寒月
寒月 | たぬQ見聞録
https://tanuq.fc2.net/blog-entry-105.html寒月 | Higo Kokubunji
http://higokokubunji.blog.fc2.com/blog-entry-1424.html#1345 , available today | 「 風の色・・,空の匂い・・・・. 」
http://japaneez.blog.fc2.com/blog-entry-2516.html・ #1345/ 【 available today 】 ・©“ 撮るじゃん。”all reserved.#snowy #
寒月 | 子ども食堂、そば打ち職人、料理愛好家~熊本県、健軍商店街
http://uozumisin.blog42.fc2.com/blog-entry-10602.html寒月、寒い
寒月夜 | MY FOTO WORK
http://fotowork.blog95.fc2.com/blog-entry-3954.html寒月のバス停 | MY FOTO WORK
http://fotowork.blog95.fc2.com/blog-entry-4994.html寒月 | 猫と絵の田舎的暮らし+化物
http://bunmoumo.blog66.fc2.com/blog-entry-102.html月の孤独 寒月ならばなおのこと
朧寒月 | よりみちふぉと2
http://sako70.blog58.fc2.com/blog-entry-259.html寒月におぼろは似合わない?
| Paedocypris
http://eblanc.blog49.fc2.com/blog-entry-161.html寒月の背中まるめて沈みけり
寒月 | 肩越しの月
http://katagoshinotsuki.blog.fc2.com/blog-entry-1477.html寒月や己を褒める照れくささ 朔
漂話§一日一句~高みから見下ろして~
https://1516reinheitsgebot.seesaa.net/article/2025-01-30-2.html2025-01-30 01:00:00 - 季語は・・・寒月十万里の 寒月孤高 終電車【去年の今日】麥話§昼ビールが呑みたいのですが
愉話§一日一句~満月煌々と~
https://1516reinheitsgebot.seesaa.net/article/2023-02-18-1.html2025-02-18 02:01:00 - 季語は・・・寒月寒月や 踏切渡る 影は野良【去年の今日】瀬話§覗き猪口なるもの
節話§一日一句~存在感冴え冴えと~
https://1516reinheitsgebot.seesaa.net/article/2021-02-18-2.html2025-02-18 02:02:00 - 季語は・・・寒月天頂にあり 寒月の痩せ我慢【去年の今日】過話§備忘録的な何か~2020年2月18日付~
吟話§一日一句~肉豆腐で1杯~
https://1516reinheitsgebot.seesaa.net/article/2020-02-25-2.html2025-02-25 02:02:00 - 季語は・・・寒月寒月の夜 居酒屋の鍋の湯気【去年の今日】懐話§昭和五十年代~リクルートスーツ~
コールドムーン
https://motopion2023.seesaa.net/article/506717353.html2025-12-15 12:30:00 - 12月の満月、コールドムーンを見ることができました。
寒月
http://dokusyopakuri.seesaa.net/article/433506572.html2025-02-07 02:31:00 - 「寒月に 水浅くして 流る川」昭和作品年表(戦前・戦中篇) 現代俳句協会の本を読んでいたらこんな句があった。夏とは違い なにがしら、水は蛇が穴の中に逃げて入ってゆくように急いでいるようにも..
寒月
http://dokusyopakuri.seesaa.net/article/431463125.html2025-12-21 12:49:00 - 箏曲「雲井弄斎 」・尺八「寒月」 (NHK-FM 邦楽のひととき)津軽にも まだ雪が降ってはいない。月の灯りは何故か寂しそう。雪がないからであろうか。しかし 寒いのは寒い。冷え..
吾輩は猫である
http://booksreader.seesaa.net/article/148134868.html2025-04-29 04:13:00 - 吾輩は猫である。名前はまだ無い。で始まる漱石の十一章からなる長編小説。新潮文庫単行本では本文で545頁あります。話がどんどんと展開してのめり込んでいく構成ではなく、あっちこっちに脱..
密命 寒月 霞斬り 【テレビ東京・金曜20:00】
http://dramana.seesaa.net/article/94173019.html2025-04-21 04:53:00 - 番組公式HP : http://www.tv-tokyo.co.jp/mitsumei/index.html2008/04/18 10.7%2008/04/25
寒月
http://tuiterune-sketch.seesaa.net/article/80516782.html2025-01-25 01:50:00 - 今回は冬の夜に輝くお月様を満月を挟んで3日分お届けします。1/20(日)夜から雪が降る、東京でも雪が3cm積もりそうです、と報道されていた夕暮れの横浜大さん橋から見たベイブリッジ上空の十三..
