同道

同道・・いやはや・?? | core i3のお買い得情報!失敗しないためのショップ選び!

http://corei3kz2.blog.fc2.com/blog-entry-656.html
同道が注目されてますね。私も今までは知らなかったけど、同道に関しては珍しく関心を持ってしまいました。インターネットでも同道についてわりと盛り上がっ

同道っていったいどうなってんの? | ロレックスデイデイトの激安情報!買って安全なのはココだ!

http://daydatels7v.blog.fc2.com/blog-entry-545.html
同道が話題になってますね!私もこれまでは知らなかったのですが、同道についてはめずらしく注目してしまいました。掲示板でも同道についてかなりみなさん話

同道巡り | RAINBOW SONG

http://goforitaz.blog56.fc2.com/blog-entry-23.html
歩けども歩けども同じ道を通る…同道巡り…そこには絶望しかないのかい?そこから抜け出せないのかい?たとえ同道巡りな状況でも

Untitle | M いちにちいちまい

http://momoco0211.blog.fc2.com/blog-entry-1003.html
同期会の帰り道が

とっても疲れた | ゲー中の部屋(腐)

http://katoriso.blog.fc2.com/blog-entry-4008.html
オヤッサンのスマホのバッテリー交換に同道したけれど、自分の運転じゃなくてとってもm神経が疲れた。

2016年07月08日 トレンドワード(コムアイ 同棲報道) | トレンドワード

http://trend100word.blog.fc2.com/blog-entry-485.html
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});コムアイ 同棲報道とは?(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});コムアイ 同棲報道関連動

COPUOS大学のインディーズ大権に関する特別時報代物ケナタッチヘルは「インディーズや執筆の自由を不当に情実する雲行きがある」と、陰謀成案への取り越し苦労を示す音信を暈新著政体に送った

http://autoeditorial.seesaa.net/article/450184033.html
2025-05-24 05:37:00 - 「商略過失」の要旨を盛り込んだ球団犯過失仕置き陰謀朝令暮改成案は、23暈の衆参新著コンサルテーションで、自民、究明両党派と暈新著政変の盛饗宴などの献替数で峻別され、衆参を留タメした。国盛饗宴集いの..

