舟遊び
舟遊びか。。 | T U M B L I N G D I C E !
http://babelic.blog3.fc2.com/blog-entry-412.html舟遊び | Healing Photographs *Blog
http://christyblog.blog6.fc2.com/blog-entry-640.html舟遊び | 夢踏者
http://myrten.blog36.fc2.com/blog-entry-56.html舟遊び | 過去に撮影した、想い出の1枚
http://snaphunter1960.blog.fc2.com/blog-entry-160.html長良川の舟遊び/岐阜市【日本遺産】 | 河童倶楽部
http://tabikappa.blog55.fc2.com/blog-entry-4634.html舟遊びとは粋な。 | 徒然のーと♪
http://unviaggiolento.blog34.fc2.com/blog-entry-31.html舟遊びの昼食 | のほほん日記
http://kotatan.blog15.fc2.com/blog-entry-11.html優雅な舟遊びします(*^_^*) | Tへの道のり
http://waytot.blog.fc2.com/blog-entry-1355.html舟遊び 12ヶ月集 Op.74 第6曲 | Charles Valentin Alkan アルカン
http://chvalkan.blog.fc2.com/blog-entry-128.htmlPromenade sur l’eau Les mois op.74-5舟遊び 12ヶ月集 Op.74 第6曲
水うちわ
http://mi-co1.seesaa.net/article/440902600.html2025-08-09 08:50:00 - 水うちわの由来。。水のように透明で繊細な外観&舟遊びの時に水につけてあおいだ。というお話から来ているそうですw職人さんの技で作られるうちわっ..
魚遊の舟遊び
http://gyo-yu.seesaa.net/article/413280973.html2025-01-31 01:47:00 - こんにちは。魚遊倶楽部 広報担当の朋子です。今日は1月25日に行われた魚遊の舟遊びの様子をお届けいたします。と、その前に・・・「魚遊倶楽部」って何?と思われた方にお知らせです。..
水うちわ
http://20120401a10o.seesaa.net/article/364674022.html2025-05-31 05:11:00 - TBS系【教科書にのせたい】で放送された、大人気“記憶に残る夏ギフト”父の日のプレゼントにも最適!!国産品のうちわです。水うちわとは、うちわ..
河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書)より(8)
https://kogotokoub.exblog.jp/33505757/2025-02-04 02:00:00 - 河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』(朝日新書) 少し時間が空いたが、河合敦著『蔦屋重三郎と吉原』の八回目。 同書は朝日新書から、昨年12月30日初版。 副題は「蔦重と不屈の男たち、そして吉原遊廓の真実」である。 <目次>□はじめに□Ⅰ 蔦重の原点は吉原にあり□Ⅱ 田沼失脚と寛政の改革、そして蔦重の反骨□Ⅲ 歌麿・写楽・北斎らを次々に世に送り出す□Ⅳ 蔦重プロデュースの絵師・作家列伝□おわりに 引き続き、「蔦重の原点は吉原にあり」から。 今回も、平賀源内のこと。 せっかく故郷の高松藩から召し抱えられたにも関わらず、「仕官御構い(おかまい)」という、幕府や他藩での仕官を禁じる条件までのんで、また自由の身となった平賀源内のその後。 以後は本草学の研究に没頭できるようになったらしく、宝暦十三年、源内は中国の本草学の成果をもとに独自の視点を加えて『物類品隲(ぶつるいいひんしつ)』全六巻を刊行している。 あふれる文才があった源内は、同時に俗文学である戯作にも手を染めるようになった。そして同年冬、『根南志具佐(ねなしぐさ)』と『風流志道軒伝(しどうけんでん)』の二作を立て続けに発表したところ、これが良く売れた。とくに『根南志具佐』は三千部も売れたという。