『水沢腹堅(さわみず こおりつめる)
https://shichijuniko.exblog.jp/34425850/2025-01-25 01:00:00 - 1月25日は、七十二候は71候、大寒の次候、『水沢腹堅(さわみず こおりつめる)』の始期です。極寒のピークを迎えて、沢を流れる水さえも氷となり、厚く堅く張りつめる頃。『大寒』の節気は、初候は『小寒』の「芹」に対して「蕗の薹」、この次候は『小寒』の「水泉」に対して「水沢」、末候は『小寒』の「雉」に対して「鶏」と連なり、各々が『小寒』と共通するテーマを取り扱う形になっており、初候や末候では動植物が登場して、春の兆しや微かな気配に意識を向かわせてくれます。一方、次候については、『小寒』の68候は『水泉動(しみず あたたかをふくむ)』であり、目に見えない地中で、時に春の兆候があることを表しているのに対して、今回の71候は、「晩冬」の時季にあって、6つの候の中で唯一、厳冬の風景を表し、自然界の厳しさをストレートに伝えるものとなっています。『立春』の「氷」以来、春の「霞」、夏の「大雨」、秋の「霧」「露」「霜」「霎(こさめ)」、冬の「凍」「雪」と繋がり、「雷」や「虹」も含め、広い意味で20の候が「水」に関係しています。その中で「晩冬」では、自然の水系というテーマにおいて、風景のコントラストが絶妙であり、七十二候全体の中で、この候は厳冬の極み、極寒や酷寒を象徴しております。『小寒』では地中で凍っていた泉の水が少し融けて動き始めましたが、『大寒』の真ん中の候においては、厳冬のピークを告げるように、静謐な氷の世界が出現します。地中や雪の下では春の兆しが始まっているとはいっても、地上は真冬そのもの、全国的に寒さの極致を迎え、油断ならない正念場の時季が到来したことを人々に伝えているようです。この時季は、強い寒気が日本列島に流れ込みやすい時期であり、朝晩に氷点下に達する地域も広がって、年間の最低気温を記録することも多くなります。日本において観測史上で最も低い最低気温はマイナス41℃、北海道旭川にて、1世紀以上前の1902年、日付は正に1月25日に観測されています。また、一日の最高気温が一年で最も低い水準になるのも今時分であり、観測史上最低位の一日最高気温も、1936年の富士山のマイナス32℃を筆頭に、1月下旬に集中しているようです。マイナス40℃やマイナス30℃を越えるというのは、普段の生活からは想像を絶する世界ですが、程度の差はあれ、毎年、一年で最も寒さの厳しい時季を迎えていることがわかります。ご存知の通り、外の温度が氷点下に下がっていく中で、水が凍って氷となり、氷は水が固体状態になってできます。水の結晶は、水素結合という原子同士の特殊な結合をベースとしておりますが、温度や圧力の領域に応じて、水素結合の配置の仕方や密度が変わってくるようです。一般的にはあまり知られておりませんが、科学的に分析すると、氷には水素結合の状態に応じて様々な種類が存在し、これまでの研究でわかっているだけでも、氷には宇宙に存在するものも含めて17の種類あるとのことであり、今後、更に新たな多形の氷が発見される可能性もあるそうです。氷には、様々な呼び方があり、地上にできた氷としては、「霜」や「氷柱(つらら)」が一般的ですが、樹木に付いた場合は「霧氷」や「樹氷」と呼ばれます。沢の水など河川の水は凍ると「河氷」、湖の水は凍ると「湖氷」、海の水は凍ると「海氷」と呼ばれ、北海道のオホーツク海沿岸でこの時季から観測され始める「流氷」は「海氷」の一種です。滝の水が凍ると「氷瀑(ひょうばく)」と呼ばれ、引力で勢いよく落下していた水が凍りついて、辺りの情景は動から静へと一転します。自然が創り出す美しい造形の風景は、「氷瀑まつり」が開かれる北海道の層雲峡をはじめ、東北各県や関東の一部の県などで見られ、全国各地で貴重な名所となっております。「寒中」においては、昔から僧俗を問わず「寒行」または「寒修行」が行われ、各地で武道や音曲などの「寒稽古」や「寒中水泳」が実施されてきました。一年で最も寒いこの時季に、寒さから逃避するのではなく、寒さに積極的に向き合って、寒さに耐えて打ち克って、精神を鍛練しようという習わしです。古典俳諧の世界からは、69候の「雉」、70候の「蕗の薹」に続いて、江戸時代を代表する三大俳人、芭蕉・蕪村・一茶を取り上げて、極限の寒さや冬の風景を表す俳句を紹介します。 「から鮭も 空也の痩も 寒の内」 松尾芭蕉 「寒月や 門なき寺の 天高し」 与謝蕪村 「見てさへや 惣身にひびく 寒の水」 小林一茶芭蕉の句のみ解説しますと、「から鮭」は、寒中に作られ、痩せ細ったものの象徴のような風物であり、「空也」は、「空也上人」その人というより、冬の間に48日間の寒中修行で街を行脚する「空也僧」を指しているそうです。腰に瓢箪をつけ、鉢を叩きながら、念仏や和讃を唱える「空也僧」と「から鮭(干鮭)」を結びつけて、「痩(やせ)」という表現と「か行」で始まる五・七・五で、「寒の内」の乾燥して寒気・冷気の極まった情景を見事に表しています。真冬の極み、氷点下の世界が到来し、辺りには氷雪の風景も拡がりますが、俳句の世界では、この時季に「春隣(はるとなり)」という季語も使われるように、あと2候で「立春」を迎えます。