ケロロ口調)と妻の北条政子(夏美口調)が平氏滅亡や鎌倉幕府の成立について語り合っている感じ
https://narikirirekishi.seesaa.net/article/%EF%BC%88%E4%B8%AD%E5%AD%A6%EF%BC%89%E5%B9%B3%E6%B0%8F%E6%BB%85%E4%BA%A1%E3%81%A8%E9%8E%8C%E5%80%89%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E6%88%90%E7%AB%8B.html1970-01-01 01:00:00 - 頼朝:「平氏との戦いには弟の源義経(みなもとのよしつね)らを派遣したであります。」政子:「1185年に壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)で平氏を滅ぼしたわね。」頼朝:「その通りであり..
【入門】鎌倉時代の流れ
https://nihonshimatome.seesaa.net/article/502585964.html2025-03-07 03:28:00 - ◆まとめ◆源頼朝(初代将軍)12世紀末、鎌倉幕府が成立。↓北条時政(初代執権)13世紀初、最初の執権となる。↓北条義時(2代執権)源氏将軍が絶える。1221年、..
片瀬の常立寺-元使塚(2025.01.29)
https://tuesgenial.exblog.jp/33501487/2025-01-30 01:00:00 - 29日(水)に片瀬の江の島道を歩いた折、常立寺にも寄りました。こちら参道から。左側の紅梅が見ごろでしょう?もう満開とは、なんとも早咲き! 境内の3本ある枝垂れ梅(白)は、左側のこの一本のみ、蕾を膨らませていました。ちらほら花もつけていました。あとの2本はまだまだ。梅の木のライトアップは確か2月1日からって、案内板がでていました。梅の木のライトアップってそう言えば、見たことないです。どんな風かしら??常立寺と云えば、鎌倉時代の元寇の頃、時の執権北条時宗により処刑された元の杜世忠ら五名の塚があります。正使の杜世忠34歳(蒙古人)、副使の何文著38歳(漢人)、計議官の撒都魯丁32歳(回回人=元代・明代のイスラム教徒)、書状官の果32歳(ウイグル人)と通訳の徐賛(高麗人)です。一行は1275年4月に長戸国室津に到着、7月まで太宰府に留め置かれ、7月20日に九州出発、8月30日鎌倉に到着しました。でも北条時宗率いる鎌倉幕府は9月7日、彼らを龍ノ口で斬首。国難に対峙する幕府の非情な意志が感じられます。この6年後に2度目の元寇、弘安の役。結果的に元寇は2度で終わりましたが、いつ3度目があるやもしれず、異国警固番役を解くわけにいかず、幕府の負担は大きなものになりました。恩賞は十分ではなかったし、遅配もあったと思います。でも霜月騒動で何とか捻りだし処理できたのだと考えます。西国の非御家人を動員しなければ、異国襲来に対応することもできず、またこれにより、幕府と御家人、御家人と非御家人の関係も変化していきました。安達泰盛による弘安徳政もありました。が、やはり時宗が早くに亡くなったことが痛いですね、霜月騒動、平禅門の乱と続く中、幕府のとった政策は中途半端過ぎました。幕府滅亡の原因の一に数えられます。話が逸れました、元の国使5名は「誰姿森(たがすのもり)」と呼ばれる龍口寺の隣接地に埋葬され、面影塚が作られ、供養塔が建ちました。この常立寺の5基の五輪塔には青い布(ハタク)が巻かれています。青はモンゴルで英雄を意味する色ということ。この元使塚は大正14年(1925)、関東大震災の後の道路整備の際、常立寺のご住職により改装され、斬首650周年の祥月命日(9月7日)に盛大な慰霊祭が行われました。画像、五輪塔がよく写ってないです、今度また撮り直します。(>_<) 杜世忠が詠んだ辞世の漢詩を最後に。出門妻子贈寒衣問我西行幾日帰来時儻佩黄金印莫見蘇秦不下機読み下し:出発の時妻子が寒くなるからと防寒衣を贈ってくれ西に出征したら幾日でお帰りですかと訊ねた来るとき栄達を夢みて帰らなかった蘇秦さんのようにならないでくださいと
茜先生「ライブ」君が代の真相?