当時の平均の十倍近い売り上げといえる。歌舞伎役者の荻野八重桐(おぎのやえぎり)が大川(隅田川)で舟遊びをしていたさい、転落して水死した。この事件から発想を得て、地獄を舞台に滑稽さや風刺にあふれた内容だった。 参考のために、杉浦日向子さんの『江戸へようこそ』巻末の「年号早わかり表」をお借りする。杉浦日向子『江戸へようこそ』 また、杉浦さんの同書から、ベストセラー『根南志具佐』と、当時の時代背景について少し補足したい。 「真(まこと)があって運のつきー戯作について」の章から。 彼の最も早い時期の著作『根南志具佐』後編の冒頭には、「つまる所は引くるめて謊(うそ)で丸めた世の中に、以偽(いつわり)ならぬもの迚(とて)は、産れた者の死(しぬ)ることにて」 の句があります。 江戸から数十里と離れぬ地方では、天明大凶作のあおりを受けて、飢えて死ぬ老人や子どもがいる、かと思えば、柳橋からは長羽織を風に翻した通人気取りの男が、猪牙(小型舟)に乗って吉原通いをしている。 こういった同時代を生きる人々にとって、源内の、この世はデタラメなことだらけで確かなのは人が死ぬということだけだという諧謔には、笑うに笑えない実感があっただろうと思います。 死を原点として、さかさまに世の中を眺めれば、情愛も忠誠も滑稽な舞踏(或いは音のないテレビ)のように見えるでしょう。この徹底した相対主義の視点こそが、戯作の笑いの中心を貫く背骨なのです。 “徹底した相対主義”は、今の世でも重要な視点だと思う。 相対主義は、ジャーナリズムの精神にもつながる。 Wikipedia「相対主義」より「定義」の冒頭部分を引用。Wikipedia「相対主義」相対主義とは、経験ないし文化の諸要素やその見方が、その他の複数の要素や見方と相対的関係すなわち相互依存関係にあるという考え方である。例えば、背が高い人は、彼よりも背が低い人がいなければ想定しえない。逆に、背が低い人も、彼より背が高い人がいなければ想定しえない。このため、相対主義の前提に立てば、他者に全く依存しない絶対的に背が高い人は存在せず、背が高い人と背が低い人とは相互依存関係にあると言うことができる。 つまり、金持ちは、貧乏人がいるから、金持ちなのである。 「絶対」が口癖の人がいる。 たとえば、テレビでタクシー運転手や地元の方が薦める飲食店の料理を作る過程であったり、出来上がった料理を見て「絶対、美味い!」なんて言っているコメンテーターが多い。 美味いかどうかも、あくまで相対的なものであろうに。 相対主義の視点が欠如している例は、昨今のテレビの不祥事をめぐるやりとりでも、強く感じることだ。 フジテレビのコンプライアンス管理が問題だと指摘する人たちは、自分が所属するメディアでは、問題がない、という前提で比較しているはずなのだが、本当にそうか。 せいぜい、まだうちの方が少しマシ、くらいのレベルではないのか。 BBCが報道するまで、日本の全テレビ局が故ジャニー喜多川氏の性加害を隠匿していたことを忘れてはならない。 重要なのは、自らが相対的に物事を俯瞰することだ。 そうすれば、本来あるべき姿と現実との差に気づくはずではないのか。 外国人株主に指摘されなければ、日枝天皇を引きずり下ろせないのが、情けない。 そうそう、徹底した相対主義の視点が戯作の背骨なら、現代の戯作者は、筒井康隆ではないか、なんて思っている。 少し寄り道したが、『蔦屋重三郎と吉原』に戻ろう。 本書では、この後、源内の『放屁論』にふれている。 両国の見世物小屋で、「昔語(むかしがたり)花咲男」を見物したことから発想した戯作で、これは「べらぼう」でも紹介されていた。 引用。 文末には「漢(中国)では放屁といい、上方(関西)では「屁」を“こく”と言い、関東では“ひる”といい、女中はすべて“おなら”という。その呼び方は異なっても、鳴ると臭いのは同じことである」「音には上・中・下があり『ブッ』というのが上品な音、『プウ』が普通、『スー』とすかすのは下品だ」とある。 『ブッ』が上品かどうかは疑問ではあるが、上方など知らない庶民は、ずいぶん、勉強になったかもしれない。 また、後年、源内が四十七歳のときには、こんなことを書いている。 「物事すべてに上下貴賤の別があるが、世の中でもっとも下品なものは大小便である。けれど、そんな賤しいものであっても、肥やしとしては約にたつ。ところが屁というものは、こいた者がしばらく気持ちがいいだけで、全く無益無能。むしろ、その臭いは人を嫌がらせる。