目には見えていなくても、すぐ隣まで来ている春を感じながら、寒さに備えつつも、寒さに負けず、しっかりと対峙して、凛とした心を持って、厳冬を乗り越えていきたいものです。近年は、電力需給ひっ迫と電力料金の値上げの動向に関して簡単なコメントをさせていただいております。電力需給の方は、4年前に冬場中心にひっ迫する深刻な事態があり、3年前には初めて「電力ひっ迫警報」が発令され、冬には全国最大需要を更新したものの、各エリアとも安定供給を確保して需給ひっ迫は回避されました。毎年の追加供給力対策が更新され、節電効果もある中、一昨年は夏に記録的暑さの影響が心配されたものの電力需給は改善安定、昨年は夏冬とも予備電力率3%以上を確保、猛暑で最大需要は増加傾向ながら、総じて需給は安定的に推移しております。電力料金の値上がりの方は、脱炭素で再生可能エネルギー導入が拡大する一方、化石燃料の火力発電の投資が減退、加えて3年前からはロシア・ウクライナ問題の影響や急激な円安進行を受けて天然ガスや石炭などの燃料価格が大幅に高騰、インフレ傾向が進む中、家計の負担が大幅に増加し、企業のエネルギーコストも急激に上昇し、深刻な問題となり、その後も高止まりする中、政府の支援補助策も何度か発令され、負担が部分的には抑制されております。具体的には、一昨年からは、政府の家庭・企業の負担軽減の為の支援(激変緩和措置)が適用され、燃料調整費が下がり、値上がりの影響は緩和、その後、緩和効果が段階的に低下・消滅した後、昨年夏には期間限定で酷暑乗切り支援が発動され、また今年1月からは負担軽減支援の補助金が適用されております。そうした中、ユーザーサイドでは、冬と夏の季節を通して節電の意識と行動が着実に浸透・定着してきているようです。今年も、極寒の時季を迎えて、先ずは、健康の維持が最優先ですので、身体を温めるのに大切な暖房を有効に活用することを基本として、無理な対応は避けるべきとは思いますが、一昨年以来、国民の間に浸透してきている節電意識を風化させることなく、例えば、省エネに資する機器を導入する、重ね着をして暖房温度を調整する、不要な照明は消すなど、生活に支障のない範囲での節電を心掛けたいものです。また、この機会に、日本のエネルギー政策にも改めて一層の関心を持ち、エネルギー安全保障問題への認識も高め、電力の安定供給と電力料金の安定化、電力自由化との両立などの課題に理解を深めつつ、長期的視点から大きな潮流を踏まえて、時流に流されず、地球温暖化対策として脱炭素へのエネルギー転換推進を着実に図るなど、エネルギー政策の全体像と重要テーマへと視野を広げ、適切かつ地道に行動していくことが大切と思う次第です。地球に優しい環境対応印刷を推進する久栄社では、環境問題に取り組む必要性や、自然の尊さをお伝えしたいと考えております。このブログでは、四季折々の風情ある写真にのせて、古代中国で考案された季節の区分である七十二候をお届けする「七十二候だより」を連載しております。お忙しい日々の気分転換に、気象の動きや動植物の変化など、季節の移ろいを身近に感じていただけましたら幸いです。\\\ ぜひこちらも合わせてご覧ください ///▼運営会社久栄社のサイトはこちらhttps://www.kyueisha.com▼久栄社のFacebookはこちらhttps://www.facebook.com/kyueisha▼お問い合わせフォームはこちらhttps://www.kyueisha.com/お問い合わせ/<お問い合わせ先> 株式会社久栄社 TEL:03-3552-7571(代)受付時間/9:00〜17:30
1月15日(水) そこそこに全入
https://hagiwa.exblog.jp/243353410/2025-01-15 01:00:00 - 観月にいい,とでもいうのか,あるいはそれこそ寒月が東に浮かんでいます。強い北風で雲が吹き飛ばされた寒空の下,私を煌々と照らしている中,帰途に就きました。昨夜,今夜と満月の見応えがあります。学生にはスマホなんぞ見なていなで上を見上げろと言っているのですが,今の世代には無理な相談も。 大学全入時代とか言われます。あったり前。何をふざけたことをほざいているのか。さんざん増やしておきながら…この10年だか20年だかで大学は30校増加しているとか。全入をもたらしたのは文科省。全入が悪いとは言い切れませんが,おかしな話。数字的には,よほどの低学力でなければ入れるだけの学校があるということ。常識的感覚(いや,私の感覚に自信はありませんが)からすると,設立を認可した役人さんたち,そして関係の方々,どうかしています。それでもって今またどこかの県が公立大だか何だかを設立するとか聞きます。地元の若者を引き留め,県内就業を促し,活性化を図るためとか。あぁ,残念。悲しいかな,まだそういう発想,幻想が跋扈しているかのようです。私に妙案はありませんが,どこか違う気がします。そもそも若い人が外の世界に行きたがるのは無理もないこと。 全入時代なら当然,学生レベルは低下。都市部の著名校でさえそれを避けられず,全体では一部の優秀な学生とろくに学ばない学生という学力の二極化が進むのは当然の帰結。定員割れや廃校も必然。となると,学生確保のために何としても留学生を増やそうとするのが道理。結果,日本人のための学校ではない大学が地方を中心に目に見えて増加中。