https://tamegoro.exblog.jp/34430106/2025-01-27 01:00:00 - 今日の「ほとほと困るw」ライブ拝聴しました。鶴瓶さんの「鶴」とフジテレビの「富士」でコレかなあ。 君は今鶴にや乗らん富士の雪 1915 T4二通り解きました。「君が代」の意味、富岡八幡さん知らないでしょ。m9(^。^)てゆうのと、「君が代」は前に書いた通り「御伽草子」の「さざれいし」に出てくる。「鹿島詣」の天誅の真相でーーす。つづく*つづき三つ目の「解」ウケる。C君=公は=案今=下む=問鶴=鶴に=下三=下下=岡や=八乗=じよう じ=待=ま=万=幡 よ=夜=は=食=宮 う=八=はらん=等六=十六=八七=馬な=まな=学富=ふ=う=下む=問士の=し野=し八=しよ=所雪=せつ せ=世=代=だ つ=釣=長=蔦=つた✒︎公案問鶴岡八幡宮は学問所だった鶴岡=学校(孟子に由来)「1973年のピンボール」の園女さんの句だったかに出てきた。鎌倉幕府は「人食い人種北家」から純正ヤマト族が取り戻した政権。脱オカルト、論理と科学の国づくりを目指した。禅宗=学問大塔は「天文台」明治政府が「廃仏毀釈」で壊しちゃったのだ💢
葉山町堀内の旅 #2
https://akrkak.exblog.jp/37460303/2025-01-20 01:00:00 - 2025.01.11.Sat. 葉山町堀内。指定文化財や指定史跡の所在に関してはかねてより準備万端整っています。でも、この地域に馴染みはありませんし下調べも不十分。それだけで乗り切れるのでしょうか?第432回・神奈川徒歩々旅葉山町堀内の旅 #2 葉山町堀内――― 指定文化財や指定史跡の所在に関してはかねてより準備万端整っています。でも、この地域に馴染みはありませんし下調べも不十分。それだけで乗り切れるのでしょうか? やはり、ここはお参りしなければ話になりませんよね。葉山郷総鎮守、森戸大明神(森戸神社)です。 創建は源頼朝が鎌倉入りした1180年。頼朝が三嶋明神(三嶋大社)を勧請したのがはじまりだそうです。 1月11日、「拝殿」前には長い列ができていました。初詣シーズンということで特別なのか、普段からそうなのかは初めての参拝なのでわかりません。10分くらい並んだと思います。 森戸神社社殿は葉山町指定重要文化財です。森戸大明神のHPによると文化財指定は「本殿」ということですが、葉山町のHPでは「森戸神社社殿」となっています。 参道に建つこちら、森戸神社の庚申塔も町指定重要文化財。1726年の銘があるこちらの庚申塔は、葉山町唯一の猿田彦大神を祀った庚申塔であり、流れ造りの石祠は三浦半島では珍らしいそうです。 海を背に建つこちらは顕彰碑(ベルツ博士・マルチィーノ公使)。こちらも町指定重要文化財です。 ベルツ博士は1876年に日本政府の招聘により来日したドイツ人。東京医学校の教師として日本でのキャリアをスタートさせると、日本に関する多岐に渡る研究をしたそうです。アイヌの研究が有名だそうです。また、蒙古斑を発見したのもベルツ博士なのだとか。 マルチィーノ公使はベルツ博士と親交のあったイタリアの日本駐在公使。マルチィーノ公使が「葉山は避暑避寒に適している」と唱えるとベルツ博士は賛同したそうです。そのことが葉山に御用邸を設置するきっかけとなり、葉山は急速に開発されたのだそうです。 森戸大明神のビャクシンは葉山町指定天然記念物。 ただ、どれがそのビャクシンなのかイマイチわかりません。これかなあと思い撮った写真はこれなのですが…… しかしまあ、ここは相模湾の大展望台ですね。 見事な松は千貫松。頼朝は1184年、衣笠城合戦で命を落とした三浦義明(佐藤B作の父、山本耕史の祖父)の追悼のため衣笠城へ向かう途上にこの松を見たそうです。和田義盛は頼朝に「千貫の値ありとて千貫松」と呼んでいると伝えたそうです。現在の円に換算すると4千5百万円くらいとのこと。 本文 みそぎ橋なる橋を渡ってみました。森戸川に架かる橋です。 森戸海岸は鎌倉時代、七瀬祓の霊所であり、お祓いや禊ぎが行われていたのだそうです。 七瀬祓とは天皇の災厄を負わせた人形を7人の勅使が7か所の瀬に流すお祓いで、鎌倉では杜戸(森戸)のほか、由比ヶ浜、金洗沢池、方瀬川、六浦、㹨川、江島竜穴が定められていたそうです。 