河崎秋子作「銀色のステイヤー」を読みました。

https://rodolfo.exblog.jp/30583160/
2025-01-23 01:00:00 - 河崎秋子作「銀色のステイヤー」を読みました。【一 真昼の仔馬】静内の生産牧場社長菊池俊二は怒り狂っていました。頼りない新人厩務員マサが油断していた隙の昼間に、唯一の繁殖牝馬ドラセナが放牧地で芦毛の仔馬を産み落としたのでした。それを見つけて慌てた俊二でしたが、幸い母馬も雄の仔馬も無事でした。やっと軽トラに乗ったマサが現れ、しきりと謝りましたが、俊二は専務には黙っていろと釘を刺しました。専務である母親に知られたら、母親が激怒するのはわかっていたのでした。俊二が母屋に戻ると、母親の千恵子はテレビで、売れない騎手をやっている兄の俊基のレースを見ていました。そのレースでも俊基はぱっとしませんでした。一方調教師の二本松は調教助手の鉄子を連れて、菊池牧場を訪れました。俊二は訪れた二本松達に最後に、幻の三冠馬シダロングランの初産駒だと言ってその日生まれた仔馬を見せました。帰路二本松と鉄子はその日見た仔馬を論評し、最後の仔馬が走ったら、まさに夢とロマンだと二本松は言い。。。【二 嵐に似たもの】しばらく後、鉄子は俊二の兄の俊基と二本松厩舎で話していました。実は俊基はここの専属騎手だったのでした。鉄子は菊池牧場には面白そうな馬がいたと言い。。。一方菊池牧場では俊二が困惑していました。マサが事故り、入院したのでした。どう仕事を回そうかと悩む俊二の元に、農協から電話があり、厩務員志望の女子が突然現れたのだと言いました。畜学の馬術部でインカレまで行ったというその女子の経歴に惹かれて俊二はその女子に会いました。女子は綾小路雛子だと名乗り、ヒナと呼んでくれと言いました。ヒナの馬扱いは大したものでしたが、性急に馬繋養の改善を要求し、俊二が断ると、ふくれっ面で話を打ち切りました。実はヒナは畜学に在籍していた頃から、競馬に批判的で、廃馬を忌み嫌っており、現状を批判する論文を書いて競馬界の鼻つまみになっていたのでした。俊二は頭を抱えましたが、他に厩務員のあては無かったのでした。。。【三 荒ぶる未来】ドラセナの仔ドラ男は、次第に頭角を現しました。二本松調教師が電話を寄越し、大馬主の医師広瀬が亡くなり、事業を受け継いだ広瀬夫人が馬主を引き受ける、ついては夫人を連れてドラ男を見たいと言いました。実は故広瀬医師は妾宅で息を引き取り、関係者は誰でもそれを知っていたのでした。今回も二本松は鉄子を同道し、鉄子は二本松は自分を調教師にしようとしているのかと思いました。。。陰気で気乗り薄だった広瀬夫人はドラ男を見た途端、即決でドラ男を買い、夫が貯めた馬用の資金は全部遣ってしまうのだと言ったのでした。。。二本松は鉄子に、ドラ男の全てを担当しろと言いつけ。。。【四 歯車の軋る音】退院して来たマサは、またしてもドラ男ことシルバーファーンに振り落とされていたのでした。ドラ男は何をするかわからない馬だったのでした。二本松と鉄子はシルバーファーンを函館競馬場の新馬戦に出し、俊基が騎乗しました。ファーンは俊基を振り落とそうとしましたが、俊基は堪え、レースは始まりました。本命馬があっさりファーンを抜き去りましたが、ファーンは物凄い追い上げを見せ、写真判定で勝ちを納めたのでした。。。【五 自由と選択肢】ファーンの次のレースは新潟2歳ステークスGⅢでした。広瀬夫人が観戦する中、ファーンは楽勝しました。二本松は広瀬夫人に、クラシックに挑戦しようと言い。。。【六 難関への挑戦者たち】夏競馬は終り、秋のGⅠシーズンを迎えました。しかし気性の荒いファーンは馬房で暴れて厩務員を蹴り、厩務員は肋骨骨折で入院しました。二本松はしばらくファーンを休養させようと、菊池牧場へ返そうとしました。二本松と鉄子が菊池牧場を訪れるとやにわにアヤが現れて、ドラセナに触るなと威嚇しました。そして二本松に、どうしてファーンをあんな風に育てたのか、ちっともファーンは楽しそうではないと詰め寄りました。鉄子は割って入って、競馬とはそういう物だとやんわりいなそうとしましたが、アヤは、競馬などがあるから馬が死ぬのだと激昂して叫び。。。しかし二本松は怒り狂いながらもにこやかにアヤを嗜め、サラブレッドの存在意義を否定する事は許されないのだと言ってアヤを論破しました。。。俊二はアヤを解雇しようと思いましたが、やおら現れた母親の千恵子はアヤを怒鳴りつけ、アヤは泣きながら謝りました。。。【七 春の落雷】休養明けのファーンは皐月賞に出走しましたが出だしで躓いて4位に終わりました。ファーンは悔しさを露わにし。。。二本松はファーンのダービー出走を決めました。レースが始まり、当初馬群に飲まれていたファーンでしたが、突然抜け出し、本命馬に並びかけましたが、突然姿勢を乱し、俊基を放り出しました。実はファーンは落鉄していたのでした。俊基は意識不明で入院し。。。しかし馬場でファーンは勝った本命馬が映るターフビジョンを睨みつけており、それを見た鉄子は、この馬のあまりの闘争本能に怖気を震いました。。。【八 走る理由】俊基は無事意識を取り戻し、彼を鉄子と共に見舞った二本松は、次は菊花賞だと彼に言いました。。。アヤは鉄子に謝り。。。【九 善き馬飼いたち】俊基とファーンは菊花賞に挑みました。最内枠を引き当てたファーンでしたが、レース当日は雨の重馬場でした。広瀬夫人や俊二一家も臨場して見守る中、レースは始まり。。。さすがは牧場仕事に精通する河崎先生が満を持して書いた競馬小説でした。手慣れた仕事で馬を描き、調教助手鉄子が次第に調教師として成長していく所を描いたのは大変楽しく読みましたが、あの「優駿」を超える事はついに敵わなかったと思いました。むしろ競馬界に反感を抱きながらも馬に関わり続ける事を選んだアヤが、最後に自分の本懐を貫こうとするところはちょっと良い伏線回収でしたが、キャラクターの深さでは馳星周の「黄金旅程」にも及ばなかったと思いました。しかしおそらく先生はこのテーマに再挑戦される事でしょう。次回作が楽しみな出来栄えでありました。つぶやきランキング