留学生がほぼ100%という名ばかり,どうしようもない低レベル学校も渋谷ほかにありますし(申し訳ないですが,はっきり言ってしようもない留学生に人気),数年前から質の低下が著しくなっていた大学院も日本国内で一気に広がりつつあります。学力崩壊ではなく,大学・大学院崩壊。ろくでもない。ずうっと予想されていた結果なのに,何のため,だれのための高等教育機関なのか,日本のためなのか,存続のための海外学生の受け皿としておかしなwin-winを目指すのか,まったくもってポリシー無し。本末転倒。そんな学校はなくなればいいのにとも思います。それが日本のため,大学のため,人のためでは。目下の趨勢が加速化しない理由がないでしょう。極論でしょうか。 思えば,私が留学生の進学指導を担当していた10年以上前に比して,出願期間がぐっと前倒しに。驚くほど。ぞろっと10月出願が。9月出願もごくふつうになりました。中小校は受付期間を後ろに延ばしもしたりして,何とか確保を狙います。早く確保しようと,それは必死。でも,おかしい。こんな現象は,いろいろ御託を並べて増設を認めた稚拙な教育政策と,それをごり押ししただろう関係者や支援企業が招いた必然。そのツケを結局国民が払わされることになるのなら,たまりません。下手したら税金による補填や,日本の大学・大学院,すなわち教育,研究への評価のいっそうの下落にもつながりそう。きれいごとかもしれませんけれど,間違っています。留学生のための日本の大学・大学院ではない。こんな私,学部時代はたいした学生ではなかったのですが,大学院ではそこそこまじめに研究したつもりですが…。とにかく,失政,失敗したのはお偉い人たち,皆さまの無責任のせい。
浅草の東 隅田川をはさんで向島・スカイツリー界わいをブラリ ー 文人・墨客の旧居跡を訪ねてみた…
https://chikusai5.exblog.jp/34404725/2025-01-13 01:00:00 - 向島という地名の由来は、浅草から見て隅田川の向うにある雅な街から来たのだという(幸田露伴、淡島寒月、吉川英治、依田学海、成島柳北などの文人・学者が多く住んだことから、期待してブラリしてみた…)。江戸時代の名所図絵から風光明媚なところをイメージしていた…。冒頭の写真は言問橋(ことといはし)からスカイツリーを臨む。向島には料亭が多い言問小学校を目印に依田学海・榎本武揚の住居跡を探す目的の記念碑(依田学海・成島柳北)は小学校の西にあった。荷風の日記を読んでいると成島柳北の名が度たび出て来る(名前だけは知っているが…)依田学海旧居跡の記念碑学海劇場の始まり…はじまり … 学海先生、風光明媚な向島(隅田川東岸)を散策しながら…【 依田学海 】「こゝらによひ家はありませぬか。わたしは向島に住居して見たいと思ふて、たづねてきました。」と、通りがかった寺の門前で、坊さんに尋ねる学海。【 坊さん 】「やれやれ、ようお出なされました。わたしの庵をおかし申しましゃう。ゆるゆる御さがしなされませ。…よひ家もござりませねば、別に御建てなさるがやうござりませう。」依田学海って誰? そして『墨水別墅雑録』とは?学海先生、向島に柳蔭清蘆を築いたのは、明治八年四月の頃。学海先生は元佐倉藩の藩士。維新後に向島に自邸を建てた(本宅は神田小川町?)。その広い庭には桜・梅・秋海棠・サルスベリ・芭蕉があり、池には蓮が花開いていたという。著作として最も有名なものは膨大な日記『学海日録』がある。その日記の面白さは永井荷風の『断腸亭日乗』に比肩するが、その内容はちと難しい(酒ばかり飲んでいる記述があるけどネ)。しかし今回は別な日記、向島に愛妾と過ごしていた時の日記『墨水別墅雑録』(ぼくすいべっしょざつろく)から気になる文を選んでみることにした。この日記、何故だか知らんけど…韓国で発見されたのだと言う。全文を漢文で書いている。これぞ珠玉の日記。前にも書いたけど、森鷗外や佐々木信綱(たしか夏目漱石もそうだったような)も学海先生から漢学を学んでいたというから、漢文の素養はかなりのものだったのだろう。↓ 江戸名所図絵に描かれた向島(左側の中央あたりの寺が長命寺。その右隣の寺が弘福寺のようだ)依田学海の別墅は長命寺の東 ー 榎本武揚邸の隣にあったそして学海先生の旧居跡の北隣には…(昔は隣だったのだろうが)ライオンズマンションが…ついでやし小学校の周りを一周してみたわたしのような庶民向けの店もある正月三日、昼間から開いている店もある電柱には上のような案内板をいくつか見かけたけど、なかなかたどり着けなかった。反対側には依田学海旧居跡の案内板が…検番通りを北に向って歩いていると、弘福禅寺が…隅田川七福神めぐりで賑やかな雰囲気である正面のお堂に布袋尊が祀られている何やら大道芸らしき演者が…正月らしい演目を(賑やかでよろしいなァ)後で調べて見たら浅草雑芸団というようだお堂から主屋越しにスカイツリーを臨むここ弘福禅寺は淡島寒月とその父小林椿岳ゆかりの寺なのださて今日の目的の一つは淡島寒月という人物のことなり…少々長いので興味のない方はスルーしてくだされ淡島寒月と言ってもほとんどの方は、名は聞いたことあるような…明治期の小説家だったかな、と思い出すのがせいぜいの所だろう。その寒月氏、まだ生きているのに "日就社新聞" (読売新聞の前身)に弔いの文が載ったことがあるらしい。