お、ここで禊を行うのかな? でも私はもう、禊もせずにお参りを済ませてしまいました。 さてさて、帰宅してから1週間後に知ったのですが、この写真に写るのが例のビャクシンだそうです。そんなつもりで撮ったわけではないので真っ黒に潰れてしまっているし、富士山の添え物のようなひどい扱いですが…… 飛柏槇と呼ばれるこのビャクシンは、1184年、頼朝が森戸大明神を参拝したとき(三浦義明の追悼に向かう途上ですよね)に、三嶋明神から飛来して発芽したものなのだそうですよ。マジですか? 凧だって思うように上がらない(飛ばない)のに……* * * 鎌倉幕府関連の史跡を体系的に巡ってみたいと思うのですが、無理ですよね。体系的に理解することが私ごときには難関すぎます。 森戸大明神が所有する翁面は県指定重要有形民俗文化財です。当地では猿楽が盛んで、そのための翁面だそうです。猿楽って「光る君へ」に出てきたあの猿楽かな? また、6月16日に葉山町漁業協同組合によって奉納される潮神楽は町指定無形民俗文化財です。元々は紀州地方からの移住者たちにより行われていたのが起源といわれているそうです。 森戸大明神はもう一度行かないと。頼朝関連の石碑やらその他諸々を見落としていました。さすがは思いつきの行き当たりばったり旅です。まさにトホホです……行程:→森戸大明神(森戸神社)→森戸海岸→〈つづく〉Information | 神奈川徒歩々旅 | 神奈川一周の旅
B1-5) 日目上人の弘教
https://rigoletto.exblog.jp/243354110/2025-01-16 01:00:00 - B1-5) 日目上人の弘教(日蓮正宗による説明) :日目上人は、たびたび奥州・関越・東海の各地に弘教され、特に有縁の地である奥州(宮城県)において数多くの人を教化折伏しその地に上行寺・本源寺・妙教寺・妙円寺を建立されました。日目上人は、日興上人の身延離山にお供をして富士へ移られ、大石寺大坊が創建された翌日の1290正応3年10月13日に日興上人から血脈の”内付嘱”を受けられ蓮蔵坊に住まわれました。そして、1298永仁6年2月に日興上人が重須の地に移られた後は、大坊に入って大石寺の維持と興隆の責任を一身に担われています。それより三十数年後の1332 元弘2年(=正慶元年)11月、日目上人は日興上人から『日興跡条々事』を授けられました。この書は、前の仏法内付の証であるとともに大石寺の譲り状として記され、日目上人を一閻浮提の座主と定められたものです。 1332元弘3年(=正慶2年)に鎌倉幕府が滅亡し京都に天皇を中心とする公家一統の政治体制が敷かれることにな りました。日目上人はこのときを好機として天奏の決意を固められ、出発に先立って日道上人に唯授一人の血脈を相承され、太夫阿日尊と日郷師をお供として京都へ向かわれました。しかし途中、美濃の垂井の宿に至って病床に伏され、太夫阿日尊・日郷師に天奏の完遂と日道上人への報告を遺言して入滅。その後二人は日目上人の御意のままに上洛し日郷師は日目上人の御遺骨を抱いて12月に大石寺へ帰山、太夫阿日尊は翌年の1334建武元年に 代奏を果たし京都の地で弘教に努め要法寺の前身である上行院を建立しました。 (編者の主張) : 日興上人・日目上人の後を引き継いだのは、日道上人ではなく、太夫阿日尊・日郷と見る。太夫阿日尊の後醍醐天皇への天奏はもっと評価されて良いと感じる。日目上人の天奏に同行した宰相阿闍梨日郷は、 大石寺に戻ると日目上人が天奏前に住まわれていた蓮蔵坊に住まわれたが、日目上人が血脈相承したとする日道 上人との間で蓮蔵坊事件を起こした。日蓮正宗は日目上人が天奏の旅立つ前に日道上人に血脈相承したとしているが宰相阿闍梨日郷側は認めていない。蓮蔵坊事件はその後数十年も続き、東西に分断され大石寺は西側の大石寺と東側の宰相阿闍梨日郷派(=小泉久遠寺)に分裂し、日道上人時代に大石寺は半分になってしまった。
名門新田一族を生んだ地に築かれた不落の山城を歩く~2024年12月 金山