北十勝4町のゆるキャラが対決

https://hombetu.exblog.jp/34356715/
2024-12-25 12:00:00 - おおそでくん=2024年5月撮影 12月15日,観光閑散期の冬季間の誘客を目的にした「来て見て楽しむ! まるごとキタトカチフェア」が,音更町内の道の駅おとふけを会場に初開催されました。 その一環で,音更,士幌,上士幌,鹿追4町のゆるキャラを一堂に集め「だるまさんがころんだ」対決が行われ,地元音更の「おおそでくん」が,上士幌の「ほろんちゃん」を僅差で抑え,初優勝を飾りました。 フェアは9日に道の駅を会場に開幕し,4町の特産品や町の魅力を販売や展示で発信しました。◇「だるまさんがころんだ」結果1位:音更町「おおそでくん」2位:上士幌町「ほろんちゃん」3位:士幌町「ほろっち」4位:鹿追町「ぐらんでぃ」鬼役:音更町「モ~るちゃん」ほろんちゃん=2018年5月撮影 十勝毎日新聞が, 「北十勝4町ゆるキャラ対決 勝利したのは…」 と伝えています。 【音更】観光閑散期の冬季間の誘客を目的にした「来て見て楽しむ! まるごとキタトカチフェア」(北十勝4町広域観光振興連絡協議会主催)の一環で,音更,士幌,上士幌,鹿追4町のゆるキャラを一堂に集め「だるまさんがころんだ」対決が15日,音更町内の道の駅おとふけを会場に初開催された。地元音更の「おおそでくん」が,上士幌の「ほろんちゃん」を僅差で抑え,初優勝を飾った。 同フェアは9日に同道の駅を会場に開幕。4町の特産品や町の魅力を販売や展示で発信した。最終日の15日は,4町のキャラクター5体が集結し写真撮影会を実施。4体は「だるまさんがころんだ」対決にも臨み,来場者は順位予想クイズで盛り上がった。 音更の「モ~るちゃん」が鬼役を務め,その他の4体が激突した。キャラの愛らしい動きに,見守った来場者も笑顔。士幌の「ほろっち」が3位,鹿追の「ぐらんでぃ」は4位だった。1位の「おおそでくん」を当てた人の中から抽選で16人に4町の特産品を後日プレゼントする。-略-(内形勝也)以上引用:十勝毎日新聞社ニュース電子版/2024年12月17日9時47分の記事