まずは淡島寒月の訃報(?)を"日就社新聞" を読んで知った依田学海先生の文を紹介しよう…" 明治23年8月6日 晴れ書を曝す。炎暑甚だし。驟雨時に来たる。夕陽まさに落ちんとし、荷風涼を生ず。この頃 "日就社新聞" を読む。人の淡島寒月を弔うの文字あり。真否を知らず。寒月は愛鶴軒と号す。小林椿岳の淡島に在りし時、生む所。後に椿岳淡島氏と絶つ。寒月器識奇褊、禅理を喜び井原西鶴の著書を愛し、多くその書を蓄え、よって以て号と為す。時に文字を作れば、西鶴に彷彿たり。幸田露伴・尾崎紅葉みな寒月によりて始めて西鶴の書を読むを得て、深くその人となりを愛す。寒月は家 甚だ富む。然れども四壁蕭然。机上塵積もること数寸。破窓紙糊。煤痕墨の如くなるも、以て意と為さざるも、また奇人なり。"…『墨水別墅雑録』より※ "日就社新聞" とは読売新聞の前身。日就社は1870年(明治3年)横浜で誕生。後に本社を現在でいう東京都港区虎ノ門に移した。また、『墨水別墅雑録』明治28年2月28日の日記には…" …淡島寒月を弘福寺(近所にある寒月の住居)に訪い、談話す。寒月云う、 僕初め生を厭いて死を楽み、すこぶる物外の情有りしに、近ごろ ようやく生を愛し死を畏るるの意有り。おもえらく此の世に生るるは、最も遭い難きの幸いなり。聞く、内外の人城内に雑居し、われまさに営生に競争せんとすと。余則ち曰く、死生自ら主(つかさどる)を得ず。生を厭うといえども、あに自殺することを得んや。死を悪むといえども、あに寿を延すことを得んや。寿夭は天也、ただ渠(カ・みず)の為す所に任ずるのみ。生きて人の厭う所とならず、死して患を人に貽(のこ)さざれば可也。乃翁椿岳(寒月の実父)の晩年の如きは殆ど此の如し、余すこぶる其の為す所に服せし也と。寒月もまた以て然りと為す。…"寒月は奇人か ー 露伴の弁さて、淡島寒月氏は「奇人」ということらしい。その奇人のことを友人である幸田露伴氏はどう語っているかと言うと…" わが友といっては少し不遜にあたるかも知れないが、まづ友達ということにして、淡島寒月という人は実に稀有な人であった。やゝもすれば奇人の称を与えたがる者もあるが、奇人でも何でもない、むしろ常識の円満に驚くばかり発達した人で、そして徹底的に世俗の真実が何様なものであるかということを知悉した人であった。……はやくそういう境地に到り得ていたのであったのは、裏面の消息はもとより知らぬが、けだし天稟の聡明さが然らしめたのであろう。"幸田露伴翁は大の西鶴好きであった。その西鶴を知るきっかけは、北海道(余市)の職場から東京へ逃げかえってきて(小説家への夢断ち切れず?)、家にいたたまれなくて、湯島の図書館通いで寒月氏(寒月のほうが年長)と親しくなり、西鶴の本を見せてもらったことによる。また、北海道から東京へ戻って来るまでの道程を、失敗を折混ぜて随筆に書いている。明治20年頃の話なので、青森から郡山(郡山からは汽車で)まではほとんど徒歩で移動。この『突貫紀行』もまた面白いので興味があれば読んでみることを薦める(全集でしか読めないかなあ)。わたしは露伴の旅好きを全集を読んで知った。今では全集の中古価格はタダみたいなものなので、置くスペースがあれば買って読んでソンはない。淡島寒月の西鶴愛!?西鶴の面白さを教えた寒月氏は、西鶴こそ四大恩人の一人だったいう。当時(明治十五六年)西鶴本は人気がなかったのか、それとも過去の人だったのか、なかなか本が手に入らず、それでもしつこく下町の古本屋通いで見つけ出したのだという。西鶴への愛半端なく、一時期は愛鶴軒という号を使っていたほど。集めた西鶴本を「私は幸田、中西、尾崎の諸君に手柄顔をして見せたものであった。そうして西鶴を研究し出した諸君によって、西鶴調なるものが復活したのである。これは、山田美妙斎などによって提唱された言文一致体の文章に対する反抗となったものであって、特に露伴君の文章なぞは、大いに世を動かしたものであった。……純粋に西鶴風なものは誰も書かなかったが、誰からともなく西鶴が世の中に芽をふいたのである。」「私は元来小説よりも、新しい事実が好きだった。ここに言う新しいとは、珍しいということである。西鶴の本は、かつて聞いたことのない珍しいもので満ちていた。赤裸々に自然を書いたからである。人間そのものを書いたからである。ただ人間そのものを書いたきりで、何とも決めていないところに西鶴の妙味がある。これは俳諧の力から来たものである。……」※淡島寒月著「明治十年前後」より引用淡島寒月の功績淡島寒月氏が世に残した功績の一つに、あの井原西鶴を明治以降に世間に知らしめたことを忘れてはならないだろう。大音楽家でさえ死後長い期間忘れ去られていたということもあるので、忘れやすい日本人のことだ西鶴を忘れていたということも十分あり得るだろう。寒月氏…青年露伴を依田学海に紹介する寒月は、学海と親しく交わっている父の小林椿岳との関係もあり、露伴(幸田成行)より先に見知っていて、二人は気が合っていたようだ。寒月が青年露伴を紹介するくだりが日記に残っている。そこには寒月のことも…明治21年12月20日…椿岳の子の淡島氏を称する者、文才有り、かつ禅理に通ず。その友人幸田某「幸田成行」を薦め、著す所の小説『露団々』を示す。奇甚だし。余に一言を請い、余ために此の序を作る。…「露団々。