https://tonoyama.exblog.jp/30571422/2025-01-14 01:00:00 - 昨年12月下旬、金山を歩いてきました。群馬県太田市にある、関東平野にぽつんと佇む標高239mの山、ぐんま百名山。古く万葉集の和歌にも詠まれ、戦国時代には新田金山城が置かれていました。低山ながらも関東平野や富士山・赤城山・日光の山々・筑波山の眺望を得ることができ、冬の山歩きとしてかねてから考えていたところです。コースは、太田市営大光院駐車場⇒西山⇒彦七山⇒金山展望台⇒物見台⇒金山山頂(新田神社)⇒金山城南端⇒太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設⇒大光院駐車場。標準CTは、登り1時間、下り45分の合計1時間45分です。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~今回はマイカー登山です。久しぶりの東武特急りょうもう号に乗っての山歩きも魅力的だったのですが、11月の奈良倉山登山以降1ヶ月半車を動かしていないこと、カインズで色々と買い出ししておきたかったこともあり(笑)、マイカーの出番となりました。東北道館林ICからR354で太田市へ。8時半過ぎに太田市営大光院駐車場に到着しました。120台収容できる広い駐車場、無料で利用できます。「大光院駐車場」とあるように駐車場の隣に大光院というお寺があります。徳川家康が開基となって1613年に創建された浄土宗のお寺。なぜ家康?ということですが、征夷大将軍は清和源氏の後裔しかなれないことから、家康は源義家の孫であり鎌倉幕府創成期に活躍した新田義重の子孫であることを自称するようになり、江戸幕府成立後に先祖である新田義重を追善供養するためのお寺として創建したものになります。この界隈(上野国新田郡)は1108年の浅間山前掛山の噴火で甚大な損害を蒙りましたが、新田義重が再開発をして新田荘という荘園を創りこの地に定着。その子孫義貞はこの地で挙兵して鎌倉幕府を倒幕した後に足利尊氏と対立して滅ぼされるも、その一族はこの地に君臨し続けて岩松家純が1469年に金山に山城を築城しています。また、駐車場と道路を挟んだ反対側にあるのが現在のスバルの前身である中島飛行機創業の地。現在はSUBARUの群馬製作所太田北工場が現存稼働しています。準備をして8:47にスタート!駐車場から道路とは反対側、山に向かうとハイキングコースの入口があります。いかにもな里山の景色とことこ歩いて行きます。平日ですが、ちらほら歩いている人を見かけます。ハイキングの格好をした人あり、お散歩感覚の人がいたり、トレランの人がいたり。関わり方は色々とあるのでしょうが、ともあれ多くの人に愛されている山のようです。「西山コース」今回はYAMAPの地図を利用していますが、太田市観光物産協会さんのHPに「おおた金山ハイキングガイド」があるのでそちらも参考にしてみて下さいませ。それによると、北山・西山・東山の3コースがあるようですが、今回は西山コースを歩くこととしています。西山コースと言っても1本の道ではなく多くの道があり絡み合っているので、西山コースと言うよりは西山エリアと言った方がいいのかもしれません。降っているな、と思いYAMAPで確認したら「西山」というピーク(146m)をいつの間にか通り過ぎていました。戻ろうかとも思いましたが、ま、いいっしょ。花はこの時期、椿くらいです。椿が凄い山ってあるのだろうか?この時期だいぶ落葉してはいましたが、紅葉もなかなかいい山なのかもしれない。彦七山というピークに到着。眺望はほとんどなかったのですぐに立ち去ります。おっ、山城らしい景色が出てきましたよ。解説もありました。ありがたい。堀切のすぐ上に見附出丸という場所がありました。西側を守る前線基地だったと考えられている場所で、眺望がいいです。関東平野やその先に丹沢・富士山が見えています。なお、眺望については後ほどご紹介します。さらに1分歩くと、駐車場(西城モータープール)がありました。ここまでは県道金山城址線が通っていて車で来ることができます。実は30年ほど前に数年間前橋に住んでいた時に夜景を見にここまでドライブに来たことがあります。怖そうなお兄様方たちがいたのですぐにUターンしましたけどw展望台もありますが、眺望はさきほどの見附出丸からと変わりません。人を恐れないビンズイがちょろちょろしていました。