画家山田新一の素顔 ③

https://fuchino440box.exblog.jp/37066307/
2024-11-26 11:00:00 - 画家山田新一の素顔 もくじR嬢の像 →画家山田新一の素顔①素顔の佐伯祐三と山田新一 →画家山田新一の素顔①ー画業70年の軌跡ー山田新一展 → 画家山田新一の素顔②山田新一と戦争記録画 →このページ彩管70年・山田新一画伯の歩いた道<その1>→ 画家山田新一の素顔④彩管70年・山田新一画伯の歩いた道<その2>→ 画家山田新一の素顔⑤天正戦記に耀く勇将山田新介→画家山田新一の素顔⑥所蔵資料・山田新一&山田キミ→画家山田新一の素顔⑦ 画家山田新一の素顔 ③ 山田新一と戦争記録画 山田新一と戦争記録画に関する記述や報道番組のいくつかを参考に供させていただきます。 画業70年の軌跡~山田新一展(2002/1/9~2/11宮崎県立美術館)に合わ せて出版された図書「ー画業70年の軌跡ー山田新一展」の中に山田新一著述抄 が資料として紹介されている。その著述の一つに 「戦争美術始末記」と題した 昭和59年(1983)6月発行の光風会だより・第70回記念光風会展特集号に寄稿 した記述が収められている。青木画廊(宮崎市)で開催された「山田新一と戦争記録画展」(1997年9月 16日~21日)における、青木脩氏(青木画廊社長)の 歪められた戦争被害「山田新一画伯」と題する記述。1999年8月8日付毎日新聞/文化・批評と表現「戦争画」はいかに集められた かと題して笹木繁男氏の記述。1999年8月13日付の日本経済新聞の文化欄に掲載された「戦争記録画」守っ た画家と題して青木脩氏の記述。1999年11月7日に宮崎放送が放映した山田新一を語る「秘匿~戦争記録画」 151点。2003年1月27日(月)19:30~21:30 NHKハイビジョン放送における さまよえる戦争画~従軍画家と遺族たちの証言。2006年8月13日付朝日新聞「社会」面の戦争画の秘密「十字架」に込めた気 骨と題する記述。義弟のHP「迷宮藤田城」の山田新一と戦争記録画の記述。 戦争美術始末記/山田新一著述抄<ー画業70年の軌跡ー山田新一展(出版:2002/宮崎県立美術館)> 大正十二年美校卒業の秋、関東大震災に遭遇、官を辞して鮮満で事業を起こしていた亡父の呼び寄せもあり、いまだ余震の続く池袋の家を畳んで京城(ソウル)に移住したのが運の付き、その後二十三年間、(其の間に暫く渡仏させて貰ったが、)結局は敗戦。外地在住者の悲惨と、原地大衆の歓喜のどよめきと異常な坩堝の中に毎日が続き、外地引揚者の悲運を多数の家族と共にリュックサック一つを財産に住む当てとない祖国に舞戻る始末であった。 京城では総督府主催の「鮮展」というのがあって、その第 4回、5回に南薫造、辻永両先生が審査員に来られ、両回共首席受賞の栄に浴したばかりか、秋の帝展にさえ連続入選の緒を開いて下さったのである。然し鮮展と光風会展とは毎春同時期だったので、残念なことに双方への出品を敢行することが出来なかった。 戦争初期上海駐屯の馬淵中佐発案で、戦場の実際を後世に残すべく、最初に彼地に招かれたのが藤島武二、小磯良平、江藤純平、南政善、鈴木英二郎、の精鋭で、奇しくも光風会中心の観があったのも面白い。 其の後戦線は拡大の一途を辿り、陸軍省報道部管下に 陸軍美術協会が誕生、藤田嗣治会長、中村研一副会長以下画壇挙って馳せ参ず趨勢となり、日本画からも橋本関雪、矢沢弦月氏等が、特に活躍されるのであった。 將、佐官待遇の軍属として、勇躍第一線に向い激戦の地を画題に選び、二百号の力作が次々に仕上げられ天覧に供された。 朝日新聞社主催の「聖戦美術展」が各地に開催され、国民の士気を煽ることになった。 中には藤田氏の「ハワイ空襲」其他、中村研一氏の「マレー沖海戦」小磯氏の「娘子関を征く」 宮本三郎氏の「山下、パーシバル会談」等幾多の卓越した芸術的記念作としても、永く歴史にとどめられるべきものが残された。 