露に非ず、これ白玉也。又尋常の珠玉に非ず、是れ連城の壁なり。……今その著す所の露団々を読むに、警抜奇寯、咳唾珠を成す。けだし自笑西鶴の技量を以て、倪捏儒斯之精神を兼ね、落想天外より来たり、奇思毫端に湧く。もし美妙子とともにくつばみを連ねて中原を馳駆せば、知らず鹿誰が手に落つるかを。抑も聞く、金茎之玉露、漢武一滴を服し、以て凡骨に換うと。此の書を読む者は、吾知る、心気縹緲として、凌雲之想有らんことを。」※この出会いの叙述は露伴の随筆の内容とちょっと違うような気がする。でも「露団々。露に非ず、これ白玉也。又尋常の珠玉に非ず…」なんて…漢文で書いているんだからいやあ大したもんだ(お前が言うなって^^;)。なぜ寒月氏は浮世草紙を一万巻も読んだ?さて…少々引用が長くなった。そのついでに…寒月氏は「浮世草子を一万巻は読んでいると思う」と語っているが、なぜそうまでして浮世草紙などを読んだのだろうか。「…実は若い頃は、あちらの文明に憧れたあまり、アメリカへ帰化したいと願っていたことがある。アメリカへ行くと、日本のことを皆から聞かれるだろうと思ったものだ。そこで、実は日本のことを研究しだしたのである。私の日本文学の研究の動機の一つは、まったくそこにあったのである。」という。ここまで書いて来て、寒月の実父・小林椿岳翁のことを書かないのも手落ちかなあと思って、ちょっとだけ調べて見た。これもまた『墨水別墅雑録』からの引用で…" 明治17年11月29日…小林椿岳翁を弘福寺に訪う。翁は瀟洒の人也。かつて淡洲堂に寓して僧為り、既にして去りて此に来たる。最も戯画に妙なり。ついに偕供(とも)に余の草蘆に帰る。その女小城と月琴を弾ず。明治18年8月7日午後、小林椿岳を弘福寺に訪う。聞く、椿学 家を其の子に付し、薹(とう)を担いて漫遊せんと欲すと。けだし椿岳 少年にして豪奢、酒色に飽くに非る者は酒色を絶つ能わず、苦楽を経るに非る者は苦楽を軽んずること能わずと。明治22年9月本月21日、小林椿岳老人墨水弘福寺の草蘆に死す、70歳。"さらにさらに…とうとう淡島寒月氏もこの世から去ってしまった。で…幸田露伴 淡島寒月を語る大正15年2月3日に淡島寒月が亡くなり、露伴翁が本間久雄氏の依頼により「淡島寒月」という文を書いている。その紹介をもって、そろそろこのブログを閉じたい。" 寒月氏は今年七十歳を以て二月二十三日に永逝した。本間久雄氏から、予の知るところの寒月氏を伝えてくれと依頼を受けたので、ほんとにたゞ予の知れる限りの寒月氏を有りのまゝに思出づるまゝに記す。氏の若い時は無論予は知らぬ。しかし氏から聞いたところでは、氏はごく若い時は当時のいわゆる文明開化の風の崇拝者で、今で云えば大のハイカラであったのだ。なんでも西洋風の事が好きであったとの事だった。氏の父の椿岳氏がまだ西洋楽器がろくに舶来せぬ頃、洋楽の曲を弾奏する日本人などの全然無かった時において、ピアノだったかオルガンだったか何でも西洋音楽をほとんどイの一番に横浜で買込み、それから又 西洋風の覗き眼鏡を買って、浅草公園で人に観せたことが有ったという事実などに思合わせて、如何にも文明党だったろうとも思われる。しかし予が氏を知った時分は、氏は既に日本趣味の人であった。今でこそ「燕石十種」は刊本にもあるが、その頃は写本のみであったし、大冊六十冊の完本は非常に珍稀であった。それで氏はそれを図書館で毎日毎日気長に楽しみ楽しみ影写していられた。毎日借覧する本が定まっているので、図書館の出納係りから云えば、まことに手数のかゝらぬ好い閲覧人で、いつとなく燕石十種先生という綽名をつけられたが、予輩の如き卒読乱読者流の出納係に手数をかけること夥しい厄介ものとは違って、館の人とも自然にねんごろにしあっていられた。絵は椿岳氏(画家・実父)から学ばれたのか何様か知らない。が、後に至って自然と何処か椿岳氏と血脈相ひくところの画を作られたのに比して、早い頃のものは画は真面目な、手際のきれいな方のものであった。読書はヘチ堅いものの方へは向われ無かったが、美術、文学、随筆、雑書方面へは中々広く渉られ、文学は徳川期、美術は奈良あたりまで、ことに美術の方は書籍研究のみで無く、実物研究にも年月を過されたから、その鑑識眼は実技上の知識が内部から支持するのと相まって、直覚的にばかりで無く、比較的にばかりで無く、精髄から出発して看到するところの中々手強いものが有った。世間欲が盛んで、書画骨董でも取扱った日には、学問も文字も相当にあり、愛嬌もあり、聡明怜悧の人であったから、たしかにに巨万の富を獲るに足るのであったが、それでいてその様な事で利を得る人を冷眼に見るような傾きが有って、そんな事を敢えてしなかったところは、一ッは生活難が無かった為でもあろうが、氏のおもしろい気風のところであって、傲岸の気味の無いでも無かった依田学海氏などの氏を打ち寛いだ好い友人とした所以であった。文学に於いても矢張りその気味があって、根深く手を染めていれば、多数で無いにせよ、必ずや一部二部はこの人で無ければ書けないというようなものを留めたのに相違無いのに、西鶴ばりの「百美人」だのなんだのというのを一寸書いた位で終って仕舞ったのは、それも却ってその一生が幸福で有った証拠で目出度いには相違無いが、少し残り惜しい気がする。