そんな屁をうまく利用した花咲男は大した者である」 著者河合は、こういった、「滑稽」「諧謔」「荒唐無稽」「しゃれ」が盛り込まれていることが、読者を大いに喜ばせたと指摘する。 「べらぼう」で秩父の鉱山開発が紹介されているが、源内は、戯作の他、いろいろな仕事に手を出した。 安永四年(1775)には、「金唐革紙(きんからかわかみ)」細工に力を入れた。 金唐革は、ヨーロッパから輸入される革製品で、なめし革に金箔や銀箔などを張り付け、さまざまな模様をプレス加工したもの。 これを、源内は、和紙で作ろうと思い立ったのである。 安価で売れ行きが良かったようだが、これらの副業は、「賤しき内職」と形容し、目指すのは本草学者として生計を立てることだったようだ。 では、天才的なクリエイターでありプロデューサーでもあった源内と蔦重の接点はどこにあったのか。 駆け出しの若造である蔦屋重三郎が、平賀源内という売れっ子作家と、いったいどうやって知り合ったのだろうか。 実は、まったくわかっていないのだ。おそらく誰かのコネで直接面会したのだと思うが、少なくとも吉原の有力者の手引きではなさそうだ。源内の恋愛対象は男性だったことから、彼は吉原に行かなかったといわれるからだ。ただ、実際に吉原細見『嗚呼御江戸』に源内が序文を寄せているわけだから、重三郎が源内のような有名な売れっ子に仕事を承諾させてしまう天賦の才を備えていたことがわかる。つまりは、「人たらし」なのだろう。 「べらぼう」では、厠の外で偶然に重三郎と源内が出会う設定にしていたが、『放屁論』の作者との縁は、そんなものなのかもしれない。 次回は、9日の「べらぼう」と、偶然シンクロするが、鱗形屋の没落などについて。
小諸城址 懐古園の紅葉の始まり3
https://shige0328.exblog.jp/243271149/2025-01-10 01:00:00 - 11月8日の長野県小諸市の小諸城址(懐古園)の紅葉です。カメラはZ7ⅡとZ24-200mmです。昨年の小諸城址の紅葉は遅れていて、しかも非常に色が綺麗ではなく、どちらかと言えば色が汚い紅葉と言えるのでしょう。高温の影響でしょう。小諸城は武田信玄の東信州統治の要でもあり、織田信長は小諸城を滝川一益に与え、関東管領となる滝川一益の関東支配の後背地とさせ、滝川一益は上野国(群馬県)の箕輪城(高崎市)次いで厩橋城(前橋市)に本拠を置き、滝川一益は関東と東北への影響力を示したのです。関東に入る時に引き連れた旗本はわずかに3千人でした。3千人のうち多くを関東各地に置いたので、身辺には数百人しかいなかったはずです。小田原の北条氏は上杉謙信没後の跡目争いで上杉謙信の養子となった北条氏出身の上杉景虎(北条三郎・北条氏康の七男)を支援をしました。また上杉謙信の姉と上田長尾氏の長尾政景の子供を養子にしていました。上杉謙信が突然に亡くなってしまったため跡目に関しての遺言もなく、養子同士の上杉景虎と上杉景勝が争った御館の乱により越後が割れてしまったのです。武田勝頼は調停者として軍勢を率いて経塚山(上越市)に陣をはり、調停を行おうとしたのです。上杉景勝が佐渡の金山を押さえると腹心の直江兼続による佐渡の金を使った武田勝頼の買収作戦に乗り、甲相同盟と言う政治情勢から上杉景虎に寄った仲介者のはずが上杉景勝に付いてしまい陣を引き払い帰ってしまったのです。多分想像ですが上杉謙信は北条氏出身の上杉景虎を小田原の北条氏のバックで関東管領にして上杉景勝を越後・越中・能登・信濃の守護にするつもりだったのでしょう。関東管領だった山内上杉家の上杉憲政(のりまさ)は関東の動乱をのがれて越後に亡命し、長尾景虎(後の上杉謙信)を養子として関東管領職を譲り春日山城の麓の御館に住んでいたのです。春日山城を軍事クーデターで占領した上杉景勝は御館に避難をした上杉景虎を包囲をしたのです。越後国は二派に分かれて各地で戦いが行われたのです。勢力は5分5分の争いとなったために上杉憲政は上杉景虎の一子を連れて上杉景勝の陣営を訪れ和睦の最終交渉に行ったのですが、捕らえられて二人とも殺されてしまったのです。たぶん上杉景勝と言うより直江兼続の献策による見せかけの和睦の交渉は進んでいたのでしょう。上杉景虎と上杉憲政の油断があったのでしょう。直江兼続にとっては上杉景虎を殺さない限り上杉景勝が上杉家の当主にはなり得ないと考えての騙し討ちだったのでしょう。上杉景勝と直江兼続は理想的とも言えるNo.1とNo.2だったとも言えるのです。北条氏は上杉景虎救出のために武田家と縁を切り織田信長と手を結び上杉景虎救出のために越後に救出の兵を送ったのですが間に合いませんでした。