今年(2024年)は一切経山で姿を見かけましたが、冬になって里に下りてきているようです。そろそろバードウォッチングでもしに行こうかな。この辺りから金山城の遺構がごろごろと登場してきます。新田義貞の時代にこの界隈に城があったことが記録にあり、金山に築かれていたと考える説もあるものの、信頼しうる資料として金山に城があったことが知られるのは1469年に新田一族である岩松家純により築城されたというものです。1528年に家臣の横瀬氏が主君岩松昌純を殺して実権を握った後、上杉謙信や武田勝頼らから10数回に及ぶ攻撃を受けるも撃退。1585年に後北条氏の管理下に入り、秀吉の小田原征伐により1590年に後北条氏が滅亡するとこの金山城も前田利家に接収されて廃城となります。なお、横瀬氏は金山城を奪取した後に新田宗家が代々相伝していた由良郷の地名を姓とし由良氏に改姓。由良氏は江戸時代には高家旗本として幕末まで存続しています。高家は出自の高い人物を家臣とすることで徳川家の格の高さを誇示する目的で作られた制度のようなので、それだけ新田ブランドというものが強かったということなのでしょうか?金山城のことについては、先ほど紹介した太田市観光物産協会さんのHPで「史跡金山城跡」というパンフレットが提供されているので、ご参考まで。「不落の城 新田金山城」1585年に後北条氏の管理下に入った時も、1590年に秀吉の小田原征伐により廃城となった時も、あくまで明け渡したということであり、攻め落とされたことはないという理解なのかな?物見台金山城の周囲を見渡すことのできる場所であり、物見矢倉が置かれていた跡があるそうです。写真に写っているのはもちろん新しいものですが、登ってみると、、、おおお~、これまで見えていなかった日光や赤城方面が見えていますよ!いつものように山座同定をしてみましょう。まずは日光男体山。その右にちらりと見える白い山は女峰山、すぐ左に見える山は太郎山。中央の雪山が日光白根山で、右の雪山が日光の黒檜山。左奥に皇海山、皇海山の右手前がカッコソウの鳴神山。袈裟丸赤城山とその手前にぐんま百名山の茶臼山遠くの雪山、右が白砂山(青)で左が岩菅山(茶)。手前、群馬の山は右が子持山(赤)で左が小野子山(黄)。榛名山と右奥に草津白根山・横手山中央に浅間隠山(赤)・右の雪山が四阿山(青)。樹々に隠れていますが左の雪山が浅間山(黒)四阿山の手前、緑で囲った辺りが前橋市中心部。写真を拡大すると群馬県庁の高い建物も見えています。30年前にわざわざあそこから車で来たのに逃げ帰ったのは先述した通りですwこの物見台からは北側、180度ほどの眺望が開けていました。1574年、北の越後から攻めてきた上杉謙信はこの物見台から死角となる場所に陣を構えたそうです。大手虎口。本丸へ向かうための通路を厳重に守っていた防御拠点。日の池。築城される以前からあった池のようで、雨乞などの祭祀に使われた平安時代の遺物が発見されているのだとか。南曲輪に到着しました。立派な休憩所にトイレもありました。ここは中島記念公園とも呼ばれているようで、中島飛行機の創業者である中島知久平氏の像も置かれていました。さて、この南曲輪からの眺望ですが、物見台からの眺望とは反対の南側が開けています。関東平野に丹沢。左に大山、右に三ノ塔から丹沢山・蛭ヶ岳。ここから見ると大山は別の山系に属するように見えてしまいますね。中央に富士山(青)、左に奥多摩の川苔山。右に埋没していてわかりにくいですが、白が武甲山で桃が大霧山。奥秩父の山々、雲取山(黒)・和名倉山(青)・甲武信ヶ岳(赤)。手前は外秩父山地というのかな?白が皇鈴山。陰影が出ていないのでわかりにくいですが両神山。その右奥から顔を覗かせているのは金峰山近くの小川山。黄色、ぽこぽこの2つの山は東西御荷鉾山で、右に赤久縄山(赤)。遠くに見えるのは御座山(青)と八ヶ岳赤岳(黒)。樹々の関係もあり、南曲輪からの眺望は以上です。いい景色ですが、関東平野の端に近づいているため、特に日光の山々がちらりとしか見えないのは残念。ここに来る途中、東北道からは日光ファミリーや白根山がしっかりと、そして時間の関係で朝日に照らされて神々しく見えていましたからね。その時の方が良かった。冬の東北道や関越道を走らせていると、日光や赤城・浅間・八ヶ岳・奥秩父・富士山・筑波山を見ることができ、山好きな人にとっては眼福の眺望を得ることができます。