俳諧なぞも芭蕉以後のショボたれたようなのは嫌いで、宗因風のいわゆる檀林がゝったのを、我流でホンのよみすてに吟出するに止まったから、永機なぞと知合ったにもかゝわらず、俳諧もおもちゃにするに過ぎなかった。エラがって、おれの俳諧は真剣だなぞと云いながら、好い句も作れぬばかりで無く、審美眼さえまだ碌に開いていないような人々とはまるで行き方違っていて、勝手に遊んでいたという風なので、句も 行水は その日その日の 湯かん哉というようなのが多い。人類学を研究するなぞという然様いう肩の張った訳では無かったらしいが、原人土器採集や比較などにも興味を有して、散々近在へ出掛けられたが、予は土器いじりは好まなかったから余り知らぬ。しかし一日、土器破片を氏が模造しているのを見て、実にその好事に驚いた。何千年も前の土器の破片を模造して、そして楽しんで居る人が、他に何所に有ろう。すべてこの様な調子で自ら娯んでいたのが、氏の面目で有った氏の一生を通じて、氏は余り有るの聡明を有していながら、それを濫用せず、おとなしく身を保って、そして人の事にも余り立入らぬ代わりに、人にも厄介を掛けず人をも煩わさず、来れば拒まず、去れば追わずという調子で、至極穏やかに、名利を求めず、ただ趣味に生きて、楽しく長命した人で有った。中年頃の氏が蔵書に富んで、そしてそれを余輩などに貸与することを惜しまず、無邪気にして趣味ある談話を交換することを厭われ無かったことは、今なお追懐やまざることである。"(大正十五年四月 雑誌早稲田文学)弘福禅寺のすぐ北隣には長命寺があり、七福神のうち弁財天が祀られている(寺の入口には幼稚園の表記もある)。境内には数多の石碑が建っている。芭蕉、蜀山人、十遍舎一九などにまじって、なぜか木の実ナナさんの歌碑もあった。そして長命寺のすぐ西(墨堤)には彼の長命寺「桜もち」を商う茶店が…この店の二階に正岡子規が仮寓していたのだとか長命寺「桜もち」が好きだった有名人とは?長命寺「桜もち」が好きだったとういう有名人には葛飾北斎がいる。北斎は酒を嗜まず、甘いもの好きだったという。その「桜もち」はどのようなものかと言うと…丸くて小さい薄焼きのクレープの生地に餡子玉が入っている姿といえば分って貰えるだろうか。京都の道明寺粉の生地に慣れている者からすれば「ふーん?」という感じかな。餅(?)は桜の葉っぱ三枚で包んであって、開けてのお楽しみ。まずは匂いを嗅いで鼻と目で桜を想像し、もちを食べて春を感じると言えばいいのかな。江戸時代にはこれが珍しかったのだろう、墨堤の名物となったようだ。その驚愕の姿に写真を撮っとくことを失念してしまったわい。墨堤には、他にも団子や餡入りの草餅を商う店がある。小沢昭一氏が伝えた小噺が "山本や" に残っている…ある人、桜もちの皮(葉)ごと食べるを見て、隣の人が言うには、「旦那、皮をむいて食べたほうが美味いですよ」「ああ そうですか」と、そのまま川の方を向いて食べたんだとか…※若い頃…皮をむかずに食べたこともあったなあ^^; ちなみに小沢氏の墓は弘福禅寺にある。墨堤に桜の木を植樹したわけは、堤に人を呼び、多くの人々が歩けば堤は踏み固められて強固になる、ということを何かの本で読んだ覚えがあるけど、さて真相は?吾妻橋より言問橋・向島の方角を臨むスペースシャトルを彷彿するような遊覧船である。夕闇に沈む駒形橋(吾妻橋より臨む)【 参考図書 】 依田学海著『墨水別墅雑録』…吉川弘文館 『学海日録』…岩波書店 『露伴全集』…岩波書店 その他【芸術・デザイン部門】応募
墨東の花街 向島にもあった いけず石 (何の変哲もない) とリアル?
https://chikusai5.exblog.jp/34397324/2025-01-08 01:00:00 - 年末年始を東京で過ごしていた。親戚の家の庭木の枝落しやら、雑草の刈り取り、大掃除などはいつものことだけど、年が明けたら…さて何をしようかと考えた。そうだ…永井荷風の『濹東奇譚』に出てきた隅田川の東あたりを散策してみようか、なんて思いついたのだ。そして正月二日に曳舟駅を基点に、まずは長命寺を目指した。長命寺さくら餅と云うものを一度は食べてみようと思ったのだ。そして…隅田川方向に向かい、水戸街道を越えては見たものの、スマホで地図アプリを開いてみたけど、どの道を行けばよいのかサッパリ分らない。スマホを見るのをやめて勘を頼りに右往左往。おかげで沢山カメラのシャッターが切れたけどネ。…で、初めて見る東京での「いけず石」である? 迷い込んだ道はかつては花街の一角だったのだろうか、家には独特の意匠の残滓のようなものを見出した。そして路地の入口には「いけず石」。これが京でいう「いけず石」なら花街にはチト地味な石でナイかエ?窓や玄関には置屋か待合? だった頃の面影が…(妄想全開ですね)なんだか京都の花街、上七軒の裏路地を歩いているような感じ…昔だったら、夜になると三味線の音が響いてきたりして向島の名の由来は?向島という地名の由来は、浅草から見て隅田川の向うにある雅な街から来たのだという(幸田露伴、淡島寒月、吉川英治、依田学海、成島柳北などの文人・学者が多く住んだことから、期待してブラリしたんだけどね…^^;)。江戸時代の観光名所図から風光明媚なところをイメージしていたんだけど、現状は雅というよりは…?さらに向島は江戸時代から花街として栄え、料亭、置屋などが多く軒を連ねていたんだと。さらにさらに、向島は在籍する芸者数が東京で最も多い花街(東京の芸者の半数近くを占める)なんだと…知らんかったなァ。どうりでいたる所に割烹・料亭などの店があるわけだ。やはりそれらしい家の造りかなあ…好きなんだなあ…こういう雰囲気^^;墨堤(隅田川)方向から眺めるとこんな感じのところ…つづきがあるやも知れません