武田領を通れなかった北条軍は北条氏照と北条氏邦に率いられて三国峠を越えて越後に侵入をし、上杉景勝が生まれ育った上田長尾氏の拠点の坂戸城(南魚沼市)そばの樺戸城を占領したのですが雪のために進軍できずに北条氏邦を樺戸城に残して退却をしたのです。坂戸城は春日山城の長尾景虎(上杉謙信)と越後の覇権を競い戦った長尾政景の居城で、長尾景虎(上杉謙信)の姉の嫁ぎ先でした。上杉景虎は味方が守る鮫ヶ尾城(妙高市)から塩沢石打に抜ける峠道を通って北条軍の救出軍と合流をするつもりだったのでしょう。しかし上杉景勝の姉である妻と子供を連れての逃避行では難しかったでしょう。鮫ヶ尾城では味方の裏切りによって夫婦と子供ともに一族全員が戦死をしています。最近の発掘ではお米のオムスビが炭化して発見されています。戦いの最後に白米のオムスビを振舞って玉砕をしたのでしょう。上杉景勝の実父の長尾政景は後に長尾景虎に降伏をして上杉謙信の宿老となったのですが、後に多分、野尻湖で野尻湖城主の上杉氏の重臣の宇佐美定満によって殺されたと言われています。野尻湖の舟遊び中に家臣と宇佐美定満と共に溺死したとされています。当時は武将は鎧を着て泳げるのが常識でした。野尻湖畔の真光寺に長尾政景の墓があります。長尾政景の遺体を引き上げた地元の人の言い伝えでは、新しい刀傷があったと言われています。舟に乗っていた武士は全員が死んでいたと言われています。理由は良く分かりませんが、長尾政景に不穏な動きでもあったのかも知れません。北条氏は上杉景虎の救出は出来ませんでしたが、北条氏は武田家滅亡すると一応は織田信長の代官としての関東管領の滝川一益に従ったのです。しかし本能寺の変で織田信長が殺されると北条氏は織田と縁を切り、北条氏直、氏邦が率いる軍勢は小田原から相模・武蔵国を北進し軍勢の数を増やしながら5万人の兵となり、利根川の支流の神流河原で滝川一益率いる上野・下野・信州・武蔵の1万8千の軍と衝突をし、最初の日の衝突は滝川勢が有利だったのでが、二日目には北条側の数に圧倒され滝川一益は破れて厩橋城に戻り、味方をしてくれた国衆たちを招いてお礼の酒盛りをして人質を解放し、本拠の小諸城に戻ったのです。小諸城に預かっていた信州の国人の人質を解放し、一路尾張を目指したのですが、清須会議に間に合いませんでした。もし間に合っていたら清須会議は秀吉の好き放題には出来なかったでしょう。滝川一益は不思議な人物で信長に見出されるまでの経歴が全く分からないのです。しかし軍事的才能は信長傘下の部将としてはピカイチだったでしょう。信長横死の連絡は直ぐに届いたのですが、その信長横死の手紙の模写に滝川一益に付く事も北条氏に付く事も勝手次第と書き、長らく滝川一益の指示に従ってくれたことの感謝を書いた手紙を添えて国衆に送ったのです。神流川の戦い後に、敗走する滝川一益のために追ってくる北条氏の軍勢に時間を稼ぐために多くの国衆が全滅を覚悟で敗走途中で引き返して北条氏の軍勢に向かって突撃をしたのです。当時は普通は敗走している時は一目散に逃げるのですが、それだけ人を引き付ける魅力があった滝川一益と言う部将だったのでしょう。神流川の戦い後に勝利をした北条氏直、氏邦が率いる5万の兵が上野国や下野国に侵入してきたのです。滝川一益は神流川の戦いに勝利をした後に軍勢を率いて尾張に向かう積りだったと言われています。 滝川一益 もののふの ゆかり尋ねて 虫の音の 越路にきたり うたた偲ぶも曹洞宗の霊泉寺(れいせんじ、福井県越前市池泉町)の境内に、滝川一益を偲ぶ歌碑があのだそうです。これは滝川一益の子孫にあたるといわれる広島県土生町に住む泉繁子女史が、霊泉寺を詣で滝川一益を偲んで詠った歌です。滝川一益の晩年の最期についてははっきりせず。越前今立の不老(現・福井県越前市不老町)で暗殺者に殺され、近くの味真野郷池泉(現・福井県越前市池泉町)の霊泉寺(れいせんじ)に葬られたと伝わります。P.S.☆日本経済の停滞は官僚が原因~「官僚生態図鑑――ズレまくるスーパーエリートへの処方箋」戦後の復興を支えたのは生き残った優秀な官僚達の力でした。また政治家も度量が大きく二人三脚で走り続けたのです。しかし今の政治家の質もものすごく下がっていますが、官僚の質も非常に下がっているのです。政治家の質はやはり選挙制度の小選挙区にあるのだと私は思います。官僚の質の低下は東大偏重ではなく今は東大変調となっているのです。