終戦後間もない炎暑の或る日、朝鮮軍報道部美術班長であった僕は、報道部長長屋少將に呼ばれ、此の地で聖戦美術展開催の予定で、東京から回送された儘に放置されてあった陸軍美術の重要作品六十八点を米軍進駐に先だって処分しなければならない・・・焼却以外に方法はなしと考えるが、と処理を一身に背負わされたが、「焼却は瞬時です、燃し、あれ等の作品の制作は我国の最も誇るべき画家達が心血を注で成し遂げられたものです。私も画家のはしくれ、焼却には忍びません。一切を不肖山田にご一任ください。身を以て確保の道を講じます。」總べては僕一身に託された・・・は良いが、とにかく膨大な梱包を解体、炎暑の中に同志の画家だけで、秘匿する作業の辛苦は言語に絶するものであった。 とにかくやり遂げ、前述の如く引揚げ、最初は友の情けで京阪沿線寝屋川の廃工場に假寓、運命は運命を呼ぶとでも言うべきか、翌二十一年二月京都の現住所に引越しのさ中に陸軍美術協会の解散事務所から連絡が来て、直ちにG・H・Q・に出頭せよとのことであった。 上京した僕は、O・C・E・長官ケーシー少將のCOMBAT-ART-SECTIN(野戦美術班)で特別任用で、働かせることになり、アンダーソン大尉と僕と二人だけで、日本の戦争記録画の一切を、可能な限り蒐集処理する役目を負わされたのである。国内での任務を終え、往復共米軍のLSTにより博多、釜山と海路朝鮮へ入る。京城に約二週間滞在、市の内外を毎日ジープで走り廻って、六十八点は只一点の損傷があっただけで、悉く集められ日本に持ち帰ることが出来た。 既に東京都美術館の中心部四室が接収されて居り、京城から持ち帰った六十八点を含む總数二百点のも及ぶ作品を、枠張り外しのカンバスのみとし、美術館の壁面に張りつけるべく、アンダーソンと二人だけで、連日油汗を流しながら作業を行った。秋になってG・H・Q・將校団の總見があり、全部をアメリカに送って、保管する決定となり、アンダーソン大尉もそれに従って帰国した。僕はグレー少佐との残務連絡の為、尚暫く京都、東京の往復を続けた。(以下略)註記:アメリカに送られた戦争記録画は、数年前作品の大部分がアメリカから日本に返還されて、東京国立近代美術館に収蔵されていると聞くが、いつか公開の日も有り得るだろうか。 (昭和59年6月 光風会だより 第70回記念光風会展特集号) 「戦争記録画」守った画家 1999年8月13日/日本経済新聞 1999年(平成11年)8月13日付、 日本経済新聞の文化面に青木脩氏 (青木画廊社長/宮崎市)の手記 が掲載された。 青木氏は1974年宮崎市での山田 の個展を手伝って親交が始まり、 山田が1991年に92歳で亡くなっ た後、日記、書画、写真などの遺 品を託された。その譲り受けた資 料をもとに歴史の秘話を紹介いた だいた記述である。 一部は山田の手記「戦後美術始 末記」 (昭和59年6月・光風会だ より)と重複するが、記録画を収 集した当時、「売るのか」と中傷 された山田の心情を取り上げて事 実の検証に供されてくださってい る。<抜粋> 「先輩売るのか」と中傷 (略) 山田さんは絵を救った英雄に映るだろう。しかし、時代の雰囲気がそれを許さなかった。 当時、戦争画は軍事裁判の証拠になるのではとうわさされ、画家の戦争責任論が噴出していた。事実、画家の一部から「先輩や同志を売るのか」と中傷されたと言う。それでも収集したのは「絵を守る」 という信念を持っていたからだ。 自分自身、従軍画家だった山田さんは 「絵が政治に利用されたことは画家として恥ずべきだ。でも、絵自体には画家の純粋な気持ちが込められている。戦争批判とは切り離一作品として批評されるべきだ」と漏らしていた。また「社会が混乱していたから、人々が混乱するのは当たり前。非難も仕方なかった。」と神妙に語った言葉が、印象深く残っている。