日々の事 12月の満月
https://sekimama.exblog.jp/33642220/2024-12-17 12:00:00 - 12月17日(火)今年最後のPC勉強会で国立へ。国立駅のいつもの風景の変化は、木々の葉もすっかり落ちて、夜はイルミネーションに輝くらしい!以前だったら、お茶をして暗くなるの待って楽しんだりしたが、今は危ないから早く帰ろう~・・・と。今日の勉強会は6名の参加、私は認識できなくなったHDDを持って行き、復旧を試みてもらいましたが、データ復旧はできませんでした・・・「これも勉強」、と皆さんが長い時間付き合ってくれました。<(_ _)>その後、スマホでの知識の交換。Kさん、Mさんの紅葉の動画と写真を見せてもらいました。こうして一ヶ月に一度でも顔を合わせて、お喋りする事が高齢者には、刺激になり健康の秘訣かと思い、続いている勉強会?です。♪12月15日(日)冬らしい天気が続いています。夜中にベランダに出ると明るい月、もしかして「満月」!急いでコンデジでパチリ・・・寒い夜空にクッキリと輝いていましたが、寒くて写真を撮るだけでした。12月の月は「コールドムーン(寒月)」そして16日の21時30分の月、右上が少し暗くなっているように見えます。
20241215 満月
https://tarizumi.exblog.jp/34350141/2024-12-15 12:00:00 - 20241215満月ひんやりと澄んだ夜空に浮かぶ今年最後の満月ですColdMoon/寒月もわかり易くて12月の夜空にはぴったりの呼び名願いごとはビリヤードが上手になりますように‼︎手球に見える今夜の満月(笑
70回目のお茶のお稽古
https://hikagesun.exblog.jp/33633603/2024-12-06 12:00:00 - 12月5日の木曜日(昨日)、70回目のお茶のお稽古がありました。お稽古は、炭点前のお稽古と、花月のお稽古と、薄茶棚点前のお稽古でした。◇炭点前が少しずつですが、好きになってきました・・。利休百首を読んでみます。「炭置くはたとへ習いに背くとも湯のよくたぎる炭は炭なり」 歳月不待人 からすうり 花月のお稽古の楽しくも難しいです。頭が混乱してくるのです。 花月で用いる「折据(おりすえ)」 お茶のお稽古の楽しみのひとつお菓子◇今回のお稽古のお濃茶は、次客の方と回し飲みでいただきました。コロナの時期は、一人ひとりのお茶碗でいただく各服点てだったので、ひさしぶりの回しいただのが新鮮かつ、不慣れでとまどいました。 龍隠庵本堂に掛けられたお軸「林間暖酒焼紅葉」りんかんにさけをあたためてこうようをたく 龍隠庵本堂の窓から見える紅葉今年の円覚寺の紅葉は何年ぶりかの素晴らしさです・・・。 お茶のお稽古の途中、龍隠庵ご住職による法要がありました。ご住職の説法はとても勉強になります。上の写真は、龍隠庵の菩薩様「聖観音菩薩坐像」(室町時代・16世紀頃)今年の9月から11月まで横浜市歴史博物館「寳林寺東輝庵展」に展示されました。とても美しいお顔です・・・。 「庭寒月色深」(にわさむくしてげっしょくふかし)気温が下がり庭が寒気で満たされると月光が澄み渡り、その輝きは深い色を増すばかりである。 龍隠庵の境内の紅葉 円覚寺の銀杏も美しく色づいています。 円覚寺の総門の前に書かれている「板村真民」の言葉・・・。いつも読んで感銘を受けています。◇冬生まれのしんみんよ冬の持つきびしさを身につけよ老いてもこれを失うな風雪に耐える冬の木であれ◇
庭寒月色深
https://mu1motsu.exblog.jp/37068414/2024-12-01 12:00:00 - 庭寒月色深堀内不識斎筆=======================【精進懐石 無庵】www.kaiseki-muan.com静岡県周智郡森町問詰832-3TEL・FAX 0538(84)6308mail muan@bf6.so-net.ne.jp〔御食事〕正午懐石・6000円夜咄懐石・7000円〔無庵茶事〕2名では御一人様 16000円3~4名では御一人様 11000円=======================
黄色いダリアいろいろ☆町田薬師池公園四季彩の杜ダリア園
https://sanjarattonew.exblog.jp/36612583/2024-11-07 11:00:00 - 過去画像からの更新です。 町田薬師池公園四季彩の杜ダリア園 今日は、黄色系のダリアです。 ※ 色分けは私の独断と偏見によるものです。多少疑問に思われても悪しからず。01.一等星02.アンブレラスノー03.月の使者04.寒月光05.ミネソタマイグランド06.ビッキー07.ボナ ベンチャー08.山開き09.黄望10. ?11.夢結台12.爽(そう)13.のこんの月14.筑波三日月★ブログランキングに参加しています。 記念にポチッ☆としていただけたら幸せです。 にほんブログ村