☆中国経済の失速・デフレ化が世界金融市場の「無視できないリスク」になる中国の経済がダメになって喜ぶ人は馬鹿なのです。韓国も同じです。いまの時代はすべての国は経済で繋がっているのです。自分勝手は許されないのです。そこで独裁者が勝手な行動を始めると大混乱となるのです。プーチンがいい例です。そして次はトランプでしょう。中国も経済音痴の独裁者の習近平には困ったものです。しかし世界は繋がっていると考えれば万一の場合は救いの手を差し伸ばさなければならなくなるかもしれません。あるいは日本も中国に引きずられて一緒に沈んでしまうかも知れません。☆数千万人が餓死した中国の「大躍進政策」 なぜ誰も毛沢東を止めることができなかったのか独裁者に逆らう事は死を意味したのです。だれもが死にたくない、殺されたくないのです。☆ロシアの航空機、相次ぐエンジントラブルで空港にリターン 長引く経済制裁で航空業界の「墜落」も近い旅客機の備品や消耗品はロシアへの経済封鎖でロシアは入手をする事が出来なくなっているのです。一時は中国経由で部品が入って来たのですがアメリカからの強い要求で、中国政府も公式非公式共にロシアへの航空機用の備品や消耗品の輸出を止めています。現在東南アジアなどから非正規品がロシアに入っている様ですが、不良品が多いそうです。ウクライナとの戦争が終わっても欧米のリース会社はロシアとの取引を停止を続けるでしょう。理由はロシアはウクライナとの戦争が始まるとリース契約を一方的に反古にしてリース料を支払わずに違法に占有をしているのです。このために欧米のリース会社は大きな負債を抱えたのです。☆開戦からまもなく3年…戦略的見地では「ロシアの大敗北」と言える理由 兵士の練度は低く、戦車は“敵に背を向けて遁走”の目を覆う実態誰が考えてもロシアの大敗北でしょう。たとえウクライナの領土の何割かを奪ったとしても支払った犠牲はとんでもなく大きすぎるでしょう。独裁者の末路でしょう。☆プーチンはシリア政権崩壊前からアサドの電話に出なくなっていたつまりプーチンはアサド政権をいくら援助しても、アサド政権は持たないと見たのでしょう。それよりもウクライナとの戦争やロシア経済の方がよほど重要となっているのでしょう。しかしシリアにあったロシアのタルトゥース海軍補給処と海軍基地を失う事は地中海と黒海へのロシアの影響力が激しく落ちるのですが、そんな余裕はプーチンには無いのでしょう。プーチンはアサドを切り捨てたのです!これが複雑な国際情勢と言う事なのです。そこには義理や人情など無いのです。トランプが政権を握れば日本も韓国も台湾もフィリピンもトランプにとって利益が無ければ切り捨てられるでしょう。これが国際常識です。いつまでもあると思うな親と金なのです。甘くは無いのです。自民党とまでは言いませんが、日本全国民が甘過ぎるのです。☆ハッキングされた「ロシア元大統領のメール」が暴いた政治腐敗が“風変わり”だったプーチンの替え玉のメドベージェフは一時はプーチンを追い落として自身がNo.1になろうとしましたが、宗教と人種の複雑なロシアを纏める能力がありませんでした。殺されなかったのはプーチンにとっては操り易い人物で利権を与えればOKだったからなのでしょう。☆盟友を射殺され、妻は毒を盛られた……それでも「反プーチン」闘争を続けた男に息子が放った一言に胸が熱くなるプーチンは自分では人を殺さないで、暗殺者を使って人を平然と殺すのです。暗殺者集団を幾つも持っているのです。邪魔者は排除(殺す)をすると言う事が独裁者になれる必要条件なのです。☆欧米の高級紙がトランプ氏を「ヒトラーの再来」と報じる理由…ウクライナ情勢は何が起きても不思議ではない『不確実性の時代』に突入トランプは自分の物差しでしか物事を図れないのです。その物差しは時とともそして気分によって1センチなのか1インチなのかが変わるのです。長くなったり短くなったりするので、どの単位の物差しで測っているのかが掴めないのです。トランプは最初の大統領選挙ではプーチンが協力をしてくれたので当選できたのです。プーチンとトランプは似た者同士なので二人には共通点があるのです。独裁へのあこがれです。トランプはアメリカの大統領は何をしても許されると思い込んでいるキチガイともいえる人間です。プーチンはロシア正教のネオ・ユーラシア主義の信奉者でロシア皇帝になろうとしてウクライナ侵略を始めて失敗をしてしまったのです。一応はウクライナの東部地域を占領できましたが支払った犠牲は非常に大きいのです。