(略) 一般公開の実現いつ 収集に触れた遺稿に、山田さんはこう心情をつづっている。「古傷に触れられることはだれしも愉快な事でなく、私情においては忍び得ざる点も多々ありますが、こうしたことによってこそ真の反省は成されるものであり・・」「こうしたこと」とは事実をちゃんと検証し、後世に伝えることだ。 そのために一般公開を望んでいた山田さんの願いは、いつ実現するのだろうか。 戦争画については未だ「戦後」は訪れていない。 (あおき・おさむ=青木画廊社長) 「十字架」に込めた気骨 2006年8月13日(日曜日)/朝日新聞「国と私」 俘虜二人1943(昭和18) 油彩・カンヴァス91.0×72.8 (有限会社青木画材店) 山田新一の描いた「俘虜二人」と青木修。完成前に2人は収容所からいなくなり、山田は見せられなかったことを悔やんでいたという。 =宮崎市橘通西5丁目の青木画廊で 国と私 「十字架」に込めた気骨 戦争画の秘密 画廊経営の青木脩(67)は1990年ごろ、京都に住む洋画家、山田新一(1991年に92歳で死去)を訪ねた。山田は青木を倉庫に案内すると、紙に包まれていた油絵を広げた。43年に山田が朝鮮半島で描いた「俘虜二人」。戦意高揚を狙う軍の意向を受けて描いた戦争画だった。 そして山田は言った。「この絵に込めたメッセージがわかりますか」。絵には「秘密」があった。山田は捕虜が実際には左胸につけていた横長の認識票を中央に描き、ボタンの縦列と重ねて十字架に模したという。「何もしてあげられない英豪人2人への贈り物だった。 青木が山田を知ったのは1975年、個展を手伝ったのがきっかけだった。日展などで活躍していたが、人を寄せ付けない雰囲気に芸術家の気骨を感じた。親交を深めるうちに山田は、自分の過を青木によく語った。 フランス留学の経験を持つ山田は、力強いタッチの女性像や風景画を得意とした。 38年までに朝鮮軍報道部美術班長となった。非国民と呼ばれたくない。戦争協力せねばと思った。アトリエには「モデル」の兵士たちが訪れた。当時、軍は多くの著名画家に制作を依頼。戦場や銃後を描いた絵の展覧会は各地を巡回した。だが戦局は悪化。山田の四女、山本瑠寧子(75)=京都府宇治市=は「この負け戦」と自宅で不機嫌につぶやく山田を何度か見た。 連合国軍総司令部(GHQ)は戦後、戦争画を収集した。山田は自分がそれに協力したというもう一つの「秘密」も青木に明かした。 回収は米国で展示するためだったようだ。 画家たちを戦犯に問わないと米軍将校に言われ、山田は涙が出たと語った。 回収に協力したのは、画家が軍の言うままに描いた絵ばかりではないと信じていたからだ。だが、他の画家たちから「先輩を売るのか」「スパイか」と言われた。収集のことを表だって話さなくなった。 収集された153点は70年、米国から日本に「無期限貸与」され、東京国立近代美術館に保管されている。数点ずつ展示されてきたが、すべてが展示されたことはない。「周辺諸国の情勢を考慮」「遺族の了解がない」などを同美術館は理由に挙げる。全面公開のめどはいまも立たない。 山田は戦争画の「秘密」をなぜ晩年になって青木に明かしたのか。 山田の遺言で段ボール約5箱分のメモや手紙、日記類を青木は受け取った。戦争画収集中や直後に書かれたとみられるメモや手記などから、山田の思いを捜した。《今更こうした古傷に触れられることは誰しも愉快な筈はなく、私情に於いては忍び得ざる点も多々あります》《戦争美術製作に参加した人々の多くは、ゆがめられた愛国心を不幸にも身に擬せられたのではないだろうか》 下書きを繰り返したとみられる原稿には次の記述もあった。《美術家は追放されようが、迫害されようが、後世に己が作品を問うことが出来る》 青木は「芸術家の生き様を通して、国が戦争に突き進むとき人間がどうゆがめられるかを伝えたい。戦争画から目をそらしてはならない」といった。 