館林とか、どこか展望塔みたいなものはあるのだろうか?今度調べてみよっと。市天然記念物の大ケヤキ樹齢800年にもなるとのこと。築城されたのが1469年ですから、金山城の栄枯盛衰をずっと見続けてきたことになりますね。山頂にある新田神社の手前まで来ると、これまで見えなかった関東平野の茨城県側が見えていました。霧に浮かぶ筑波山群馬方面から筑波山を見るとこんな姿をよく見ます。手前の桜川とか小貝川が影響しているのだろうか?新田神社に到着。1875年、本丸跡に新田義貞を祀る神社として創建したもの。初志貫徹、の神様らしいです。パンパンッ、パイロットになるぞー( ゚д゚)山頂標識らしいものが見当たりませんが、見た目ここが一番高い場所だと思うので、ここが山頂ということでいいでしょう。10:18、金山に登頂です。スタートから1時間半でした。年の瀬ですが神社周りは紅葉もまだまだ残っていました。ジョウビタキも楽しんでる?下山は金山城の南端経由で金山城は物見台のあった北面は急峻である一方、南面は緩やかなので郭を幾段も築いて防御していたのだとか。ただ登山道としては九十九折に付けられている県道金山城址線を突っ切って降りていくので、登りに使った道よりは急です。路面状況も登りの道よりは悪く、しかも落ち葉が多くてちょっと厄介。慎重に降りて県道へ。このまま県道を歩いていけば駐車場に戻ることができますが、その前に右に写り込んでいる建物に寄っていきましょう。太田市立史跡金山城跡ガイダンス施設です。金山城の歴史を紹介する施設で、入館料は無料。随分モダンな建物だと思ったら設計したのは隈研吾氏なのだとか。金かけてるなぁ(笑)ご興味のある方はどうぞ。できれば登山前に立ち寄るのがいいかもしれません。金龍寺新田義貞の孫とされる横瀬貞氏が義貞の菩提を弔うために創建したと伝わるお寺で、その名も「大田山義貞院金龍寺」!戦国時代に金山城主であった横瀬(由良)氏の菩提寺であったそうです。自分は境内には入りませんでしたが、「ハイキングガイド」には紅葉の名所とあるので、よろしければ。スバルの北工場の正門が見えたら駐車場はすぐ。大光院駐車場に帰還しました。11:05、2時間20分ほどの山歩きでした。この後はもちろんカインズで買い出し(笑)イオンでも買い出しをし、さらに3つ寺社参詣をしてから関越道経由で帰宅。充実した1日となりました。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~金山歴史要素は豊富だし、眺望もなかなか良い。で、お気軽に歩くことのできる良き里山でした。買い物ついでに歩くことができるのもポイント高し( ゚д゚)浅間山の噴火をきっかけにこの地を再開発し荘園化してこの地に定着した清和源氏の名門新田一族。新田宗家であり鎌倉幕府を倒幕した新田義貞が敗死した後も一族はこの地に君臨し、戦いに備えて金山に城を築く。下剋上の世の中で家臣にその座を奪われるも、その家臣は新田一族であることを詐称し、さらには天下を取るべく徳川家康までが詐称する。新田ブランドの高さよ。ぐんま百名山である金山を歩く場合、金山城や新田荘の予備知識があればより楽しむことができるかと思います。自分も今回現地で、また帰宅後に色々と調べたので、いつかまた歩きに行きたい。山をきっかけに色々と調べることで知的好奇心が刺激されるのも山歩き、特に低山歩きの良さかな。と思っているところです。
武士たちの終活 2025/01/13
https://shimazuku.exblog.jp/30576065/2025-01-13 01:00:00 - 明治維新という言葉を、あまり深く考えることなく使ってきた。でも鎌倉幕府誕生から700年近く、江戸時代だけでも260年続いた武家社会が消滅したわけで、発想の切り替えを伴う侍たちの身の処し方は想像を絶することだったはずである。廃刀令や断髪令を待つまでもなく、すべての侍が終活を迫られた。現代のサラリーマンが農業や漁業に転職、あるいはラーメン屋を起業するのとは違って、武士全員が転職以外に選択肢はなかったのだ。転職に直面した侍たちはどう振る舞ったのか。