ロシアを恐れていた中立国はすでにNATOに加盟をしてしまい、ロシアの衛星国も離れ始めていてEU加盟をしようとする国もあるのです。またロシアから離れて中国に寄っている国々も現れているのです。☆トランプ氏「デフォルトが起これば、1929年のようになるかもしれない」…債務上限問題で早期対応の考えアメリカ政府のトップに立つトランプは政権発足後の一番の問題は政府の借入金の限度を定めた債務上限の問題でしょう。これを解決するのは非常に難しいはずです。☆トランプ氏、「国家緊急事態」宣言で一律関税か 大統領権限で直ちに発動狙うこれはトランプに打ち出の小槌を与える事になります。日本も安倍に打ち出の小槌を与えた結果とんでもない事に現在なっているのです。後始末が追い付かなにのです。アメリカも同じ事が起きます。アメリカの議会は日本の自民党のように何でもアメリカの言う事を聞くような議会では無いので、与党の共和党の中の少数の良識派もトランプに反発をするでしょう。特に2年後の中間選挙が改選期ではない議員の良識派は強く反発をするでしょう。議会は両院ともに僅少差で共和党がリードをしているだけなのです。トランプは関税発動の脅しをかけ、相手国に不法移民や違法薬物の流入阻止などを求めるためだと言うでしょうが、そのあとは打ち出の小槌を振るいまくる事になるでしょう。だれも止められない独裁者が生まれてしまうのです。民主主義の本家とも言えるアメリカでです!ドイツ議会からのヒトラー内閣への全権委任法と同じものになる可能性を秘めているのです。ドイツは全権委任法により世界で一番優れていると言われていた民主主義のワイマール憲法がありながら憲法の上にヒトラーの総統命令が超越をする事になり第二次世界大戦が始まってしまったのです。☆トランプ次期政権の足かせは「イーロン・マスク大統領」か…国民のプライバシーを軽視する「シリコンバレー発の政治哲学」トランプは自分の利益になる事ならば何でもする男で、そのために法も常識もすべてを平気で無視をする非常識な男とであり認知症の入った精神障碍者でしょう。マスクはかなりひどい薬物中毒として昔から有名なのです。そして二人に共通するところは我儘な独裁者という事です。二人の独裁者が一緒にいる事はありえません。いまはお互いに利用し合っていますが、いずれと言うより非常に近い将来にお互いがぶつかり合うでしょう。☆韓国最大規模の労組幹部は北朝鮮のスパイ、報告文で「総会長」金正恩氏に忠誠示す☆「なぜこんな重大なスパイ事件を国内メディアは報じない?まさか」北朝鮮が反日扇動と『読売新聞』…韓国が注目☆有力な韓国次期大統領候補だが出馬できない可能性も…李在明代表、有罪判決を覆すための2審の弁護人を選任野党の李在明代表が親北である事は公然たる事実です。しかし巨額収賄事件の被告人で一審は有罪となっているのです。周囲に北のスパイが多くいる可能性もあるのでしょう。スパイマスターがマスメディアを狙うのは常識です。何故なら影響力が大きいからです。しかしいま世界的にマスメディアの影響力は落ち始めています。
御苑と仙道御所の紅葉
https://foxpapa.exblog.jp/30544784/2024-12-05 12:00:00 - 家内の用事について京都へ入る。駐車場は確保されているので安心してブラブラすることとなる。1~2時間ほどの自由時間がもらえたので御苑へ行ってみた。そろそろ紅葉も良いころ合いだろう。出町柳の和菓子屋「出町ふたば」さん。朝9時過ぎに前を通りかかったけど、既に行列が3列ほど出来ていた。確かに美味しいけど。それを横目に鴨川に出て見た。黄色い葉っぱが朝の太陽に輝いていた。京都の空は晴天ではないものの日差しが届いてくる。時々強く吹く風に落ち葉がたくさん舞い散り季節が感じられた。これは何の木だったのだろう。今出川通りから御苑に入ると頃合いのいい銀杏の大木がお出迎え。薄暗い森の中で鮮やかな黄色い銀杏が浮かび上がっている。まるでスポットライトを浴びているかのよう。そのまま進むとあちらこちらのモミジが赤々色づき、様々なオレンジ色と相まってとっても豪華な赤色軍団の競演。思わずため息が出た。と、スマホが鳴った。家内からだ。聞いてみると仙道御所の入場ができるけどどうする?って内容。しかも無料。入ってみるか、と言う事になり15時30分入場の許可証を頂いたそうだ。後で聞いたところだけど、どうやら我々が本日最後の許可証を頂けた2名だったようでラッキーなこと。仙洞御所の塀沿いから見えたモミジも立派。取り敢えず周辺を見て回る。いつも行く大きな銀杏の木。