宮崎市の自分の画廊で31日から、山田と戦争をテーマに企画展を開く。戦後50年の夏から毎年続けている。 (敬称略) <朝日新聞 2006年8月13日8(日曜日)13版「社会」38> 1999年8月8日/毎日新聞(夕刊)文化・批評と表現 「戦争画」はいかに集められたか ~知られざる遺稿に綴られた内幕~ 日中戦争、太平洋戦争中に、画家が率先して、また軍の命令を受けて、膨大な数の戦争記録画が描かれた。現在、東京国立近代美術館に保管されている戦争画は、戦後アメリカに接収され、1970年に永久貸与という形で返還されたものである。しかし、それらが誰の手によって、何のために集められたか、当時の占領軍は戦争画をどう観ていたかなどについては、戦後54年を経た今も必ずしも明らかになってはいない。 実は日本側からこの収集作業に加わった画家が、こうした経緯の一切を丹念に文章に綴っていた。日米の関係者に対する配慮からか、当時発表を見合わせていたそれらが知られるところとなったのは、数年前、画家の逝去を機に、親交のあった画材店主が宮崎市で企画開催した遺作展の会場に、その一部が展示されてからだった。(略) この遺稿を残した画家は山田新一という。山田は佐伯祐三の画壇出デビュー以前からの友人であり、『素顔の佐伯祐三』の著者でもある。遺稿は「天覧記録画の行方」と「無題」の二部からなり、ほかに山田が立ち会った戦争画 151点のタイトルと作者名の総リストが添付されている。 記述によると、敗戦時に山田は京城(現ソウル)に軍の報道部美術班長として在籍し、京城での第5回戦争記録画展を開催すべく準備中で、本国より到着した天覧作品64点は貨物として京城駅に保管中であった。敗戦を迎え、上官の報道部長から、戦争記録画の焼却を命ぜられた山田は、芸術品保持の精神を力説して最後は処分を一任されたという。そこで山田は、日頃から親しく付き合い、信頼関係のあった朝鮮の美術家たちに訴えて作品を隠匿保管してもらい、日本に引き揚げた。 この事実を、先輩で親しい間柄にあった伊原宇三郎に通知したところ、藤田嗣治に伝わり、占領軍から呼び出された。GHQ(連合国軍総司令部)では、ケーシー少将から「大作ですばらしい日本の戦争画の全てを収集せよ」 と命ぜられ45年12月から嘱託として作業にあたることとなる。 当時この作業に携わった日本側の関係者は、最初が藤田、次いで陸軍美術協会の組織者だった住喜代志、最後に山田の3名であった。アメリカ側はマッカーサー総司令部直属の美術班でケーシー少将の指揮下、班員にはアメリカの中堅画家もいたという。 「今、マッカーサー総司令部の手で一堂に蒐められた、これ等の天覧戦争記録画が、やがて海を越えてニューヨークに、ワシントンに、世界各国の戦争美術と共に展覧されることを知り・・再び相まみえ得る機会の無いことを知り・・・書き残すこととした」。「天覧記録画の行方」の冒頭の記述からも、アメリカは日本の戦争画の没収を、初期の占領政策の重要な柱と位置づけていたことがうかがわれる。(略) 東京都美術館をはじめ、全国各地の美術館の矢継ぎ早の接収は、戦争画の組織的な廃棄・焼却・隠匿の前に手を打つ、まさに時間との闘いであったことを思わせる。京城の戦争画は、山田が占領軍のアンダーソン大尉を同道役として46年5月初めから1カ月超にわたり、邦人の引揚げの流れに逆らい、再訪して回収したものである。(略) 山田の遺稿には収集に当たったアメリカ側の、戦争画に対する興味深いコメントも書き留めている。たとえば接収作業が九分通り進んだ段階で、検閲したケーシー少佐が「こんなに沢山の凄い作品が全て軍の命令・資材の提供でのみ描かれたのか?」と念を押して質問し、キャップのミラー少佐は「素晴らしい大作揃い、百数十名の一流画家が陸海軍の令下に馳せ参じたことは、今次大戦各国に例がなく、作品内容・技術とも卓絶したもの」と評した。 (略) 笹木繁男(ささき・しげお)=現代美術資料センター主宰