前回ブログに続いて、僕の好きな浅田次郎さんの作品になるが、『五郎治殿御始末』(中公文庫)は、歴史の教科書には出てこない明治初期の侍たちの姿を描き出す。浅田さんて、誇りを秘めた人物を描く天才だ。いつも読み終えて爽快感が残る。6編の短編からなるこの文庫、維新をくぐり抜けた興味深い侍たちが登場する。表題作「五郎治殿…」は、会津藩主の兄(京都守護職)とともに京都所司代として戊辰戦争で賊軍となった桑名藩主の家臣とその孫の物語。桑名城の明け渡しなど敗戦処理を終えた五郎治は、孫とともに死出の旅に。その途中で家臣時代に交流のあった尾張の旅籠主と遭遇し、孫を託して消息を絶つ。時は流れて明治10年、西南戦争が終わったあと、孫が世話になる旅籠に政府軍の高官が訪れ、鹿児島で戦死した五郎治の遺品であるつけ髷(まげ)を渡す。その髷は孫がよくいたずらして叱られた品。五郎治にとって、あくまでも敵は戊辰戦争で政府軍の錦の御旗を掲げた薩摩・西郷隆盛だったのだ。「柘榴(ざくろ)坂の仇討」。幕末の1860年、桜田門外で水戸藩士らに暗殺された大老・井伊直弼の近習(護衛)志村金吾は、仇討ちを許される、というか命じられる。極貧に甘んじ、江戸で仇討ちの相手を探すうちに13年もの歳月が過ぎ明治と改まって6年、金吾はついに仇の一人と巡り合う。侍から車引きに転じ直吉と名を変えた旧水戸藩士は、雪の新橋で命じられるまま金吾を乗せて柘榴坂に向かう。この日、明治6年2月7日、金吾は高札の太政官布告で、直吉は新聞で「復讐は国禁――刑罰は国家の大権也」という仇討ち禁止令を知る。それでもなお死を覚悟した直吉、妻と生きる道を探る金吾。武士としてお互い名乗り合い、13年を語り合ううち仇討ちのむなしさに気づき、ようやく「侍の垣根」を超える意志を固める。帰途、妻が働く居酒屋に立ち寄った金吾は、仇討ち禁止令を伝え、車引きの世話で自分も車を引くと告げる。「妻はたまらず、笑いながら泣いた」。浅田さんて、シンプルな言葉で読者をわしづかみにするのが得意だ。ほかにも、武士の子とも知らず、商人に転じた元旗本に丁稚として育てられた少年が、武蔵野の山寺で尼となった母に会う=「椿寺まで」、戊辰戦争で命のやり取りをお金で贖う約束文を書いた侍たち=「箱館証文」、遅刻常習犯の近衛兵幹部と旧藩主=「遠い筒音」、新暦移行に伴う混乱を旧天文担当から見る=「西を向く侍」など。「珠玉」という言葉は、こういう作品群にこそふさわしい。虚実とりまぜ、浅田さんはよくぞここまで調べたことよと感じ入った。
山陰ドライブ旅行四日目前篇
https://punto1150.exblog.jp/30574360/2025-01-10 01:00:00 - 道の駅来夢とごうち朝4時半に起床、軽く朝食を食ってから出発しました。ようやく山の中から平地に出てきて、広電宮島駅隣の立体駐車場に車を入れました。本日最初の目的地は、安芸の宮島、厳島神社です。始発のフェリーは6時半に出港。腰を下ろしてさて、とかやってる間にもう対岸に着いちゃった。7分くらいか?まだ薄暗いなあ。もう7時だというのにこの暗さ。神奈川県より30分くらい日の出が遅いのだ。まだ薄暗いのに、厳島神社はすでに営業中。神社は朝早いのが助かるなあ。ここへきたのは3回目、もう30年ぶりになる。言わずとしれた超有名神社です。安芸国一宮。厳島は、古くは「いつき島」と発音したようです。意味は、険しい島。もとは瀬戸内海を通行する船の安全を祈願するため、いわゆる宗像三神を祀るために作られた神社。遅くとも奈良時代にはあったようですが、最初はぐっと小さな神社だったらしい。宗像三神あるいは宗像三女神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)田心姫命(たごりひめのみこと)湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三女神。同じ海の神様の住吉も住吉三神で共通性がありますね。宗像三神は本来名前の通り、北九州の宗像神社、そして沖ノ島で祀られる神様で、それを分けてもらったんですな。彼女たちの地上での役割は、「道中」を守ることとされた。道中とは、朝鮮半島から北九州への海路を指します。それぞれ「沖つ宮」 「中つ宮」 「辺津宮」を担当するとされてますが、各々どれがどれを担当するのかというと異論があったりします。