ちょっとした広場になっていて木の尊厳が漂っている。前回は木の1/2くらいしか黄色くなっていなかったが、行ってみるとほぼ黄色く染まっている。欲を言うと一部1/8ほどがまだ青味を残していた。後ろから犬の散歩で来られた男性が「もう少しやな」とご婦人にささやいておられ、思わず僕は小声で「そうやな」とつぶやいた。それでも周囲の風景は銀杏の黄色一色に染まり期待は外さない。数分もするとまるで申し合わせたかのように人がやって来た。そして近くの保育園の子供たちも先生と一緒にやって来た。たのしいよなあ。真っ黄色の絨毯の上でかくれんぼかな?この辺りのモミジも赤色軍団。(広角レンズでとると奥行きがでるぞぉ)こんな豪華な赤やオレンジ色ばっかり見ていると、徐々に慣れてきてしまう。これが当たり前になってしまう。日陰に入るとまだまだ青いモミジの葉っぱも見かける。時には緑から赤に移り変わって行く木にも遭遇する。モミジの絨毯や~。まるで宙に浮かんだ模様にも見える。散りばめられたいくつかの色に目を奪われた。丁度足元に切り株があったので、そこに乗っかり上からの鑑賞。モミジは上から見るといいなあ。そして曇り空の時は空を入れないと綺麗に色が乗る。十月桜はそろそろ花の数が減って来ていた。が、丁度いい可愛い花びらを見つけた。白とピンクの2種類が咲いている。これをいわゆる源平咲きというなり~。と2年ほど前御苑で梅を見ていた時どこかのオッサンに教わった。大抵寄って来て教えてくれる親切な人がいる。そしてそれを聞いたオッサンがまた別の人に伝える。まさに口伝。それにしても不思議だなあ。色の異なる花が同じ軸に咲くなんて。白がアルビノなのかな?これを見て紅白で愛でたいと思う人もあれば、源氏と平家と考える人もあれば様々でござる。桜の木にほど近い所にピンク色の花?実?がたくさん。Googleで調べるとセイヨウマユミと言うそうな。そう言えば去年も調べたなあ。Googleってサイトを開けて写真をアップするとしっかり調べてくれる。素晴らしい。そうこうしているうちに家内からお呼びのコール。12月に入ったばかりなのに生活圏の場所は結構混雑している。家内を迎えに行くついでに鴨川にもう一度でて見た。整った色合いになんだかホッとする。15時10分。仙洞御所(せんとうごしょ:せんどうと濁らない)で受付。皇宮警察の警備の方により門が開けられ、観覧者が揃うまで門の中の待合室で待つ。全員が揃ったのを確認され、待合室のビデオが流れ仙洞御所内の案内が始まった。それが終わると案内人の方が来られ外に出て観覧開始。案内の係りの人は皇宮警察の制服は来ておられず、普通のラフな外見。しか~し。目が鋭くとっても強面。まるで太秦映画村の悪役集団の歴史好きな人でも来ているのかと思われるくらい。どんな仙洞御所ツアーになるのだろうとやや不安。説明はかなり詳しくそしてやや面白い。後半戦になると我々も安堵してか力が抜けてくる。ところがアジア系外国人の複数が、周囲の景色の素晴らしさからか係の人よりかなり先に行ってしまい、とうとう警告を受ける事複数回。ここは日本人にとっては元皇居と言ういわゆる特別なところ。だけど外国の人には関係ないのだろう。ツアー最後に一部の人から丁寧な解説に対して拍手が出たとき、係りの人は「気ぃ使わんといてぇ~」と。ウケタ!以前より仙洞御所ツアーは参加してみたかったけど、紅葉と合わせて観覧出来たのはとても有意義であった。北池から回り紅葉橋南池に辿り着くこの池は小堀温州が監修したのだが、後水尾天皇が舟遊びに向かないとの事で、池の周囲を飾ってあった石たちを取り除き改造したらしい。小堀さんはさぞ口惜しかったことだろう。後水尾天皇もご無体な。池の周囲に植えてあるモミジはとても葉っぱがシャキッとしていたが、道を隔てた側にあるモミジは萎れていた。モミジはかなり水を好む植物のようである。H君もそう言っていた。茶室に差し掛かった時、関守石のお話が聞けた。お茶席にお見えになる方に対して、この通路は入らないでください、と言う意味で置いておく石の事。無骨な事を言わなくても判って頂くための心遣いとか。これにツバキの花を添える事もあるそうだ。うちでも車が入ると耐えられない構造のタイル張りに、切り株を置いてあるのだけど、多くの人はそれを倒してでも入ってしまう。今度は関守石を置いておこうか。古田織部が考案したとされる切支丹燈篭があった。同の部分が十字になっていて、土に近い部分にマリア像かと思われる彫り物がある。踏み込まれたときに土をかけて隠すことが出来たのだろう。