「青嵐の旅人」 天童荒太 著

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2024-11-08 11:00:00 - 今朝は冷え込んで、4℃まで下がってた。日中は晴れて、15℃と穏やかな秋の日。天童荒太氏の「青嵐の旅人」(上・下)を読み終えた。「旅人の 青嵐の中を 下りけり」正岡子規 の一筆から始まる。伊予松山の道後温泉でお遍路宿を営む店で育てられたヒスイと救吉の姉弟をを主人公に、徳川家親藩である松山藩の苦悩や幕末の尊王攘夷思想に翻弄される長州藩・新選組・松山藩の藩士たちそれぞれの幕末を描く。松山藩は第二次長州征伐で、幕命により長州藩領大島へ攻めこんだ藩なんだよな。大島での長州との戦とその後。幕末に名を遺した多くの志士や有名人が主人公の二人と交わるんだよな。坂本龍馬、桂小五郎、高杉晋作、沖田総司、近藤勇、土方歳三、大村益次郎、正岡子規の祖父などなど。文久2年から慶応4年までの6年間の物語の中で、ここまで多くの歴史上の人々と心から触れ合えた信頼し合えた主人公の二人ってなかなか想定が難しい。親藩として太平の世を貪ってきた松山藩の苦悩は見事に描かれています。<内容紹介>(上):文久2年(1862)。舞台は、260年間続いた江戸幕府がいま、まさに消えようとする頃の伊予松山藩(愛媛県)。代々続くおへんろ宿「さぎのや」で育てられた娘ヒスイと弟の救吉は、危機一髪の場面を救われたことをきっかけに、年少の藩士、青海辰之進と知り合う。医術で人を救うべく精進する救吉に、ある日郷足軽隊の調練に医師見習いとして同行せよと命が下る。誰よりも戦を厭い、平和を願うヒスイは、やがて救吉が真の戦に送られることは必定とみて、男装して弟に同道することを決意する。 (下):藩士・大原観山の命で新選組の原田左之助を訪ねたヒスイと救吉は、旅の途上で、かつて山中で命を救った坂本龍馬と再会。その後、沖田総司ら新選組の隊士たち、長州の桂小五郎、高杉晋作ら新しい世を作らんと志す傑物たちと出会う。いっぽう、武士としての信念と現実の狭間で揺れる辰之進には、その心を試すように常に暗い“影”がつきまとう。情け容赦ない戦、愛する人の死、そして迎えた、故郷伊予松山最大の窮地……。激動の時代を愚直に生きる三人が見た希望の光とは。<著者紹介> 1960年、愛媛県生まれ。86年に『白の家族』で第十三回野性時代文学新人賞を受賞。93年には『孤独の歌声』が第六回日本推理サスペンス大賞優秀作と なる。96年、『家族狩り』で第九回山本周五郎賞を、2000年にはベストセラーとなった『永遠の仔』で第五十三回日本推理作家協会賞を受賞。2009年、『悼む人』で第百四十回直木賞を受賞
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