ちなみに辺とは海辺のこと。イチキシマヒメは、アマテラスから生まれた。彼女は「天孫降臨」の際に日本へ降りたった神ニニギノミコトの乳母とされる。のちの神仏習合で、弁財天と同一視されるようになりました。子育ての神とされる。沖の島を御神体とする。厳き島、という名前です。タゴリヒメとタギツヒメは、同じくアマテラスの娘で、ふたりとものちにオオクニヌシの妻となって何人か子を生んだとされる。古事記ではオオクニヌシは何世代も後の人物ですから、計算が合わない気がするし、日本書紀では同じ世代なので計算は合う。古事記日本書紀の間の矛盾点が出ています。なんとなく、勘違いじゃないかなあという気がします。いずれにせよ、三女神は海を航海する者を守る神。この場所にふさわしい神様です。厳島神社がある宮島は元来神の島であり、島は神聖であるゆえに禁足地(立入禁止)の島とされてきたんですが、平安末期に平家の保護を受けるようになって変わった。1168年に平清盛が豪勢な神社を宮島にぶったてたのが今の厳島神社のベースです。平家が滅んだ後も源氏によって保護され、繁栄してきました。鎌倉時代に火災にあっていますが、すぐに再建できている。いま見られる建物は、その時再建されたものがほとんどです。しかし、鎌倉幕府が滅亡すると保護者を失った厳島神社は衰退していきます。宮島は神聖なので、一般人の居住は禁じられていたんですが、そのころから普通に人が住み始めた。戦国時代、毛利元就が有名な水上合戦「厳島の戦い」に勝利すると、毛利家の保護を受けてふたたび栄える。その後現在まで、海で仕事をする人全般、そして海上交易で利益を得る人たちなどの参拝が絶えることなく、繁栄している。本家宗像神社よりはやっているんだから立地というのは大切ですねえ。と、言っても明治の廃仏毀釈の例外とはされなかった。日本史上最大の宗教弾圧、狂気の廃仏毀釈では、「ここは寺か?神社か?」の踏み絵みたいなことが行われ、政府の人間が「ここは寺です」とジャッジしたら最後、良くて取り壊し、悪くて放火ですからまったくひどい。厳島神社は当初明治政府の役人が「寺判定」を出したためにさて火をつけるか、というところまで行った。宮司があわてて東京まで出向いて直訴し、なんとか放火は免れましたが、「赤い建物は寺」というわけわからんジャッジだったので赤い塗装を剥がしたり、瓦葺きの屋根を檜皮葺きに取り替えたり、大幅リニューアルを余儀なくされました。神社が今の姿を取り戻したのは戦後のこと。今でこそ海外の宗教狂いをバカにしている日本ですけど、人のこと言えない過去があったんです。役人というものは「学歴が高くとも」無教養で見識がなく、バカなやつで半分占められているのを念頭に置く必要がある。文化は守ってもらうものではなく、守るものです。朝一の厳島神社。ガラガラです。空いていていい。見て回ると、まあ確かに寺ですなあ、この雰囲気は。鳥居の向こう、対岸に見えるあの目立つ建物はなんだ?と思ったんですけど、案の定新興宗教団体の建物でしたw厳島神社は今も修理・修復が続いていますな。立地からして、建物は長持ちしない運命です。神仏分離によって、神社と寺は分離されました。寺として存続した部分はこの大願寺です。こんなところにスターバックスが……本土に近いとはいえ、離島にあるスタバはめずらしいのじゃないかな。
天見で初詣
https://sukimodern.exblog.jp/33461247/2025-01-09 01:00:00 - 「山川草膳 久右衛門」の近くにある「蟹井神社」。80段もある急な石段を上がったところに拝殿のあるこじんまりとした神社だが…創建は天喜2年(1054年)で、もともとは神武天皇に由来する甲斐神社と呼ばれていた由緒ある神社である。鎌倉末期に、この地を治めていた楠木正成と、紀見峠を越えて攻めてきた鎌倉幕府側の軍勢が激突した、いわゆる安満見合戦が行われた際に神社は焼失。再建された神社は宗厳な社殿だったらしいが、延宝4年(1676年)に炎上し、今の社殿はその後の再建であるという。拝殿の奥には杉の巨木が並んでいる。杉木立の間から南海高野線が見える。トンネルを抜けると和歌山県なのだが…この地は楠木正成が治めていた河内国であり、山の向こうは紀伊国だと言ったほうが、蟹井神社にはふさわしいようにも思える。