様々な抑圧を避けながら信仰を続けていたんだなあ。再び出町柳まで戻ったところ、出町ふたばさんの行列は5~6名になっていた。季節ものはもう残っていなかったが、名代の豆餅は残っていた。お仏壇へのお供えも含めて購入。少し塩味がして美味しいんだな。ついでに枡形商店街にも寄ってちょっとお買い物。さて今日はアンちゃんお留守番だから早く帰ってやらないと。やはり12月の夕刻。河原町通りの車はとっても多い。タクシーが交差点の角で車を止めるものだから、どうしてもその後の車は渋滞する仕組み。それにしても昔と比べてバスの運転手さんは優しくなった。昔は怖かったんだから。もう今年の紅葉はこれで御終い。西の空に細い綺麗な月が見えた。もう数時間で沈んでしまう。すっかり冬の空。
積翠園
https://shizukesan.exblog.jp/36179810/2024-10-13 10:00:00 - R ieちゃんとの京都旅、二日目です。朝食後、お部屋でゆっくり支度し、チェックアウト。ここまではスムーズでしたが、雨天のためタクシーの手配に難航しているようでした。コンシェルジュさんが何度かお電話をして下さったのですが、「タクシーGOをお持ちでしたら、その方がはやいかもしれません。」とのこと。早速、試みてみました。しばらく待ちましたが、無事に乗車、目的地まで順調に進みました。向かった先は、フォーシーズンズホテル京都。東山の一角にあり、長い竹垣のアプローチを抜けるとホテル玄関があります。静寂な庭園を持つホテルは、ドラマティックで好きな場所です。このころには、雨は小降りとなりました。R ieちゃんと傘をさし、残りの時間を惜しむようにお庭を散策しました。「積翠園」フォーシーズンズホテル京都内約800年の歴史ある名庭です。↓優美な庭園 「積翠園」は、池泉回遊式庭園になっています。平安時代末期に、平重盛の別邸「小松殿」の庭地として作庭されました。庭園では、舟遊び、花見、月見、雪見、茶会や宴などが行われていたそう。タイムスリップしたかのようにその時代に思いを馳せ、古来からの日本の美意識と樹木との共生を愉しみながら静かな時を過ごしました。予約した時刻が近づきました。写真を撮ったりお喋りしたり…椅子に腰掛け、その時を待ちました。続きます。以前、宿泊した時の日記です。↓
京都旅最終日は京都迎賓館
https://golmeg.exblog.jp/34194050/2024-10-10 10:00:00 - 7月には赤坂の迎賓館を見学したので、どうせ京都に行くなら京都迎賓館も見学しようということになり、8月に京都迎賓館のサイトで一般公開の事前予約をした。当日は京都御苑内にある、あの土御門弟跡のすぐ奥にある清和院休憩所に集合した。動画はNGだけど写真はOK。ガイドさんの指示で、地下へ行き、セキュリティチェックが行われた。手荷物も大きさによっては清和院休憩所のロッカーにしまう。再び玄関に戻り、靴からスリッパに履き替える。玄関の向こうに賓客用の門があった。ここから内部へと入る。まずは藤の間。最も大きな部屋で洋食の晩餐会や歓迎式典の会場としても使われている。舞台の扉は截金(きりがね)の細工が施されている。人間国宝 故 江里佐代子氏の作。グラスはHOYA、銀メッキ食器はノリタケ、洋食器は大倉陶園ナプキンに五七の桐そして桐の間和の晩餐室。全長12メートルの漆の一枚仕上げの座卓。畳のセンターの色が違う部分は中継ぎおもてという高級品。釘隠は五七の桐座椅子の背面にも五七の桐そして庭を見る。廊橋を渡ると鯉が泳いでいる。廊橋の天井には遊び心を感じさせる昆虫たち蝶々かな鈴虫かなとんぼだね。渡り切った先には和舟。賓客に日本の文化の「舟遊び」を楽しんでもらうそうだ。次は聚楽の間。ロビーとして位置付けられている空間。聚楽の間には竹工芸の花籠と、飾り台は漆、螺鈿、竹工芸釘隠の飾り金物最後に夕映の間から見た庭園螺鈿の飾り棚夕映の間は大臣会合などの会議や立礼式のお茶のもてなし、晩餐会の待合として使用されている。そして東西の壁画は、箱崎睦昌の下絵を基に綴織の技法を用いた織物。絵のように見えるけど絵じゃない。織物だ。比叡月映と愛宕夕照日本の歴史、文化を象徴する迎賓館に感動して京都の旅を締めくくった。このあとは軽くお昼を食べてホテルに荷物を取りに行き京都駅へ向かった。じゃあきょうはこれにておしまい。どちらさまも安全で平和な1日でありますように!いつも「いいね」をありがとうございます!ランキングに参加しています。クリックしてくれるとうれしいワン。にほんブログ村